柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
[89] [88] [87] [86] [85] [84] [83] [82] [80] [79] [78]
 近代デジタルライブラリーをあちこちと訪ねていると思わぬ発見がある。 羽石重雄と同年(明治31年)卒業生を一人ひとり確認していたら、直接関係があるのではないが、明治末期から大正にかけての陽明学の熱烈な信奉者・石崎東国著『陽明学派の人物』という本に出くわした。

 旧制中学校校長の足跡を追いかける契機となった「生田萬」について、特に目的も無く検索した結果だ。 記載の章題は「奉天命誅国賊・生田萬先生 -落し文」と、何とも過激な章題である。 まあ、この辺りの文献は、数年前に色々集め読んだ経緯があるので、ざっと流して読んだのだが、偶々、「嗚呼無隠居士」と題する次の章に、見慣れた名前が見えた気がした。 まさかと思い読んで見ると、矢張り河合継之助の名前がある。

 この本が大正元年に出版されているから、恐らく明治末期と推測するが、当時、『少年読本』という本(雑誌)があったそうだ。 これも推測の域を出ないが、この『少年読本』は、長岡出身の出版王・大橋佐平の起こした「博文館」で、明治20年を契機に多数の雑誌(日本之○○シリーズ、例えば、『日本之少年』(明治22年12月創刊))などが出版され、一種の雑誌ブームに火が着くのだが、そうした雑誌の一つではないだろうか。

 さて、内容だが、その著者・戸川残花が『少年読本』第三篇に河合継之助の事を引用しているのだそうだ。 これも又引用だったようで、出典は、「近刊の読売新聞の名流随筆」とあり、作者は鈴木三郎とあるそうだ。 かいつまんで書くと次の通り。 原文を引用する。 尚、仮名遣い、句読点など、読みにくいので手直し、旧仮名遣いは現代に、また、難字に関しては、読みを加えた。

 余談だが、戸川残花も興味深い人物である。 江戸末期、五千石の旗本・戸川家の養子になり、14歳で彰義隊に加わる。 維新後、大学南校、慶応義塾に学び、明治7年に洗礼を受け、伝道師として布教活動に勤めている。 実に興味深い。

****** 以下、『陽明学派の人物』より。 (因みに、著作権の保護期間は満了。)
 四十余年間に於ける師友はたんとあるが、其(その)中に河井の様な人物は無い。 其(その)容貌風采いまも目に見え言語は耳膜に響き居る様だ。 英雄豪傑の人を感化薫陶する力は実にひどいもである。 河井が己れに教えたる語に、
 一、無くてはならぬ人となるか、有りてはならぬ人となれ。 沈香もたけ、へもこけ。
 一、牛羊と為て人の血肉に化せずんば豺狼(サイロウ、やまいぬとおおかみ)と為て人類の血肉を食い尽せ
 一、身を棺梛(カンナ)の中に歿し地下千尺の底に埋了したる以後の心に非ずんば、與(余)に天下の経綸を語るべからず。 道義道徳もそれからのことだ。
*******

  と。 この言、古賀謹堂の久敬舎で河井継之助が鈴木三郎によく語ったとあるのだが、これは筆者の誤認で、古賀謹一郎(茶渓)である。 恐らく、後に佐賀藩で活躍する伯父・古賀穀堂との混同が会ったのではないだろうか。 因みに、謹一郎茶渓の祖父である古賀精理は、寛政の三博士の一人でり、父・洞庵は、昌平黌・蕃書調所頭取など歴任した幕府の儒官で、『柏崎通信』に紹介した『おろしゃ文庫』全104巻は、林子平の『海国兵談』などに影響を与えることでも有名である。

 ところで、ここに登場する鈴木三郎なる人物には謎が多い。 詳細は省くが、その父は金沢藩・足利藩の藩医を勤めた家で、足利で生まれているようだ。 本姓は、鐸木という。 その後、学問を志し、江戸で学んだのが古賀家の久敬舎であり、河井継之助の他、朱子学の土田衝平が同宿であったとある。 当時の年齢は推測17あるいは8歳であったようだ。 (実際には、遊学の遍歴がある。) しかし、感化されたのは、河井継之助で、それが先の三か条に見える。

 水戸学の藤田東湖にも影響を受け、天狗党の乱に参加、結果として、お尋ね者になり、鈴木三郎も偽名の一つであったようだ。 いずれにしても、幕末の生んだ一種の異端児であったようだ。 それをして、河井継之助に心酔するのだから、河井継之助のカリスマを感じざるをえない。 これも一側面かと、改めて、若き日の、(と言っても敬舎時代は三十二あるいは三歳だが)、河井継之助を想うのである。

 動乱の世は、多くの英雄・英傑を生む。 歴史書は、権力に重きを置くが、志士の本質に真理探究の志があったことを忘れてはならないだろう。 明治前後は、当に中国の春秋戦国時代、百家争鳴を髣髴とさせる。 継之助の第三の言、「身を棺梛(カンナ)の中に歿し地下千尺の底に埋了したる以後の心に非ずんば、與(余)に天下の経綸を語るべからず。 道義道徳もそれからのことだ」とは、百年に一度の大恐慌と騒ぐ世に、一転の警告とも取れるのだが、さて如何なる解釈がされるのやら。

 河井継之助記念館友の会のメンバーである。 大抵の文献は読んだ積りだったが、『陽明学派の人物』における河井継之助に関する記事には、初めて遭遇した。 どうも、こんなことをしているから、歴史という無限地獄に陥るのかもしれない。 トインビーの『歴史の研究』の膨大さが、ふいと頭に浮かんだ。

Best regards
梶谷恭巨

 余談の追加: 筑波大学に「歴史地域統計データ」というデータベースがある。 これを参照したところ、明治19年の日本の人口が、男19,300,261、女18,850,956、合計38,151,217人であることが判った。 教育を考える場合、当時の社会的状況もさることながら、人口についても注目する必要がある。 以前にも紹介した時代別の人口には、思わぬヒントがあるように思える。 世界における人口の分布と我国の人口との比較、更に、社会資本あるいは社会的人的資本の比率は、その後の歴史にも反映されるのではないだろうか。
 
 
 

コメント


コメントフォーム
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字


トラックバック
この記事にトラックバックする:


カウンター
プロフィール
年齢:
76
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
最新コメント
[04/17 梶谷恭巨]
[04/17 まつ]
[03/21 梶谷恭巨]
[11/18 古見酒]
[07/10 田邊]
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新トラックバック
バーコード
ブログ内検索