柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 吉村昭の歴史小説に『長英逃亡』という作品がある(先回紹介)。 勿論、人間としての高野長英を描く最高の作品だと思う。 しかし、江戸後期・幕末の蘭学・洋学の人脈を知る上で非常に参考になる作品でもある。

 長英は、破獄の後、和算学者で門人の内田弥太郎の手引きで、越後・直江津今町に潜伏している。 訪ねたのは、内田弥太郎の門人・小林百哺(ひゃくほ)。 しかし、蘭学・洋学の関係者への捜査の手が伸び、百哺の伝で、同じ今町の豪商・大肝煎(おおきもいり、庄屋の筆頭)福永七兵衛方に匿われる。 福永家も興味深い家なのだが、それは置くとして、家業の一つ酒造業の仕込みの時期になり、安全とは言えなくなった。 そこで、長英は故郷・水沢に向かう決意をするのだが、道中の安全を如何にするか。 福永七兵衛は、思案の結果、出雲崎の侠客・観音寺勇次郎(久左衛門)に長英の保護を依頼する、とある。 少々端折り過ぎのようだ。 詳しくは、『長英逃亡』を参照されたい。 そこで、興味を持ったのが観音寺久左衛門だ。

 以前、長岡藩の九里(くのり)氏についてインターネットで調べたことがある。 その過程で、侠客・博徒のデータベースがあるのを発見した。 よく調べられたものだと感心した。 これによると、新潟(越後)で幕末・明治に名の残る博徒数の数が、およそ80。 多さにも驚いたのだが、そのネットワークが全国に及んでいることにも関心を持っていた。 侠客としての観音寺一家は、4代続いたとある。

 余談だが、九里氏は、牧野の御落胤の家系といわれ、その御子孫が柏崎におられる。 河井継之助記念館友の会のメンバーで、代々継承された古文書が残っているそうだ。 地震の後、一度、お伺いしたことがあるのだが、予備知識が無く、改めて拝見させてもらうことになっている。 だが、そのまま。 先年見つけた市川隣平氏の神道無念流口伝書と同様、埋もれた史料である。

 さて、観音寺久左衛門だが、調べてみると、彼を主人公にした小説があった。 中島欣也著『戊辰任侠録』だ。 幸い古本があった。 早速購入。 読んでみると面白い。 『長英逃亡』では端役だが、こちらでは主役。 しかも、中島氏の調べである。 観音寺久左衛門は、通り名。 本名は、松宮雄次郎、観音寺は住した村の名前で、『長英逃亡』では出雲崎とあるが、これは別邸があった為でだろう。 観音寺村は弥彦に近い与板藩領、そこに本宅があったのだそうだ。 松宮氏の祖先は、源頼朝の家臣を開祖とする豪族で、代々久左衛門を名乗り、観音寺村に住したと云う。 主人公である松宮雄次郎直秀は、十代目・久左衛門。 裕福な家であったようだが先代である九代目・久左衛門は、松宮氏中興の祖といわれ、近隣に富豪として知られていたそうだ。 十代目は、そうした財産を背景に生まれた所為か、学芸にも秀で、特に絵を能くしたそうだ。 『長英逃亡』にも、そのことが書かれている。 この久左衛門が、博徒の大親分、しかも子分が数千人いたと言うのだから驚きである。 因みに、九代目・久左衛門のころから、弥彦神社の大祭の時、定例の花会が開かれたそうだが、関東・東北・中部一円の親分衆が参集したという。 兎に角、エピソードが多いのだ。 例えば、大前田栄五郎や国定忠治などが登場する。 ただし、古文書などでは皆「久左衛門」を名乗るので推定十代目であるそうだ。 因みに、私事だが、我家の場合、代々新左衛門と新右衛門を交互に名乗った。

 その十代目・久左衛門が、会津藩の要請により、兵を募り、最後には一隊を率いて北越戊辰戦争を戦っているのだ。 そして、最後は、会津藩の降伏を期に、米沢藩に降伏し、後に許されて観音寺村に帰郷している。 この辺りの事情は、『戊辰任侠録』を。

 前置きが長くなってしまったが、観音寺久左衛門に様々な人間関係の接点を見るのである。 例えば、久左衛門の参謀格に二人の人物がいる。 一人は、水戸浪人の斉藤新之助、もう一人は、元村上藩士の剣客・遠藤改蔵である。 この組み合わせ、何処かに見たような既視感がある。 生田萬に対する驚尾甚助と鈴木城之助だ。 鷲尾は、尾張浪人の神道無念流の剣客であり、鈴木は、元水戸藩士、共に三条の大庄屋・宮島弥五兵衛(三条の一部は柏崎・桑名藩領、宮島あるいは宮嶋氏は柏崎の出身とか)を介して、生田萬を知り、盟約を結んでいる。 横山健堂の『大塩平八郎と生田萬』によれば、鈴木は、藤田東湖の徳川斉昭擁立運動にも参加したとある。 藤田東湖は、斎藤弥九郎とは、岡田十松門下で神道無念流を共に学んでいる。 因みに、『戊辰任侠録』では、遠藤改蔵の流派が明確に書かれていないが、長沼庄兵衛の門人とあり、また、長岡藩の篠原伊左衛門を上げて「彼もまた神道無念流の斎藤弥九郎に学び」とあるから、神道無念流であったことが推測できるのである。

 高野長英も神道無念流とは縁が深い。 「蛮社の獄」の遠因となる「尚歯会」のメンバーには、岡田十松門下の江川太郎左衛門(英龍)、渡辺華山、斎藤弥九郎水が加わっているのだ。  因みに、『広辞苑』によれば、「尚歯会」の「尚歯」は、『礼記』が出典、「歯」は年齢、「尚」は、(たっとぶ意)老人を尊敬することある。 (岡田十松の門人には、他に、先の藤田東湖、武田耕雲斎、水戸浪人の芹沢鴨、新見錦や新撰組の永倉新八などがいる。) しかも、入牢中、またその後の上足柄郡潜伏中の世話をするのは、江川英龍の命を受けた斉藤弥九郎であり、その配下あるいは門人なのである。 お気付きだろうか、神道無念流が、随所に登場してくるのだ。

 当時の学者や医師は方外の人、それに、剣客も主を持たない浪人が多く、勿論博徒は法外の人なのである。 身分制度が曖昧になった江戸後期から幕末、こうした人々が、それぞれの社会の枠組みを結びつける一種の接着剤的存在ではなかったのか。 少々趣は異なるが、ふと堀田善衛の『路上の人』が思い浮かんだ。 昔は、社会の階層や枠組みを人が繋いでいたのだが、現在は、メディアやネットワークというリヴァイアサン(旧約聖書に登場する海の怪物、巨人。 トマス・ホッブスの『リヴァイアサン』がある)が、相互に遠ざかっていく階層や枠組みを細い糸で繋いでいるのだと。

 観音寺久左衛門は、天変地異、人心の荒廃、グローバル化する世界情勢、動乱の世の中に咲いた仇花か。 彼は、それでも戊辰戦争を生き抜き、故郷・観音寺村に隠棲した。 明治3年、大河津分水の工事の時、県への出仕を要請されたが、「会津の殿様が謹慎中、しかも自分は賊軍で戦った罪人である」と固辞し、佐幕・会津藩、あるいは自分の時代であった江戸時代に義理を通しているのである。 

Best regards
梶谷恭巨


コメント
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【2008/01/27 20:08】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]
血統探し
私のひいばあちゃんは新潟の殿様の側室でした。その側室が子供を身ごもってから会津の宮下という土地で私のひいばあちゃんを産みました。同じ殿様の血が流れてる人にあいたい。側室の顔そっくりな私だそうです。あってみたいです。
【2008/10/26 02:45】 NAME[渡部 恵] WEBLINK[] EDIT[]
長岡の先祖について
海外に住む九里家の子孫のものです。こんど日本に帰った折に長岡の先祖の墓と歴史博物館などに行きたいと考えており、何か手掛かりはないかとネットを探していたところ、こちらのブログを拝見するにいたりました。
亡くなった祖母の話では祖母の父の兄が博徒の九里健三とのことでした。また、上記の文中に出てくる「柏崎のご子孫」というのは、祖母の兄が柏崎のお寺の和尚さんでしたので、そのご関係の方かと思われます。既に祖母は10年以上前に亡くなり、自分は海外生活でなかなか先祖のお墓参りもできず、先祖の話を聞く人も全くいなくなってしまったのですが、こちらのブログで祖母の話が具体的になったものと実感致しました。全くの手探り状態でしたが、お陰さまで長岡訪問に向けて頑張ります。
今後も梶谷先生のご活躍を祈念いたします。
【2010/04/22 11:11】 NAME[スガワラユミコ] WEBLINK[] EDIT[]
松宮雄次郎の子孫です。
インターネット欄検索「松宮輝明」あり

四代前の先祖松宮雄次郎(新潟県弥彦村観音寺349)は松宮家十代目当主です。。北越戊辰戦争で「聚義隊」を率い河井継之助と共に西軍と会津藩落城後も戦う。主な著書に下母沢寛「よろず覚え帳」 池上大一著「与板藩史」 増田知哉著『清水次郎長とその周辺」 吉村昭著「長英逃亡」 大正6年の平石辯蔵著「会津戊辰戦争史」 大山柏「会津戊辰戦争史」 中島欣也著「戊辰任侠録・越後の侠客観音寺久左衛門」 早乙女貢著「会津士魂」 弥彦村村史「弥彦村史」 佐藤耐雪著・良寛記念館編「出雲崎編年史 中」 浅田晃彦著「大前田栄五郎の生涯」 会津史談会編「高橋修斎翁自伝」「会津歴史談」 長谷川伸著「佐幕派史談」 甘粕勇英雄編「甘粕備後継成遺文」「米沢市史」 中田菜村「「衝鋒隊戦史」「幕末実戦史」 福永久寿衛著「沢辺琢磨の生涯」(坂本竜馬の従兄弟)日本正教会編「日本正教伝道史」 「江戸相撲史」 前島密「日本人の自伝」 「西郷頼母近真伝」 祖父の松宮寛示遺稿「会津の城影」
インターネット欄検索「松宮雄次郎・観音寺久左衛門」


母方は福島姓、上杉藩上杉景勝公の大小姓、直江兼続の妹「きた」・梁川城代須田長義の係累 上杉藩の大砲方を勤める。
四代前の上杉藩大小姓の福島久太郎は戊辰戦争の戦後処理めた、明治元年戊辰10月3日に藩主上杉茂憲公の御登の御供で東京へ謝罪に付き上京す。福島家の墓地は米沢林泉寺あります。

「松宮輝明」検索で母方の記事があります。
【2011/01/21 14:15】 NAME[松宮輝明] WEBLINK[] EDIT[]
松宮雄次郎の子孫です。
インターネット欄検索「松宮輝明」あり

四代前の先祖松宮雄次郎(新潟県弥彦村観音寺349)は松宮家十代目当主です。。北越戊辰戦争で「聚義隊」を率い河井継之助と共に西軍と会津藩落城後も戦う。主な著書に下母沢寛「よろず覚え帳」 池上大一著「与板藩史」 増田知哉著『清水次郎長とその周辺」 吉村昭著「長英逃亡」 大正6年の平石辯蔵著「会津戊辰戦争史」 大山柏「会津戊辰戦争史」 中島欣也著「戊辰任侠録・越後の侠客観音寺久左衛門」 早乙女貢著「会津士魂」 弥彦村村史「弥彦村史」 佐藤耐雪著・良寛記念館編「出雲崎編年史 中」 浅田晃彦著「大前田栄五郎の生涯」 会津史談会編「高橋修斎翁自伝」「会津歴史談」 長谷川伸著「佐幕派史談」 甘粕勇英雄編「甘粕備後継成遺文」「米沢市史」 中田菜村「「衝鋒隊戦史」「幕末実戦史」 福永久寿衛著「沢辺琢磨の生涯」(坂本竜馬の従兄弟)日本正教会編「日本正教伝道史」 「江戸相撲史」 前島密「日本人の自伝」 「西郷頼母近真伝」 祖父の松宮寛示遺稿「会津の城影」
インターネット欄検索「松宮雄次郎・観音寺久左衛門」
戊辰戦争の激戦地を行く
歴史の証人
      あさかの学園大学講師・伊能忠敬研究会員   松宮 輝明
筆者の所属する伊能忠敬研究会は二百十年前江戸寛政時代に日本全国を十七年間に渡り北は北海道から南は種子島、屋久島、東は八丈島、西は佐渡、隠岐、対馬まで測量し近代日本地図を完成させた伊能忠敬の足跡と業績を検証する研究団体である。伊能研究会は全国組織二百三十名の会員が所属しており、各分野の研究者が多角的な研究がなされている。会員には国土地理院総裁や国会図書舘憲政史料室長、古文書研究家、歴史街道研究家、歴史研究者や郷土史家等多彩な分野の研究者いる。筆者は各地の研究者の交流を通し江戸時代や明治時代の歴史史料が発掘できることを楽しみにしている。
平成二十年七月十四日、内閣官房長官は記者会見で日本海に浮かぶ竹島問題について「日本固有の領土である。」との正式な見解を示した。文部科学省は0、21平方キロメートル(六万三千六百坪)の竹島を学習指導要領に明記し平成二十三年の中学校社会科の教科書に記載し、領土の主権が日本に帰属することを指導することにした。
領土の広さは須賀川高校の敷地の4倍ほどの小さなものである。
竹島は明治三十八年閣議決定を受けて島根県に編入された。歴史の観点から考察すると微妙な問題を含んでいる。江戸時代二百十年前に幕府天文方の伊能忠敬測量隊は竹島を測量しなかった。科学は学問の基本であり歴史は科学によらなければならない。伊能忠敬は歴史の証人であり、多くの歴史の研究史料を与えてくれる。本格的な伊能研究は明治四十一年男爵三井八郎右衛門が帝国学士院に金弐千円を寄付したことにより始まった。伊能忠敬の解明は生涯をかけても研究尽くせないほどの豊富な内容である。伊能忠敬研究は原子の電子軌道を太陽模型で表した理学博士・長岡半太郎(昭和十四年文化勲章受章者第一号)と理学士大谷亮吉である。筆者は福島県内での伊能調査で伊能忠敬測量隊の宿泊地三十一箇所を調べている。宿泊地は奥州街道、会津街道、米沢街道、陸前浜街道の本陣、名主、検断、問屋等である。宿泊地の子孫の方々にお会いし江戸時代の政治制度や政務、経済の様子、町割や通信、物品の輸送などを調べていると、江戸時代にタイムスリップすることが出来るのは楽しいことである。写真シーボルトの日本地図に竹島の記載はない(部分図)
白河藩御用御用達・荒井冶良右衛門
 このたび福島県白河市出身で茨城県筑西市にお住まいの荒井忠秋氏所蔵の江戸末の慶応日記が公開された。この日記は荒井忠秋氏の生家白河市中町の自宅に百三十四年間眠っていたものである。荒井氏が所蔵する日記は幕末の慶応三年元旦より慶応四年十二月十五日までに書かれた「荒井冶良右衛門慶応日記」「機密探索書」である
 荒井忠秋氏のご先祖は白河藩御内御用達の「山城屋」の当主の荒井冶良右衛門である。荒井冶良右衛門は日々の様子、当日の天気、身近な出来事、年中行事、物品の受注、販売の記録、白河藩との政務など克明に記録され日記として書き残した。歴史の教科書からは一部の権力者や支配者の背景は明らかになっても、一般庶民の生き様や考え方についてはほとんど小説の世界で窺うのみである。荒井家は代々白河藩松平家・阿部家御内御用達である。六代慎八(忠吉)が病弱なために若隠居し、嘉永七年(一八五四)に冶良右衛門が七代目当主になった。この時代、日本史上、最も大きな社会変革のひとつである武家社会の崩壊、それにともなう戊辰戦争の真只中を歴史の証人として見聞し、その毎日を一年九ヶ月間、一日も欠かさず記録した日記は「伊能忠敬日記」とともに第一級の歴史史料である。特に毎日の天候の記述は気象史にとってかけがいのない史料となる。慶応三年・四年の幕末時期に、朝廷、幕府、新政府の抗争、歴史上の出来事が、白河や棚倉、須賀川、長沼、勢至堂,福良、会津、郡山、本宮、二本松、福島、いわきなどの地でどのように反映し、影響したのかを「慶応日記」と歴史年表を重ね合わせて辿るとき、歴史の渦中に置かれた人々の運命、そしてそのなかに生き抜きようとする知恵と強さが窺える。
 戊辰戦争の戦禍により慶応四年八月一日須賀川が焼かれているとの記述は歴史の史料として新たな発見である。
また、新選組の土方歳三や斉藤一(山口二郎)、「からす組」を結成しゲリラ戦を展開し西軍を恐怖の渦に巻き込んだ仙台藩士の細谷十太夫、鎮撫府下参謀・長州藩士世良修蔵、総督府参謀・土佐藩士板垣退助、薩摩藩士・総督府参謀伊地知正治、会津藩家老西郷頼母、萱野権兵衛、横山主税、天狗党と対決した書生派の水戸藩家老市川三左衛門などの動向がつぶさに記載されている。

写真 荒井冶良右衛門の慶応日記(荒井忠秋氏提供)
 
 白河藩御用達荒井冶良右衛門
嘉永六年(一八五三)六月三日ペリーの四隻の巨大な黒船は最新の軍備を載せ、浦賀沖に到着した。艦隊の到来は二百五十年の泰平の眠りの中にあった江戸の町を騒然とさせた。この様な歴史の歯車が大きく廻りだした時代に冶良右衛門は白河中町の御用商人新井家の七代目の当主になったのである。冶良右衛門は会津領・福良(現郡山市湖南町福良)の脇本陣・武藤儀右衛門の次男として生まれた。荒井冶良右衛門の実弟に石井重右衛門(高可、福良中地名主権断)がおり、実姉は白河中町庄屋・大越家に嫁いでいる。荒井家の当主は冶良右衛門を名乗り白河藩から政事方、御年貢方、庄屋、苗字帯刀御免、郷士、大庄屋格、代官次席などの役職を命じられた。荒井家は江戸中期から白河藩御用達の豪商中町庄屋であった。蝋燭、油問屋で屋号を「山城屋」と称した。
筆者の四代前の先祖松宮雄次郎(観音寺久左衛門)は越後弥彦山麓の観音寺に居を構え与板藩の大庄屋であった。松宮は鎌倉幕府源頼朝の家来である。その後、近江松宮になり、関が原で石田三成に見方し敗れ越後弥彦村観音寺に落延びた。以来三百年弥彦村弥彦山麓の観音寺の三千坪の敷地に屋敷を構え筆者で十五代になる。松宮家は苗字帯刀を許され長岡藩とも密接なつながりを持ち出雲崎と佐渡の廻船問屋、油問屋、代官所の目明し頭を務め長野の善光寺から上州、越後一帯を配下とし多くの旅人の出入りがあった。白河藩御用達荒井冶良右衛門と同じ立場であった。松宮雄次郎は越後一帯の御用を務めていたが、蘭学者の高野長英を逃がしている。高野長英は安政の大獄で井伊直弼に逮捕された江戸大伝馬町の牢屋敷に繋がれた。長英は伝馬町牢屋敷に火をつけ「おとき放し」になった。三日後に牢屋敷に戻るよう申し渡されたが、伝馬町の牢屋敷には戻らなかった。長英は仲間や弟子に助けられ群馬と越後の国境大清水峠を越え直江津に辿りついた。しかし、ここも安住の地ではなかった。直江津の大庄屋福永七兵衛は松宮雄次郎と図り高野長英を助け越後路を逃がした。吹雪の柿崎、柏崎、出雲崎の海上十六里を逃がれて行く。吉村昭の長編歴史小説[長英逃亡」の下りである。弥彦村観音寺の松宮宅は北越戦争の参謀本部となり長岡藩の家老河井継之介と盟約を結び自ら「聚義隊」を結成し越後戦線・会津戦線で戦っている。明治二年許され高田藩預かりとなり故郷弥彦に戻るが明治政府への再三の要請には応ぜず固辞した。荒井忠秋氏の会話の中で戊辰戦争は結果として西軍の勝利に終わるが決して東軍は朝敵ではなかったとの見解で一致した。インターネット上に松宮雄次郎(観音寺久左衛門)の掲載が多く見られる。写真 屋敷内にある松宮久左衛門の墓
幕末期の名主の役割
本陣とは大名、小名、幕府役人、朝廷の使いが泊まる宿で、脇本陣は本陣の代わりを務める家柄にある。本陣としていくつか上げると、奥州街道では白河では戊辰戦争白河口の戦いで薩摩藩の野戦病院になった芳賀源左衛門宅、明治になり白河病院となり移転し須賀川公立病院になった。須賀川では、伊能忠敬の宿としての本町本陣三沢源左衛門宅は現在NTTの敷地、軒の栗一帯が三沢本陣であった。郡山では戊辰戦争で郡山の町を守るために自警団を組織したうすい通り・芭蕉通りの本陣今泉久三郎宅、本宮では伊能忠敬の宿塩屋三四郎宅、明治天皇の行幸御座所鴫原家、福島では本町のみずほ銀行福島支店の本陣黒澤六兵衛宅などが知られている。会津街道では伊能測量隊の宿泊所白河市大信上小屋の内山茂市宅、須賀川市長沼の矢部唯右衛門宅、須賀川市勢至堂の柏木隼人宅(吉田松陰も泊まる)、郡山市三代の二瓶源左衛門宅、会津若松市原坂内市郎右衛門、会津若松の菊池伝十郎宅、米沢街道の塩川の栗村平八宅、大塩の穴沢源吉宅などが知られている。
本陣は宿駅にあったが多くの本陣は現在残念ながら残っておらず、会津若松市一箕町の国の重要文化財・横山家滝沢本陣の家構えから本陣の様子を伺い知ることが出来る。
戊辰戦争で本陣や庄屋はどのような役割をはたしたのであろうか。新井冶良右衛門「慶応日記」の記述のなかで慶応三年十月十四日に第十五代将軍徳川慶喜は朝廷に大政奉還を奏上、即日勅許となる。同十月二十四日には征夷代将軍の辞退を願い出た。徳川慶喜の大政奉還を白河で知るのは十四日後である。これらの政変に関して幕府は全国一万石以上の諸侯に上京を命じ、東北の諸般も続々と白河を通過した。棚倉阿部藩は平田、安部、梅村の重職が京都に向かっている。「慶応日記」十月二十八日の記載には天候は天気(晴れ)「諸大名京都江被為召候ニ付 追々上京棚倉様子御聞候処 御家老平田二十五日早追登り阿部勘由様二十八日上り 御用人梅村大人数操出之趣 将軍御辞退被遊候義二付き大御用之趣相聞申候」と記している。大政奉還からわずか十四日後に白河の御用商人荒井冶良右衛門は「大政奉還」「将軍辞退」について把握し記載していることは驚きであり、情報の収集の早さに驚かされる。早追いとは急使を駕籠に乗せて昼夜兼行で伝達すること。早打ちとも云う江戸時代どのような伝達方法で京都から大政奉還の情報が白河の地に伝えられたのだろうか。                            
    写 真 白河中町の町割(荒井冶良右衛門宅がある。)    
幕府の伝馬役馬込平八
江戸大伝馬町の伝馬役・馬込平八屋敷を探すために上京し大伝馬町に泊まった。大雨の中を屋敷跡の所在を探したが手掛かりがつかめない。伝馬町の路上で傘をさした四人連れの婦人に出会った。馬込平八屋敷を訪ねると「伝馬町についてはこの先のお寺のご住職が詳しいのでお尋ねください。江戸伝馬町牢屋敷跡に建つ大安楽寺のご住職です。お寺ではなく、隣にある自宅の呼び鈴を押し訪ねた方が良いですよ。」と親切に教えてくださった。このたび大伝馬町に宿を取り両国の江戸博物館を訪ねた。足を棒にして馬込平八の屋敷跡を確認しょうとしたが解らなかった。そして、高野山真言宗準別格本山・住職「大安楽寺」の住職中山弘之氏の自宅を訪ねた。中山弘之住職は「江戸幕府は徳川家康の頃から、江戸伝馬町に馬込平八を住まわせ、奥州街道、東海道をはじめ五街道の伝馬役を命じた。家康は大阪城を落城させ、帰路に着いた。駿河浜松にいた平八が五百名の人足を引き連れ浜松橋まで家康を出迎えた。家康は喜び平八に「馬込」の家名を与えた。そして、徳川幕府の大伝馬役に任命し、江戸大伝馬町に屋敷を構え苗字帯刀を許し町名主の筆頭として年頭には将軍「お目見え」となった。平八は「勘解由」名を世襲し代々伝馬の役を仰せつかった。現在の国土交通省の業務である。運輸、郵政、国道保全、公用の旅行者のための人馬の立継、休泊、川越の準備などの課役である。明治四年に郵政の父と呼ばれる前島密により日本橋郵便局が開設されたが日本橋は伝馬町の隣町である。また、隣町が馬喰町で馬の売買が行われた。馬込平八の墓は赤羽の善徳寺にあり東京都の文化財になっています。」と話された。馬込平八宅跡について史料がないので調査して、お答え下さるとの事であった。  
  伊測量隊が江戸を出立時奉行所からは道中奉行、勘定奉行、5名が連盟しお触れが各藩に出された。伊能日記には、公文書のお触れ書(触書)は江戸より奥州街道、会津街道、米沢街道、羽州街道を経由して秋田の酒田まで二十日で伝達されたとの記録がある。京都より白河の荒井冶良衛門宅まで十四日で大政奉還の手紙が届いたのは異例の速さである。天下の一大事の事件を昼夜兼行で伝えた伝馬役人の早馬の蹄の音や早駕籠の掛け声等が伝わってくる。


