柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 またしても、大地震が発生した。 今世紀最大の預言者と言われる「エドガー・ケイシー」は、日本沈没を予言していることをご存知だろうか。 もっとも、ケイシーが、日本沈没を予言した1998年は、とうに過ぎているはのであるのが。

 予言は、さて措くとして、報道によれば、この地域で大規模な地震が発生したのは、今から120年前のことだそうだ。 そこで、日本の天変地異年表を調べてみる。 しかし、今回の地震の発生した岩手・宮城県境辺りには、それらしき記録が無い。 ただ、明治21年(1888)、7月15日、磐梯山噴火の時事を見ることができる。 小磐梯山は、この噴火で完全に崩壊、大規模な土石流(岩屑流)が発生し、秋元・細野・雄子澤の三村が全滅し、461人の死者を記録している。 (岩波の日本史年表では、死者444人。) これで出来たのが、秋元湖と檜原湖だそうだ。 この年、新聞の写真掲載が始まっている。 また、正岡子規と関係の深い陸羯南(くが・かつなん)が、『東京電報』を創刊したのは、この年の4月9日であり、『東京朝日新聞』が創刊されたのが、7月10日だった。 磐梯山噴火のニュースは、これらの新聞によって大きく報道されたことだろう。

 そこで、その年の10年前後を見る。 遡ると、明治15年(1882)7月25日、沖縄の那覇・首里一帯で強い地震があり、余震42回が記録されている。 その後、明治17年にトカラ列島の諏訪之瀬島が大噴火の記録がある。

 次に、それ以降を見ると、明治22年7月28日、熊本市を中心に大地震があり、倒壊239戸、半壊236戸、死者20人、負傷者54人の記録があり、同年8月3日に大きな余震が発生している。 これを期に、遠地地震観測が始まっている。 明治24年(1891)10月28日、濃尾地方を震源地とする大地震があった。 この地震は、震度6だが、揺れは全国に及んでいる。 被害は甚大で、岐阜・大垣・名古屋などで、死者7273人、負傷者17,175人、全壊142,177戸、半壊80,324戸、橋梁10,392、堤防7,177ヶ所が破損、10,224ヶ所で山崩れが発生している。 3日間で、烈震4回、強震40回、更に翌年も余震が続き、被害が出ている。 この大地震のためか、翌明治25年、震災予防調査会が発足する。

 更に、天変地異年表を追って行くと、その後、明治26年(1893)5月19日、福島県と山形県の県境、吾妻山が噴火している。 翌年六月20日、東京・神奈川で大きな地震、併せて31名の死者。 同年10月22日、庄内平野で大地震、死者726人、全壊3,858戸、半壊2,397戸。 更に翌年、明治28年2月5日、蔵王山爆発、明治29年(1896)6月15日、三陸地方に大津波が発生、流出9,879戸、倒壊1,844戸、6,930艘の船が被害、死者26,360人、負傷者4,398人の大被害を受けている。

 次に発生したのが、三陸大津波と同年に発生した秋田・岩手県境の大地震だ。 明治29年8月31日に発生している。 どうも、コメントされたのは、この大地震のことではないだろうか。 天変地異年表によれば、揺れは広範囲で観測されたが、被害は、山間部の狭い範囲に集中し、死者209人、負傷者779人、全壊5,792戸、半壊3,045戸、山崩れ9,899ヶ所の記録がある。

 ざっと記録を辿ってみたが、その多さに驚くのである。 兎に角、数年をおかず、日本の何処かで大地震が発生している。 これでは、日本沈没も、まんざらあり得ないと言えないのではないか。

 ところで、天変地異は、自然災害ばかりではない。 疫病の流行による死者の多さにも驚くのである。 参考の為に、列記してみよう。

 明治15年(1882)初夏から秋にかけてコレラが流行、死者33,784人(東京、5,076人)、記録は無いが、1885年には、コレラ・赤痢・腸チフスが流行し、翌年には、天然痘と腸チフスの流行で、死者およそ3万人。 明治23年(1890)には、インフルエンザとコレラが流行、死者35,227人。 明治24年、天然痘が流行、死者33,779人。 明治26年、天然痘と赤痢が流行、前者の死者が11,852人、後者が41,283人。 明治29年、赤痢と腸チフスが流行、赤痢の死者22,356人、腸チフスで9,174人の死者を出しているのだ。

 先の震災による被害と平行して、疫病が流行し、多大な死者を出しているのだ。 先回紹介した人口の推移からも判るように、僅か10乃至20年の間に生じた天変地異による死者の数は、半端ではないのである。

 これらの天変地異を、歴史的事実と比較すれば、歴史の別な側面が見えてくる。 政局が不安定な時代、人々の目は、自ずから天変地異に向いたのではないか。 対応を間違えれば、命取りになりかねない。 しかし、反面、既に始まっていた民権運動の激化を沈静させる効果があったのではないだろうか。 特に、東北(新潟を含む)の旧奥羽越列藩同盟に参加した諸藩の人士は、民権運動を第二の、しかも、今度は自分たちが中心となる維新と考えていたようだ。 河西英道著『東北-つくられた異境』『続・東北-異境と原境のあいだ』に、当時の東北人のことが書かれている。 民権運動と共に盛り上がっていた政治意識が、どこか中途半端に終わる(?)という感覚を覚えるのは、もしかすると、天変地異が背景にあったのではないだろうか。

 余談だが、小金井良精は、三陸大津波の後、現地を訪れている。 医者の目から見た被災地は、後々まで記憶に残ったようだ。 明治の医学界を先駆者となった、同郷の石黒忠悳、長谷川泰、良精夫人の兄・森鴎外、下って、長谷川泰の弟子である野口英世や入澤達吉らに影響を与えたのかもしれない。

 災害史は、災害そのものの影に隠れて、それが、社会や政治に与えた影響については、余り語られていない。 天変地異は、人間の心理にも影響を与える。 その心理は、少なからず社会や経済にも波及する。 災害史の権威といえば、北原糸子氏くらいしか思いつかないのだが、研究者のみならず、われわれ一般も、もっと災害史に目を向けるべきではないのだろうか。

Best regards
梶谷恭巨


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