柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 過って「修身」という学科があった。 そのこと自体は、歴史的事実として捉えていたのだが、明治期における「修身」という学科が、その後の国家主義的教育としての修身、あるいは、それ以前の儒学における修身とは、異なるのではないかという疑問が生じた。  

 明治・大正期、旧制中学で「修身」を担当したのは校長だった。 そこで気になって、「修身」というものを追いかけてみた。 明治初期、廃仏毀釈が起こり、仏教と同様に儒学も、その嵐に巻き込まれているのだ。 その一例が、明治20年刊の『修身稚話』に見られる。 著者は、生田万三。 この人物の足跡については未調査だが、その文脈を求めると、その苦労の程が知られるのである。 詳細は措くとして、儒学とか、仏教とか、外来とされた既存の倫理観あるいは道徳観をストレートに書けなかったのか、西欧の人物談や文明開化の事例など引き、従来の儒学的仏教的道徳観を曖昧にしているとしか思えないのである。 

 これは、ある意味では、第二次世界大戦にいたる国家主義的思想とは、全く別の道筋を示しているように思える。 言い方を変えれば、西欧に追随しようとした明治初期とも異なる、寧ろ懐古的なニュアンスさえ感じる。 そして、その融合を模索したグローバルな発想が見えるのである。 先にも書いたように、直接的には書けない仏教的あるいは儒教的倫理観あるいは道徳観が織り込まれていると感じるのだ。

 幸いなことに、当時(明治30年前後)の国史科あるいは史学科出身者の著作の何冊かを「近代デジタルライブリー」で読むことが出来る。

 そこで、旧制中学の校長の話に戻るのだが、多少の例外はあるとして、草創期の校長の出身学科が国史科あるいは史学科でる場合が多いことに気付いた。 例外としては、山口県立萩中学第二代校長・塚本又三郎の出身が、東京帝国大学理科大学化学科の出身だが、殖産興業を国策とした時代背景を考えると、これは寧ろ例外中の例外ではないだろうか。 事実、転任地は、仙台の第二高等学校であり、教授に就任しているのだ。

  但し、飽くまでも自分の調べた校長の範囲であることを強調しておく。 全国の中学校長の足跡を追いかけるには、余りにも時間が掛かりすぎる。 何しろ、羽石重雄の足跡を追いかけるだけでも数年を要し、しかも依然としてミッシング・リンクが残っているのだから。

 以前にも書いたが、羽石重雄の周辺には、いつも何らかの事件が起こっている。 当時の同窓会誌の文集(思い出の記)など読んで見ると、修身の授業内容が、当時の生徒にとって、「ハイカラ」に過ぎたといった感想があるようだ。 具体的なことは判らないが、授業の内容そのものは、古今東西の歴史や人物を事例に、「修身とは何か」を語られたらしい。 ただ、歴史の授業は別にあった訳だから、寧ろ「人物史」的色彩が強かったのではないだろうか。 

 話が前後するが、国史科あるいは史学科出身者の著作を見ると、東西の分離がないように思える。 というのも、史学科であるが故に、東洋史あるいあは西欧史に関する著作があるのではなく、日本史に関する著作もあり、寧ろ「比較史」的ニュアンスがあるように思える。

 羽石重雄の卒業した明治30年、橋本捨次郎の卒業した明治31年当時、文科大学学長は、井上哲次郎(福岡県出身、1855-1944)である。 井上哲次郎は、ドイツ観念論哲学を日本に移入し、日本観念論哲学を確立したことでも知られている。 詳細は措くとして、着目するのは、従来の儒学思想を西欧哲学的手法によって解明しようとした試みである。 すなわち、『日本朱子学派之哲学』、『日本陽明学派之哲学』、『日本古学派之哲学』の三部作が、これに当たる。 そこで、この井上哲次郎の影響を考えるのだ。 特に、羽石重雄は、同郷福岡の出身である。 当人の回想録などが伝わっていないので、推測の域を出ないのだが、後に、文科大学で同期(史学科)であった萩中学の初代校長を務めた雨谷羔太郎(こうたろう)の引きがあり、第三代校長に就任する経緯を考えると、師弟間、同期あるいは同窓間の相互影響を推測することも可能だろう、否、大いにあったと考えるのが妥当だろう。

 こうした経緯を考えると、中等教育草創期における「修身」が、一種実験的に行われたのではないかと推測されるのである。 そこで、思い至るのが「事件」である。 明治末期といっても、生徒の親たちは、維新前後の儒学教育の世代であり、維新やその後の混乱期を経験したに違いない。 それに学校には、旧藩校の伝統を受け継いだ校風があったはずだ。 その中に、新しい教育理念を持った校長が就任し、「修身」を教授することになった。 生徒は、家庭、社会、そして学校という三つ巴の価値観の相克に晒されたのではないか。 それが、様々な形態であれ、生徒たちの心情の発露として現れたのではないか。

 斯く言う私は、当に団塊の世代の先端に位置する。 戦前の教育を受けた親の世代、急速に変わり行く社会、そして学校では、民主教育を担うと称する教師たち。 そこで育った団塊の世代が経験したのは、世界にも類を見ない学生運動の嵐なのだ。 どこか、時代を超えた類似性を感じるのである。

 当時における「修身」が何であるかの結論を得た訳ではない。 しかし、「修身」が、時代におけるキーワードであることへの確信は強まるのだ。 「修身」という教科書は存在するが、その「修身」で何が教授されたのか。 当時の最高学府の出身者であり、最先端の学問の指導者あるいは研究者にもなり得たのが、中等教育の校長である。 その担当するのが、「修身」なのだ。

 ある校長の足跡を追いながら、その果たした役割の大きさにも拘らず、事実関係でさえ追うことの難しさを感じている。 それぞれの学校では、それぞれの歴史観に基づき、それぞれの学校史を、区切り毎に発刊されているだろう。 出来ることなら、その歴史を面にまで広げて欲しい。 草創期には、校長・教員の全校的移動があった。 その点と線を面に広げれば、また別の世界が広が来る。 重人主義とでも言うべき、人間味のある暖かい世界かもしれない。 人間関係の希薄した今こそ、地方あるいは地域発信の最も取組み易い身近な試みと思うえるのだが。

 余談。 最近では、「個人情報保護法」の影響から同窓会名簿など作らないのだそうだ。 どうやって連絡を取るのかと聞くと、集まったとき、お互いに携帯電話の番号を交換するという。 同窓会誌など、どうやって発行するのだと尋ねると、昔の同窓会名簿や同窓会誌に記載の著名人に連絡を取り、了承を得て、記事にするそうだ。 これは当たり前のことだろうが、中には、断られるケースも多々あると云う。 何とも、せちがない世の中になったものだ。 実は、こうしたことが、百年も昔の事実関係でさえ追求を困難にする要因になっている。

Best regards
梶谷恭巨


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