 写真   赤羽善徳寺の馬込平八の墓(東京都文化財)


戊辰戦争の経緯
戊辰戦争(ぼしんせんそう)は慶応四年(明治元年一八六八)から 明治二年(一八六九)にかけて、王政復古で成立した明治新政府が江戸徳川幕府勢力を一掃した日本の内戦である。慶応四年(明治元年)の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれた。この戦争に勝利したことで「明治維新」が成功し、明治政府が名実ともに誕生した。薩摩藩、長州藩が中心に、薩長協力藩(佐賀藩、土佐藩等)の出身者が明治政府の主体となり、日本は近代的な中央集権国家への道を歩んでいった。戊辰戦争の概要は十五代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還をしたことから、朝廷側は王政復古の大号令を発し薩長が政権の指導を握ったことにより、徳川幕府と対立することから始まった。
戊辰戦争の戦闘の概況は 一、鳥羽伏見の戦いに始まり、二、西軍の江戸への進軍 三、甲州勝沼及び野州の戦い。四、江戸開城、五、船橋の戦い 六、宇都宮城の戦い 七、上野戦争と進み江戸より日本全土の西を制した。戦いの場は東北に広がり、八、東北戦争 (白河戦線、二本松戦線、会津戦争) 九、奥州列藩同盟 十、庄内戦争(庄内・秋田戦線) 十一、北越戦争越後戦線 十二、会津戦争白河戦線、平潟戦線 十三、函館戦争で終焉を迎えた。新政府下での薩長と幕府の主導権争いに起因する「鳥羽伏見の戦い」は慶応三年(千八百六十七)一〇月十四日幕末の混乱した政局の中、第十五代将軍徳川慶喜は朝廷に統治権を返上する大政奉還を行い、討幕運動の大義名分を失わせた。幕府は朝廷が行政能力をもっていないため、引き続き旧幕府が幕府の組織改革を行い徳川家の存続を計り十五代将軍徳川慶喜を大名の頂点に置き、諸般の大名を議員として議会を構成し政治を進めるという議員内閣制を考えた。そして新政府下の実質的な政権を担う計画であった。これに対し討幕派(薩摩藩・長州藩や岩倉具視らの一部公家)は、慶応三年十二月九日政治上の劣勢を挽回すべくクデータ-を計画し徳川慶喜や親徳川派の公家を排除したのが王政復古の大号令である。それは徳川幕府の存在意義をなくすことを目指した。十五代将軍徳川慶喜が朝廷に、大政奉還を上表したニュースをいち早く察知し白河の御用商人荒井冶良右衛門は「慶応日記」に記している。
写真  明治四年廃墟の江戸城(横山松三郎撮影・乾板)

鳥羽伏見の戦い①
幕府は王政復古については、幕府側と上級公家を廃して薩長派を中心とした新体制の確立をはかるものだと強く反発した。慶応三年十二月十二日徳川慶喜らは京都二条城を後にし、翌日大阪城に入った。さらに十二月二十三日江戸城二の丸が焼失、薩摩藩士の放火とされた。また、薩摩藩支藩の土佐原藩士が庄内藩屯所を砲撃した。そして、十二月二十四日朝廷の御前会議で徳川慶喜に対し内大臣の官位辞退と領地の一部返上(辞官納地)の要求を決定した。この頃、薩摩藩の西郷隆盛は藩士探索方・伊牟田尚平、益満休之介等に命じ江戸で騒乱を起こさせ江戸の町に火災を起こし江戸市中を混乱させた。十二月二十五日に旧幕府軍の江戸市中警護にあたっていた酒田の庄内藩は上山藩と共同で薩摩藩の拠点になっている三田の薩摩藩邸を焼き討ちに九十人の死亡を出した。これにより旧幕府側では薩摩打倒の機運が高まった。幕府側は薩摩の不法行為を許すことが出来ないと上奏表(討薩表)を携え、京都を軍事力により鎮定すべく兵を進めた。幕府側は幕府歩兵隊、会津藩兵、桑名藩兵などが大阪から進軍した。明けて慶応四年一月三日に 幕府軍と新政府軍の薩摩藩、長州藩の軍勢は鳥羽伏見で激突し戊辰戦争が開始された。京都南郊外の鳥羽、伏見で激戦が展開された。開戦時の兵力では幕府軍が上回っており、新政府軍では天皇を連れて京都から撤退することも検討していた。新政府軍は戦闘中に官軍の証である錦の御旗を掲げたため旧幕府軍の戦意が低下した。戦意の低下により新政府軍の圧勝に終わった。この時点での総戦力では未だに幕府軍が圧倒的に上回っており、巻き返すのも時間の問題と思われたが、一月六日慶喜は軍を捨てて大阪城を脱出、海路オランダ製の開陽丸で江戸へ戻った。このとき慶喜は、松平容保(会津藩主)と松平定敬(桑名藩主)の兄弟および幕臣達を同道させた。最高指揮官であり当事者であるはずの徳川慶喜が前線を離れたことにより幕府軍は自壊し、抗戦をやめて各藩は兵を引き自藩に帰った。一月七日には朝廷は仙台藩に会津藩追討令を出した。慶喜等は、一月十二日江戸に戻った。幕府陣営は王政復古の大号令に強く反発し、徳川慶喜に対する辞官納地の決議には薩摩藩の画策であると反発が強まっていった。三田の薩摩邸の焼き討ちを契機に、幕府では薩摩打倒の機運が高まった。
写真  焼き討ちされた三田高輪の薩摩藩邸(幕末 ぺトア撮影・乾板)
鳥羽伏見の戦い②
幕府側は「薩摩の不法行為を誅する。」とした上奏表(討薩表)を携え、京都を兵力で抑えるべく、 幕府歩兵隊、会津藩兵、桑名藩兵などが大阪から進軍し、薩摩藩・長州藩の軍勢と慶応四年一月三日(一八六八・旧暦一月二十七日)、京都南郊外の鳥羽伏見で衝突した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。兵力として藩士からなる正規兵だけでなく、町民や農民や他国藩士などによって結成された混成部隊が戦力とされ活躍した。長州藩奇兵隊を結成した高杉晋作は「太平の世で堕落した武士より戦力になる。」と考えていた。戊辰戦争においては、新政府軍・旧幕府軍双方による焼き討ちや物資の現地接収、捕虜の私刑、味方への制裁、また略奪、暴行、放火、強姦や殺戮のような戦争犯罪が多く発生したことの記録も多い。新政府軍は主にイギリスから、旧幕府軍は主にフランスから、軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。しかし両陣営とも外国の軍隊の派兵を要請することはなかったため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。会津藩・庄内藩の処分問題に起因する「東北戦争(北越戦争と会津戦争を含む)」の段階、旧幕府勢力の最後の抵抗となった「函館戦争」の段階 の三段階に大きく区分される。この三段階に区別された戦争のうち最大の戦争であるのが、「東北戦争」である。新政府下での薩長と幕府の主導権争いに起因する「鳥羽伏見の戦い」の段階 会津藩・庄内藩の処分問題に起因する「東北戦争(北越戦争と会津戦争を含む)」の段階 旧幕府勢力の最後の抵抗となった「函館戦争」の段階で戊辰戦争は終結する。 戊辰戦争は戦争終結までほぼ一貫して新政府軍の優勢のうちに戦いが進められた。「近代化を進めた政府軍に対して、遅れた幕府側の軍隊が対抗できなかったために敗れた」というのは誤りで、実際は幕府軍も早くから軍隊の洋式化に取り組んでおり、新政府軍に対して劣っていなかった。特に海軍は旧幕府軍のみが持っていた強力な戦力であった。開戦時での兵力や兵器は幕府軍が圧倒的に優勢であったが、小銃での戦闘に習熟した政府軍に対応できず大敗した。それでも旧幕府軍の兵力は上回っており洋化部隊も温存されていたのだが、徳川慶喜が将兵を置き去りにしたまま脱出したこともあり士気が低下し自壊した。以降、徳川慶喜が降伏恭順に徹したため、反抗を続ける幕府勢力は糾合の核を欠き、戦力の結集が行えなかった。
写真 明治維新を待たずに散った長州藩士高杉晋作(慶応二年 上野彦馬撮影・乾板)


母方は福島姓、上杉藩上杉景勝公の大小姓、直江兼続の妹「きた」・梁川城代須田長義の係累 上杉藩の大砲方を勤める。
四代前の上杉藩大小姓の福島久太郎は戊辰戦争の戦後処理めた、明治元年戊辰10月3日に藩主上杉茂憲公の御登の御供で東京へ謝罪に付き上京す。福島家の墓地は米沢林泉寺あります。

「松宮輝明」検索で母方の記事があります。
【2011/01/21 14:36】 NAME[松宮輝明] WEBLINK[] EDIT[]
松宮雄次郎の子孫です。
戊辰戦争の激戦地を行く(9)
      あさかの学園大学講師・伊能忠敬研究会員   松宮 輝明
ペリー提督の国書と安積艮斎①
戊辰戦争の「東北戦争」は奥羽越列藩同盟に参加した藩の多くが、藩政改革の遅れや財政難から軍備が立ち後れており、新政府軍とは兵力で劣勢であった。同盟に合流した旧幕府軍の精鋭部隊も弾薬が欠乏すると、旧式の小銃を使用せざるをえない状況に追い込まれた。
戊辰戦争は徳川幕府を消滅させ明治新政府を誕生させたが、歴史の歯車を大きく回転させ徳川幕府を衰退滅亡させる基になったのは明治維新から十五年前の出来事である。それはペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀へ来航したことに始まる。嘉永六年(一八五三)四月十九日アメリカ東インド艦隊が琉球王朝の那覇港に到着した。五月八日には東インド艦隊は小笠原諸島に到着し、五月十七日に小笠原を出港覇港に戻った。五月二十六日東インド艦隊は那覇港を出港し六月三日浦賀沖に到着する。浦賀奉行与力中島三郎助と通詞堀達之助がペリーと交渉に当たり、長崎に向かうように要請したがペリー提督は幕府の命を断固拒否した。ペリー艦隊は「夜の時報」と称し大砲を撃ち出した。沿岸に警備のため集結していた各藩士や黒船見物の人々は大砲の撃ち出す音に騒然となった。たちまちペリー艦隊の威嚇行為は江戸市中に伝わり「黒船来航」により災いを避け逃げ出すものも続出各藩は戦に備え国許に早馬を走らせた。
 次の日六月四日信州松代藩軍学者佐久間象山は、ペリー艦隊を視察するため浦賀へ行き、黒船を見聞し長州藩儒学者吉田松陰らと会談した。幕府は六月九日浦賀奉行戸田氏栄、井戸弘道に命じ久里浜でペリー提督と会見させた。提督は来航の目的を伝えアメリカの国書を渡した。艦隊四隻は黒い煙を立て時折大砲を轟かせ江戸湾を悠然と周回し威容を見せ付けた。ペリー提督が日本国王に持参したアメリカ大統領フェルモアの国書を日本語に翻訳したのが郡山安積国造神社の安積艮斎である。此の時艮斎六三歳、幕府は艮斎他五名の「異国書新翰和解御用係」を任命し、六月十五日にはアメリカ大統領の国書はオランダ語・漢語・日本語の三カ国語に翻訳された。二本松藩主丹羽長富は藩儒学者である艮斎に秘かに外交意見の代作を要請した。ちなみに郡山は二本松藩の領地である。
写真    浦賀に来航したペリー提督
ペリー提督の国書と安積艮斎②
嘉永六年(一八五三)六月十二日東ペリー提督の東インド艦隊は那覇へ向けて江戸湾を離れる。安積艮斎は嘉永六年(一八五三)七月十八日にロシアのプチャーチンが持参したロシアの国書も翻訳している。そして幕府の求めに応じ外交意見を提出した。十月にはロシアへの回答の原案を艮斎が作成し、林大学頭が起案した。この時期艮斎は幕府学問所昌平坂学問所(東京大学の前身)教授で門人に吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、幕府勘定奉行の小栗上野介などの歴史上の人物が多く集まっていた。「安積艮斎門人帖」には商工会議所の創立者であり東京日日新聞の創立者福地源一郎、福島県令になり安積開拓を遂行した安場保和らがおり、艮斎門人帖三千余名は郡山の安積国造神社の宮司安藤家に保存されている。嘉永五年五月艮齋は十二代将軍徳川家慶に政治状勢を進講している。嘉永七年三月には一橋慶喜に進講し、外交文書翻訳についての功績により賞を賜わった。長男文九郎も将軍に拝謁し[山吹の間御目見]となり幕府の官儒者として高い地位にあった。艮斎の師は幕府儒官佐藤一斎である。安積艮斎は蛮社の獄で逮捕された蘭学者高野長英や、逮捕され自刃した渡邊崋山、安政の大獄で処刑された頼三樹三郎や、幕府の外交官で井伊直弼を批判し罷免された川路聖獏等との交遊が深かった。艮斎は寛政三年(一八九一)郡山の安積国造神社の三男として生まれた。幼児より利発な子供で郡山に来る行商人の持ち物(柳行李)をみてどこの国の商人であるかを言い当てたと云われている。十六才で今泉家の婿となった。しかし、一年足らずで離縁された。郡山の今泉家は「今泉三家」と呼ばれる家柄である。今泉本家(名主・本陣地紙屋は戊辰戦争で自衛団を組織した。)、上の今泉家(荒池の名主・晩年の小林久敬の庵跡)、下の今泉家がある。下の今泉家の子孫今泉学園・今泉女子専門学校の今泉玲子校長は「艮斎先生の母親は今泉家から安藤家に嫁ぎました。艮斎先生は幼少より聡明な方でしたが不器量で今泉家から離婚されたのです。」と答えられた。筆者はその意見に異論がある。不器量で男は離婚されない。一七歳の艮斎は学問の志やみがたく今泉家から身を引き、三月単身江戸に向かった。艮斎はあわせ二枚、煮豆二升ほどをやぶれた風呂敷に包み、四書五経の抜粋本一冊を懐に入れ、たった一人奥州街道を南へと歩いていった。旅すがら煮た豆をかじりながら江戸を目指した。江戸には林大学頭の学塾取締江戸一番の儒学者佐藤一斎がいた。一斎の門をたたき入門を許されたのである。
写真 渡邊崋山の弟子、椿椿山が描いた安積艮斎肖像画
江川太郎左衛門とお台場
嘉永六年七月一日老中阿部正弘がペリー持参の国書を示しアメリカの要求について諸大名、幕臣らに意見を求めた。七月三日高家以下布位以上の有司の意見を聞いた。そして、幕府は前水戸藩主徳川斉昭(烈公・徳川慶喜の父)を海防参与に任命した。幕府は国論を統一し日本を外国の侵略よりいかに守るかに苦心する毎日であった。
 七月十八日プチャーチン率いるロシア極東艦隊が長崎に来航する。
 八月六日幕府は砲術家高島秋帆の禁固を解いて、韮山代官江川太郎左衛門英龍の配下に置いた。江川家は名家で多くの人材を排出している。太郎左衛門の父英豪は伊能忠敬の地理学天文学の弟子で親交が深く、伊能測量で伊豆韮山の江川代官所に滞在している。また、英豪は伊能忠敬に依頼し幕府天文方より亜欧堂田善の「新訂万国全図」を譲りうけている。太郎左衛門は湯島の鉄砲鋳造場、及び韮山の鋳造場で大砲の製作にあたった。そして、十二月太郎左衛門は、韮山に本格的な製鉄製造のための反射炉を建造し大砲、軍艦を造るべく軍備面の強化を図り奔走する毎日であった。
 また、幕府は八月十五日、大砲五十門の鋳造を佐賀藩に命じた。
 八月二四日幕府は、太郎左衛門の指揮のもと、江戸湾品川沖に外国船の浸入を防ぐため十一基の「お台場」の築造を始めた。
十一月二七日安政に改元し、激動の時代が始まる。十二月品川沖お台場五、六番が完成。しかし四番、七番は未完成のまま、八から十一番は着工せず、資金不足で計画は中止となった。品川沖のお台場は六基まで完成した。現在第四お台場は品川区二丁目に埋もれ、第一と第五お台場は品川埠頭に入り、第六お台場は海中に孤立し第三お台場は公園として入ることが出来る。安政二年(一八五五)一月十六日心半ばにして江川太郎左衛門は死去した。
江川太郎左衛門は歴史上の人物で昌平坂学問所教授安積艮斎や蘭学者渡邊崋山、高野長英、外国奉行川路聖謨、絵師の谷文晁等と交友のあった幕末の英傑である。優れた政治家は一方のみの意見に偏ることなく広く意見を聞き将来を見据えて政治判断をすることの出来る人物であったと思う。嘉永六年八月二九日薩摩藩主島津斉彬は幕府に軍艦建造、武器・兵書の購入を要求したが、幕府は、武器・兵書の購入は認めず薩摩藩に建艦のみを許可した。そして九月十五日幕府は大船建造禁令を解除した。このことにより大藩は大型船の建造を始めた。写真 品川沖より第三お台場を望む(後方がレインボウーブリッジ)
水戸藩の高炉と三春藩士熊田嘉門①
 嘉永六年九月二三日NHK大河ドラマ「篤姫」の第十三代将軍徳川家定が本丸に入り、十月二三日に朝廷より徳川家定に将軍宣下があった。
十月二十日徳川斉昭はロシアとの和親不可を建議。一方一関藩の漢学者でお台場を造った江川太郎左衛門の門人大槻磐渓は、幕府に親露を献策する。後に盤渓は戊辰戦争で奥州越列藩同盟の文章を起案し東軍に戦いを挑むことになる。十一月十二日幕府は水戸藩に大船建造を命じる。江戸幕府の海防参与であった水戸藩九代藩主徳川斉昭は,武装強化による国防の必要性を強調していた。このような状況の中、幕府から資金援助を受け那珂湊の吾妻台に鋼製の大砲を造るため反射炉二基を築造した。反射炉はオランダの技術を用いたもので、建造には南部藩の鉱山学者大島高任、薩摩藩の竹下清右衛門、三春藩の熊田嘉門を技術者として招聘してた。そして、安政三年(一八五六)三月四日鉱山学者大島高任らは反射炉で銑鉄溶解実験に成功した。この溶鉱炉は巨大なもので那珂湊高等学校の隣の小高い丘の上に復元されている。この高炉造りに三春藩士熊田嘉門が関わっていることがわかった。水戸藩が那珂湊に高炉を作り製鉄を始めたことは大学時代に水戸学講座の中で斉昭公の業績のひとつとして知っていが三春藩の熊田嘉門(淑軒)が製鉄に従事したことを知り一層興味を持った。熊田嘉門について明治三七年発刊の田村郡郷土史によると嘉門は都路村岩井沢の人渡邊興市の六男として生まれた。そして熊田家の養子になった。熊田氏は代々三春藩秋田侯の藩医師であった。嘉門は南部藩の某氏について医術を学び嘉永年間江戸に遊び、諸大名の門に出入りしていた。以下原文の史料をもとに書きのべると「医業を研究すること数年嘉永六年米国の水師提督彼理(ペリー)浦賀港に来たりて互市を請うに会す。物情騒然幕府は衆に諸侯伯を召集し警備すこぶる巌なり。衆皆曰く浦賀談判の一挙は和戦の諸侯伯は皆使臣を浦賀に這わし、その状を探知せんとす。秋田侯もまた、使臣を派せんとす。偶々江戸在番の諸士中当器の人に乏し。即ち医師吉井某及び淑軒(嘉門)を遣わしその任にあたしむ。以来二人の医業を停止し、各事務に就かしむ。更に淑軒をよんで求給人格に進む。これにおいて藩の兵学師範今泉可八に従いて兵学を修む。また、巨砲鋳造法を研究す。安政三年水戸烈公反射炉を築き領内寺院の梵鐘を徴して大いに巨砲を鋳造するに際してその招きに応じ水戸に到り砲銃鋳造掛を嘱託せらる。居ること五年にして帰る。」と記している。写真 水戸藩の大砲鋳造施設那珂湊反射炉(復元・茨城県指定史跡)
水戸藩高炉と三春藩士熊田嘉門②
茨城県の那珂湊の高台にある溶鉱炉は地下からの高さが二一メートル、地上一五メートルの巨大な西洋式高炉である。反射炉脇に登り窯があり、耐火煉瓦を焼いた。反射炉には耐火煉瓦約四万枚が使われている。耐火煉瓦の原料は栃木県馬頭町の粘土を用いた。大砲の形成には砂型鋳造の技法が用いられている。現鉄は岩手県釜石産の南部鉄と鳥取県の雲集鉄が使われた。二十八門以上の砲身の長い大砲(カノン砲)が鋳造された。柳沢の水車場で加工され品川沖のお台場へも献上された。ここで造られた大砲は長州の萩や伊豆韮山の反射炉で造られた砲より性能的にすぐれていたと言われている。砲弾は直径十二,七センチ、装填火薬三百四グラム、飛距離一二三三メートルとの記録のこされている。
水戸藩那珂湊に西洋式高炉を造った三春藩士熊田嘉門について明治三七年発刊の田村郡郷土史は「水戸公その労籍し銀百枚及び日本史一部を賜る。後会津藩に招かれ鉄鉱溶解の事を託され一年にして帰り、更に相馬藩に招かれ鋳造の事を託され事竣て帰る。会津相馬二藩より各金若干を賜りてその労を謝す。慶応二年三春藩学校句讀師に補せられ師弟教育に従事す。慶応四年京師騒然に際し山地立固と謀りその状を察せとことを藩老に説き相携え京師に至り岩倉公(岩倉具視)に拝謁して三春藩情を具陳す。官軍大挙東下するに際し百方周旋藩主をして早く帰順せしむ事平定するにおよんで藩白鞘刀一口を賜うてその功を賞し、更に文学教授に似んぜられ、明治四年七月廃藩置県に際し藩校もまた廃止、諸生等方嚮に迷うを慨し有志謀り養才義塾を設立し子弟教育の任務を持続す。明治六年三春小学校を置くに及んでその教師に聘せられ、尋て磐前県第二中学校を三春に置くに及んでその教師に聘せれれ中学校廃止するに及んで家塾を設け子弟を教育すること前後十有余年にして明治二十年一月歿す。時に七一歳天澤寺先瑩の域に葬る。」と記している。
三春藩は戊辰戦争は十一歳の幼君映季侯を擁し、伯父秋田主税が後見人を務め、いち早く奥州越列藩同盟を脱退し西軍に組した。そして二本松藩を攻めることになる。
三春藩に熊田嘉門のような広い見識をもった藩士がいたので、二分する藩意をまとめ朝廷に恭順の意を示し、三春の町を戦禍より救ったのであろう。
写真水戸九代藩主水戸斉昭公(烈公)尊皇攘夷派のリーダで激しい性格から烈公と呼ばれた。

吉田松陰先生終焉の地  
 嘉永7年(一八五四)一月十六日前年の予告通り、ペリー率いる7隻の艦隊が来航し、江戸湾小柴沖に停泊した。三月三日幕府の井伊直弼は日米和親条約調印(神奈川条約)に調印した。三月二八日吉田松陰と金子重之助は伊豆、下田沖に停泊していたペルー提督のアメリカをめざして小船を乗り出した。しかし軍艦の乗組員は二人の若者の話しを取り合わなかった。松陰と重之助は自首した。四月五日吉田松陰は「下田踏海事件」に連座して、松代藩士で松陰の師佐久間象山も逮捕される。松陰、重之介は長州に護送された。九月十八日幕府、吉田松陰、佐久間象山を蟄居処分とした。十二月十五日長州藩は吉田松陰を出獄させ、蟄居とする。九月長州藩、吉田松陰に私塾主催を許可した。身分に関係なく約八十人が塾生とさせた。松下村塾の門弟には伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等明治維新の大業に功績のあった著名の士を多く輩出している。安政五年四月将軍家定が井伊直弼を大老に任命した。井伊大老は越前藩主松平慶永を隠居の上謹慎、徳川斉昭を謹慎、水戸藩主徳川慶篤、一橋慶喜を登城停止処分にした。そして宮家公家の家臣三十余名と水戸藩家臣が逮捕され安政の大獄が始まった。四月吉田松陰は江戸に護送され取調べを受け伝馬町の牢屋敷に繫がれた。十月七日吉田松陰(三十歳)、頼三樹三郎(三五歳)橋本左内(二六歳)が伝馬町牢屋敷で処刑される。安政七年三月三日桜田門外において大老井伊直弼が暗殺された。大伝馬町の屋敷跡にある大安楽寺の高野山真言宗準別別格本山中山弘之住職を訪ねると「松陰先生、橋本左内、頼三樹三郎がここで処刑されました。処刑執行人は山田浅左衛エ門(首切り浅左衛エ門)でした。江戸時代伝馬町牢座敷に収監された罪人は数十万人で多くの侍が処刑されました。町民や農民は鈴が森や小塚原の刑場で処刑された。明治八年牢屋敷は市谷囚獄署(防衛省跡)に移転するまで約二七〇年間伝馬町牢屋敷が存在しました。敷地は二六一八坪ありました。移転後伝馬町牢屋敷跡には人は住まず、夜になると人魂が出没します。二人の若者が怨霊を鎮めるための議論をしていたのを高貴な方がじっと聞いていて、高貴な方はここにお寺を建てて供養するのがよいと話された。そして二人の若者によって高野山別山の「大安楽寺」が建てられた。筆者の問いに住職は高貴な方は山階宮で二人の若者は帝国ホテル、帝国劇場などを設立した大倉喜八郎と東京大学の安田講堂を造った安田財閥の安田善次郎です、と話された。

