柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
羽石重雄先生を追いかけて、既に、数年になる。 出逢いは、旧制県立柏崎中学(現、新潟県立柏崎高校)の初代校長として赴任されたのと、同時に、旧山口高校(所謂、旧制山口高校とは異なる)で同級で日本石油初代技師長・研究所長であった杉卯七(日本フランス文学会の確か第三代会長、杉捷夫の父)の日本石油在籍25周年記念を祝い、矢張り同級生であったジャーナリスト・作家・大学教授であった野村健堂が柏崎で祝宴をあげ、その会話から生田萬の話に及んだ様子を、『大塩平八郎と生田萬』という小文にまとめ、『日本』という雑誌に掲載したことに始まる。 当時、生田萬を調べていたのだが、むしろ、この三人の出逢いに興味を得た私は、それぞれの経歴などを追いかけていった。 野村健堂は、当時から文筆家としての名声を得ており、文献も多い。 また、杉卯七についても、子息が有名なフランス文学者・杉捷夫氏であることから、その著作『人の影・本の陰』に行き当たり、その中で父・卯七のことを書いているので、ある程度の経歴を知ることが出来た。 しかし、羽石重雄については、詳しい文献がない。 そこで、先ず柏崎を基点に、その後任地・旧制長岡中学、前任地・旧制岩国中学と、輪を広げ、最後の任地が、旧制松本中学であることを確認した。 ところが、岩国中学の前任地が良くわからない。 そこで失礼とは思いながらも、現・山口県立岩国高校に電話したのである。 偶然にも、当時の校長先生とお話しすることが出来たのが幸いした。 それによって、岩国中学時代における羽石校長排斥運動なるものの存在を知ったのである。 この経緯については、以前書いたことがあり、ブログ『柏崎通信』にも掲載した。 しかし、その時点では、前任地が九州であったことしか分からなかった。 その後、機会あるごとに調べてはいた決定打がない。 そこで、全く荒唐無稽とも思われる仮設を立ててみたのである。 夏目漱石が、旧制長岡中学と関係が深いことは、周知の事実である。 例えば、『野分』の主人公・白井道也は、帝大時代一級下の坂牧善辰だと云う。 この辺りについて以前書いているので省略するが、要は、戊辰戦争で敵対関係にあった薩摩と長州との間に、旧制中学校長を介した人事の交流があったことに興味を引かれたのである。 未だ未整理の状態なので、今回は、新たに判った事実を覚書的に書いておきたい。 先ず、旧制松本中学(現、長野県立松本深志高校)に事実の紹介を依頼した。 以前も連絡したことがあるのだが、その時点では、新しい事実を見つけることが出来なかったのだが、今回は、松本深志高校教頭・五味千万人先生のご好意で5件の資料を頂くことができた。 感謝。 それによると以下のような事実がある。 資料(1) 『平成20年度松本深志高校学校要覧』、「本校の沿革」から 資料(2) 『会員名簿2006』(深志高校同窓会発行)、「旧職員(松中)」から 資料(3) 『九十年史(昭和44年発刊)』(深志高校同窓会発行)、「松本中学校教職員群像とその影響、第三章 大正期、4」から 資料(4) 『深志百年史(昭和53年発刊)』(深志高校同窓会発行)、「第九章恩師追懐」(652ページ)、筆者・池上隆祐氏(故人) 少々長いが、深志高校の先生に関連部分を抜粋していただいたので、その部分を。 羽石校長の人となりを髣髴させる文章である。 尚、この池上隆祐氏は、民俗学者である池上氏であるようだ。 柳田國男との接点もあり、『石』という著作がある。 興味を引く人物であり、今後の課題としたい。 「羽石重雄校長(大9から昭5在任) - 入学当時の校長は創立以来たしか三代目の高橋先生であったが、私が親しく御目にかかり、今考えれば冷汗ものの小生意気な理屈を申し上げたのは四代目の羽石校長先生であった。 ハイシというのでハイシハイシ歩めよ小馬という童謡から子供らしい連想からであろうが、馬という綽名をつけられた。 羽石先生は(生?、判読不可)顔も長顔であった。 