柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 出来事が、歴史として語られるためには、どれ程の時間の経過が必要なのだろうか。 どうも、それぞれの文化によって、この概念は異なるようだ。

 以前、「遺品処分屋」なるビジネスが盛況だというニュースをTV報道で見たことがある。 確かに、日本の家屋は狭く、想い出には明るい面ばかりではないことも事実だろう。 しかし、全てを処分するというのは、どういうことなのだろうか。 この番組では、ある老婦人のケースが採り上げられていた。 生前、ご主人と旅行をするのが楽しみだったそうだ。 ご主人の趣味が写真で、こまめな人だったらしく、コメントを付した多数のアルバムが残されていた。 子供夫婦と同居することになり、家財を整理しなければならなくなったという。 しかし、それにしても想い出のアルバムまで処分するというのは、どういうことだろう。 事情はされ措き、事実上、ひとつの歴史が葬り去られたのだ。

 少々昔の話になるが、学生時代、一年ほど鎌倉に住んだことがある。 一の鳥居の直近く、静かであれば由比ガ浜の波音が聞こえる所だった。 ここから、目白に通っていた。 通学には二時間かかる。 事情があって、この地に住むことになったのだが、もうひとつの理由に、鎌倉の古本屋の噂を聞いていたことがあったからだ。 文化人や学者が多く、そうした人が亡くなると、大量の蔵書が売りに出されると聞いていたのだ。 こうした書籍が店頭に並ぶことは少ないのだが、古本屋と馴染みになれば、希少本も入手可能なのだ。

 当時、鎌倉駅の近くに三軒の古本屋があった。 通学路でもある。 ほとんど毎日のように立ち寄り、時には何冊かの古本を買った。 学習院の制服が印象に残ったのだろう。 (学生運動が盛んな時代、当時、学生服を着るのは運動部系の学生でも少なかった。) 主人と親しくなり、時には、「お茶を飲んでいかないか」と誘いがかかる。 古本屋は、概して暇な家業だ。 長話になる。 そんな時の会話である。

 「親爺さん、何であの先生の蔵書が売りに出るんだろうね」と聞いたことがある。 事情は様々だが、どうも相続税に関係があるようだと云うのだ。 鎌倉は地価が高く、相続税を納めるには、土地家屋を処分しなければならない、そうなると大量の蔵書が厄介になる。 寄贈すればよさそうなものだが、一括で受入れてくれるところも無い。 (必要な本ばかりを選ぶ訳には行かないということだろう。) そこで、一括して買い取ってくれる古本屋の出番になる。 結局、ある思想を持って集められた蔵書が散逸することになるのだが、古本屋のメリットは、その中に思わぬ掘り出し物があることだ。 例えば、日記。 著名人ならそれも然り。 しかし、著名人との交流があった人の場合、傍系の史料としての価値がある。 家人は、そのことをほとんど知らないのだ。

 因みに、司馬遼太郎は、日記の収集家としても知られていた。 出入りの古本屋に、日記なら何でも買い取ると言った話は有名だ。

 関西大震災の後、文化財保護のためのネットワークが作られた。 新潟でも、中越地震、中越沖地震の後、新大を中心に同様のネットワークが出来ている。 特に、紙である史料の被害は甚大で、その保護・保存は愁眉の急の感がある。 公的な歴史には語られない実際の生活史が、そこにある。

 見方を変えると、明治以前の史料は、意外に残っていると言うことだ。 当時の人々は、今書くものが伝承されることを明確に意識していたと言うことではないだろうか。 現在の歴史研究者は、それを発掘しているのである。 大福帳あり、覚書あり、証文あり、書簡あり、日記もある。 余談だが、書簡について言えば、本居宣長の書簡のことが有名だ。 本居宣長の書簡は、現在確認されるものだけで4000通に及ぶと言う。 これ程の書簡が確認されたのも、ひとつには本居宣長が、書簡の写しを常に残していたことであり、送り先の明細を記録していたことにある。

 こうして残された書簡が思わぬ発見に繋がることがある。 越後における写真術の嚆矢は、シーボルノトの弟子・越後(加茂)における蘭方は始めとも言われる森田千庵の弟・森田正治ではないかという話は以前にも紹介したことがある。 川本幸民(千庵の親友)の門人であった森田正治は、兄・千庵の越後への蘭方普及の意を呈して、柏崎に開業すると共に、蘭方医学を教授している。 一方で、川本幸民に習った写真術の普及にも努めている節があるのだ。 川本幸民との書簡の中に、それを匂わせる件がある。 この書簡のことを知ったのは、川本幸民の出身地である兵庫県三田市の広報だったろうか。 その後、柏崎で森田正治について調べたが、見つからない。 市内の写真館にも問合せしたのだが、写真術の歴史について知る人がいなかった。

 結論を言えば、記録が無いのである。 あるいは有ったかも知れないのだが、喪失したのではないだろうか。 記録は、時間の経過と共に史料になる。 記録した人にも、その意識が無かったのかも知れない。 しかし、後の人が、残された記録を単なる遺品、しかも紙屑視としか見ない短慮があったのではないだろうか。

 こうしたことを考えると、現在の記録が既に歴史の一端、すなわち現在史であることを認識することの必要性を痛感するのだ。

Best regards
梶谷恭巨


コメント
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梶谷さんのもう一つの得意分野でもあるICTによりこのページもそして全世界のあらゆるページもそしてあらゆる書籍も映像も写真もグーグルが全て記録していますね。
個人のブログが継続的に書かれていればその人の一生を子孫や後世の人が見ることが出来るようになります。
未来の人は過去の偉人のほぼ実物大に近い姿を文章や映像でしかも読者と同じ年齢の時はいかがであったかとかの興味で見ることが出来そうです。
そう考えると日々ネット上に記録している様々なことは後世に真実を残す作業でもあるわけですね。そう思いますと今の時代では別段書くほどでもない当たり前の日々のことや社会の空気みたいなものもも書くように心がけたほうが後世の人はうれしいでしょうね。

現在史という表現はまさにぴったりですね。
【2008/12/16 17:31】 NAME[くわ] WEBLINK[] EDIT[]
コメント、ありがとうございます。
 世の中、騒然の昨今、日の生活に追われて日常の生活史は、棚上げの状況かも。 しかし、公式な記録に残らない生活史は、後進のためにも残さなければならないものと考えます。

 英国のチェスタートンが、現在を生きる我々には、死者に対しても、これから生まれるであろう人々にも責任があると言っていますが、当に、その姿勢を問われるのが現在ではないでしょうか。
 そんな意味合いをも込めて、現在しなる表現を使いました。

 今後とも、ご鞭撻頂ければ幸いです。

Best regards
【2008/12/18 22:36】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]


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