写真 伝馬町牢屋敷跡に建つ大安楽寺「揮毫は山岡鉄舟筆により為囚死郡霊離苦得脱(いしゅうしぐんれいりくとくだつ」と記されている。

【2011/01/21 14:45】 NAME[松宮輝明] WEBLINK[] EDIT[]
無題
余話・戊辰戦争の激戦地を行く

伊能忠敬研究会員 日本大学工学部非常勤講師 松宮 輝明

新撰組三番隊長斉藤一の戦い①

平成二十年七月二十三日より阿武隈サロンに「戊辰戦争の激戦地を行く」また、十二月一日より「続・戊辰戦争の激戦地を行く」八十八話を執筆させていただいた。昨年は明治維新百四十年目にあたり勝者となった新政府軍(西軍)も敗者となった同盟軍(東軍)も歴史の事実を歳月が流れ冷静に考えることが出来かとも思われる時代になったと思う。

 日本史上最大の内戦となった戊辰戦争は多くの教訓を残し現在の国家観、政治体制にも大きな影響を与え、第二次大戦を経て民主主義の時代に生きる私達にとっても明治維新の国家造りの理念は百四十年後の現代にも日本人の民族意識に受け継がれ影響を与えている。戊辰戦争については多くの史料をもとに、また、激戦地となった現地を訪ね史実に忠実に書き上げたつもりである。

 多くの読者の方々より読後の感想やご意見を戴きました。また、新に発見された史料が寄せられ「戊辰戦争余話」として再度執筆させていただくことにしました。

 史料として白河藩御用御用達・「荒井冶良右衛門慶応日記」大山柏著「戊辰戦争史」平石辯蔵著「会津戊辰戦争」各市町村の市町村史・各藩史「米沢市史編纂史料・戊辰戦争史」「与板藩史」「出雲崎編年史」「米沢藩史」「沢辺琢磨の生涯」など多くの史料を基に検証した。

 特に、白河市中町の自宅に百三十四年間眠っていた荒井忠秋氏が所蔵する日記は戊辰戦争の記録として貴重な日記である。荒井忠秋氏のご先祖は白河藩御内御用達の「山城屋」の当主の荒井冶良右衛門である。幕末の慶応三年元旦より慶応四年十二月十五日まで毎日書かれた「荒井冶良右衛門慶応日記」である。そして白河藩探索方の役にあり藩に報告された「機密探索書」は克明で貴重な記録である。

 また、新選組の副局長土方歳三や新撰組三番隊長斉藤一(山口二郎)、新撰組伍長島田魁、新撰組隊士菊池央、「からす組」を結成しゲリラ戦を展開し西軍を恐怖の渦に巻き込んだ仙台藩士の細谷十太夫、奥州鎮撫府下参謀・長州藩士世良修蔵、総督府参謀・土佐藩士板垣退助、薩摩藩士・総督府参謀伊地知正治、会津藩家老西郷頼母、家老萱野権兵衛、会津藩副総督横山主税、水戸藩天狗党と対決した書生派の水戸藩家老市川三左衛門などの動向についてつぶさに記載されている。此のたび新撰組伍長島田魁の日記を取り上げてみた。白河口の戦いでは新撰組副局長土方歳三が負傷し代わり新撰組の隊長として指揮を取った三番隊長斉藤一(山口二郎)について「島田魁の日記」「土方歳三北征日記」をもとに戊辰戦争の戦いの様子を検証してみた。また、土方歳三の会津戦争での活躍についても取り上げた。





新撰組三番隊隊長斉藤一の戦い②



新撰組生き残り隊士の記録はいくつか残っている。明治になり晩年を迎え口実筆記によるものが大部分であるので複数の日記を検証する必要がある。

NHK大河ドラマ「新撰組」でオダキリジョウが演じた斉藤一(山口二郎の別名あり)を取上げて見た。「島田魁日記」に登場する。

島田 魁(しまだ かい)は文政十一年一月十五日(一八二八年二月二十九日)生まれ - 明治三十三年(千九百年)三月二十日没)は、新選組二番隊伍長、諸士調役兼監察。守衛新選組隊長として活躍した。嶋田ともいう。後に魁の訓を「さきがけ」と改めた。文政十一年 美濃国雄総村(現在の岐阜県岐阜市長良雄総)庄屋近藤伊右衛門の次男として生まれた。幼いころ、羽栗郡石田村(現在の岐阜県各務原市)永縄半左衛門の養子となり(養母となる半左衛門の妻と実母とは姉妹にあたる)、半左衛門死後は厚見郡日野村(現岐阜市日野)にいる母方の祖父、川島嘉右衛門に預けられる。そのころか、剣術修行に目覚め、尾張名古屋城内の御前試合で優勝し、大垣藩の嶋田才に見初められ養子となり島田家を継ぐ。江戸に出て心形刀流・坪内主馬道場で修行する。新選組入隊についてははっきりしない。が創設期早々募集に応じ入隊したのではが通説である。

新撰組二番隊長で隊の剣術師範を勤めた屈指の剣士永倉新八と島田魁が京都でいつ再会したかは不明だが、文久三年(一八六三)五月には新選組に入隊していたと思われる。そして、諸士調役兼監察の任に就く。島田魁は百八十センチ近くもある巨漢で怪力の持ち主であったという。また副長の土方の徹底した隊規の取締りによる隊士の粛清など所謂、裏の土方の「汚れ役」も担っている。元治元年(一八六四)六月には諸士調役兼監察の能力を存分に発揮し池田屋事件の発端となる古高俊太郎捕縛に貢献している。その後の組織再編で伍長も兼任する。慶応三年(一八六七)十一月の油小路事件では、服部武雄と戦っている。同年十二月十八日、御陵衛士(高台寺党)残党による近藤勇襲撃では近藤の護衛として同行していた。馬上で狙撃された近藤の馬を走らせ命を救ったのは島田魁である。

慶応四年(一八六八)一月三日 鳥羽・伏見の戦いでは、永倉新八らと決死隊を組織し敵陣に斬り込んだ。しかし、敵の銃撃が激しく撤退。その際に、重装備の永倉が土塀を乗り越えられないのを見ると自分の持っていた銃を差し出し、永倉に「これを掴め」と指示して島田は持ち前の怪力で永倉を土塀の上へ軽々と引き上げた逸話がある。その後、明治二年の北海道箱館まで戊辰戦争を戦い抜いた。



新撰組三番隊長斉藤一の戦い③

「島田魁日記」によると「土方(歳三)当家に養生す。先に秋月(悌次郎)、土方(歳三)両公会津に引き上げるや兵隊尽くす大島某(幕府陸軍奉行大鳥圭介)江託し置く。然るに処兵隊大島某に服せず趣きも有り、前顕の決別土方公会津着。後当藩山川大内蔵と申すものをして総督に明治日光口に向はしむ。それより戦争数度相始まり互いに勝ち負け有り云。」とある。以後本文を書き下す。「土方歳三さんはココの家で療養していました。この家とは福良の脇本陣武藤儀右衛門宅ではないだろうか。新撰組隊士の逸話が伝承されている。

秋月悌次郎さんと会津に引き揚げることになったとき兵隊は幕府伝習隊長大島圭介さんに従わなかったりした者もいたそうです。しかしそう決めたので土方さんは会津に来ることが出来ました。後になって会津藩は山川大内蔵(大蔵後に浩)さんという人を総督にして、日光口に向かわせました。それから、戦争が何度かあり、敵味方とも勝ったり負けたりしたと云われています。

斉藤一(山口二郎)さんが新撰組の隊長になって僕たち百三十名を引率して白河の方に出張するように命じられましたので、閏四月五日、僕たちは会津様にお会い致しました。

新撰組三番隊組長斉藤一は天保十五年(一八四四)武蔵国江戸で生まれる。播磨の国明石松平家御家人の次男として生まれる。本名は、山口一。別名、山口二郎・一戸伝八(斗南藩に移封)・後に藤田五郎と名乗る。

安政五年(一八五八)に元服。この頃より、会津藩江戸屋敷にある道場で一刀流を学んだと言われる。一刀流としか伝わっては居ないが、会津藩なので、一刀流諸派の中でも、溝口一刀流ではないかと思われている。父が中間奉公時代に会津藩と懇意になったのがきっかけなのではないかと思う。十九才(一八六三)の時に誤って人を斬り殺してしまい、江戸にいられなくなっり京都へ逃げたとも言うが、詳しいことは分かっていない。京都では初め、太子流の吉田道場に身を寄せ、そこで師範代をしていたが、清川八郎らが帰郷する頃には、新撰組に入隊している。

新撰組創設者の一人として発足時より在籍し、三番隊長なそつねに幹部職を勤め活躍した。結成当時から重役に就いたり、伊東甲子太郎らについてスパイをしたりなど、色々な謎が多くある。

会津戦争の折りには新撰組の隊長として働き、如来堂で戦死していたと思われていた。会津藩士として斗南藩で謹慎生活をしたともいわれている。

三十歳の時に、松平定信の媒酌により会津藩士の子高木時尾と結婚し、子供は男の子を三人もうけている。その後、西南戦争で九州に行き西郷軍と対峙して活躍した。

西南戦争終結後は、新撰組の剣術師範の腕を活かし警視庁の警部や当時の庁内撃剣家氏名一覧に名を連ねている。東京教育博物館書記(守衛長) をへて、晩年は女子高等師範学校の庶務係兼会計係をしている。酒豪で享年七十二歳(大正四年)本郷の自宅で座したまま没した。墓所は福島県会津若松市七日町阿弥陀寺にある。



新撰組三番隊長斉藤一の戦い④

島田魁日記によると

「殿様はご自分でお金を出してくださいました。僕らは閏四月六日に出陣また、津に一泊しました。慶応四年閏四月七日三代村に宿を取りました。ここに十日ほど休暇を取りました。閏四月二十一日白河城に向かえました。この日白河城は落城しました。

閏四月二十二日城下に泊まりました。閏四月二十三日白坂関門が僕らの受け持ちと決まりました。此の時白河口は総督の会津藩の横山主税さんでした。

閏四月二十五日夜半白坂の住民から官軍が四百名くらい来ていると知らせがあり、すぐに番兵所からこの本営に伝えてきました。なので僕らは全員関所に行きました。程なく敵兵が関門の外からやってきました。互いに発砲して大戦争になりました。昼9ツ時頃敵兵は皆敗北しました。小銃や大刀小刀、その他いろいろなものを沢山分捕りました。そしてすぐに元のように僕たちはみんな関門へ集まりました。閏四月二十九日夕7ツ時仙台藩にこの関門を任せました。僕たちは本町の本陣になっている栁屋で休息しました。この日棚倉藩、二本松藩、仙台藩のおよそ二千名が白河表へ詰めました。

五月一日暁六ツ、黒川口の百姓たちから官兵が二千名も来ていると報告があり、すぐに戦争が始まりました。此の時敵軍は大勢で各街道から攻めて大砲や小銃を雨のように撃ち、味方はとうとう敗走して仙台口や会津口に逃げ、ぼくたちも勢至堂で一泊しました。この日総督の横山主税さんが戦死しました。

白河口の戦いについて平石辯蔵著「戊辰戦争史」では

慶応四年閏四月二十一日新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたが、会津による白河城占拠が江戸の総督府に報告され、新政府軍参謀伊地知正治は江戸からの指令で、そのまま白河へと前進した。四月二十五日払暁に新政府軍は白坂口へ奇襲をかけたが会津藩兵はこれを迎撃。激戦三時間新政府軍は長雨でぬかるんだ田地に足をとられ、行軍の疲労や土地勘の無さも重なり損害を出して奥州街道の芦野宿へ撤退した。この日の西軍戦死者は八十一名、内十三名の首級が白河城大手前にさらされた。会津藩兵は建札に「薩長ソノ他ノ賊徒、朝命ヲ矯メ襲イ来候二付キ、即チ神兵ヲ差シ向ケ天誅ヲ加エ梟首(首をされす)セシメ候也」と大書きし、白河城下広小路は黒山の人とだかりとなった。山口様、大手御門に敵兵の首が曝されています。戦争というものは恐ろしいございますな。」と白河本陣栁屋主人柳下源蔵が奥座敷に入ってきた。「首級は薩摩七、長州五、大垣一、計十三ということだ。なかっで死者の中には薩摩藩士・元新撰組の武川直枝という男は清河清といって拙者と同じ釜の飯を食った仲間よ。われわれもいつあのようになるかも知れない。清原は薩摩先兵として含まれていた。会津藩の意気は大いに上がった。

新撰組三番隊長斉藤一の戦い菊池史の死

新撰組隊長山口次郎は脇本陣柳屋の蔵座敷に綿のように疲れ果て眠っていた。身体を仰向け横たえ天井に目を向けると遠い記録を手繰り寄せた。慶応四年閏四月の黄昏時であった。

座敷が夕闇を包み込んだ頃山口ははっと起き上がり腹心の部下である中隊長安富才助を呼んだ。「今朝方、白坂口より攻めてくるなかに大柄の男がいたが

どこかで見たことがあったと思ったら、奴は清原、それ清原清ではないか。薩摩の段袋姿であったのですっかり変わってしまったが清原に違いない。」

「清原というの高台寺一派の」「奴は流山の近藤局長の面割りをしている。」ここで会うのは百年目、ただでは置かない。そうだ菊池をすぐにここに呼ぶようのだ。」新撰組は鳥羽伏見から敗走を続け、武州五兵新田で体制を整えたが下総流山で武装解除し局長近藤勇は大久保大和と名乗り投降した。かっての部下であった薩摩の武川直枝こと清河清に見破られ板橋で処刑されたのである。山口次郎は新撰組創設以来、当初斉藤一と名乗り助勤三番隊隊長を勤める幹部であった。隊に叛いた高台寺党の動静を探るため一時期高台寺党に加わった過去がある。決して忘れることが出来ない清原の容貌である。鳥羽伏見依頼激しい銃弾をと刀を潜み奥州白河で再開するとは夢にも思わなかった。清原は肥後熊本の産である。新撰組の同士であったものが途中から志を買え高台寺党から薩摩藩四番隊に転進し、今は武川直枝と名を変え、昼過ぎに偵察隊の一員として会津藩客兵である新撰組の目の前に姿を現したのだ。事態が把握出来れば行動はやいのが山口の取柄である。

呼びつけた菊池栄五郎に向かって云った。「栄五郎、貴様は明日からの戦いで薩摩の清原だけを狙い。大柄の年配の男だ。年は四十近いはずだ。狙い打ちすれば貴様の射撃の腕ならば一発だ。」「理由をお聞かせ願いたい。」若者は津軽弁訛でその様な事を聞いた。菊池は、二十二歳で、通称菊池央であり、射撃の名手である。同僚は栄五郎と呼んでいた。「近藤局長の仇を討つのだ。奴の証言により局長は命を失った。貴様なら一発だ。」と山口隊長は自分に言い含めるようにうなずいた。

閏四月二十五日は陽暦では六月十五日、此の日、日の出前に会津・純義隊・会議隊とともに新撰組は松並関門の先で闇夜の向こうに見えぬ敵を待ち構えていた。前夜白坂村の農夫から芦野宿まで新政府軍が進攻してきたとの内報があり会津勢は夜半から稲荷山防塁正面に戦陣を強いていた。

薩摩勢に一行は松並関門を目指し、田毎の稲架木に身を隠しながらあけやらぬ白河城下へと接近してきた。武川直枝こと清河清はその一名であった。肩には薩摩の七連発と恐れられた新式銃を掲げられていた。旧幕府軍は大部分がヘイゲル銃と称される旧式の先込め銃であった。海外の事情に明るい薩摩は七連発のスペンサー銃を手に入れていた。「おいあの「誠」とある旗は新撰組ではないか。」と四番隊小隊河野彦助が振りかえった。「新撰組であれば、武川おはんの古巣であろうここらで一旗挙げんか。偵察隊はじりじりと旗に向かえ前進を始めた。先頭の武川が敵陣の直下に辿り着き一発銃声が上がった。武川の胸に朝日が赤く染まった。これを合図に両軍の火蓋が切られた。薩摩の七連発は大いに火を噴いた。此の日の戦闘で午後八時過ぎ、新政府軍の敗北で終わった。約三時間の戦闘で死者は新政府軍十八名に対し、会津軍二十六名、負傷者十六名と死傷者は圧倒的に会津勢の方が大きかった新政府軍には人員の余裕は無かった。戊辰戦争激戦地の地となった白河には今、市内五十数ヵ所に戦死者の墓や慰霊碑がある。新撰組隊士菊池央(英五郎)の墓は白河市大工町皇徳寺の一隅にある。墓碑に曰く弘前菊池央五郎 戒名誠忠院義勇英剣居士一方薩摩藩四番隊士武川直枝こと清原清は小峰城内に鎮護神山・戊辰薩摩藩戦死者墓塔に合葬されている。墓銘曰く「戦兵・武川直枝 三十七歳」

 清清原は、天保2年に熊本藩で生まれました。本名は西村弥左衛門といいます。脱藩した際に、本名から改名したようです。慶応元年5月に新撰組に入隊して、その年の夏の編成で砲術師範に任命されました。入隊してすぐさま師範になる点からすると、砲術についての知識や技術に秀でていたのかもしれません。新撰組の平隊士です。慶応元年の江戸での隊士募集に応じて入隊し、砲術師範となりました。伊東甲子太郎とは同志でしたが、伊東らが御陵衛士となって新撰組を離隊する際には同行しませんでした。しかし、数ヵ月後には清原も新撰組を離隊して、御陵衛士に合流しました。そして、御陵衛士への入隊を期に、竹川直枝と改名しました。鳥羽伏見の戦いでは、薩摩軍に所属して、会津戦争にも参戦しますが、慶応4年の白河口の戦いで戦死しました。鳥羽伏見の戦いに薩摩軍として参戦した清原は、北関東から会津へと転戦していきます。しかし、慶応4年4月25日の白河口の戦いで亡くなりました。墓は、京都の戒光寺と福島の鎮護神山にあります。戒光寺は御陵衛士としての墓で、鎮護神山は薩摩軍としての墓です。菊池央(きくち おう、弘化4年(1847年) - 慶応4年閏4月25日(1868年6月15日))は、陸奥国弘前藩出身の新選組隊士。名は英、央五郎、央(たのむ)とも。弘前藩士の三男として生まれる。慶応3年(1867年)に新選組に入隊し、戊辰戦争では鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに敗退後、流山を経て会津へ向かう。白河口の戦いでは、新政府軍大将を討つ手柄をあげたが、同戦いにて戦死。享年22。

島田は箱館戦争後、近藤勇をはじめ散っていった新選組隊士の菩提を弔うため念仏をかかさず、箱館で戦死した土方歳三の戒名を書いた布を常に懐に携えていたという。また、後世に自分たちを伝えるため「島田魁日記」をはじめ様々な記録や品々を保管している。それらが今日の新選組研究に多大な貢献をしている(現在霊山歴史館に収蔵されている)。新選組崩壊後は、歳三と共に箱館に行き、歳三の死を看取ったとも言われているが、実は弁天台場にいて、歳三の死を聞いたらしい。

晩年は、京都西本願寺で守衛を勤めた。西本願寺といえば、新選組が一時屯所としていたところである。そんな思い出のたくさん詰まった場所で、彼は何を思いながら生涯を過ごしたのだろう。そのまま、西本願寺の境内で亡くなった。   写    真  荒井冶良



白河口の戦い

慶応四年四月二十五日東軍総督会津藩家老西郷頼母、副総督会津藩家老横山主税は勢至堂に位置し、朱雀隊長日向茂太郎の一隊は原方街道上原坂山に塁を築き、その他は白河市外の白坂口、棚倉口等に少数の兵を置きて西軍に備えら。会津の杉田兵庫は御霊柩より、遊撃隊長遠山伊右衛門は中地口より、青龍隊長鈴木作右衛門は勢至堂より各一隊を率い白河に入った。そして棚倉藩士の平田弾右衛門及び、仙台藩士の坂本大炊、今村鶯之助は兵を率いて白河に入り東軍は意気軒昂であった。

翌二十六日に白河口総督として会津藩家老西郷頼母が、副総督として同横山主税が白河城に入城した。本陣を常盤邸に移した。会津藩千名、また、仙台藩千名、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着した。東軍の戦力は二千五百名、大砲八門であった。新撰組の山口二郎や会津藩純義隊の宮川六郎らは白坂口の防衛を献策したが、東軍総督西郷頼母は「東軍は新政府軍に対し兵力で勝っており不要である。」として却下した。新政府軍は宇都宮城の土佐藩兵に協力を仰ぎ、東山道軍に薩摩藩の他の部隊を合流させ増員した。兵力は新政府軍が約七百名、旧幕府軍が二千5百名であつたと云われている。白河城が会津兵に占領されたことを、薩摩藩参謀の伊地知正治が知ったのは閏四月二十三日、宇都宮から大田原まで来たときのことであった。江戸では会津兵の白河進出に驚き伊地知に出動を要請した。結局彼らは不十分な態勢のままで北上を続けて二十四日夜、奥州街道芦野宿に到着した。時に西軍の参謀伊地知正治は根拠地の守備を土佐藩に託し、自ら薩摩、長州、大垣の兵を率い白河に向かった。次に西軍の敗戦が江戸の総督府に達すると因幡、備前、大村、柳川、土佐原の兵に命じこれを援護し、芦野の西軍は宇都宮の増援を得るや其の数千七百余人、大砲七門を持って白河に向かった。これに対し東軍は会津藩の遠山伊右衛門、鈴木作左衛門、小池周吾、小森一貫斎、仙台藩の瀬ノ上主繕、棚倉藩の平田弾右衛門の兵を以って棚倉口を守り、天神町白河口には一柳四郎左衛門、今泉伝之助、井口源吾、杉田兵庫、新撰組の山口次郎等これに当たり原方口には日向茂太郎、井深左近其の兵二千余人、大砲八門で西軍と激戦を交わした。

最初の戦果は会津にとって幸先の良いものであった。閏四月二十日、新政府軍が最前線の拠点とする白河城を会津藩兵が急襲し奪還に成功した。

此の日早暁、会津藩兵は米村方面より攻め入り。昼には城を市営していた二本松藩兵は本丸に火を放ち城を捨てた。今時白河城は廃人と化し道路小路、会津町も大部分が焼失し翌日には下野と陸奥の境界境の明神の前に「此れ是北会津領」と大垣した木標が建てられた。横山主税は24日に夕刻に白河に入った。弱冠二十二歳の副総督は供回りに上士侍五、鉄砲二、槍持三、甲冑三、長刀一、雨具持一、小駄荷ニ持二、草履取一、足軽一、鋏箱持二、馬丁二、人の計二十三人の従者を従いて登場であった。馬上豊かに遠目にもはなやかな緋色の陣羽織で会津藩兵七百人の先頭に進む堂々の若武者ぶりのに対し、此れを迎える先着していた諸藩の藩兵、白河の町民から一斉に感嘆の声が上がった。

会津藩若き副総督横山主税

西軍は閏四月二十九日に白坂口へ本陣を置き、五月一日に白河城の攻略にかかった。五月一日未明、西軍は兵力を三つに分け、本体は伊地知が率い少数の囮部隊として中央奥州街道(国道294号線)から稲荷山防塁進軍、野津と川村が指揮する二部隊は左右へ迂回して右翼隊が東の棚倉口から雷神山、桜町方面へ、左翼隊が西の黒川集落を経て原方街道(国道4号線)を立石方面への三方向に分散して攻撃を開始した。総勢七百名である。

五月一日早暁、横山主税は稲荷山本陣に陣取った。前夜遅く、探索方から急報があり東軍は夜明け前から配置についていたが、はじめての実践に前に心中が躍った。東の空が明るくなった御前六時、前方の小丸山か砲声が上がった。前夜のうちに潜んでいた薩摩藩の四斤野砲が火を噴いたのである。

前日まで長雨での天候で夜半には止んでいたが、戦闘は泥に足を取られる最悪の状況の下で行われた。

最初は水田に水しぶきが上がってから音響が響き其の都度見方から歓声が上がった。次第に着弾点は正確になりやがて一発防塁に命中、砲門一門が吹き飛んだ。西軍が砲の援護を受けながら、稲荷山に迫ってきたのはそのときである。田畔の稲架木に身を隠しながら鉄砲を撃ちかけてきた。その飛距離、命中度精度の高さは信じられないほど高かった。東軍の持つ鉄砲は飛距離二百メートル発射速度1分間

