柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
日本赤十字奉仕団新潟支部柏崎分団の事業の一環として、産業大学の紅葉祭に参加した。 私自身は、平成18年の7月に、救急法救急員の認定を受けてからの参加だから、大した事業に参加していない。 特に、中越沖地震の際も、緊急連絡網が機能しない状況にあり、また、団員の多くが被災者であったこともあり、何の役にも立ったなかったという悔いがある。 そうした反省の意味もあり、今年度は、出来る限り奉仕活動に参加しようと考えている。 赤十字の活動を改めて書く必要はないだろうが、奉仕団の活動については、団員自身余り多くを知らなかったようだ。 私自身、驚いたのだが、新潟県における赤十字奉仕団の歴史は、今年で120年の長きにわたるようだ。 日本赤十字本社は、わが国における日本赤十字の事業全般を紹介する新しいDVDを作成し、新潟支部では、その活動をDVDにまとめた。 今年の指導員研修で、そのDVDが配布され、柏崎では産業大学の紅葉祭で初めて公開された。 さてそこで、120年の歴史について調べてみた。 120年前、すなわち1888年、あるいは、その前年に何が起こっているか。 新潟県の赤十字社に付いて考えるとき、先ず、思いつくのは、石黒忠悳の存在である。 石黒忠悳は、1917年(大正6年)2月21日、第四代日本赤十字社社長に就任、1920年9月4日に退任している。 その石黒忠悳が、森林太郎(鴎外)を従え、第四回赤十字国際会議に、日本代表として出席したのが、1887年(明治20年)の9月のことだ。 因みに、この時のオランダ代表は、彼のポンペである。 石黒忠悳の『懐旧九十年』によれば、この会議の二日目、某国の委員から「赤十字条約中にある列国は相互に恵み、病傷者を彼我の別なく救療する」という明文は、これを欧州以外の国にも適用すべきか、という議題が提出されたのだそうだ。 1886年(明治19年)、日本はジュネーヴ条約に加盟しており、その代表として出席している石黒忠悳は、憤慨する。 しかも、異議を唱える国が出なかった。 しかも、米国の代表、クララ・バルトン女史さえ、異議を唱えない。 そこで、ドイツ語に精通する森林太郎を通訳として、異議を申し立てているのだ。 以下、それを紹介する。 曰く「われわれ日本帝国の代表は本来赤十字事業なるものには、地理的もしくは人種的差別を設けるものではないと確信してこれに加盟し、ここに出席しているのである。 しかるに、かくの如き議が神聖なる議場に提出せられるとは真に意外である。 もしこの提案が議題となるならば、われわれは遺憾ながら議席を退くほかはない」と。 議場は騒然となる。 そこでオランダ代表のポンペが立ち、日本の文明国たる実情を主張し、ロシア代表などが同意を表明して、この議題は撤回された。 これが、国際会議で日本が認められた最初の場面だったのかもしれない。 余談だが、翌年(明治21年)10月、柏崎に日本石油会社が設立されている。 さて、新潟における赤十字活動だが、広報用に制作されたDVDによると、長岡病院が原点にあるようだ。 長岡病院の前身を「長岡会社病院」という。 戊辰戦争後の荒廃、疫病などで窮した住民の柏崎県に対する陳情で、明治6年設立されたのが「長岡会社病院」である。 三島億三郎が経営に当たり、梛野直(なぎのすなお)が初代院長に就任する。 この梛野直は、小金井良精の妹・保子と結婚している。 小金井良精については、以前書いた通り、母が小林虎三郎の妹・幸であり、最初の妻が森鴎外の妹・喜美子なのだ。 前後の事情を考えると、森鴎外(林太郎)の妹と結婚した経緯には、石黒忠悳の存在がる。 そこで、もう少し石黒忠悳について触れる必要があるだろう。 『懐旧九十年』によれば、日本陸軍の衛生部すなわち軍医の徽章を何にするかという問題が、明治五年に、松本良順(軍医総監)、林紀、および石黒忠悳の間で話し合われた。 結果、赤十字にすることがまとまり、山県有朋陸軍卿に申し出、陸軍省が太政官に提出したところ、宗教に関係があるという理由で却下された。 そこで、松本良順と相談、後に赤十字が各国同一になるだろうという含みから、赤十字から縦一字をとり、白地に赤横一線を徽章としたというエピソードがある。 赤十字の思想、博愛主義は、既に幕末期から普仏戦争における医療活動(アンリ・デュナン)の理念として知られており、戊辰戦争における医療倫理に大きな影響を与えている。 そうした背景の下、佐野常民がオーストリア公使となり、ウィーンに赴任、赤十字の存在を知り、陸軍省に詳細な報告を送っている。 また前後するが、普仏戦争のとき、大山巌が、フランスやスイスで赤十字活動を目撃し、その話を各界に伝えていた。 こうした事情から、石黒忠悳は、官方における赤十字社設立の指導的立場に立ち、民間の赤十字社の創立者の一人となっているのだ。 詳細を検証した訳ではないので、新潟県、特に長岡が赤十字活動の先進地であったという確証はないのだが、上記の背景から推測すれば、強ち誤りではないと考えるのだ。 昨日の紅葉祭で、DVDを見た団員がいう。 「こんな歴史があったとは知らなかった」と。 赤十字の人道活動は、単なる感情の発露ではない。 歴史に裏打ちされた確固たる信念があればこそ、危険さえ顧みない活動を可能にする。 上げれば様々な歴史的事実や人に纏わるエピソードは限りなくある。 今現在も、その事実やエピソードは蓄積されているはずなのだが、さて、その事実は、どれほど人に知られているのだろうか。 後世のためにも、残していかなければならないのだが。 Best regards
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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