その長顔を上下に二分するように天神髭をはやしておられた。 先生は仙骨をおびた風格をもっていて、私の話を黙ってきいた後、まあ概ね君のいう通りだろうなあと悠然としてかのひげをひねっておられた。 その超然たる態度に小生意気な私も負けたなあなどと一種の口惜しさと尊敬の念をまぜ合せたような気持ちで引き下がって来た。 先生は古い時代の東大の哲学科の出身であった。 この校長先生始め私の思い出の中には意外に多くの諸先生の顔が今も懐しく思い出される。」 以上が、松本深志高校教頭・五味先生からFAXで頂いた資料である。 改めて感謝の意を。 これらの資料に関する分析は、後に書くとして、この資料から、羽石先生が、福岡県出身であることがわかった。 また、修猷館高校の前身である福岡藩校「修猷館」出身であることも判明した。 そこで、改めて、山口県立岩国高校に問い合わせをした。 前回お話した校長先生は既に離任されており、羽石校長に関する件の「排斥事件」に関してご存知の先生も居られない。 そこで、山口県立図書館を紹介された。 膨大な資料に埋没しているに違いない。 次に紹介いただいたのが山口大学である。 事情を説明し、『柏崎通信』ブログ版を紹介したところ、ご親切に回答の電話を頂いた。 そこで、矢張り出てきたのが、「修猷館」である。 松本深志高校の五味先生から頂いた資料によると、母校である「修猷館」で教鞭をとられた記録がないのだが、山口大学・松岡先生によると、「修猷館」に3年在籍との記録があるそうだ。 会話の中で聞いたことなので、詳細を確認できないのだが、この在籍が、学生としてなのか、教師としてなのかが不明である。 個人情報保護法以来、百年に近い昔のことも調べ難くなった。 その為、断片を繋ぎ合わせて行くか、仮説を立てて地道に立証していかなければならないのが現状だ。 しかし、明治期、恩讐を越えた教育における教育人事の交流は、現在の我々に何かしら教えることがあるのではないだろうか。 私事であるが、私の弟の妻は松本出身、私たち夫婦の仲人は福岡県立伝習館高校の出身である。 また、仕事の関係で福岡と縁が深い。 現在、柏崎在住だが、広島出身である私には、羽石先生との接点がない。 しかし、これも何かの縁、関連学校の出身者の方にご協力をお願いできれば幸いである。 尚、上記資料から「羽石」の呼び方について解答を得た。 実は、「ハネイシ」なのか「ハイシ」と呼ぶべきか確信がなかったのである。 因みに、「羽石」姓を、静岡大学人文学部言語文化学科・城岡研究室の姓名データベース(全国電話帳)から調べたところ、3685位、840件の登録があるそうだ。 また、自分の持つ全国電話帳 次回は、資料を整理し、羽石先生のその後の足跡についても、触れてみたい。 もっとも、それ以前に、ミッシングリングを探さなければならないのだが。 最後に、松本深志高校の五味先生、山口大学の松岡先生に、改めて感謝を。
羽石重雄先生と修猷館に関して
修猷館高校出身者です。修猷館の同窓会名簿によれば羽石先生は明治24年(第3回)卒業となっております。なお、この記事に”福岡藩校「修猷館」出身”と記されていますが、この頃は既に藩校ではなく「福岡県立尋常中学修猷館」となっています。
ありがとうございます。
貴重な情報、ありがとうございます。
以前、新潟県柏崎中学初代校長に就任した羽石重雄と日本石油初代技師長である杉卯七の勤続25年を祝う宴を、黒頭巾こと横山健堂の音頭とりで、柏崎に設けています。 実は、この三人、旧制山口高校の以前に在ったもう一つの山口高校の同級生で、杉と横山が山口県修身にも拘らず、羽石重雄と簡単会い照らす仲であったとの記事がありあり、その経緯を探していました。 今回の史料・情報で、むしろ羽石重雄の空白の部分が出て来たの感がありますが、いずれにしても出身地と最初の教育を受けた学校が判ったことは、今後の課題を明確にしました。 改めて、お知らせ頂いた情報に感謝します。 Best regrds |
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