三発の先込め式へーベル銃が大半であったが西軍は飛距離五百メートル以上、連発式のスペンサー銃まで備えていたのである。

東軍を包囲、退路を立ちつつ進軍し白河城を攻略する作戦をとった。左右の迂回部隊がまず先発し、時間差をつけ遅れて本体が進軍、小丸山を占拠した。新政府軍本隊は、多数の旗を掲げて大軍と見せかけ、東軍が布陣していた白河城南に位置する稲荷山(現在の九番町西裏・稲荷公園)に砲撃して注意を引き兵力を引きつけた。

横山主税は采配を振るって大音響に「敵を引き付けろのだ。手元に引き込んで撃て。そして刀で戦え、地の利、和の利を活かすのだ。」と叫んだ。中央隊の砲声に気づきいた右翼、左翼隊からの応援もあり、一気に進んだ西軍も東軍の射程距離に近づくとはたとえ足が止まり双方全身泥まみれの撃ち合いになった。空中を銃弾が音を立てて飛び交った。

午前九時に稲荷山に本陣から横山主税に伝令が届いた。「棚倉口、原方口が破られました。敵は三方から当稲荷山を狙撃の模様です。」「なんと背後から攻められては。ここで敵を食い止めれば一気に若松までせめられるぞ。最後の一兵まで戦うのだ。」



会津藩の若き副総督横山主税

副総督に励まされた東軍は熱くあつた銃身に足元の泥水を掛けて冷やし応戦した。その傍らで主税の陣羽織は水と泥にまみれてどつしりと重くなった。副総督として稲荷山の指揮は指揮官の目印である。突然主税は従者が止めるのも聞かず地を這い上がりながら稲荷山の頂上に向かった。麓から銃弾が雨霧と飛んでくる。西軍の銃兵は筒つぽ(ずぼん)、坊主頭で地面に伏し、銃は元込めである。

頂上の台場には撃たれた兵士の死体が折り重なっている。袴姿で陣笠をつけているのが会津藩兵と人目でわかった。そして二十二歳の白河口副総督と常に日の当る道を歩んできた主税にとって「負ける」と云う言葉は無かった。「各なる上は切り込んで敵の将と刀を交わさん」と叫んだ。

従者・板倉和泉は必死にこれを止めたもののこれを振り切り主税は稲荷山の中腹まで駆け下りたところで一発の銃弾が胸を打ち抜き、主税は地に倒れた。

赤い陣羽織を狙い一斉に銃弾が浴びせられたのである。

板倉は原を地べたに擦り付けるようにtやっと近づき揺り動かしがすでに息は無く胸の地が地面に吸われるように流れるばかりであった。

この際、稲荷山に激励に赴いた東軍副総督会津藩家老の横山主税が銃撃され戦死した。「かくなる上は切り込んで敵の将と刃を交わさん」と叫んで稲荷山の中腹まで駆け下りたところを一発の銃弾が胸を撃ち抜き、主税は地に倒れた。赤い陣羽織を狙い一斉に銃弾が浴びせられたのである。従者の板倉和泉が「殿一緒に若松に帰りましょうぞ」と叫んだ。すでに息は無く胸の血が地面に吸われるように流れるばかりであった「殿様ご一緒に若松にかえりましょうぞ。」銃弾の飛び交うしたで「」地からの首を掻き落とし血に染まった陣羽織に包み稲荷山を跡にするのが、従者・板倉和泉の精一杯の奉公であった。横山主税二十二歳。

昼前に勝敗は決した。東軍七百名の死体を残して敗走、西軍は死者は十数名、天下分け目の戦いは新政府軍の完勝に終わった。東軍にとっては信じられない結果であったが、新式鉄砲の性能には如何ともし難い。なによりも弾丸が届かなかった。会津藩副総督横山主税の葬儀には藩主松平容保が臨席し主税の形見の幸衛を抱き「此の子は主税に生き写しである。世のため人のため人の為にに尽くすであろう。」と挨拶をした。「死ぬや人君のめぐみは世のしらぬ草のしたまで残さざりけり」と一首を詠んだ。主税の実父である山川兵衛は「これぞ武門の誉れ」と感涙を流したし葬儀は終わった。





会津藩の若き副総督横山主税

会津藩若年寄横山主税は其の恵まれた才能、海外の見聞を活かすことなく白河郊外の稲荷山に二十二歳の若い命を散らした。まだ日本人が見たことの無い欧州の先進地を視察し、新国につくりに大きな抱負を持って帰国した主税を待っていたのは歴史の演出者ではなく当事者の役割であった。

会津の俊英横山主税は慶応三年1867年フランスのオペラ座前のル・グランドホテルで(四人の日本人と声だかに議論を交わしていた。皇帝ナポレオン三世はパリ万国博覧会を開催し、徳川幕府は自らが日本の支配者であることを世界に認識させるために徳川昭武徳川慶喜の実弟を諸郡の名代として総勢二十五名のフランス使節団うぃ派遣した。出展の品目は甲冑、馬具、刀剣などの武具、陶磁器、人形、釣鐘などの工芸品、それに会場には日本庭園、茶室も備え日本文化を世界に発信していたのである。会津藩からは横山主税、海老名季昌が使節団の一員としてパリに到着したところ、前年に日本を発した遺露使節団の一員である会津藩の山川泰蔵、フランス留学の田中茂手本の四人が合流しパリの夜の食事を共にしたのである。其の夜はるか異国の地で四人の若者が語りあったことは会津、ひいては日本の将来のことであった。

藩主松平容保は京都守護職に任命され、攘夷・天誅・倒幕などの横行する京都の治安維持に当っている。文久二年一八六二年のことであった。会津藩は千名の家臣を京都に送り八・十八の政変、池田屋事件、蛤御門の変と難題にあたり大いに功績を示したが慶応二年(一八六六)将軍家茂に次いで孝明天皇の崩御、そして容保の所労などが重なる間に薩長秘密同盟が結ばれ、歴史の風は会津藩にとって逆風に変わっていたのである。孝明天皇jからの絶大な信頼のもと病身をなげうっての主君容保の貢献は語りつくすことが無く、らに新帝(明治天皇)、新将軍(慶喜)への期待そして列強国からの開口要求問題・・・夜は更けてゆく。

横山主税常守の先代主税常徳は「江戸の三家老」と」と謳われた名家老であった。三家老とは水戸藩の武田耕雲斎、宇都宮藩の戸田大和、そして会津藩の横山主税常徳である。主税常徳は江戸詰めの家老であった。藩主容保は京都守護職に任命され之に随行、常に」容保に参謀として補佐し参内将軍上洛、東j帰問題。藩兵訓練の問題、七公卿落ち事件等において容保の陰日向となって事に当った。此の時の辛労が元で常徳は元冶元年(1864)に病没享年六十四歳であった。

主税常守は常徳の養嫡子で山川兵衛勘定家老の子、藩校日新館を抜群の成績で通し常徳死去に伴い十八歳で家督(千石)を襲名若年寄の重職に就任した。







会津藩の若き副総督横山主税

横山家を継いだ主税は直ちに上洛し、同僚、先輩、上司は三年前まで先代主税の部下であったせいもあり主税を温かく迎えてくれた。主税は守護職屋敷での仕事は容保の支持によって、朝廷や幕府、各藩のとの協議調整が多くあったが、日進館秀才のな名に恥じない主税は難なくこれらを処理した。身長五尺三寸、細面、種目秀麗、穏やかな物腰のなかにも毅然として態度を保ち育ちの良さが滲み出ている。京都の市中で評判になった。容保の評判はよく上司の手代木直右衛門、秋月悌次郎、広沢安任らの信頼も篤く主税の前途は洋々に見えた。慶応二年(1866)主税は同僚の海老名季昌と共に遺仏使節団の一員としてフランスに派遣されたことによる。新しい日本のために二人の日本人に世界をみて勉強するように将軍慶喜と容保の計らいでもあった。使節団は慶応三年一月にフランス船アルファ号で横浜港を出航し、五十五日後に漸く花の都パリに到着した。使節としてパリ万博の任務を無事務め終えた主税と海老名一行はと別れ次に目的地欧州留学ためスイス、ドイツ、イタリア、イギリス、オランダを親善訪問し大いに見聞を広めた。此の途中、国元から京都における政変の連絡を受けて急遽予定を打ち切り慶応三年十二月に二人は帰国した。

国情は出発前と大きく変わっていた。帰国直前の十月には大政奉還、十二月には王政復古が布告された。万博の報告も出来ぬまま慶応四年(1864)一月鳥羽伏見の戦争が勃発、いつの間にか幕府は朝敵となっており、江戸城に新政府の征討隊が差し向けられた。朝廷は薩摩、長州に握られた、討幕の勢いは一気に沸騰し政府倒幕軍は京氏を進発した。当初、徳川慶喜に抗戦の構えを見せたが、間もなく恭順の意に向った。新政府軍の矛先は会津藩に集中した。

二月下旬、新政府軍に奥州鎮守府総督が設置され、総督、九条道孝以下が仙台藩湾常緑陸路から薩長軍が東山道、北陸道を北上、会津に迫った。会津藩は度重なる藩義の結果、新政府軍を白河で迎え撃つことに決し、白河口防衛総督に西郷頼母、副総督に横山主税を任命した。白河は江戸、奥州、磐城浜海路、会津、越後海路へ通じる交通、軍事上の要衡であって、古来「奥州の咽喉」とされる地である。

今回の戦争においても列藩同盟軍東軍、新政府軍西軍の双方とも「白河城の確保なくして我がの勝利なし」が基本政策である。

会津藩総督西郷頼母は稲荷山へ白河城と他の方面から戦力を逐次投入し、新政府軍本隊へ攻撃をしかけたが遅かった。こうして手薄になった立石山と雷神山へ、新政府軍別動の二部隊が侵攻して占拠した。これにより新政府軍は稲荷山を包囲する形となり山上から銃撃を加え、さらに兵力を展開して城下へと突入し白河城を占領した。同盟軍は横山主税をはじめ幹部多数を失い、約七百名の死傷者を出したが、新政府軍の死傷者は二十名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わった。


























































【2011/01/21 15:15】 NAME[松宮輝明] WEBLINK[] EDIT[]
コメントに対するお礼
松宮輝明様

 詳細なコメント、ありがとうございます。

 今後とも、御教導の程、宜しくお願いします。

 尚、先ほど、お礼のメールを差し上げたのですが、エラーになりましたので、コメント欄に記載する次第です。

Best regards
梶谷恭巨
【2011/01/21 16:20】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]
松宮雄次郎の子孫です。
二本松藩の戦い①
慶応四年七月十五日に同盟軍による第七次白河城奪還作戦が敢行された。このときの戦況は同盟軍に有利だったが、味方だったはずの三春藩兵が突然西軍に味方し、同盟軍を背後から攻撃してきた。このため同盟軍、特に仙台藩兵が苦戦し、砲五門を失って退却した。
三春藩五万石の装備は、大砲総数三門、後装銃数八十六、前装銃数四百、小銃総数四百八十六を保持していた。
三春藩主秋田万之助はまだ十一歳の幼君で、叔父の家老秋田主税がその後見役を勤め、表面では同盟軍にひらに謝罪し、西軍の進攻に当たるための援兵を同盟軍に求めてきた。ところが藩内の河野卯右衛門(三十八歳広中の兄)や河野信次郎(二十歳広中)らは、三春藩の使者となって密かに棚倉藩に布陣していた西軍参謀板垣退助と会い、藩の帰順について申し出ていた。河野兄弟自身板垣退助が甲州で組織した農民隊「土佐断金隊」に入隊している。他に三春藩士の舟田次郎左衛門、伊藤直記、影山東吾等五名が断金隊に入隊している。断金隊隊長は美正貫一郎で百五十名の隊員で組織されていた。隊員の中に尾崎彦四郎がいる。彦四郎の子は尾崎行雄である。また、河野広中達は軍事絵図面を提供している。この絵図面は三春藩の和算家佐久間儀右衛門・伊藤直記の地図を基に村井直三郎が作成した。甲州の「赤岡武部陣中日記」によると、尾張藩の村井直三郎が奥州の地理に精通していた。村井は伊能忠敬の地図を基に作成されたものであろう。村井は七月五日棚倉の断金隊に加わり卿導(教導)兼帯を命ぜられている。地図は横四尺(一,二メートル)、縦三尺七寸五分(一、一メートル)の大きさで、南白河口より北福島に及び東は浜街道より西は若松まで網羅し細密画で山川、都邑、道路、里程が一目瞭然に解かるものである。この地図が土佐藩本営の策戦にとって大いに貢献するところとなった。三春藩と結んだ板垣隊の支隊は棚倉を出発して七月二十四日石川を、二十五日には逢田を占拠、翌二十六日には三春に進行した。三春藩城主秋田万之助は城外に出て西軍を迎え、ここに西軍による三春藩無血開城が成功した。続いて水戸藩の支藩守山藩主松平大学頭頼升(二万石)も西軍に降伏した。
写真  戊辰戦争に参戦した土佐藩士、中央が子供と並ぶ板垣退助




二本松藩の戦い②
三春・守山を投降させた板垣支隊は、つぎの作戦目標を二本松藩(藩主丹羽左京大夫長国、十万七百石)進行とした。当時須賀川にあった仙台藩家老坂英力指揮下の同盟軍は、七月二十四日、本営およびその主力を郡山にまで後退させた。二本松城に危機は迫っていた。二十八日夜、城内で軍議が開かれ、一部からは降伏恭順の説も出たが、家老丹羽一学は「死を賭して信義を守るは武士の本懐」と徹底抗戦を主張した。
七月二十八日、ついに新政府軍は二本松に向けて進軍を開始した。西軍の部隊構成は土佐、薩摩、大垣、忍、館林、黒羽、彦根等の諸藩である。先ず本宮を奪わんと、進んで阿武隈川河畔より渡船して東軍に迫った。二十九日、先鋒は薩摩十一番隊と三番砲隊で三春兵が嚮導(教導)となって進軍する。薩摩十一番隊の指揮官は薩摩藩逸見十郎太。逸見は後に西南戦争で薩摩軍に身を置き、「軍神」とまで言われた猛将で当時十九歳であった。対する二本松藩は、尼子平という絶竣な高地に前衛陣地を構築し、守るのは二本松藩の軍師小川平助であった。歴戦の薩摩兵も彼の守る要害尼子平を攻めあぐねた。先鋒隊が手こずっている間に、新政府軍本隊の先頭隊である薩摩十二番隊が援軍として駆けつけ、尼子平の二本松陣地に包囲攻撃を開始した。さらに薩摩四番隊が迂回、尼子平を背面より攻撃した上に、薩摩砲隊が携臼砲による砲撃まで加え、ようやく尼子平を陥落させている。薩摩兵はこの二本松藩の小川の勇戦ぶりを褒め称え、彼の強さにあやかって「その肝を食った」という伝承まで生まれた。
東軍は阿武隈川を渡ろうとする土佐藩兵に斬りこみ奮戦し土佐将を仆した。二十八日天明東軍が本宮を襲う。館林の兵殊に死闘奮戦した。東軍は応戦したが土佐、彦根の兵が来たりて援護したので会津兵は遂に退却した。西軍は進んで高倉村の堡塁を攻撃した。二本松藩十万石の戦備装置は、施条砲二門、大砲総数十二門、前装銃数三百六十、小銃総数三百六十であった。
板垣退助隊は竹田門前の二本松藩御用達大内家の天明天保の蔵を本陣とし霞が城を大砲で攻撃した。蔵内には刀傷が残っている。(大内賢治氏談)

写真 板垣退助隊が占領した竹田門前の大内家の蔵(天保・天明時代の蔵は現在伝承資料館として公開されている。)



二本松藩の戦い③
翌七月二十九日未明、勝ちに乗じた西軍は、三春藩兵を蕎導(教導)に岩代小浜口より進撃を開始。さらに薩摩・土佐・大垣・忍・館・黒羽・備前・佐土原(宮崎の島津藩支藩)の大部隊も本宮を発して二本松に向かった。西軍参謀薩摩藩士伊地知正治、野津鎮雄、道貫兄弟、逸見十郎太(後西南戦争の西郷軍)、土佐藩士有地品之充(後海軍中将)等が指揮する本隊である。東軍は砲兵を正法寺村の西南方羽黒祠の高地に置き、小浜口より来る西軍を阿武隈川河畔に防ぐ。砲声谷間に轟き喊声激流と和して凄愴を極めた。岩代小浜口には平方面の浜街道部隊が続々と来援、二本松城は三方面から包囲攻撃されるに至った。だが二本松の城内は精鋭の大半が須賀川方面に出陣しており、城を守る兵力は甚だ少なく、老人と少年と町民兵・農民兵ばかりであった。西軍は二本松の東方小浜口を占拠し、二方面から二本松を挟撃する構えであった。阿武隈河畔で待ち構えていた同盟軍は渡河しようとする西軍に猛射を加えた。板垣退助の部下土佐藩断金隊長美正貫一郎は率先して川を渡ろうとしたが、会津藩兵の狙撃にあって河中に倒れ死亡した。美正貫一郎二十五歳。土佐卒等はこれを見て憤慨し死を決して進み別隊と共に上陸する。土佐将山地元治また傷つく、しかし西軍は、土地に慣れた三春・守山の藩兵らが先導をしているので地理に明るく、やがて東軍は挟み撃ちとなり、仙台藩士細谷十大夫・塩森主税らの仙台藩兵や二本松藩兵らは漸次高倉山へと追い立てられ、やがて本宮は西軍の手に帰した。
之より先会津藩の朱雀隊長上田八郎右衛門の率いる朱雀隊は白河付近の羽太村にあって会津の間道を死守していたが、土佐藩将谷守部(後に西南戦争で熊本城を死守した谷千城)は援兵を率いて白河の西軍と合し、羽太村を攻撃した。東軍利あらず後退して湯本の険を守備する。会津の成瀬善次郎(百三十石)は羽太村で死す。時に会津の砲兵は勢至堂口滑川付近(岩瀬村の諏訪峠下)にあって白河方面に備えていたが本宮が破れ、二本松が急なるとき聞きて当面の敵を勢至堂口の東軍に一任し、陣を撤退して御霊櫃に至る。

写真 二本松戦争で活躍した薩摩藩士野津道貫(明治政府では陸軍元帥になる)


二本松藩の戦い④
西軍は奥州街道の本宮宿を攻め北上し西法寺村を破り市端に進んだ。戊辰戦記には「東軍は主力を大壇に置き街口を扼して山に沿って棚を組み、叢林にこもりて兵を伏し盛んに西軍を猛射し硝煙雲の如く弾丸雨の如し、先鋒の薩摩軍倒れるもの少なからず。次いで板垣退助は土佐、大垣の兵を持って来たりて援け、短兵相接し銃を発し刀を振り下ろし相奪い相戦う、時に小浜口の西軍また川を渡り、沿岸の砲塁を蹂躙して直ちに市街に突入し、本道奥州街道の兵と合し三面斎して城に迫る。このとき浜街道の西軍また小浜より来たり兵を増し猛虎の如し。東軍は山上にこもり山中に潜み西軍を狙撃したが、その支えべからずを知るや城と存亡を共にせんと欲し退いて城に入る。時に青山助之丞、山岡栄治の二人大壇口に止まりて秘かに民家の吹上茶屋に身を隠し薩摩兵を抜刀してたちまち数名を斃した。」とある。また、一文字石の陰より伏して西軍の中堅を奇襲し、たちまち数人を斬り尚損傷をあたえた。青山、山岡の二人は自身また傷つきその起き得ざるを知るや一人刀を投げ打ちて野津道貫の背を傷つけた。この大壇口攻撃軍の指揮官は名将薩摩藩士野津道貫であった。その野津が大壇口の戦いを回顧している。野津は会津鶴ヶ城攻略戦にも参戦しており、それでもなお「奥羽第一の激戦」と言う程だから、二本松藩の抵抗は会津藩の抵抗を凌ぐほど激しかったのであろう。野津の回想録では「薩兵一個大隊が薩摩二番小隊長辺見十郎太(後、明治政府で近衛陸軍大尉、西南戦争では西郷軍で熊本城を攻撃し官軍から鬼神と恐れられた。別府晋介とともに西郷の身近に従い西郷の死後、岩崎堡塁に飛び込み斬り死する。)に引率せられ奥羽街道を前進し来ると、二本松の南方約十丁(千メートル)許の丘陵上に兵數不詳の敵兵は砲列を布いて我が軍を邀撃するのであつた。我が軍は早速之に應戦したが、敵は地物を利用して、おまけに射撃が頗る正確で、一時我が軍は全く前進を沮碍された。我が軍は正面攻撃では奏効せざることを覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退することを得たが、恐らく戊辰戦争中第一の激戦であつたであろう。」と、且つ人に語りて曰く「予の幾多の戦場に挑み足るが真に逃げたのはこのときのみであった。」と、実に二本松藩の決死的行動には、敵ながらも嘆賞している。野津道貫は後に青山助之丞二十一歳、岡山栄治(五人扶持)二十六歳のために碑を建てて冥福を祈った。写真 青山助之丞、岡山栄治二勇士奮戦の図、右が薩摩兵、吹上茶屋、一文字石が見える。

二本松藩の戦い⑤
その頃、城主丹羽長国は重臣たちの諌めで一方を切り開いて米沢へ落ち、夫人は会津へ逃れた。二本松藩主公夫人久子は大垣藩主戸田采女の息女である。大垣藩から秘かに城を抜け出すように乞われたが断り米沢に落ち延びた。久子の日記「道の記」や二本松少年隊下河辺武司の父「下河辺梓日記」(百五十石)に書き残している。戦火が二本松の城下を包むころ、後に残った家老丹羽一学をはじめとする重臣大城代内藤四郎兵衛(六百石)・城代服部久左衛門・小城代丹羽和左衛門(三百石)・勘定奉行阿部井又之丞(六十三石)・千賀孫右衛門ら七名は城に止まって、最後まで奮戦した後、城に火を放ち、その炎の中で一室に集まって自刃して果て従容として国難に殉じた。その他の家族の節に死するものもあった。残兵は遂に二本松城を焼いて庭坂、会津方面に退いた。そして、二本松藩少年隊たちが守る大壇口での戦いが始まった。まず、少年達は与えられていた施条砲による砲撃を加えている。「見事にその頭上に、しかも三発までも爆発す。」とあり、見事な砲撃を披露している。隊長木村銃太郎が、その砲撃技術を見せつけたと言っていいだろう。撃たれた薩摩軍は、すぐさま散開して正法寺町の民家や樹木といった遮蔽物に隠れ、応戦を開始する。陣の日、銃太郎が引率した少年兵は二十三人。しかし、開戦直前の点呼の際には二十五人だったと言う。他の陣地に出陣した者が、銃太郎を慕って来たのか、それとも自分の陣地が破れたため銃太郎隊に合流したのか、はっきりした理由が判らない内に開戦。正面から向かって来た敵は薩摩軍であった。二本松藩は藩の方針として『死を賭して信義を守る事こそ、二本松藩武士の本懐である』とし西軍に徹底抗戦を決定した。二本松藩士の家庭では毎朝食の前に母親より切腹の作法を箸で教えられるのを礼儀として育ち恐れを知らない向こう意気を持ち勇猛果敢な兵として知られていました。領内の正規兵は『奥羽越列藩同盟』の一員として白河方面をはじめ諸方面に兵員を派遣しており僅かだった。そこで藩重臣達は苦肉の策として六十歳以上の老人兵と十六歳以上の元服を終えた少年の若年兵で防衛隊を編成した。年少の少年達が「私達も出陣する」と志願してきた。二本松藩では十五歳以下の者の従軍は許されていない。重臣達は「我等に任せよ」「若い命を粗末にするな」と説得したが、少年達は「故郷を蹂躙されてなるものか」「母や姉妹を守りたい」との想いを訴えた。援軍と思われた三春藩の裏切り奇襲攻撃もあって益々兵力が不足したこともあり重臣達は少年隊の参戦を許可した。
写真 二本松藩主七万石丹羽長国公、明治三十七年没
二本松藩の戦い⑥
木村銃太郎は二本松藩砲術師範・木村貫治の長男として生まれた。十八歳の頃、藩命を受け上府し、約四年間西洋学問所で西洋流砲術を学んだ。西洋流砲術は江川太郎衛門塾で教授した。江川塾はお台場の砲台を造った江川家である。門弟には福沢諭吉・榎本武揚・大鳥圭介などがいる。銃太郎は砲術を学び慶応三年暮れ~四年春の間に帰藩いている。父・貫治の砲術道場で、藩士子弟の指導に当たる事になる。この頃になると、国事の情勢により、藩士は全て砲術を学ぶようにとの、藩からの達しが出る。この事から、銃太郎の門下に入ったのは、まだ砲術道場に入門していなかった幼い少年達であった。故郷に帰って私塾を開いた銃太郎はまだ二十二歳ほどの若さであり、門弟は十三~十四歳の少年達が殆どであった。少年達から「若先生」と敬慕されて少年達と一緒に砲術習得に励んでいた。
銃太郎は背丈は五尺七~八寸と、当時では大柄である。風貌については「容貌魁偉」「眉目秀麗」「堂々とした美丈夫」と言い伝えられている。身体が大きく逞しい青年であった事が窺える。しかし、その外見から想像される人物とは違い、厳しい中にも優しさがある青年であった。銃太郎の指導は、徹底して個別に基本に徹し、身体の小さな少年達にも合った射撃姿勢を工夫して教えた。少年達からは絶対的な信頼を受け「若先生」「小先生」と呼ばれ親しまれていた。木村銃太郎門下の二十五名の他にも少年達は志願を申しでており藩校の敬学館には六十二名の少年達が集結し銃砲部隊を編成し大壇口の最前線に向かう。彼らは官軍を迎え撃つ地点に着くと杭を地面に打ち込み横木を渡し近くの民家から借りてきた古畳を二枚づつ並べ縄で括り付けて砲弾避けとした。
装備は旧式の銃と大砲が1門のみ。後は白兵しかない。未明に少年隊の前方に官軍が姿を現し、彼らに向かって殺到してきた。見れば西軍は隊伍を組んだまま密集して不用意に少年隊の射程距離に入ってくる。隊長木村銃太郎は少年隊に集中砲火の指令を下した。銃太郎の指揮も良く、また少年達も奮戦し幾度か西軍を押し戻した。圧倒的な兵力をもって攻め掛かったのは薩摩兵の方であったがその薩摩兵の前進が再び止まってしまうのである。少年達の前にいた薩摩兵達もたまらず近くにあった民家に隠れ、少年達に向けて射撃を始めた。
写真 二本松城大手門前の二本松少年隊の勇士像(日展理事長彫刻家・二本松出身橋本堅太郎氏作)

