柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 このところ、持ち時間が少なくなったと感じることが多い。 今週の初め、羽石重雄先生の足跡の中で、記録として追い易い、最後の部分がある程度確認できた。 勿論、修猷館までの空白の部分があるのだが、果たしで見つけることが出来るのだろうか。

 さて、草創期の学制あるいは校長の足跡を、兎に角も、望見できる足場につけたと感じている。 そこで、思うのが、経済と同様に、教育にも「波」あるいは「循環」があるのではないかと考えるのだ。

 先ず、第一の波は、江戸後期に訪れる。 門戸は狭かったとはいえ、膨大な情報量が、旧来の学問の世界に浸透していく。 「折衷学」という学派の成立が、それを物語っているのではないだろうか。 「折衷学」は、言い換えると、「実学」を意味する。 (陽明学の別な表現と考えることが出来るのかもしれない。) 新しい価値観あるいは価値基準が生まれようとしている時代だ。 片山兼山、細井平洲、山田方谷などが、それに当たる。 年代順では、片山兼山が熊本藩で、細井平洲は米沢藩で、山田方谷は備前松山藩で、それぞれの手腕を発揮する。 余談を書くと長くなるが、歴史的には表舞台に登場することの少ない片山兼山が、遠山家(金四郎)の支援で学塾を開いたことは、「折衷学」の時代背景をよく表しているのではないだろうか。

 さて、次の波が「蘭学」の時代に始まる。 既に、「折衷学」の時代にも蘭学の影響はあったのだが、医学が求心力となって、「蘭学」の勃興を見るのではないか。 東京帝国大学が正式に開校し、卒業生を輩出する以前の中学校長や教師には、蘭学の影響を感じるのである。 当時の混乱は、文献の調査を困難にしている。 その辺りの校長の足跡が、どうしても収集できないのだ。 (在住地や経済的問題もあるのだが、言ってみても仕方ないこと。 デジタル化が、各大学や図書館で進めば、もっと調査し易いのだが。)

 例えば、「羽石重雄」の場合、明治3年の生まれである。 修猷館を卒業するのが、明治24年7月だ。 すなわち、21歳の卒業なのである。 因みに、岩国中学校長の橋本捨次郎は、明治31年帝国大学文科大学史学科を卒業し、明治33年、26歳の若さで初代校長に就任している。 また、長岡中学校長就任が明治39年だから、32歳なのだ。 羽石重雄と比べると、その年齢差には関心が湧く。 言い換えれば、草創期の校長・教師の年齢、学歴、身分、出身地など、当に、ごちゃ混ぜの状況なのだ。 また、同様に生徒の年齢差も、相当にあったのではないか。 こうした年齢差の問題は、価値観あるいは価値基準の相違を伴い、その後の足跡に影響を与えているようだ。

 それを裏付けるように、当時の中学校では、様々な事件が起こっている。 羽石重雄が在学中の明治24年、権威に対する反抗心(反骨心)の表れとも見える「修猷館軍隊投石事件」、引責辞任の原因となった明治39年の萩中学「寄宿舎内集団暴行事件」、そして、大正2年には、「校長排斥運動」で岩国中学を依願退職しているのだ。 直接関係はないのだが、羽石重雄が明治33年に初代校長として就任した長崎県立島原中学でも、つい先日、島原高校同窓会から頂いた資料に「校長排斥運動」の記載があった。 それによると、明治39年9月、「信頼の厚い先生の転任が相つぐことに端を発した校長への不信が広がり5年生の代表らが五十箇条の排斥理由書を作成して校長に手渡す」とある。 (尚、各校で起こった「校長排斥運動」については、似たような理由もあるのだが、各校で事情が異なる場合もあり、もう少し調べた上で改めて書きたい。)

 限られた史料から判断するのは、慎重を欠くとの指摘を受けるかもしれないが、行き着くところで、何らかの事件が起こっているのも事実なのである。 そこで、思い出すのが、漱石の『坊ちゃん』である。 調べた範囲で、事件と時代背景を勘案すると、若き教師と帝大出の校長、藩校時代からの校風の影響下にある生徒たち、三つ巴、四つ巴の価値に対する相克が推測される。

 混乱あるいは動乱の時代、行動規範あるいは価値規範が錯綜する。 しかし反面、将来に繋がる道に対する選択肢が模索され、様々な芸術や文化、あるいは学問や技術を生む。 春秋戦国時代の「百家争鳴」、ルネッサンスといわれる暗黒の時代には、ダヴィンチやラファエロ、エラスムスやトマス・モア、ラブレーやモンテーニュなど、当に「千家動鳴」の時代なのだ。 維新前後の時代も、同様な時代ではなかったか。

 否寧ろ、西欧の眼から見れば、一種の実験の場ではなかったか。 江戸末期、明治維新、明治初期の西欧人士の著作の中に、そんな感慨を見るのである。 何だか、自立型循環環境の中で、明治という時代がどのように変化していくのかと観察する西欧の眼を感じるのだ。

 話が横道に逸れてしまった。 話を戻すと、生徒による様々な事件の背景に、国家としての基盤が固まっていく過程に、親たちから聞いた維新の志士たちの冒険談が、あたかも御伽噺の如くなって行く空しさあるいは寂寥感のようなものを感じていたことがあるのではないだろうか。 憧れが妬みや反発に換わることは多いものだ。 生徒の文集の中に、「ハイカラな先生へ憧れ」を書いたものがある。 それを言った生徒に、教師は、「諸君も勉強せよ。 そうすれば、金時計も金鎖も夢ではない。」といったと云う。

 もしかすると、このときに生まれた現状に対する不平不満、反発の心、あるいは立身出世至上主義が、後の日本の道を決定したのかもしれない。 事実、草創期の校長・教師が一線を引く頃には、学校の様相も変わっているだ。 先に上げた校長たちもそうだが、山本五十六が、唯一師と仰いだ「本富安四郎」や漱石の『野分』のモデルといわれる坂牧善辰のような強烈な個性の教師や校長たちが影を潜めているのである。

 そして戦争、戦後の混乱期、また夢が生まれる。 団塊の世代は、その夢物語あるいは復興ロマンを聞いて育った。 しかし、自分たちが、そのロマンを実現する社会は、とうに消滅しているのである。 しかも、受験戦争。 生徒・学生の一斉蜂起とも思える学生運動もまた、明治教育の草創期における様々な事件に重なるのである。

 ここには矢張り「波」がある。 あるいは「循環」があると考えるのは短絡だろうか。 身近な世代の歴史には、依然として踏み込めない領域がある。 ならば、それ以前、少なくとも四世代以前、あるいは百年前の時代を改めて見ようと思うのである。 この時代なら未だ追いかけることが可能なのだから。

Best regards
梶谷恭巨
 
 

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