柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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  地元の図書館に行けば閲覧も可能なのだが、参考資料として使うには、心もとない。 そこであちこち探していたのだが、「日本の古本屋」サイトで、やっと昭和35年刊の柏崎高校『回顧六十年』を見つけることが出来た。 在ったのは、何と水戸市の書店。 その本が、今日届いた。 一読して、大きな間違いがあることに気付く。 羽石重雄は、旧制柏崎中学の第四代校長だったのだ。

 思い込みである。 と言うのも、横山健堂の『大塩平八郎と生田萬』という小論に、横山健堂が、「羽石重雄君の柏崎中学校長就任と杉卯七君の日本石油在職二十五周年を記念して、柏崎に会す。 .....」との記載があり、そこでどういう訳か、初代校長就任と思い込んだ始末だ。 時代を考えて見れば直にでも判りそうなことなのだが、その後の調べで、学制の変遷や分校からの独立などあり、何処かに初代校長との記事があったと、更に思い込んでいたようだ。

 因みに、柏崎中学は、新潟県立高田中学の分校として明治33年に創立、明治35年に高田中学より独立している。 初代校長は、渡辺文敏は、新潟第二師範学校教諭から高田中学に転任、柏崎分校主席教諭として赴任、明治46年新潟県立新発田中学校長に転任、その後明治45年に仙台第二中学校長に転任している。 尚、年譜には、「前校長渡辺文敏(新潟中学校長)仙台第二中学校長に転任、送別会を催し(新潟市に於いて)新潟柏中会を設立」とあり、新潟中学校長も歴任しているようだ。 柏崎中学離任時には、転任反対運動、県への請願などしたとあるから、よほど人望の篤い人であったようだ。 また、第二代校長・高宮乾一は、同年、福岡県立明善中学(現、県立明善高等学校)校長に転任している。 ここでも、福岡のとの関連があり、縁の深さを感じるのである。 更に、第三代校長・元田竜佐は、大正3年に長岡中学校長に転任とある。 因みに、羽石重雄は、その後に長岡中学校長を勤める。

 羽石重雄先生は、『回顧六十年』によると、大正3年3月1日に着任、大正5年11月に離任、同月29日、告別式(当時は、離任式のことを、そう呼んでいたようだ)とあり、長岡中学に栄転とある。 しかし、校長、職員、卒業生の「思い出の記」が掲載されているのだが、校長に関しては、昭和35年当時存命の方のみ記載で羽石先生に関する記事は無い。 また、職員の部も同様。 卒業生の部の羽石先生在籍当時を読んで見るが、名前が出てこない。 これには、少々落胆する。

 ただ、出身地の詳細が判った。 福岡県早良郡原村字庄とある。 現在の早良区原1丁目から8丁目辺りにだろう。 奇しくも、修猷館高校の近隣である。

 ところで、この沿革史年表を読んでいくと、結構面白い記事があった。 先ず、着任の年(大正4年)9月3日、南極探検で有名な白瀬中尉が来校し、経験談を講話しているのである。 また、この年、新潟医専が創立され、その記念陸上大運動会が開催され、二名参加し、好成績を収めたとある。 前後の年譜を読むと、柏崎中学は運動が盛んで、特に剣道と柔道が強かったそうだ。 因みに、講道館柔道の石黒敬七は、大正中期の卒業生。

 また、この『回顧六十年』を読んで見ると、当時の校長が全国区で転任していることも興味深い。 教員も同様なのだ。 どうもこの背景には、教育の地域格差対策があったようにも思える。 卒業生の文集、第20回卒業生(大正12年卒)で、東京家庭裁判所兼地方裁判所判事だった森口静一氏の回顧談に当時の東京高等裁判所長官の談話があり、そのことが書かれている。

 そのほか、修学旅行が毎年各学年別に行われていることにも驚く。 遠隔地ではないのだが、県内を旅行している。 しかも、道中徒歩の区間がかなりある。 その所為か、生徒も夏休みともなれば、一週間程度の徒歩旅行に出かけていたようだ。 文集の中に、友人と旅行した冒険談があり、そこで帝国大学の学生と知り合ったなどあり、当時の生徒あるいは学生気質の一端を窺わせる。 一時期の生徒・学生諸君の間にも卒業旅行が流行ったが、最近はどうなのだろう。

 この関連、更に調べて見ることにしたい。

 余談、私事であるが、私の姓「梶谷」は柏崎では、1軒あるいは2軒あるほどの珍しい名前だが、『回顧六十年』の年譜に「梶谷」の名前があったことには驚いてしまった。 明治33年の創立時の教員は僅かに5名だが、その中に博物学を担当した「梶谷才吉」という教師いた。 この先生、大正2年に退職しているのだから、12年間勤めたことになる。 羽石重雄着任の前年度だ。 博物学のほか、担任不在の年度、数学も教えている。 詳細な記載が無いので、如何なる人物か判らないが、転任地の記載が無いところを見ると、定年退職かもしれない。 もしそうであれば、柏崎に晩年を過ごしたのかも知れない。 全く奇縁である。 因みに、梶谷の姓は、海運に関連した苗字で、私の出身地である広島に何軒かあるが(親戚が多い)、他に多いところとしては、福井県だ。 データベースで調べると、全国で1326位、登録件数は3234件。 羽石も珍しい姓だが、こちらは、3685位、登録件数は、僅かに840件である。 この中には、「ハネイシ」と呼ぶ姓もあるから「ハイシ」という姓はもっと少ないだろう。 (尚、このデータは静岡大学人文学部言語文化学科・城岡研究室の労作「日本の姓の全国順位データベースによる。)

Best regards
梶谷恭巨
 

コメント
羽石重雄先生の出生地
 福岡県早良郡原村大字庄とは、現在の福岡市早良区に所在します。小田部の北方、原の西北方で、どちらかというと小田部に隣接しています。
 周囲は畑と田園で、早良郡志によると、かつては「庄」の語源は、塩を得る塩田の跡だったから、とも伝えられています。域内には、神社がひとつあり、昭和40年代までは、商店が1軒あるだけの、つつましい集落でした。朝鮮出兵のおりに豊臣秀吉が、名護屋城に向かう途上、この集落近辺を通過したことがあるという言い伝えが「太閤道」として残っています。羽石重雄さんは、ここから旧制5高(現在の熊本大学)に進んだようですが、どのような縁で、貴地にゆかれたのか興味があります。
 同じ早良郡内の田園風景は、昭和40年代くらいまでは、ずっと同じだったと知人が伝えています。
http://www.kankanbou.com/kesyou/?category=%C1%E1%CE%C9%B7%B4%C9%F7%B7%CA
ここで伝わる「早良郡風景」をみると、先生が生まれた「庄」集落を想像できるでしょう。
【2009/05/25 14:27】 NAME[早良郡原村] WEBLINK[] EDIT[]
羽石重雄先生の出生地
コメント、ありがとうございました。

 出生地の状況が判らず、思案していたところでした。

 尚、先生の詳細につきましては、2009年4月1日付の「羽石重雄の足跡-覚書」に書いています。

 拙文、読み難いかも知れませんが、参考になれば幸いです。

Best regards
梶谷恭巨
【2009/05/25 17:34】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]


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