二本松藩の戦い⑦
少年達の耳元を弾丸が掠め飛んでいく。砲撃戦は激しく、松林の松の木を薙ぎ倒し、田畑の土を空中へ跳ね上げる。二本松少年隊の砲撃技量は高かった。薩摩兵が楯にしている民家を、大砲による砲撃で破壊する事を試みて、五軒を命中破壊に成功しているのだ。しかし薩摩兵の後続部隊が到着し、大壇口の二本松兵を包囲するかの様に部隊を展開布陣させると兵力差がじわじわと二本松兵を追い詰めた。少年達の目も血走り、激しい射撃戦を行ったが、もはや劣勢は歴然であり、それを知ってか知らずか少年達は誰もが無言で射撃に集中している。大壇口は頑強に抵抗を続け、薩摩兵の猛攻に絶え続けた。しかし、多勢に無勢。敵の砲撃部隊が到着すると戦況は圧倒的に不利になり、相手は百戦錬磨の猛者達で装備は最新式の銃である。バタバタと倒れていく少年達。隊長銃太郎は戦線を放棄して城までの撤退を決意して隊士達を励まし指揮をとり続けた。そんな時に銃太郎は左腕に被弾し重症を負った。それでも指揮をとり続け撤退を開始した時にまたも被弾してしまう。今度は致命傷であった。その場に崩れ落ちる隊長木村銃太郎。この傷では到底城に戻れぬと、副隊長・二階堂衛守に「此の重傷にては到底入城叶ひ難し、疾く首を取れ」と言う隊長銃太郎に対し、少年達は互いに顔を見合わせて、「隊長の傷は浅し、肩にすがりて退却せられよ。」と言い寄った。信頼する隊長を失いたくないという少年達だが、戦況は切迫しており、一刻も早い撤退が必要だった。怪我を負った身での敗走は、少年達の撤退を遅らせ、犠牲を増やすのみと判断したのだろう。銃太郎は「今は無益の押問答する時にあらず、疾く々々」と言って、首を差し出した。


 写真 二本松少年隊長木村銃太郎(二本松市歴史資料館蔵)

二本松藩の戦い⑧
少年達は副隊長二階堂守衛の薦めに応じて、泣く泣く隊長木村銃太郎の首を切り落とした。不慣れだった事もあり、手元が狂って三太刀目でようやく首を落とした。その首も少年達には重く、二人で持って逃げたと伝えられている。二本松兵達は、第二線に下がり最後の防戦を行うつもりだったが、後退してみると思いがけない光景が目に入ってきた。自分達の守るべき城が炎に包まれていたのだ。二階堂は副隊長として少年達を城に戻そうと懸命に頑張った。撤退の途中に奥州街道沿いに歴代藩主に菩提寺である大隣寺がありそこに隊長の木村銃太郎の首を埋葬しようとした。少年達も優しく頼りがいのあった隊長を首のまま城に連れ帰るのは出来なかった。いざ、埋葬しようとしたところここでも西軍に遭遇してしまった。少年隊は勇敢に戦いますが劣勢は明らか、そして副隊長の二階堂までもが戦死してしまう。相次ぐ指揮官の戦死。少年隊の指揮系統はすでになく壊滅状態になってしまった。大燐寺山門入り口には二階堂衛守の供養碑が達ている。
それでも、生き残った少年達は隊長の首級をどうにか埋葬し、城を目指した。城の方面に目をやると城からは黒煙がもうもうと立ち昇っている。二本松城はすでに落城してしまった。二本松藩の重臣は家老丹羽一学等が城を枕に自刃していた。二本松戦線に集結し東軍の部隊は会津に移る事になる。『二本松戊辰少年隊記』を書き残した水野好之少年は大壇口の戦いについて記している。「竹藪の中に逃げ込んだ。弾丸が竹に当たりガラガラとけたたましい音を立てた。さらに竹藪の中は敵弾が障害物に当たると別の方に向かって跳ね飛び、かえって危険だった」という。水野少年は、大きな木材の陰に隠れ敵弾を避けていたが、そこに「隊長撃たれたり」という声が聞こえてきたという。すでに撤退命令が出されており、銃太郎もこれまでと思ったのだろう少年達に集合の合図を掛けると、大砲の火門に釘を撃ち込み、敵に奪われても使えないようにするといった撤退作業に移っている。
写真  二本松藩二勇士が一文字石に身を隠し抜刀して飛び出し奮戦した。
大壇口の一文字石は四メートルの多きがあり一の字が刻まれている。

二本松藩の戦い⑨
木村銃太郎戦死す。一方大壇口とは別方面である小浜方面から進撃した新政府軍は、二本松藩の防御線を突破し、二本松城下に雪崩れ込みつつあった。二本松藩主戦派の中心的人物である丹羽一学は、城下に雪崩れ込む敵兵を追い払うべく、兵を叱咤激励しているが、刀槍しか装備していない留守部隊だけではどうしようもない。ついに持ちこたえる事が不可能である事を覚り、自ら城に火を掛けて自刃した。二本松城の炎上で落城は決定的となり、城下は混乱状態となった。
十六歳の二本松少年隊士下河辺武司は百七十石長柄奉行下河辺梓の次男である。出陣にあたり母から二分金(天保銭)を頂き臍につけるようにと云われた。慶応四年七月二十九日、大壇口を突破され戦況は最終段階を入り、武司は城に入ろうと坂道を登っていった。背後から敵弾が腰の上部に命中した。負傷もしなかったので戦線離脱後調べた処、腹につけておいた筈の二分金が戦闘中のどさくさに背中に移っており、そこに敵弾が命中したらしい。二分金は折れ曲がっていた。二分金は腰の上部にあったという。母の祈りが通じたものであろうと噂された。また、少年隊士水野好之は「二本松少年隊記」に「日全く暮れ戦争も何時しか止みにけり、余は之を好機として一ノ丁山に駆け入り一方の活路を求めて西谷の山に到りたるに敵の見張り頗る厳重にして容易に逃出出づる事能はず。山中にて下川辺武司、三浦泰蔵、岡村、宗像幸吉の四氏に会合し、二日二夜進退よいて漸にして塩沢村字居蛇沼に出て農家において食を乞ふに、其の主婦、懇に労はりて麦飯を炊きて余等もてなせり、飢えたる者に粗食なく。もっぱら亭の豆粥などと麦飯を存分に食したる上弁当を用意し厚く礼を述べて岳温泉へと急ぎぬ。到ればこの所も兵火にあい憩う所なしそれより土湯に到れば、会津の藩士十数人が手に手に松火を採りて今や火を掛けんとするところなり、暫し休まんと暇なく中山峠を越えて会津領の蚕養村に到れば此所には家老丹羽丹波を始め二、の三十人の同藩士悄然として控え居たり。因って委曲戦況を報告し終わりしに俄に数日来の疲労出て来て身体綿の如し、滞在二日にして再び母成峠に出陣の命を蒙る。番頭大谷与兵衛の部下となり母成峠に到る。」と二本松城落城後の様子と母成峠に到るまでの経緯を書き残している。

写真 二本松藩戦没者供養碑(大燐寺境内)  

二本松藩の戦い⑩
仙台藩士からす組隊長「細谷十太夫日記」には当時二本松落城に関しての日記がある。「その日二本松城下を通り二本松を出でんとして進み行くに、二本松城の硝煙盛んなるを望見す。到底当地には出るあたわずと思い、再び岳下に戻り、荒井原を通り福島に出でんとしたるに、二本松より逃げ来るものあり。老若男女のさまは実に見るに忍びず。聞くに耐えず。泣くものあり、痛みて慟哭する者あり、幼児の手を携え且つ背に負いて走る女あり。若に者の肩にかかりあえぎあえぎ涙を流して来る老人もありて、中には昨夜分娩せしという若き女が、人の肩にかかりて殆んど生気なくしてとぼとぼ歩み来たれる。げに悲惨の極みなり。自分も空腹耐え難くて畑の西瓜を狙いては採り喰らいしが、その中の大きならざるを晩食にせねばやと槍の尖に突きて担ぎきたりしに、飢えたる子供の跣足にて今にも倒れんさまに歩み来たれるを見て之を与えたり。子供は喜びに耐えざりけん。皮の儘に喰らいつけり。聞けば昨夜より一粒も喰らわず庭坂に落ちてゆくなりとぞ、この有様を見て数千の兵を有する仙台藩の撤退は同盟としてあるまじき如くなれど、前後に敵を引き受け糧道の絶えたるため再挙を計る必要があり、会津方面に退き米沢を経て福島、桑折に出て国境を固めるに至り。」と二本松の市街戦が悲惨極まる戦場になったことを記している。
背後の城中からは火の手があがり、味方はいつの間にか戦場から姿を失い、少年隊は六十三名のうち二十二名が大壇口に出陣し戦死者は木村銃太郎をはじめ十六名、戦傷者六名を出した。会津藩兵も、桜井弥右衛門率いる朱雀二番隊足軽組が日光口より駆けつけ、井深守之進率いる猪苗代隊とともに正法寺・大壇口の街道筋に奮戦したが、小隊頭小笠原主膳をはじめ、約三十名が戦死、負傷者多数をだして敗退した。
大壇口の丘の上から地形を眺めると奥州街道二本松町の要害の地であることがわかる。この丘の上に西軍隊長津野道貫の歌「うつ人も うたれる人もあわれなり ともにみくにの民とおもえば」 陸軍大将従二位木越安網の歌碑「色かえぬ 松間の桜散りぬとも 香りは千代に残りけるかな」の歌がある。歌碑は戊辰戦争最大の激戦地である大壇口を尋ねた野津道貫によって詠まれたものを二本松顕彰会が建てたものである。
写真 大壇口に建つ二本松藩「二勇士」を賞賛した野津道貫と木越安  
    網の顕彰碑

郡山の戊辰戦争①
江戸時代郡山宿は二本松藩の領地で奥州街道の宿場町として栄えて来た。二本松藩七万石の領地は安達郡、安積郡六十四ヶ村を有し、郡山宿には安積三郡の陣屋があった。郡山宿の中心は中町であるが寛文三年(一六六三)二本松藩は三代官所(陣屋)を置いた。ここに東より大槻組代官所、中央に片平組代官所、北に郡山村代官所が並び各村の陣屋(代官所)がおかれていた。現在うすい通りの安積三組の代官所跡「陣屋」の地名で呼ばれている。江戸時代初めから安積三村の各陣屋が年貢を取り立て三村の蔵場(年貢の米蔵)は金透小学校の地にあった。大槻組管理は大槻村、鍋山村、只野村、大谷村、駒屋村、川田村、成田村、下守屋村、八幡村、野田新田村、富岡村の年貢米の米蔵である。片平組では片平村、長橋村、河内村、安子島村、上伊豆島村、前田沢村、早稲原村、堀之内村の米蔵である。郡山組では小原田村、日出山村、笹川村、郡山下町、郡山上町、久保田村、横塚村、福原村、高倉村、日和田村、荒井村、八山田村、梅沢村、八丁目村、郡山村の米蔵が立ち並び二本松藩安積三万石の威容を誇っていた。郡山宿の本陣はホテルアネックスの地にあった「地紙屋」今泉本陣である。江戸時代の初め貞享元年(一七二二)より代々郡山上町の今泉家が名主を勤めてきた。戊辰幕末には今泉久三郎が町方として西軍、東軍の折衝にあたっていた。今泉久三郎は弘化二年(一八四五)の生まれである。十九歳で大名主・検断となり戊辰戦争慶応四年には二十三歳の若さで郡山を戦火から守った郡山の偉人である。二本松藩九代藩主丹羽長富公は、文化十年(一八一三)十歳で藩主となり、文化十三年十四歳で有馬中務大輔頼貴の子、頼瑞の次女と結婚。この年藩内に藩校敬学舘や手習所を設置し、文武両道を奨励した。そして文化七年(一八二四)郡山を宿場町に昇格させた。天保の凶作では藩政改革を推し進め、天保十四年(一八四三)昌平坂学問所(現東京大学)の安積艮斎先生を敬学舘に迎えるなど幕末の二本松を支えた藩主で有った。慶応二年(一八六六)六四歳で没した。後を継いだのが丹羽長国公であった。長国公は天保の大飢饉の天保五年(一八三四)に生まれ、長富公が安政五年(一八五六)隠居したので二十四歳で藩主になっている。しかし生来病弱であった。そして、戊辰戦争を迎える。

写真  安積三万国と云われた安積三組の年貢前米蔵跡(現郡山市立金透  
    小学校が建つ)

郡山の戦い②
二本松藩主丹羽長国公時代、藩主となった安政五年(一八五八)から慶応三年(一八六七)までの九年間に京都警護、房州富津海岸警備などかなりの出費を強いられた。これらはみな領民からの御用金や分担金でまかなわれた。慶応四年(一八六八)二月十七日二本松藩主丹羽長国公は「会津と運命を共にせん」として、奥羽列藩同盟に参加し、閏四月二十五日空城になった白河城の守りに会津藩と共に出兵した。第一次の白河口の戦いが始まる。これから七月十五日まで一進一退の戦いが続いた。六月二十四日板垣退助隊七百名が棚倉へ進軍するも、城を守るのはわずか三十数名、たちまち棚倉城落城六月二十八日磐城の泉、湯長谷城落城、七月十三日・磐城平城落城、七月二十五日守山藩、西軍に城を明け渡し降伏した。
七月二十六日二本松城、西軍に包囲されるも三春藩援軍を出さず。三百余名の戦死者を出す。この頃、三春藩は板垣隊を城に招き入れ無血開城。七月二十七日本宮の戦で三百名が戦死する。七月二十八日二本松藩は各軍で西軍と戦い動きがとれず、城に戻れぬ状態となり、二本松少年隊が大壇口へ出陣する。七月二十九日二本松城落城。八月四日相馬城落城
八月二十二日猪苗代城落城。九月二十二日会津若松城が落城し、県内の戊辰戦争は終わった。郡山の戊辰戦争の様子を郡山検断・名主「今泉久三郎日記」と史料を基に検証して見よう。今泉日記によると「四月三日二本松郡代羽木権蔵、郡奉行上田唱、浅見競様から国事多難非常切迫につき才覚金七千両(約五億六千万円)差し出すよう郡山宿に割り当てられた。現在の価格に換算すると大金であるが郡山宿の名主に相談し金子を用意し、四月十日今尾半之丞、阿部庄右衛門が二本松に出張し七千両を二本松藩主に上納した。閑窓私記によると四月十一日二本松藩、「御才覚金領分中にて二万八千両(約二十二億四千万円)被仰付候、本宮二千両(約一億六千万円)」とある。四月十九日仙台兵二千名、郡山に出張布陣する。兵士の仕度は洋服を着たもの甲冑姿のものなど様々で宿泊は旅籠だけで間に合わず、屋敷のある家に分宿した。二千名の兵を宿泊させるのは宿割りも大変で郡山宿だけでは分宿できなかったと思われる。今泉日記には「その混雑は大変であった。」と記している。四月二十三日会津兵が中山村、竹之内部落両所へ火を放ち残らず焼き払う。閏四月一日只野村大久保、会津勢に焼かれる。只野村大久保在家逢瀬村朝四ッ時、会津兵により放火され四家が全焼した。
写真 郡山宿の町並に今泉久三郎本陣が合った。(復元図・宗像和則氏提供)

郡山の戦い③
会津年表によると「閏四月二日中山・石筵の地で会津兵と仙台兵が「偽戦」を行われた。」と期している。あらかじめ打ち合わせをし東山道鎮守府の命により会津を攻めている様に偽装した。二本松藩史には「閏四月三日石筵村母成において仙台兵三百名と会津兵百六十名が戦う。」郡山市史によると「四月五日御霊櫃峠にて会津と仙台兵小競り合い。会津兵は休石部落に放火する。二本松領只野の休石で二戸が会津兵に焼かれた。」とある。また、「四月六日只野村堀口部落が会津に焼き払われる。二本松領堀口逢瀬町で十一戸が四ッ時(午前十時)頃会津兵に焼かれた。」とある。郡山史には「四月九日町守屋の富岡に会津兵三百人布陣し、夕方駒屋村、八幡村五戸、富岡村二十三戸残らず焼き払う。二本松藩領駒屋村、暮六ッ時前(午後5時半)会津兵押し入り放火乱妨し土蔵より諸品類を奪取する。」とある。閏四月十一日駒屋村名主の「山岡日記」によると会津兵二本松領下守屋へ来て村方土蔵を破り諸品金銭等を奪取する。郡山市史によると「閏四月十二日二本松領熱海の安子島で十戸が会津兵に焼かれた。四月十六日伊達筑前様率いる兵六百人、如宝寺、善導寺に止宿す。如宝寺名木又兵衛、善導寺兵糧安藤忠介宅炊き出す。」と記している。今泉日記には「四月二十日東山道鎮撫府副総督醍醐少将殿本宮より多人数引き連れ郡山に出陣、ところが会津勢白河口まで進撃、二本松、三春、相馬、磐城勢と合戦となり味方大敗したと早打ち来る。二本松は白河城を受け持ち相固めていたところ突然会津勢が切り入り、二本松勢驚いて敗走、笹川村まで退き滞陣。これを聞いた醍醐少将ただちに仙台へ引き返し、伊達藩家老筑前様兵も郡山を残らず引き払う。」と期している。四月二十四日今泉日記は「四月二十日福島で世良修蔵殺害され情勢一変し、二本松藩よりこれからは会津藩に味方するように達しがあり。昨日まで敵として会津を、今日は味方として官軍に抗するに至る。浮き草の世なり嘆息の外なり。」といままで会津藩と戦っていた二本松藩が一転会津藩と結んだこと二十三才の若き名主今泉久三郎は嘆いている。「四月二十八日郡山宿、二本松丹羽丹波、高根三右衛門、丹羽右近、土屋甚右衛門を始め人員五百五十名白河に出陣のところ先宿須賀川に仙台藩止宿のため、笹川、日出山両村へ宿陣する。五月三日仙台、会津、福島藩人数おいおい繰り出し、郡山に止宿・その都度町内軒別に馬、人足を差し出す。
   写真  本陣今泉久三郎屋敷見取り図(今泉文書)

郡山の戦い④
五月十二日郡山検断・名主今泉久三郎は陣屋に出勤したが役人がいなくなり郡山宿の名主武田太左衛門、鴫原弥作、阿部茂兵衛らと相談し、宿内の人馬を手配す。一日の備は駅馬三十五疋、歩夫人足七十二人である。
五月二十九日会津松平喜徳、白虎砲兵二隊率いて安積郡御代に布陣滞在六十日。六月十二日二本松郡奉行梅原新吾、上田唱様出張し才覚金二千両(
約一億六千万円)指し出すよう申し渡される。
七月二日御代官より安積三万石につき町兵農兵五百人を組織せよとの達しあり。そこで大槻組百人、片平組百人、郡山組在百人、郡山宿二百人を組織した。町年寄り今泉久右衛門、上町検断今泉久三郎、下町検断今泉定七郎、問屋菊池市三郎ら町役人を隊長として、農兵勢揃いて小原田・八作・横塚・阿久津・大重・郡山と一巡し大いに士気をあげる。郡山を戊辰戦争の戦禍より守ろうと結成された安積三組の自警団の組織や戦備については今後の研究が待たれる。
七月二十九日二本松城落城のことを知らされる。最早政務を司る官吏一人も無く今夜あたり事変が起こってもいかんとも出来ず。有志集まりこの上は官軍に出兵を嘆願、市中の取り締まりを仰がねば乱暴狼藉者あって防ぐ術なしと決す。官軍笹川村まで繰り込んだとの噂なので、名主阿部茂兵衛、武田太左衛門、水戸直之介らと謀り官軍出兵先へ嘆願として罷り出る者四名今泉久三郎、永井喜作、横田冶右衛門、万宝寺の住職を選びただち笹川村へ送り出す。八月一日富田村在荒屋敷の者共数人人馬にて乗り来たり、郷蔵の西垣を破り侵入。今泉久三郎、阿部茂助ら四・五人駆けつけこの郷蔵の米は御領主の米にして我々手をつける品にあらずと大声を発し、目下難渋の者には別に手配して一人一俵分け与えるので手をつけてはならずと申し候。阿部、武田、川口らと謀り米七・八俵手配し一軒一俵ずつ相渡し夜引き取る。夜五ッ時(午後七時半頃)、町内の者打ち壊しを始め乱暴狼藉言うにべからず。前代未聞の大騒動なり。この際質屋は残らず質品を相渡するべく旨張札をなし、炊き出しするものあり、酒を出すなど先年伊達の騒動にも似た騒ぎである。

写真  町農兵を率い郡山を戦禍から守った名主・検断今泉久三郎像

郡山の戦い⑤
今泉久三郎日記によると二本松落城後の郡山宿の混乱振りは「八月二日質屋を見るに早朝より押し入り、前後を争い騒ぎ立てその混雑見るに絶えず。武田太左衛門と謀り金百五十両(約千二百万円)指し出す。町兵一統を代官所に呼び集め、この虚に乗じ悪者立ち入り、放火あるいは強盗等なしとも言いず。そうなれば数万の財宝一時に飛去り、当駅の不幸取り返しつかず。町兵にて今日より質屋一軒に十人ずつ張り番致し、質品と取り戻し人に不法の所業これなきよう厳重取締り致すべし。市中を警衛巡邏して他方より悪者立ち入りを防ぎ、強盗火災の患これなき様申し伝え、手当て一日
五十両(約四百万円)を一統に指遺す。夜は町端々へかがり火を焚き厳重に取り締まれ。八月六日三春より大村御人数統合百人程繰り込み相成り。昼頃会津兵五十・六十人西の方より押しきたるべく旨注進あり。ただちに官軍繰り出し如宝寺南字壇場土手下より砲発す。賊軍は楢木材より打ち出し砲戦に及ぶが賊敗走、大槻の方へ逃げ去る。長者窪向まで町兵一同負いかけ引き返す。この日小七供養の所に見廻り永吉手先の者一名、足を打ちぬかれ終わりに死亡す。同日大村人数阿久津まで引き上げ太政局会計局川崎屋(現大町の大田記念病院・明治天皇東北巡幸の時、先発隊として大久保利通が宿泊した。)に止宿。全員止宿するよう願いども、賊来たり候は町兵にて防ぎ早速注進するべし。然るに同夜九ッ時頃(午後十二時頃)会津兵百五十人川田村にて兵糧を奪い、今夜郡山に押し来たり候と成田村より注進有り。早馬にて阿久津へ注進の者差し出し町兵にて町口々相固めかがり火を焚き、厳重番兵致置候所、夜はほのぼのと明渡り候えども賊参らず少々安心致しおり候うち間もなく押し来たり。如宝寺辺より頻りに砲発、所々へ放火、人数の多少も相分れず。町中一統大いに狼狽諸方へ逃げ去る。多く横塚に出る。実に雲の子をちらすが如く。自分(今泉久三郎)鉄砲を携え、横塚へ参り途中にて跡を見れば、所々より火起こり折節西北の風烈しくひろがり次第に大火に相成る。未だ官軍出兵なく阿久津村渡し船場へ参る。

