柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 新しい仕事をする場合、必ず、その仕事の内容や歴史的背景を調べることを習慣付けている。 今回の仕事は、昔接した若い栄養士の卵たちや先生たちのことを思い出させた。 既に20年余りの歳月が経っているのだ。 前回(627号)、石黒忠悳と日本赤十字の関係について触れたのだが、矢張り、その『懐旧九十年』に栄養学に関する面白いエピソードがあったので紹介する。

 日本で最初に西欧的栄養学を学んだのが、何と森鴎外なのである。 『懐旧九十年』、第五期「兵部省出仕から日清戦争まで」、第十八「グラント将軍来朝と兵色問題」にその記述がある。 これによると、事の始めは、山県有朋(陸軍卿)が、紀州出身の津田出(いずる)を陸軍少将として招聘し、会計経済のことを一任したことにあるようだ。 明治6年(1873年)、会計監督長に就任し、陸軍省第五局長(後の経理局)を兼務している。 余談だが、後に、芝五郎を援助した野田豁通が、この職(会計局長兼会計監督長)を継承している。

 この時、旧陸軍の給与規則が統一されている。 因みに、当時の給与は、一日白米5合と5銭であったそうだ。 その後の経緯は省略するが、当初から兵食の問題が議論されていたようだ。 例えば、当時のこと、一人扶持との比較があったようだ。 一人扶持は、玄米5合だったそうだから、白米5合は、相当な改善である。 しかし、このことが結果として「脚気」問題を生むのである。 この問題には、徴兵制も関係する。 武士階級ではなく、特に農民出身の兵士は、下級武士階級出身者よりも食生活においては、潤っていたのである。 機会があれば、この辺りの事も紹介する。

 また、こんなエピソードもある。 兵食をパン食に統一すると言うのである。 特に、薩摩出身の将校が盛んに提唱したそうだ。 しかし、現実的に見れば、原料である小麦を生産しない日本では不可能な議論である。 しかし、「脚気」問題も絡んで、その事を科学的に実証する為に、森林太郎(鴎外)が、ドイツ留学を命じられるのである。 森林太郎は、帰国後、陸軍軍医学校で、兵士を用いて兵食調査の実験を行う。 また、同じく留
学していた谷口謙(内科医、第7代、旧軍医学舎を入れると、第10代校長)排泄物の調査をさせ成分分析検査により、栄養摂取の衛生学的結論を得ているのである。 因みに、石黒忠悳は初代陸軍軍医学校長、森林太郎は、第4代校長である。 尚、校長の代数に関しては、旧軍医学舎と、校長ではなく「校長心得」も計算に入れた。

 いずれにしても、明治初年から日清戦争・日露戦争辺りまでは、兵站問題と兵食および衛生問題は、軍隊の運用あるいは作戦における重要事項であり、そのトップ人事も重要視されたのだが、それが、大正から昭和にかけて、何故に軽視されるようになったのか、全く疑問である。

 栄養学の問題は、本来の学問として、現在も軽視される傾向にあるのだが、老齢化・少子化の時代、さらに景気が低迷から混迷に陥ろうとする時代、見直されるべき分野ではないだろうか。 何しろ、「食足りて礼節を知る」のが、人間なのだから。

Best regards
梶谷恭巨

 


コメント
無題
お久し振りです。その節は大変お世話になりました。森鴎外が栄養学を学びにドイツに渡ったとは、全く知りませんでした。食への関心が高まる昨今ですが、根拠怪しきバナナダイエットがブームになるようでは、栄養学がメジャーになる日はまだまだ・・かも。
【2008/10/15 04:30】 NAME[栄養士もどき] WEBLINK[] EDIT[]


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