写真 宿場町当時の郡山地図、阿武隈川に掛かる阿久津の渡しがある。  

郡山の戦い⑥
今泉久三郎日記は「この頃数日大雨にて阿武隈川出水、玉ヶ淵辺畑中腰まで水あり、之をこぎ一舟五十人程此の方へ渡り跡追々渡り舟御人四百人程相揃らるる。その所へ進出、委細及び注進し速やかに出兵を乞う。案内として芳賀忠右衛門外の者へ申し付き、壱手は阿弥陀町の方より西へ廻る手筈なり。間もなく郡山へ着き相見合図の砲烟を打ち揚げ鉄砲おびただしく相聞申候。賊逃げ去る、同日官軍阿久津へ引き上げ候。今泉久三郎、阿部茂兵衛、武田太左衛門三名阿久津村布陣の太田衡太郎殿へ面謁、自分(久三郎)今の形勢を申述暫時休足せり。当駅(郡山駅)は火勢益々盛んにして夕刻までに上の端西側残らず下町安楽や兵四郎、井升や久兵衛所まで焼失せり。阿弥陀町、東町、北町、稲荷町焼失、其の内東町端六軒、十日町西の方三十軒ほど残る。蔵場町郷蔵門前如宝寺焼失、馬頭観世音の堂も此の時焼失す。三代官役宅足軽宅牢獄とも焼失。自分(今泉久三郎)本宅長屋焼失。土蔵三つ雨覆のみ焼失にて無難也。同日午後三時頃横塚村へ立ち戻り候所またまた賊押来たり、焼け残りの善導寺その他へ放火、物取り候旨にて多人数逃げ来るに付きやむをえず東、阿部家族一同安原村へ立ち寄り同村安原四郎宅へ止宿す。
八月八日立ち戻り市中を巡視するに、いまだ所々焼炭けむりて千戸の駅中炭亡に帰し眼も当てられざる有様に変じ、夜に入りあちこちら焼け残り土蔵に灯火の見えるのみ淋しきここと言うべからず。八月九日焼炭片付けに取り掛りたり、この日守山人数出張。一人の悪漢を捕らえ断罪に処しその首を青竹の先に貫き善導寺入り口道路の傍に掲げ庶人に示す事三日間。日々賊押し来るの風説あり婦女子老人はいずれも在方に潜居。奥州諸藩追討の為追々官軍繰り込み官軍通行に人馬指し出すべく旨先触れ相達す。しかれども別陣の如くにて継立方は当分小原田村へ依頼す。」と戦禍の様子を詳細に書き残している。

写真   戊辰の戦禍で燃える郡山宿

郡山の戦い⑦
今泉久三郎日記は「八月十三日安積郡郡山組、片平組等分守山藩取締仰せ付けられ候。この夜八ッ時頃(午前二時頃)より本宮焼失と相見え火焔天をこがす。八月十四日守山へ罷出る用向き有り日出山まで罷越候所また郡山へ賊押し来たり善導寺へ火を付け市中強盗致候旨騒立てに付き同村西裏に出見るに善導寺と覚しき火焔燭々として燃え上がりたる。早速守山へ進駐せんと大善寺村へ駆け参り同村名主に馬を借り受け直に打ち乗り一騎がけにて守山へかけつけ関門見付をも構わず陣屋に乗りつけ門先にて下乗進駐す。直に備前隊百人程守山人数百人程出兵相成る。暮れ方郡山に着くも賊残らず逃げ去り一人居り申さず。この日善導寺の鐘楼門残らず焼失。
九月一日郡山焼失以来馬継立て所なく指出し難き所、守山より吏員出張事務取り扱い居る。人馬指し出し方を命ぜられ止むを得ず指出す。かつまた若松詰人夫十日代りに追々交代の者及取締まりとして目付、長町人四名ずつ指出す。然るに若松城には八月二十三日母成口敗れ官軍進入追々諸道より進入頗る激戦、昼夜砲声雷の如き轟くにつき出夫の家族共に大に案じ昼夜安否を問に来るもの数十人、婦女子の如きは父兄の帰村を請うて涕泣く者あり、実にあわれむ、幸いにしてつつがなく三回交代し九月尽日までようやく皆帰村す。九月二十五日焼失人調書出すべき旨達しあり。上町本家三百九十三軒内九軒長屋竈(世帯)数四百三十六、下町本家百三十二軒竈数(世帯)百七十三.十月十五日守山役所に呼び出しあり。左の通り焼失人一統へ下賜候旨申し渡さる。木材は小原田村、福原村、八山田村、荒井村四ヶ村官林よりくだされ候筈。
一、松杉木品九十九軒分(郡山宿焼失町役人始め五百十六人の内人)別紙見積書之通近村官林にて被下。
一、金弐千八十五両(約一億六千六百八千万円)右同四百十七人但し壱戸に付き金五両(約四十万円)の復興費が下賜された」と記録している。
郡山の財界人が筆者に「先生は北の郡山と南の郡山があることを知っていますか」と話された。戊辰戦争での東軍特に会津藩と、新政府軍に協力したかの違いによる確執である。あまりにも戦禍の被害は大きく会津藩の郡山宿に対する焼き討ちは過酷なものであり後世に批判を受けることになる。

写真   高札場に掲げられた太政官の覚

母成峠の戦い①
七月二十九日、二本松の落城を境として西軍は仙道を完全に掌握し、会津突入の機会を狙っていた。征夷大総督府大村益次郎の画策した会津討伐作戦は、「仙台、米沢藩の如き枝葉の諸藩を断ち会津を孤立せしめるに在り。枝を刈れば根幹はおのずと枯れる。」との見解で、会津藩を取り巻く諸藩をまず平定し、次第に会津包囲の輪を縮めて行こうとするものであった。然るにいまや磐城方面の小藩は殆んど軍門に下っているが、仙台、平諸藩と戦い東軍を撃破して会津に入るのは数ヶ月はかかる。しかし二本松にあった現地参謀の薩摩藩士伊地知正治・土佐藩士板垣退助らはこの大村の意見に反対し、まず「根幹を抜かば、枝葉は憂うるに足らず」として奥州が冬季を迎え前、降雪前の会津攻撃を主張して譲らなかった。その理由としては、暖国の兵をもって寒地に慣れた東北の兵を攻めるには、速攻によらなければ冬将軍の到来とともに、形勢逆転の恐れがあること。会津藩の現状は兵力を各方面に進軍しており東軍同盟諸藩と共に国境外で戦っていて国内は殆ど手薄になっているので、一気に国境防禦線を突破して若松城を陥し入れれば枝葉である諸藩はおのずから降伏して奥羽一帯は忽ち平定できるというものであった。板垣退助は『会津を打つて根本をたてば枝葉自ら枯死すべし。而して遂に来春を期するに至れば、その間敵は戦備を充実しす。これ会津を伐つべき好機なり。」と参謀伊地知正治に説き江戸の総督府参謀大村益次郎に具申した。結局は、現地両参謀の意見が採用されて会津速攻のことが決定はしたが、次に両参謀の考えが進攻口の選択で意見が分かれた。伊地知は「母成峠(ぼなりとうげ)→猪苗代→若松」の湖北口の進行であったが、板垣はこれに対し、猪苗代湖北には猪苗代城がある。猪苗代に火を点け十六橋を落せば西軍忽ち頓挫す。母成峠攻撃は難所があるので攻めるには至難と考え「御霊櫃峠(ごれいびつとうげ)→中地三代→若松」という湖南からの迂回路を主張、互いに譲らなかった。やむなく双者両道から前進することに決まったが、これに対して長州の桃山発蔵は兵力二分の不利を唱えて母成峠一本に絞るように主張、板垣を説得しついに同意させたのであった。当時御霊櫃には会津の砲兵、中地には大鳥圭介の伝習隊等ありみな鳥羽伏見、総野の戦いに勇名をはせた強兵であった。

写真   戊辰戦争の戦略をたてた総督府参謀大村益次郎

母成峠の戦い②
かくて八月二十日、伊地知・板垣両参謀に率いられた薩摩・長州・土佐・佐土原・大村・大垣の六藩の兵約三千は、会津攻撃の行動に移り、石筵(いしむしろ)・母成峠を若松に至る六十キロの前進を開始したのである。またこれとは別に三百余の別動隊が編成され熱海の東方三キロの横川村から中山峠を進撃するかのような陽動作戦もとられた。
板垣退助,伊地知正治指揮する西軍に対し、石筵・母成峠を守っていたのは幕府陸軍奉行大鳥圭介の率いる伝習隊(旧幕府歩兵)四百を中心とした会津兵猪苗代城代隊長の田中源之進隊・新選組・二本松の残兵など数百人であつたが、日光口の幕府兵が賭け参じたが漸く八百名に過ぎなかった。まず会津兵の一部は二本松から母成峠にさしかかる伊達路の山入村で迎撃したが、圧倒的に多数の西軍に追撃されて後退。翌二十一日、西軍は早朝より東側の伊達路(土佐・長州)、中央石筵口(土佐・薩摩・長州・佐土原・大垣)、西側間道(薩摩・大垣)の三道に別れて母成峠の左方勝岩口山頂めがけて進んだ。西軍は、石筵の農民が先の閏四月三日会津兵と二本松兵の小競り合い(儀戦)で村落を焼かれて東軍を恨んでいると聞き、村民を諭して後藤要助らを嚮導(教導)として山葵沢の間道伝いに進み、東軍の懐中に出ると砲台を側面から攻撃した。午前十一時頃には三つの砲台が西軍の手に奪われて、藩境の一角はついに破られた。また大鳥圭介の本陣が農民の手によって焼かれるなど、東軍は算を乱して敗走。圭介らは三十四名の敗兵を叱咤しながら戦うが、隊士らは転戦の疲れで戦意乏しく、退却の途々で民家に火を放ちながら猪苗代方面、さらに磐梯の北方に向けて退却した。かくて東軍の各隊はばらばらになり、会津兵のみが猪苗代城へと退いたが、城代の高橋権太輔は城と土津神社にみずから火を放って退却、藩境攻防の第一戦としてはいささか脆い抵抗ではあった。
大鳥圭介は伝習隊を指揮し、大いに苦心したが遂に破れ先駆万苦の後、秋元原に至り、二本松藩家老丹羽丹波、会津の猪苗代城代隊長田中源之進、朱雀寄合一番隊長小森一貫斎会い沼尻道において井深等五十余人に遭遇した。
写真 幕府伝習隊を率い戦った日光口総督の大鳥圭介

十六橋の戦い①
慶応四年(一八六八)八月二十一日、母成峠を難なく突破した西軍は、猪苗代から約二里半(約十キロ)北の木地小屋部落で一夜をすごすと、翌二十二日にはまず薩摩の一~四番隊が猪苗代に向けて進撃を開始した。
猪苗代には会津の出城猪苗代城(亀ヶ城)があり、見祢山には会津松平藩の祖保科正之の霊を祀る土津神社がある。会津藩兵はこの神霊を奉じ猪苗代城を焼き若松に撤退した。薩摩軍は当然熾烈な攻防戦が展開されるものと覚悟しての進撃であったが、予想に反し会津軍の抵抗はなく、そればかりか目指す猪苗代城は既に火を吹いていた。それもその筈、猪苗代城代高橋権太輔は全軍を挙げて母成峠の守備に当たっており、それが壊滅的な打撃を受けた今、城を守るにも兵力はなく、城と土津神社に自ら火を放ち退却してしまった後だったのである。中山口の東軍は楊枝峠及び沼上峠の険を守っていたが、猪苗代の火を望み見て腹背敵なるを知り守りを徹して退却した。御霊櫃の守備は会津の小原宇右衛門の率いる砲兵であった。鳥羽伏見以来各地に転戦し南方口日光口において副総督山川大蔵に属し、日内内記の指揮下に入り、宇都宮、今市、白河等において活躍したが、猪苗代の火起こるを見て母成口の敗を知り、西軍を途に要せんと欲し馳せて猪苗代湖の南岸を急進し会津街道の原村に出る。
中地口の会津の海老名郡司、宗川熊四郎等猪苗代の火を見て戸の口に至る。
猪苗代に真っ先に到着したのは薩摩の四番隊であった。隊長川村興十郎純義は疲れて休止しようとする部下を叱咤し、小休止もそこそこに午後二時頃には再び進撃を命じた。それは少しでも早く戸ノ口十六橋(じゅうろっきょう)に到達し、会津兵が橋を破壊する前に橋頭堡を確保する必要があったからである。
十六橋というのは猪苗代湖から流下する日橋川に架けられた石橋で、若松の城下に入るにはこの橋を渡らなければならなかった。万が一この橋を会津兵に破壊されれば、水量の多いこの川は容易に渡れないことを彼らはよく知っていたのである。

写真  西軍が会津攻略として怒涛のように攻めた猪苗代に架かる十六橋

十六橋の戦い②
西軍二千八百の兵は戸ノ口を目指して怒涛のごとく進撃してきた。その先陣に立ったのはむろん薩摩藩の川村隊であった。川村隊が十六橋に来てみると、会津兵は既に十六橋の破壊に着手していたので、彼らはこれに一斉に銃火を浴びせかけ、猛烈果敢、疾風の如くに突進したが、このとき薩摩藩分隊長別府晋介がざんぶとばかりに日橋川の奔流に身を投じたので、衆もこれに励まされて先を争って続々と徒渉し来ったので、午後三時ころには会津兵も遂にこの天険を棄てるに至ったのである。(別府晋介の従兄弟に中村(桐野)半次郎がいる。明治政府では近衛陸軍少佐になつたが、西南戦争で西郷隆盛の側近として連合大隊長、熊本城を攻撃した。西郷の敵弾に当たり、介錯を求められると、最後の力を振り絞り「許したもれ」と介錯し、自らも自刃した。)会津側にとってこの事態は極めて重大であった。頼みとする猪苗代城や十六橋が、こうも容易に敵の手に陥るということは予想しえないことだったからである。十六橋が敵の手に陥るの報は、忽ち若松の鶴ヶ城に飛んだ。会津軍の大半はほとんど国境方面に出陣していて、城内は手薄であった。だが、敵兵の若松城下侵入は絶対阻止しなければならない。会津藩は急きょ敢死隊・奇勝隊七百余名を急派し、十六橋の南岸、戸ノ口原一帯に防御線を布くと同時に、藩主容保みずからも若松郊外の滝沢村へと本陣を進めた。このとき君側を護衛していたのが士中白虎一番隊と二番隊の八十名であった。だが戸ノ口原の戦況は危急で、二番隊の少年たちにも戸ノ口原への出動命令が下された。彼らは白虎隊長日向内記指揮のもとに滝沢峠を越えて戸ノ口原に到着したが西軍の先鋒と対峙したのはその日も夕暮れてのことであった。暗雲が低迷し小雨が降っていた。彼らは急の出撃で食糧も携帯していなかった。隊長の日向内記は食糧を調達してくると言って単身姿を消した。はじめは遠くに聞こえていた銃声も次第に近づいてくる。敵はすぐ目の前まで来ている。嚮導(副隊長)の篠田義三郎は隊長に代わって指揮をとり、敵と応戦したが西軍の進撃は急である。白虎隊士らは次第に敵中に取り残されていった。
写真  薩摩藩士別府晋介、先陣を切り日橋川の激流を泳ぎ会津に攻め込  
    こんだ。
【2011/01/21 22:03】 NAME[松宮輝明] WEBLINK[] EDIT[]
無題
松宮雄次郎の子孫です。
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
日本大学工学部非常勤講師(化学) 郡山市立あさかの学園大学講師(芸術文化・歴史) 

続・戊辰戦争の激戦地を行く
磐城の戊辰戦争①
慶応四年三月新政府軍より平藩に会津征討の命令が下ると、二万石の平藩主安藤理三郎公は真木光(幼名清吉郎、平藩の儒者)を平藩軍事掛(軍事責任者)に抜擢した。真木光は四月白河総督府において奥羽鎮守府参謀長州藩士世良修蔵と会見した。そして世良は平藩に会津藩掃討を命じた。此の時の情勢を真木は「諸藩の兵が白河城を死守せんと駆けつけたが雲を集めたようなもので各藩の態度は未だ定まらない。各藩とも敢えて西軍と戦うとの強い意はない。然るに会津藩の家老田中左内や幕府陸軍奉行並の大鳥圭介等が来て夜襲するに及び皆先を争いて遁れた。平藩の兵もまた潰走した。私、真木光も辛うじて砲を収めて平藩に帰城した。」と報告した。後に平藩でも奥羽列藩同盟の議が起こるが議論が沸騰し鼎(かなえ)の沸くが如くであったて決着がつかなかった。平城主安藤理三郎はこの時に京師に在り、真木光は即ち退任していた四十八歳の老公安藤鶴翁(信正公)に現在の情勢を説明した。真木光曰く「天下の大勢はすでに決している。薩長の天下を窺うことすでに数百年、今やその機漸く熟し既に天子を挟んで天下に号令している。我藩が今之と戦わんとするも城兵わずか三百名に過ぎない。又たとえ多少の増援を得ても勝算は無いとみなさなければならない。戦いの大義名分を如何とせん。加えて十五代将軍徳川慶喜公すでに恭順の意を示して水戸の弘道館に謹慎し動こうとはしない。
老侯信正公は退隠の身を以って朝敵になれば父子東西に分かれ相対峙することになる。もし進退共に戦わざらば、寧ろ西軍に属するのが順序である」と説いた。鶴翁公は之を聞き憤然と席を蹴って内に入ってしまった。
安藤信正公は江戸時代末期の磐城二万国の平藩主である。藩の苦しい財政を立て直した平藩の中興の祖である。千八百六十年(万延元年)幕府の老中になり、三月に大老井伊直弼が安政の大獄の恨みを買い江戸城桜田門外で暗殺された。そのため幕府は重大な危機に直面してしまったが、信正は老中四人の先頭に立って混乱を収めた。亦、公武合体策を進め、十四代将軍家茂と孝明天皇の妹和宮との結婚を実現させた。一八六二年(文久二年)、江戸城坂下門外で幕府の政策に反対する者に襲われ負傷し、その後老中職を退くと、失政の責任をとがめられ領地の一部を取り上げられ、無期限の謹慎を命ぜられた。
磐城の戊辰戦争②
平藩主安藤信正公は老中職の不手際を咎められ無期限の謹慎を命ぜられたがやがて謹慎も解け戊辰戦争が始まると奥羽越列藩同盟に加わり西軍に抗戦することになった。
平藩の執政は上坂助太夫であった。上坂は抗戦派の強行論者であり、列座の重臣も亦軍事掛真木光の考えを受け入れることをしなかった。鶴翁公(信正)は考える所あり、真木光を通して上坂助太夫を説得させた。助太夫はかたくなに薩長の策略により天朝を擁して磐城攻めを決行しょうとしていると主張し平藩の軍議は遂に西軍を迎え撃つことに決した。時に西軍は漸く国境を圧し来たり急を告げた。六月二十六日磐城方面の形勢が切迫を告げると、仙台藩主自らが出兵を指揮しようとするようなそぶりを見せた。そして左の布告を六月二十六日に同盟諸藩に通達した。「大義の伸」である。
「皇国を奉維持存意は告達申聞候通之處今般日光様妖徒 朝権を鑑み大政を乱り海内騒櫌万国塗炭に苦しみ候・・・」との大要である。
慶応四年六月十六日三隻の軍艦が薩摩、佐土原、大村藩兵九百人を乗せ茨城県の最北端の平潟港に上陸した。
平潟港は三方を山に囲まれた小さな入り江であるが、平藩、棚倉藩などの物産を積み出す重要な港である。翌日十七日仙台、平、泉藩の遊撃隊が平潟港の奪還を試みたが敗走し、勿来の関のある北付近の関田村で戦闘を開始した。二十日には平潟港に三隻の軍艦が入港し柳川藩兵三百人、岡山備前藩兵三百人が上陸した。
六月二十一日には関田村に備前兵が布陣した。二十二日には西軍先鋒の薩摩藩兵と備前藩兵は鮫川を渡り大江文左衛門率いる仙台兵と平藩兵約百名を潰走させ植田宿まで進出した。二十三日夜には暴風雨が吹き荒れ西軍の動きが止まった。この日磐城側にも棚倉城より援軍の仙台兵五十名、幕府残党軍の純義隊二百名の計二百五十名が到着した。西軍の動きが鈍いとの物見の報告を受け、林昌之助忠嵩は官軍への攻撃を決意した。二十四日激しい雨の中、純義隊、平兵に遊撃隊の六十名が加わり三百名程で植田宿へ進軍した。純義隊半小隊(約三十名)を牽制の為に宿を見下ろせる八幡山へ向かわせ本隊は植田宿へと突入した。植田宿の本陣のあった地点は現在八幡山の近くにある。

磐城の戊辰戦争③
六月二十四日同じ頃に八幡山の純義隊半小隊も西軍の攻撃を受け撤退した。純義隊本隊を追ってきた西軍は約五百名で東軍の倍くらいの兵力があり純義本隊は持ちこたえられず泉藩のある新田峠へと後退して守りを固めた。
二十四日、相馬藩中村兵が平城に到着した。この日湯長谷に駐屯していた遊撃隊と仙台兵は、大島の住民が西軍に好意的だとして村に放火した。
二十五日夕刻には純義隊等が磐城方面に転戦していたため、棚倉攻撃の戦力が不足していた。しかし、棚倉城が白河口西軍(土佐藩西軍参謀板垣退助)の攻撃により占領されているのを知り勢いに乗った平潟口西軍は磐城戦線に対する速やかな攻略を決定した。
六月二十八日会津の遊撃隊及び純義隊は仙台及び磐城三藩の兵と合し、西軍の根拠地たる上田村に進んだが、大雨の後であり鮫川の水が溢れ渡ることが出来ない両軍は川を隔てて戦った。純義隊は火を植田村に放ち退いた。
二十八日午前、西軍は植田で隊を二分し、一隊は山道を通り湯長谷、平に向った。もう一隊は浜を通り平に向かった。泉館はすでに藩主一行が退却した後であった。泉城主二万石の本多忠純は、西軍が平潟に上陸し海陸並んで進むと聞いてとても支えきれないと判断し僅かに一小隊を止め、其の布陣及び従者と共に平城に遁れた。泉館は難なく西軍に占拠された。
二十九日一万五千石湯長谷藩兵の主力は湯の岳の北にある白水阿弥陀堂付近の高野方面に布陣していため湯長谷館(現岩崎中学校跡)も難なく占領された。東軍は湯本に放火し、仙台兵、相馬中村兵とともに浜街道の堀坂に陣を布いた。堀坂は湯本と内郷の境の急な坂道である。西軍は直ちに堀坂に向かうが湯本が火事で通れず、東に迂回し東軍の側面から攻撃した。東軍は再び湯本に放火、仙台兵、相馬中村兵ともに浜街道の稲荷台に砲陣をひいて西軍を迎え撃った。日没となり両軍戦いを中断し西軍は引き上げ湯長谷に宿営した。
浜付近では二十八日に仙台の兵船二隻長崎丸・大江丸が増援部隊四百余を護送して江名の中之作に上陸し、駐屯していた部隊と合流した。兵船として西軍の上陸拠点の平潟港を奪還しょうと砲撃したが効果なく中之作に帰った。

磐城の戊辰戦争④
六月二十九日朝、泉奪還を狙うが東軍が前進した際、小名浜冨岡において西軍の砲撃を受け、仙台藩隊長富田小五郎以下三十余名が戦死した。中之作に遁れた仙台兵は先を争い伝馬船で戦艦長崎丸、大江丸に乗り移ろうとして海上で戦死した者が多く、生存者は四百余名中百三十余名、三分の一となり多くの戦死者を出す結果となった。
また、小名浜に宿営していた大村、薩摩藩両軍は平の南地区新川の谷川瀬方面から城東にある搦め手門及び、町内に、別働隊は内郷の小島から山伝えに長橋橋へと攻撃したが、平、相馬、米沢藩兵の強い抵抗にあって止む無く小名浜に引き上げた。六月二十九日西軍は勝ちに乗じて進みて、湯長谷城もまた落ち城主の幼君内藤長壽丸は危機一発急遽湯長谷城を抜け出し平城に入った。この日東軍泉館を奪還しょうと行くこと一里ばかり、西軍は既に富田村に隊列を整えて待ち構えていた。そして一斉射撃を加えた。平藩は富田村の西軍と砲戦を交え戦機漸く熟せんとする時、仙台兵が潰走を始めた。そのため防戦も効果も無く、仙台藩隊長山家正蔵以下死傷頗る多く遂に中之作港の退却を決定した。仙台船に逃げ込もうとしては先を争い雑踏し西軍の狙撃に遭い死するもの亦少なくなかった。西軍は更に進んで平城外長橋門に迫った。東軍は苦戦したが日が暮れようやく西軍の攻撃を退けた。
平城の執政上坂助太夫は仙台藩兵が撤退を開始したと聞き、仙台兵の振るわざを嘆くといえどもどうすることも出来なかった。平藩城中には仙台、平、相馬の兵を合わせて今や僅かに六小隊に過ぎず、即ち藩士近藤権平を若松に遣わし、軍事奉行一柳翁介、柴太一郎、伊東左太夫及び重臣諏訪伊助、家老萱野権兵衛等に迫り援軍を請願した。会津藩この時に藩兵は各前線に出陣しており城内には兵は少なく、城下に在った米沢藩に磐城の戦いの援軍を託した。米沢藩は即く総隊長江口縫殿右衛門以下軍監若林宗太、山吉源右衛門等一大隊を率い平藩に出兵することが決まり、平城中では「援軍来る。」の報を知りここにいたって漸く喚声が起った。

磐城の戊辰戦争⑤
七月一日払暁西軍本道上小名浜方面より大挙して北上し、火を城下に放ちながら呼繰して進む。東軍は会津、仙台、米沢、相馬中村、幕府兵を以って、平城の長橋、不明門、才槌の山門を固守し、砲兵を御厠村に置き又数重の塁を高坂村に敷いて西軍を防ぎ、ひそかに一部の兵を以って西軍を奇襲した。西軍は散乱し兵器弾薬を廃棄して遂に小名浜に遁れた。米沢藩の山吉源右衛門は苦戦奮闘して重傷を負った。ここにおいて東軍の士気漸く振るい、老侯鶴翁公(安藤信正)は城中で宴を開いて戦士をねぎらった。
西軍は作戦会議を開き曰く「草むらたる孤城にのみ攻撃を加えいたずらに日々を送るはよろしくない。わが士気振るわざるは今後の戦況に影響を及ぼす。よろしく死を決して戦うべし」と猛攻を加えることに決定した。東軍はこの西軍の作戦内容を秘かに知り警戒を頗る厳重にし戦いに備えた。しかし、独り米沢の総隊長江口縫殿右衛門は蝶命(藩命)なりと称し同十日兵を四ツ倉村に退かせた。仙台の古田参謀、平の神谷参政は大いに之を憂い人を介して江口を説得したが、江口曰く「我もとより応援として来る、敢えて傍観するにあらず。藩命を如何ともすることが出来ない。平城方面に砲声が起こるを聞けば来て之を援護するのみ。」と答えるのみであった。
同十三西軍は濃霧に乗じ因幡、備前、柳川、佐土原の兵を以って湯長谷、湯本を発し、一部を持って薄磯より残余の兵を以って中之作、七本松より来たり攻め込む、湯本、上田の西南方より柳川、備前、大村、因幡の兵、長橋方面に佐土原、備前の兵、東方不明門には薩摩、大垣の兵は之に向かい各面より一斉に殺到した。
平藩士三田八彌等は挺身之にあたったが斃れあるいは傷つく者が続出した。霧漸く晴れて西軍の兵は城下に満ち溢れた。平城兵之を見るや大手門及びその他の門より出でて之を逆襲した。西軍屈せず不明門を超えて城中に入った。因幡、備前、柳川、佐土原の兵は才槌門に肉薄し、其の一隊は城西六間門より進み大小砲を発して之を攻める。城兵は苦戦惨烈を極めた。時に天色暗澹疾風俄に起こり大雷鳴あり、閃電一過あたりを震動させた。加えて雨が激しく降り、砲声また殷殷として山野に轟き、城郭は破壊され死屍が累々と横たわり其の惨状は戦場とはいえその極みに達した。

磐城の戊辰戦争⑥
平藩家老執政の上坂助太夫は慷慨(こうがい)を禁ぜず。薙刀を掲げ自ら城兵を指揮し、一方には援護を四ツ倉の米沢藩に乞うた。米沢の片桐等藩命と称し敢えて動かない。更に江口に求むも「藩命があるまでは」と事に托して又応ぜず。城兵は憤慨したが如何ともしがたい。苦心惨憺各々死力を尽して戦う。然しながら旧来の銃であるので火薬が湿り弾薬が発射出来ない。そこで銃を捨てて刀を振るい戦い、日漸く没するに及び藩邸を焼き、明かりをとり深夜に達した。城主安藤対馬信正公は遂に難を近郷に避く、藩家老上坂助太夫衆を集め共に死守せんとしたが、城中にあるもの平藩士の僅少と仙台の古田の率いる一部と中村相馬藩将監の二小隊とのみなり、食糧も僅かに四五日分となっていた。弾薬は殆んどなくなり今や二千余発砲弾二十二三発を有するのみとなっていた。上坂は城を守ることが出来ないことを知り衆を相馬領に退け独り止まって死のうとしたが、相馬将官憤然として曰く「我君の命を受けて来たりここに在り、死生存亡又何かあらん、然れども一度去って再び挙を計る亦一策ならん」と、衆意これに決し助太夫また其のことを入れ涙を揮って城北戸張門より出で相馬領に退く、老侯安藤正信公もまた仙台向かって去った。此の時平城中は火の海となり翌朝になっても尚火勢は止まることがなかった。
戊辰戦争いわきの戦いの各藩の戦況報告によると仙台藩は戦死者は百九人、負傷者は三十一人である。西軍柳川藩の報告によると二十八日新田の賊(東軍)を破る時五人が負傷、純義隊中村芳五郎を捕虜にして、同日平潟に向かう。二十九日賊船(仙台藩の軍艦)が来たが撃ち返し之を退かせた。死者二人、重傷十八人、軽傷七人 西軍佐土原藩報告では二十八日柳川藩と新田の賊(東軍)を破る。死者一人、負傷者三十八人、二十九日に備前兵と三坂口へ進む。賊(東軍)は湯長谷を保つ、攻撃して敗走させ平城に迫る。重傷三人。西軍備前藩報告では二十八日薩摩と泉に入る。遊撃隊一人仙台藩三人を捕らえ翌日斬首する。十九日西軍薩摩、大村藩と浜手に向かい佐土原藩と共に湯長谷を攻撃し平城に迫った。死者五人負傷者四人、十四日平藩一人仙台藩一人を捕らえ斬首する。西軍大垣藩報告では二十九日烈戦中之作に進撃する。仙台藩は裸体を海に投じ遁走、後地元の人々の言によれば死屍浪に浮かぶもの三十人余、この日富岡賊死傷者百余人、我が方の負傷者二人、十三日傷十三人との記録がある。

磐城の戊辰戦争と天田愚庵
磐城戊辰戦争の犠牲者に天田愚庵(あまだぐあん)がいる。嘉永七年(一八五四)平藩士の子として生まれた。慶応四年(明治元年)七月十三日愚庵十五歳の時に薩摩、長州、佐土原、大村、柳川、備前藩などの西軍の攻撃を受けて平城が落城した。そして愚庵は自宅に残してきた両親と妹が行方不明になった事を知った。そこで両親と妹を捜すために全国行脚の旅に出た。薩摩藩士で後に陸軍少将の桐野利秋(中村半次郎)、勝海舟の下で江戸城無血開城に奔走した山岡鉄舟や清水次郎長等から大層親切に面倒を見てもらっていた。手に職を付けるため東京の写真技師の下に入門して技術を身につけ、写真師として肉親を尋ねる旅に出たが、再び清水に戻った。また、清水次郎長が傷害事件を起こし逮捕されたの報を受け、次郎長の釈放に奔走する事になる。そして明治十一年(一八七八) 二十四歳の愚庵は清水次郎長を助けて富士の裾野を開墾に従事した。明治十四年(一八八一) 二十七歳のとき山本五郎(やまもとごろう)として山本長五郎(次郎長)と養子縁組を結び次郎長の子供になった。
明治十七年(一八八四)清水次郎長の生い立ちと任侠道の出入りのを口伝として聞き「東海遊侠伝」として著した。後に愚庵が著した「東海遊侠伝」は多くの人に愛読され講談や浪花節の世界で清水次郎長が全国的に知られる様になった。
明治二十年(一八八七)三十四歳にとき 京都林丘寺の滴水禅師の得度を受けて禅僧になった。
明治二十五年(一八九二) 三十九歳のとき京都の清水の「愚庵邸」に、正岡子規と高浜虚子が訪れて愚庵と交遊した。愚庵は人間としてありのままの心を歌う万葉調の歌を正しいものと考えて、和歌の世界に入り普及に努めた。友人でもあった明治時代の代表的な歌人で近代俳句を創立した正岡子規(まさおかしき)は、天田愚庵の影響を受けて万葉集を研究し、和歌の革新運動を行ったことはよく知られている。その意味で、愚庵は、子規が行った文学運動の草分けとして重要な人物である。
愚庵は明治三十七年(一九〇四) 京都伏見桃山の庵で死去した。享年五十一歳であった。愚庵の庵は俳人の正岡子規の弟子荻原井泉水らによって京都からいわき市松ヶ岡公園に移築復元され一般に公開されている。

 相馬藩遂に西軍に降る
慶応四年七月二十六日浜街道の西軍は北進して木戸駅を攻めた。木戸駅は相馬藩の安危に係わる重要な要害の地である。相馬藩は全力を挙げて仙台、平、幕府軍の諸兵を合わせ西軍の攻撃に当った。西軍は海陸より併せて進み、仙台藩の伊達藤五郎は海岸線を守り力戦奮闘したが遂に傷ついて退いた。相馬藩相馬将監も亦苦戦して之で落命した。東軍此処に至り気しばらく阻む。同二十八日西軍は更に進んで熊川駅を攻撃し、新山、長束、浪江を経て遂に中村城を降伏させた。此の段階で仙台藩の兵は夜を徹して遠く退却し、米沢藩亦次いで退却してしまった。之より先東軍は相馬藩の挙動を疑い人を遣わして之を詰問した。藩主相馬公曰く「西軍国境を越えて来るならば、城を枕に討ち死にするのみである。」と叫んだ。さながら心の底から出る様な言葉であった。然しながら尚款を西軍に内通する形跡ある様子であるので、仙台藩士木村又作をして中村城に派遣して事実を挙げて之を詰問した。相馬藩の重臣多々部冬蔵等は極力之を否認し、断じて奥羽列藩同盟を破棄することはないと「絶対に無い」と誓った。且つ約束するに、相馬藩主老公夫人を仙台城に迎え入るので誓って同盟を破棄することはないと語った。しかし其の舌根も未だ乾かざるその翌日即ち八月七日、相馬藩は西軍の兵千余名を城中に迎え入れた。次いで其の嚮導(先導)となって西軍の将兵を仙台方面に向かわせんとしている。木村又作大いに怒り相馬藩重臣多々部を面責して、其の食言無説を非難した。多々部曰く「寡君既に降ると雖も敢えて盟約を蹂躙したのではない。之れは貴藩が盟主たる責任を果たさず、遂に我を孤立せしめたるが為り。」と述べた。木村憤慨して曰く、「しからば今我が首を斬って相馬藩の安泰を図れ。」と両者口論になり止まるところを知らない。時に砲声轟然として野外に起こる。両氏遂に袂を分かって去る。是に於いて仙台軍は駒嶺に塁を築き是に備える。時に二本松布陣している西軍は彦根、備前、柳川諸藩の援護を得て、勢力大いに張り将さに福島に向かって進入せんとの情報が頻繁に入って来た。八月八日浜街道の西軍は先ず黒木村に進み駒嶺の険を衝く、同十一日西軍進んで原籠、椎木の東軍を撃つ、東軍猛進原籠の西軍を破り之を追う、椎木の戦い亦激烈にして西軍大いに苦しんだがその一部東軍の背後より火を放って之を攻めた。東軍背後より攻められ戦線は混乱し動揺が走った。西軍機に混乱に乗じて進む、東軍遂に駒嶺を棄てて原籠口に退却した。
小野町の戊辰戦争①
小野町の戊辰戦争については平成13年の「小野町戊辰戦争」の記録を参照して掲載する。
小野町は奥羽列藩同盟の地域に位置しながら西軍に組みした。小野町は、幕府領の飯豊、浮金、山神、雁股田、吉野辺、三春領の湯沢を除いて、茨城県の笠間藩の飛び地領地としていわき市の神谷にあった陣屋の支配を受けていた。いわき市の合戸、三和、三坂から夏井、小野新町までがその支配下にあった。小野新町では笠間藩の指示で一八六四年(慶応元年)五十二名の農民兵が町民の中に組織された。
農民兵を組織した人たちや早くから尊王運動を進めていた神職などである。地理に不案内の西軍の道案内や食糧調達、輸送さらには夜警、篝火番、町の入り口の警護などの仕事を積極的に担い西軍の動きを支えた。農民兵は鉄砲、鑓、脇差等で武装し、苗字帯刀を許され身分を保証され手当ても支給された。その多くは各地区の有力者、豪農、村役人、名主やその若い子弟であり平均年齢三十三歳の働き盛りの農民で、小頭は小野新町村の荻野三四郎、藤田平左衛門が任命されている。
東北の奥州列藩として西軍(薩長土肥)と戦う為ではなく、早くから西軍に恭順していた笠間藩の奥羽列藩同盟からの自衛の為のものであった。
五月一日には白河城が落城、五月二十八日には上野彰義隊が敗北して形勢は圧倒的に不利になる中、奥羽列藩が拠り所としていた輪王寺宮が茨城県の最北端平潟港から上陸し東北へ入る。五月三十日三坂街道中寺泊、三十一日小野新町泊、六月二日には三春の竜穏院に泊り本宮、猪苗代、若松、米沢と移っていく。
六月十六日 西軍の先遣隊が平潟港より上陸し、白河城落とした後の西軍参謀の板垣退助らと合流した西軍の一隊は二十四日には棚倉城落城、二十八日泉城落城、二十九日湯長谷城落城、東軍は平城に集結、この間六月十九日には西軍の笠間藩神谷の陣屋を接収、さらに七月三日神谷陣屋の残軍のいる薬王寺村を攻撃、神谷陣屋軍は八茎村に撤退する。そして七月十三日ついに平城が落城する。

小野町の戊辰戦争②
西軍は六月十六日が平潟港に上陸しいわきの各地で戦いを展開し泉藩、湯長谷藩を落とし七月十三日に平城が落城した。これらの状況を見て七月十六日頃に東軍は小野新町に二本松、三春、仙台角田等の藩兵四百人が滞陣守備し、北上する西軍を小野町で止めようとした。西軍は平城を落とした後七月二十五日に三坂に泊まり、翌二十六日早朝に出陣し小野新町に進軍してきた。同盟軍は明神山(塩釜神社)に二百人の二本松藩兵が砲台を築き三春藩と仙台角田藩は西と東に布陣し、谷津作田原井口から入った西軍との小野町での戦いが開始された。戦いは、旧式の武器のままの同盟軍に対し、近代兵器で武装した西軍の前に勝敗は午前中で決まってしまった。実質的に戦ったのは明神山(塩釜神社)に陣を敷いた二本松藩で、三春藩は赤沼に陣をとったが小戸神付近で敗北、角田藩は広瀬を通って逃走し戦いが始まると両藩はほとんど戦わずして退却したといわれている。この戦闘で奥羽勢が五、六人戦死、鬼石でも一名戦死(角田藩士)したといわれている。西軍側でも谷津の稲荷神社付近で当時十九歳の薩摩藩物頭吉井甚之助が戦死し普賢寺に増光院殿居士の法号で埋葬された。西軍はこの後昼食を小野町で取り三春を目指し北上して行った。
西軍が三春に到着する前に、早くから無血開城を唱えて動いていた三春藩士河野広中らの動きがあった。河野広中は先に白河城、棚倉城を攻め落としていた板垣退助らと面会し三春城の無血帰順の画策を進めていた。これが後の自由民権運動の指導者、板垣退助と河野広中の出会いである。片や奥羽同盟軍に組し、同時に西軍に帰順する道を探っていた三春藩の同盟軍に対する反盟の選択で三春藩は降伏し西軍は戦わずして三春に入った。この後、勢いづいた板垣退助率いる西軍は二本松をめざし七月二十九日に二本松城は少年隊の悲劇を経て落城する。
さらには八月二十日には会津を総攻撃、仙台藩、米沢藩が降状し、九月十五日会津若松城がついに開城することによって戊辰戦争は事実上終結する。

【2011/01/21 22:09】 NAME[松宮輝明] WEBLINK[] EDIT[]
無題
 松宮雄次郎の子孫です。柏崎原子力発電所で娘夫婦が、孫が新潟大学法学部でお世話になっております。
松宮雄次郎の子孫です。伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
日本大学工学部非常勤講師(化学) 郡山市立あさかの学園大学講師(芸術文化・歴史)

 相馬藩遂に西軍に降る
慶応四年七月二十六日浜街道の西軍は北進して木戸駅を攻めた。木戸駅は相馬藩の安危に係わる重要な要害の地である。相馬藩は全力を挙げて仙台、平、幕府軍の諸兵を合わせ西軍の攻撃に当った。西軍は海陸より併せて進み、仙台藩の伊達藤五郎は海岸線を守り力戦奮闘したが遂に傷ついて退いた。相馬藩相馬将監も亦苦戦して之で落命した。東軍此処に至り気しばらく阻む。同二十八日西軍は更に進んで熊川駅を攻撃し、新山、長束、浪江を経て遂に中村城を降伏させた。此の段階で仙台藩の兵は夜を徹して遠く退却し、米沢藩亦次いで退却してしまった。之より先東軍は相馬藩の挙動を疑い人を遣わして之を詰問した。藩主相馬公曰く「西軍国境を越えて来るならば、城を枕に討ち死にするのみである。」と叫んだ。さながら心の底から出る様な言葉であった。然しながら尚款を西軍に内通する形跡ある様子であるので、仙台藩士木村又作をして中村城に派遣して事実を挙げて之を詰問した。相馬藩の重臣多々部冬蔵等は極力之を否認し、断じて奥羽列藩同盟を破棄することはないと「絶対に無い」と誓った。且つ約束するに、相馬藩主老公夫人を仙台城に迎え入るので誓って同盟を破棄することはないと語った。しかし其の舌根も未だ乾かざるその翌日即ち八月七日、相馬藩は西軍の兵千余名を城中に迎え入れた。次いで其の嚮導(先導)となって西軍の将兵を仙台方面に向かわせんとしている。木村又作大いに怒り相馬藩重臣多々部を面責して、其の食言無説を非難した。多々部曰く「寡君既に降ると雖も敢えて盟約を蹂躙したのではない。之れは貴藩が盟主たる責任を果たさず、遂に我を孤立せしめたるが為り。」と述べた。木村憤慨して曰く、「しからば今我が首を斬って相馬藩の安泰を図れ。」と両者口論になり止まるところを知らない。時に砲声轟然として野外に起こる。両氏遂に袂を分かって去る。是に於いて仙台軍は駒嶺に塁を築き是に備える。時に二本松布陣している西軍は彦根、備前、柳川諸藩の援護を得て、勢力大いに張り将さに福島に向かって進入せんとの情報が頻繁に入って来た。八月八日浜街道の西軍は先ず黒木村に進み駒嶺の険を衝く、同十一日西軍進んで原籠、椎木の東軍を撃つ、東軍猛進原籠の西軍を破り之を追う、椎木の戦い亦激烈にして西軍大いに苦しんだがその一部東軍の背後より火を放って之を攻めた。東軍背後より攻められ戦線は混乱し動揺が走った。西軍機に混乱に乗じて進む、東軍遂に駒嶺を棄てて原籠口に退却した。
【2011/01/21 22:17】 NAME[松宮輝明] WEBLINK[] EDIT[]
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天寧寺町口小原砲兵隊の戦い①
 之より先猪苗代亀ヶ城が落ちるや、会津藩の小原宇右衛門の率いる砲兵一番隊は、御霊櫃峠を守っていたが慶応四年(一八六八)八月二十二日、午前十時頃石筵口の敗戦の報を知った。そのとき、猪苗代城が兵火にかかって天を焦がして炎上しているのが望見された。午後八時ころ、今後の行動について軍議を開き「猪苗代に出陣して敵兵を迎撃すべし」「十六橋の我が軍を援くべし」とする者など、軍議はなかなかまとまらなかった。二十三日の暁に及び、西軍はすでに戸ノ口を破って若松の城下に侵入したとの急報がもたらされ、急遽兵を若松に引き揚げることに決定した。大砲を山中に隠し峠を下り二十三日未明、会津街道の原、赤井に達した。西軍はすでに城下に侵入していることを知り、背炙(せあぶり)峠を超えてはるか鶴ヶ城の無事を見て大いに喜び、速やかに入城して容保公に拝謁しようと兵を励まし天寧寺町口に向かった。
小原隊は背炙峠の間道を経て東山街道に下り、直ちに天寧寺町口郭門より城に入ろうとした。しかしこのとき既に西軍は郭門を占領して、その壘壁内に潜んでおり、小原隊が近づくや俄然猛火をあびせ、その間数十間、弾丸飛雨する中を隊長の小原宇右衛門は、兵を鼓舞叱咤して郭門に突貫させた。隊兵の斃(たお)れる者は数えることが出来ないというほど多数で激戦が展開されるなか、隊士の木村某は決然にして壘壁を越郭門に入りこれを開きえて敵中に突入、郭門をひらいて会津軍を誘い入れた。
 小原宇右衛門は機に乗じ刀を揮って郭門内に入り敵中を猛進するや西軍は道を避けて近辺の士邸(簗瀬・田中・三宅宅)に潜んで小原隊を乱射した。宇右衛門(四百石)らは獅子奮迅の戦いをした。宇右衛門は神保原(今の県立博物館東北辺)に至ったが、ついに弾丸に当たって斃れた。その弟の小原魁は兄を救おうとしてかけ寄ったたが、これもまた敵の狙撃にあって斃れた。
 隊長護衛の士は大塚六四郎という未だ十八歳の若者であったが、宇右衛門を介錯して、その首を携えて城に入ったので、藩主容保はその武勇を賞し、士中一ノ寄合とした。

天寧寺町口小原砲兵隊の戦い②
小原隊は、帰城兵中もっとも早い隊の一つであったが、激烈だったこの戦いで、天寧寺町口から三之丸入り口の埋門に至るまでの間で、隊長の小原宇右衛門・魁の兄弟をはじめ組頭多賀谷勝次郎(四百五十石)ら二十名(二十七名とも三十余名ともいう)の戦死者を出し、城に入ることのできたのは全隊士の半数にも足らなかったという。
後大塚六四郎は東京で謹慎中兵部省に召され隊長小原宇右衛門・魁兄弟の護衛の任を全うすることを賞せられた。時に十八歳であった。
 砲兵に関しては当時幕府は砲兵隊は江戸においてフランス国陸軍に学び曳馬式組織に着手していたが、当時の会津藩の砲兵隊は、フランスに倣って曳馬方式に改善する方向に検討されてはいたが、まだ一般には小銃をもった兵によって搬送されていたため、とくに機動性・機敏さを要求される戦闘においては却って厄介物でしかなかった。鳥羽伏見の戦いは砲兵の陣地変換に機敏さを欠き、遂に機関部を破壊して之を破棄する状況で、大部分は小銃戦を以って戦闘を行った。小原宇右衛門は御霊櫃峠から急遽転戦を余儀なくされた際、大砲は山中に隠したままで移動している。このうちの一門は大正三年にいたって現地農民によって発見されている。
 会津藩は幕府脱走の士が密かにフランス国の新式砲を、海路茨城の最北端平潟付近より会津に送致の計画を立てたが、僅か十数門の外は到着せず、その他は蘭式菖砲にして、施錠式ではなくしたがって会津藩は和流の砲が多数であり、籠城中主にこの種の砲を以って防戦した。之に反して、西軍は若松進入後数日にして新式砲の多数を搬送して来た。小田山を始め四面より猛烈な砲撃を開始することになる。

白虎隊、飯盛山にて自刃す①
 慶応四年(1853)八月二十二日石筵口の敗戦の報は会津若松城に達した。会津藩の壮年藩士は四方に出陣し、残る者は老幼婦女子のみで篭城(ろうじょう)の準備は出来ていなかった。会津藩の作戦本部は仙台藩兵及び各方面の守備兵を昼夜兼行で戸の口原に移動させ西軍の会津進行の防御に当らせた。藩主松平容保・喜徳親子は未明本城を発し弟桑名藩主松平定敬と共に兵を率い滝沢村郷頭横山山三郎の邸宅を本陣とし東軍を指揮した。会津藩士日向内記は城中守備の士中白虎二番隊を率いてこれに従った。石筵の母成峠が破れ、次いで会津藩の出城猪苗代城が堕ちるや、西軍は進出疾風のごとく戸の口に達した。時に東軍は小池繁次郎の率いる遊撃隊七・八十名を以て戸の口を守り、辰野勇の敢死隊及び坂内八三郎の奇正隊各七・八十人を以って戸の口原を死守した。そして上田新八郎の第二奇勝隊百二・三十人の砲兵を加え、西軍に当った。郡奉行の古川幸之進は日橋川の橋梁を焼き桑名兵と共に大寺方面を固守した。西軍は十六橋を奪還し戸の口に入るや、砲声は若松城下に達した。終夜城中では援兵派遣、兵糧の輸送、死傷者数の収容に奔走する有様であった。
 西軍の会津若松城下に侵入の様子について平石辯蔵「会津戊辰戦争」の記録によると慶応四年八月二十二日の夜、戸ノ口原の砲声が轟々(ごうごう)と響き若松城下に達するや、市民は避難の準備に忙しく夜を徹して一睡だにしなかった。しかし西軍がいかに勇敢といえども若松城下に入るまでには、尚一両日の余裕があるだろうと思っているが、砲声は刻々と近づき悲報がしきりに届いて市民の恐怖は極限に達した。
 翌朝二十三日、天明とともに西軍は滝沢坂頭に殺到した。砲火は耳をつんざくばかりであった。東軍は皆血に濡れ、刀を杖にして続々として退却して来たので道路の雑踏は甚だし状況であった。これに対し西軍の追撃は疾風の如く、遂に若松に入りて市街で乱射するに至った。これに市民は大いに驚いて、朝食をとる暇もなく多くは食膳を並べたまま、老人を助け子を抱えて西方の山野に逃れた。故に数万の市民が一時に、七日町・柳原町・材木町口に出て、先を争い避難した。

白虎隊、飯盛山に自刃す②
若松城下の混乱は大変の状況にあった。殊に川原町橋、烏橋、柳橋の如きは人が山のようになり、倒れる者、起きる事のできない者、死傷する者が続々と相次いだ。
 八月二十三日の払暁、西軍は勝ちに乗じて猛攻を開始した。松平容保は戦況が不利であることを知り、日向内記に対し、白虎二番中隊を率い東軍を援護することを命じた。白虎の一隊は意気軒昂で大雨を冒して進み、敢死隊の右に連なって西軍に対した。砲声は殷殷として夜陰を破り戦闘は正にたけなわの激戦であった。然しながら東軍の保有する武器は、槍、又は火縄銃であって、白虎隊のみ「ヤーゲル」と称する洋式後装銃を有していたが、其の威力は西軍の銃の比ではなかった。ことに火縄銃の如きは弾薬衝くのに手間がかかり硝薬が湿ってしまい役に立たなかった。そこで銃を棄て白刃をかざして戦うのやむなきにいたった。これに反して西軍は益々兵数を増加してきた。そのため東軍は其の戦線は北は日橋川の左岸より赤井村方面に渡り延長しければならなかった。東軍は益々苦境に落ちいり白虎半隊佐藤駒之進、敢死隊辰野勇は奮戦して此処に戦死した。笹山方面では遊軍隊長小池繁次郎、同組頭安藤物集馬、鈴木文次郎を始め此処に斃れた。戸の口原においては長坂悌五郎、敢死隊組頭小原信之助、同大沼市太夫及び猪苗代隊村松常磐も戦死した。死傷者は刻々増加し、やむなく暫時退き強清水、及び赤井村の線まで撤退した。然しながら西軍は疾風怒濤の如く遂に強清水を破って進んだ。奇勝隊小隊牧原奇平及び横山健三郎、横山義蔵等も又此処に戦死した。東軍は更に堀金村に停止し、西軍が沓掛に攻め込んでくるのでこれを待って逆襲しょうとした。此の時東軍砲兵の一部を沓掛、金堀の中間瀑布付近に退却中であったが、西軍が沓掛に現れるのを見て倉皇砲を据え俄然之を迎え撃った。その間僅かに四五十間に過ぎなかった。西軍は此の地で死すもの少なからず。東軍亦奇勝隊長上田新八郎、安部井仲八、猪狩亮八外将卒十余名を失った。西軍はくぼ地を隔てて応戦したが、後部部隊の到着を待ち、金堀の東軍を圧して滝沢峠に向った。

白虎隊、飯盛山に自刃す③
このため会津藩の隣部隊は既に退き、今や白虎隊のみとなってしまった。しかしながら白虎隊士は未だ孤立したのを知らなかった。拂暁に及び戸の口の西軍に向かい戦いを挑んだが、たちまちにして西軍の猛攻に遭い手の施しようが無かった。すでに隣部隊は皆退いてしまい、隊長日向内記は「我らには食糧の準備が無いから敢死隊に相談して何とか都合して貰って来るから一同このところで待ち居るよう」と単身暗闇のなかを元来た方向へ引き返していった。白虎隊士は雨と闇の中でリーダを失った。情勢の把握と食糧の調達のためにとはいえ隊を離れた日向隊長の判断の誤りが悲劇を生むことになる。嚮導の十七歳の篠原儀三郎は「隊長今にいたるも帰らず不肖篠田が今より隊長に代わって指揮す、左様心得るように」と述べた。白虎隊士は今や前面後面は皆敵であることを知って驚いた。退却の中で赤井新田に辿りついた。そして小隊頭水野勇之進、山内弘人、半隊頭原田克吉等とであった。克吉は隊士八名と共に道を失い、羽黒山顛に出て翌二十三日天寧寺町口より入城した。白虎の残員僅かに十有七余人、傷の手当てをする暇もなく鮮血を流したままであった。銃を肩に背負い刀を杖とした一団となったしまった。山道を潜行し、時に皆飢え且つ疲れ殆んど戦うことが出来ない。実に疲労困憊その極限に達した。隊士の在る者が曰く「事既にここに至り、万一敵手に落ちるが如きあれば汚名を後世に残すことになる。且つ主辱めらるるときは臣死す。これ武士の通義なり。寧ろ自刃して臣節を全うせん。」と。西川勝太郎曰く「銃未だ裂けず刀尚折れず、宜しく公の先途を見て従容義に就かん」と、隊士一同皆衆議は一致した。然しながら隊士の中で一人も地勢を知るものが居なかった。天明漸く滝沢不動の山道に達し辛うじて新堀に至る。新堀は戸の口より通ずる疎水であって、飯盛山山腹の洞穴を貫流し会津平野の灌漑につかわれている。此の時西軍の先頭既に城下に迫りその後続部隊なお滝沢坂頭にあったが白虎隊士たちは空腹と疲労にあえぎながら退却を余儀なくされた。彼らは赤井谷地から滝沢峠の山道を迂回し、間道伝いに潜行しながら若松の城下を目指した。

白虎隊、飯盛山に自刃す④
西軍の兵は舟石峠を駆け下り、飯盛山に沿いながら陸続として南進、まさに若松城の虚を衝かんとしている。一方、白虎隊士らは敵の目をのがれ、谷を渡り、山腹を這いながら退却し、白糸神社のあたりまで来るとここにも西軍の兵は一杯であった。そのうえ敵の一斉射撃を受けて、隊士の永瀬雄次が腰に負傷した。
西軍は乱射乱撃の急追で、忽ち滝沢峠に殺到した。ここを守備する東軍は会津の佐川官兵衛、桑名の岡本武雄であった。東軍の敗兵は創(きず)をつつむ暇もなく雪崩こんでくる。これをみた佐川官兵衛は憤然として叱咤激励し、渾身の勇を奮って防戦につとめていたが、見る見る満山敵兵に埋め尽くされた。
 もう街道は完全に通れない。このとき白虎隊士の脳裡にひらめいたものは、この先に戸ノ口疎水の洞門があるということであった。一同は永瀬を助けてこの洞門をくぐり抜け、厳島神社の裏に出た。そこから山腹を辿って飯盛山の南面に迂回してみると、すでに会津城は早や紅蓮の炎に包まれて、天守閣も今や落ちるかと思われた。隊士たちもここまで来る間に皆バラバラとなり、最初にたどり着いた一団は僅か数名であったと伝えられている。その後同隊の士三名滝沢峠において西軍にさえぎられたが辛うじて飯盛山に達した。
 彼ら少年たちは小手をかざして燃え盛る城下にしばし見入っていたが、主君もすでに城と運命を共になされたかと思うと、熱い涙は両頬を伝わってとめどなく流れた。若松城はついに陥ちた。自分たちには既に帰るべき家もなければ、城もない。一死君国に殉ずるのはまさにこのときである。一同潔く自刃し、黄泉の国で再会しようではないか。誰いうともなく各自の意志は伝わり、少年達は銃を捨て、一斉に若松城を拝し跪いた。彼らも亦剣に伏して殉じた。時に八月二十三日也。この日、飯盛山で自刃したのは十六士であった。

白虎隊、飯盛山に自刃す⑤
 生き残りの白虎隊士飯沼貞吉(後貞雄と改名)の言によれば、城下の光景は前述の如くであった。しかし、今より敵の重囲を衝かんとの議もあったが、疲労其の極に達していたので奮闘することは意のままにならない。空しく生け捕りの屈辱を受けるのも遺憾である。遂に自刃に一決した。飯沼氏は出発に際し、母玉章より与えられた短冊を取り出し声たからかに再三繰りまわして読み蹴れば、篠田儀三郎傍にて爽やかに文天祥の詩を吟じて之に和した。時に負傷に苦しむ石田和助之はこれを聞き勇気をだして「人生古より誰か死無からん。丹心を留取して汗青を照らさん」と誦し終わると「手傷苦しければお先に御免……」とばかり両肌を脱ぎ、刀を腹に突き立てると見事にこれを引き回し自刃した。これを見た嚮導の篠田儀三郎は遅れずとばかりに喉を突いてその後を追った。貞吉もまた小刀を抜いて咽喉をついたが鮮血が流れるのみで死に切れない更に突き直したが骨に当って通らない、柄頭を石に押し当て躑躅の枝をもろ手につかみ、渾身の力を込めて前に伏し漸く突き通すことまでは知りえたがその後は人事不省おちいってしまった。林八十冶は永瀬雄次と平素特に親交があり共に語らい共に刺し違いたが永瀬敵弾を腰に受けて重傷を負ってはやる心はあっても思うように自刃することが出来ない。之を見て林八十冶は永瀬を助け刺し違えようとしたが、これもおもうようにまかせない。其の力たらざるので傍人に介錯を頼んだ。野村駒四郎は然らばと背後に廻り之を介錯し、返す力で自ら亦腹を屠って斃れた。この様にして他の者たちも次々に後を追ったが、一足遅れて到着した一団もまさにこの悲壮凄惨の状況に遭遇し、我らも遅れずとその後を追った。だが実は、城は陥ちてはいなかったのである。城下は西軍の焼き打ちで炎上はしていたが、以後三週間の長きにわたる籠城戦が、この日を皮切りに展開されていたのである。それとは知らずに死を急いだ彼等少年は、まさに悲劇としか言いようがない。
現在飯盛山上には十九士の霊が祀られている。明治十七年、石山虎之助十七歳、更に二十三年、殉難碑が建立されたのを機に、飯盛山に到着する以前に戦死した、池上新太郎十六歳、伊東悌次郎十五歳、津田捨蔵十七歳の霊も加えられた。

小田山の火薬庫を爆破
八月二十四日東方面の東軍は若松城外に退き城に入ろうとした。城中より使いがはせ参じ直ちに会津藩の火薬庫ある小田山を占領するように伝えた。しかし諸隊の兵が集まらず、会津藩士は昼夜兼行で戻ったため休養が必要であり城に入り食を取りその後小田山を占領する作戦に変更した。二十五日白河、二本松より侵入した西軍は城外の地形を検分し、一向宗極楽寺の僧が西軍に小田山の地形が城攻めに良いと告げた。薩摩、鍋島、松山、大村、土佐等五藩の砲兵は山上に塁を築き放列を布き、城を眼下にして一斉に砲火を浴びせた。其の目標は天守閣にあったが然しながら建築が堅牢にして、多数の巨弾が当っても僅かに白壁を傷つけるに過ぎなかった。西軍はここにおいて破裂弾を以って屋舎及び兵員を傷つようとした。城中ではこのために火災が起こった。しかし江戸藩邸で養成していた消防夫等が会津入りをしており城中にあって弾雨の間を駆け回り消火に従事した。城中の驚愕は大変な状況であった。急遽大砲を豊岡東照権現堂付近据え付け、また、三の丸に出して小田山からの砲撃に応戦した。西軍これを見て館の荒神祠東北隅より砲火を交えた。小田山は豊岡より東方千五百米ほどの距離にあり、豊岡との標高は百三十九米七の高地にあった。館の荒神祠は豊岡の西南千五百米の平坦地にある。三の丸は湯川を挟んで小田山麓に対している。その距離は僅かに千百米で、全く眼下にあり、それゆえ砲弾は常に頭上に落下する。爆音が交差し低空をかすめ、爆烟がもうもうとして四辺を閉ざし、樹木はなぎ倒され敷石を飛ばし実に暗澹凄愴たる状況である。次に西軍は東北方約千六百米、慶山村南畑地に出兵させ砲兵を配置した。そして天守閣に向かい盛んに砲撃を開始した。ここにおいて鶴ヶ城は三面より砲火を浴び殷殷轟々として凄惨な気が城に満ちた。しかし、東軍の砲兵台も屈せず、士気益々振るい活気横溢其の気天を貫くの気概であった。砲術師範の川崎荘之助はこの時豊岡にあった。荘之助は性格沈着にして豪胆、よく兵を督促して奮戦した。山本八重子は兄山本覚馬に砲術を学びその技に長じ、終始男子に伍して奮闘した。時に陣中菊野栄吾なるものあり、元治の役蛤御門の変に奮闘し、次いで、鳥羽伏見の激戦に参与し、名を挙げた。帰国後歩兵頭として訓練に従事し、白河城の争奪戦にあっては力戦奮闘し殊に衆目をあびた。栄吾一日衆を励まし率先奮闘中弾丸飛来し頭上にて轟然と破裂し頭に重傷をおった。

小山田の火薬庫の爆破②
 鳥羽伏見で奮闘した会津藩士菊野栄吾は血を見るのは汗を見るようなものだと言い放ち、近親知己の者もこの様子を聞き入院を勧めたが聞き入れない。後に藩主容保公栄吾を召せども応ぜず、曰く「死生命あり、敵勢をくじかなければ止まらない」と、奮戦旬日にして遂に力尽き斃(たお)れる。時に二十二歳であった。
小田山の北麓に火薬庫があった。奥行き十二間、間口三間半である。精製の火薬五百貫を貯蔵し、小田の西軍はこれを奪ったので、会津藩兵はこれを城に運ぶことが出来なかった。
 籠城中の八月二十五日、決死の足軽二名がひそかに小田山の火薬庫に近づき火を庫内に投げ入れこれを爆破した。爆音は数里の外に達し激震し鳴動は万雷の一時に落ちたるがごとしであった。四方の山谷に避難していた民衆も鶴ヶ城が爆破崩壊したものと信ずるものもあった。ことに城中では自刃するものもあった。小田山の火薬庫が爆発して、その大音響に驚いた杉田兵庫(千石)の家の婦女子が、城の最期と早合点して家内残らず自刃したとの記録がる。また、青木火薬庫の爆破も九月六日と伝えるものがあるがこの爆破は八月二十八日であり、爆破の光景は小田の如き猛烈のものでなかったと言われている。
若松城三之丸の東に隣接する一向宗極楽寺は、浄顕上人の開山になる葦名氏にゆかりのあるお寺であるが、和尚は松平氏の宗教政策に不満をもっており、八月二十五日、西軍の砲車を小田山上に導いた。その際火薬庫を奪われたため、会津藩兵によって爆破された。
 会津開城後、藩士武田宗三郎は会津藩兵に多数の犠牲者を出したこの和尚の内通に立腹していた。越後の高田の謹慎所よりひそかに脱し夜極楽寺に至り、僧の罪悪を数え将にこれを斬らんとしたが、周りの者にさえぎられため無益の殺生また止むを得ずと皆殺しして去った。宗三郎はこれがために、薬師堂河原において処刑された。宗三郎享年二十歳であった。

会津鶴ヶ城落城①
 西軍参謀、板垣退助は、城兵の死守奮闘の戦いを目の当たりに見て会津藩は自ら城を枕に討ち死にすると判断した。その賊名を負っていたずらに命をかけて王師と争い多くの藩士や民を死傷させてしまう事を痛み、米沢藩を介して大義名分のある所を明らかにして降伏することを勧めた。米沢藩は先ず家老佐川官兵衛に西軍に降伏することが会津藩を救う最も賢明な手順であると説いた。官兵衛は監袂は粉骨砕身苦心惨憺、大義のために誓って奸賊を払わんとしつつあり、どうしても屈することは出来ないと断固として聞きいれなかった。独り官兵衛のみならず当時城中の決心はたとえ刀折れ、矢つきるといえども、之より身命のかげりを尽くし君公と運命を共にすることにあり、誠に米沢藩は先の奥羽列藩同盟の盟約に背きついに西軍に降伏したのであるから、城中の藩士の憤激する所であるのでその勧めに応ずべきではないとの状況にあった。米沢藩は城下の北方高久村にあった家老萱野權兵衛に書面を書き送り降伏を勧めた。その要に曰く「弊藩等貴藩と共に奥羽の同盟を結び薩長の私兵に当らんが為なり、今や薩長の私兵と思考せしものが全く王師にして、仁和寺宮は既に錦旗を進めて塔寺に入り給うと聞く、我ら之より王師に対抗すべき存念なし、故に同盟を脱して王師に降りしなり、貴藩亦此の意を諒し開城せられんことを望む。尚君公御父子の御存命は勿論減禄処分に止まるべし。」との内容であった。権兵衛は之を秋月悌次郎に託して容保に上程した。容保は之を得て沈思黙読を続け、ひそかに自分の意図するところを含め重臣を集めこれを議論させた。先に会津藩主松平容保は職を京師に奉ずるや先帝に忠節を尽くし数々の降賞を賜わったが、一旦朝議の変節により朝敵に変わってしまった。忽ち鳥羽伏見戦いに敗れ朝敵の汚名を着せられたのは痛恨の極みである。京都守護職以来国家に尽くし赤誠を天朝に達せことを願い努力してきた。然るに戦況日に陥り西軍の攻撃日々猛烈を加え、城兵死するもの相次ぎ食糧つき弾また尽き遺憾ともしがたい。加えて此の時漸く初冬の候北風冷雨肌を刺し、婦女子は飢寒に迫り士卒は創痍に苦しみ、城外の民皆野山に攻防して露に寝雨に沐するもの家を焼かれ財を奪われ、尚未だ城下の戦いやまざるを持って家を離れ帰ることが出来ない。僅かに采根を咬み老幼を助けて避難し、日夜空しく府城を望みて砲声の殷殷たるを聞くのみである。」と。

会津鶴ヶ城落城②
松平容保決して曰く、「この状態で尚戦いを延ばせばもっぱら士民を苦しめるだけである。既に西軍は王師であることを知った。なお頑冥死を決せば、即ち乱臣賊子の汚名永久に解く時は無くなってしまう。これをもって今より恭順して、その聖断を仰げば死しても恥ずべきことなし」と述べた。九月十八日手代木直右衛門、秋月悌次郎の二人ひそかに城を出て高田に赴き、官兵衛に会して藩主の意図するところを伝え降伏の事を伝えた。官兵衛はあくまで決戦を主張した。手代木、秋月の二人は官兵衛に言葉をつくして説得した。そして高田に一泊しその翌日米沢藩の陣営に会津藩の状況を伝えるために使者として赴いた。この日西軍の精鋭高田は襲う。東軍は最後の抵抗を見せたが遂に伊南方面に向けて退却した。
 九月十九日藩主松平容保は手代木直右衛門、秋月悌次郎、桃川彦次郎を藍川に遣わし、米沢藩の陣営に頼り降伏を伝えた。米沢藩の斉藤主計之を土佐藩の陣営に送り、板垣退助は諸将と共にその諾否を協議した。
九月二十一日、会津藩主松平容保は軍内に開城を伝え、翌二十二日午前十時、鈴木爲輔・安藤熊之助らが北追手門に白旗を立て、籠城一カ月にわたる城下の戦いは終わった。家老梶原平馬・内藤介右衛門を先案内に、藩主容保は世子喜徳・家老萱野権兵衛を従えて追手門前、甲賀町通りの路上にもうけられた降伏式場に臨んだ。西軍からは軍監中村半次郎(桐野利秋)、軍曹山県小太郎らが諸藩の兵を率い、錦旗を立てて式場に入った。容保は中村半次郎に「謝罪書」を、権兵衛は「戦争責任は家臣にある。藩主父子には寛大な処置を」と重臣らが連名で記した「嘆願書」を提出して、式は終了した。容保は城に帰り、重臣・兵士らに別れを告げ、戦死者を葬った城内の空井戸・二ノ丸の墓地に花を捧げたあと、薩摩・土佐の二小隊に護られて、北追手門を出て滝沢村の妙国寺に入った。城中の兵士は九月二十三日、米沢藩士に護られて猪苗代に謹慎した。城中の人員は軍務局員百三十一人、役人六十八人、兵卒の外下々まで六百四十六人、士中兵隊七百四十六人、士中以下兵隊千六百九人、傷病者五百七十人、士中の従僕四十二人、鳶の者二十人、他領脱走者四百六十二人、奥女中六十四人、老幼婦女子五百七十五人、計五千二百三十五人との記録がある。五百余人の病人・負傷者は城内から青木村に移して治療させ、婦女・老幼・城外にあって降伏した藩士千七百余名は塩川・喜多方に立ち退かせ、会津藩は壊滅した。

会津鶴ヶ城落城③
翌九月二十四日、島津藩の軍監中村半次郎が入城し目録に照らして鶴ケ城を受け取り、城門には錦旗がひるがえった。
城中の兵器は大砲(弾薬付)五十一門、小銃二千八百四十五丁、小銃弾薬二万二千発、胴乱十八箱、槍千三百二十筋、長刀八十一振との記録がある。
こうして会津での戊辰戦争は終わったが、戊辰戦争自体、薩摩・長州の会津に対する私怨といった観点からだけで捉えることはできないし、この戦いの勝敗には、軍備の新旧・優劣の他に民衆の動きも大きな影響をおよぼしたことも否定できない。奥州越の戊辰戦争は 九月四日、「越後戦線」で新潟港を守りきれなかった米沢藩が、新政府軍に降伏した。九月十日、仙台藩は洋化部隊、額兵隊などの精鋭部隊を温存したまま、本土決戦を行わず新政府に降伏した。九月二十二日、会津藩が「若松城篭城戦」の末に新政府に降伏を契機として九月二十四日、「庄内・秋田戦線」で奮戦していた庄内藩も降伏し、これにより「東北戦争」は終結した。
 残るは八月旧幕府軍を率い江戸を脱出し仙台港に寄港し、北海道は函館五稜郭に向かった榎本艦隊だけとなったが、これには奥羽列藩同盟で戦った大鳥圭介をはじめ、桑名藩主松平定敬、会津藩家老西郷頼母、新選組土方歳三らも加わって独立政権を樹立した。榎本は松前藩の箱館五稜郭などの拠点を占領し、北海道を支配していた東北諸藩の敗戦後、北海道に地域政権を打ち立てた(榎本政権(通称、蝦夷共和国))。榎本らは北方の防衛開拓を名目として旧幕臣政権による蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。旧幕府軍は松前、江差などを占領するも、要となる開陽丸を座礁沈没させて失い海軍兵力は低下、宮古湾海戦を挑んだものの敗れ、新政府軍の蝦夷地への上陸を許した。しかし西軍の大攻撃を受け明治二年(一八六九)五月十八日、土方歳三は戦死。榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。
                   (完)

【2011/01/21 22:21】 NAME[松宮輝明] WEBLINK[] EDIT[]
子規
正岡子規の東北俳句紀行(1)
 伊能忠敬研究会東北支部長・日本大学工学部講師  松宮 輝明
病身押し「奥の細道}追体験
 正岡子規は俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼし、明治時代を代表する文学者の一人である。 
 子規の遺品の中に百数点の地図がある。江戸中期の測量家伊能忠敬の地図を元に明治十年陸軍参謀本部が作製した二十万分の一の地図である。地図の郭外東西南北には朱書きで丸く囲まれている。子規はこの地図十一枚を携え明治二十六年の夏奥州の旅に出た。
 子規は慶応三年(一八六七)伊予松山藩士の子として生まれ、夏目漱石の代表作で知られる「坊ちゃん」の松山中学を明治十六年十六歳の時中退。翌年上京し東京大学予備門予科(後の第一高等学校)に進み哲学、国文学を学ぶ。同期に夏目漱石、生物学者南方熊楠、新体詩人・評論家の山田火妙らがいる。
 子規は同じ歳の幸田露伴に脱稿した小説「月の都」を持参し批評を受けたが「君は小説家には向いてない」と言われ小説家を断念した。また、英語が苦手で学年試験に白紙の答案を出し落第し、明治二十六年三月、二十六歳の時に東大を退学、その後は小新聞「日本」の新聞記者となり筆を振るった。
 子規は東大を中退したその年の七月十九日から松尾芭蕉の「奥の細道」を追体験するため、奥州の俳諧師を訪ねながら東京から八郎潟までの旅をした。
 子規は二十二歳の時、結核を患い喀血して倒れているため病臥の身をおして、死を覚悟の旅でもあった。芭蕉は門人曽良との二人旅、季節こそ違え子規は一人奥州へ旅立った。この旅は、新聞「日本」に紀行文「はて知らずの記」として掲載している。序文は「松島の風、象潟の雨、いつしかとは思ひながら、病める身の行脚道中覚束(おぼつか)なく、うたゝ寝の夢はあらぬ山河の面影うつゝにのみ現はれて」となっている。

白河で結城城址を訪ねる
 子規は七月十九日、上野駅から東北本線に乗車し宇都宮で一泊、翌二十日『汽車見る見る山をのぼるや青嵐』と詠み奥州の入り口である白河駅(白河町・現白河市)に降り立った。
 白河の郊外の東に半里ばかりに結城氏の城趾があると知り、畦道を辿りながら結城城を訪ねた。三重の塔の観音堂は屋根がことごとくめくれ、斜めに傾いて、今にも倒れそうな光景を目にする。釣竿をもった翁から「観音堂は御一新の頃までは壮厳で三階まで登れたが今は詣でる人もなく仏法は末世に及んで今は哀れな姿になってしまった。」と結城城にまつわる話を聞いた。その後、水車場をめぐって行くと、結城氏の古城の搦目手門にある碑を目にする。巌石を垂直に巧みに斬ってあるその碑には感忠銘と題する文が刻まれている。結城親子の南朝への忠義に感激し、碑文に刻まれた全文を書き写した。しばし碑前にやすらぎ『涼しさやむかしの人の汗のあと』と詠んだ。碑の題字は文化四年(一八〇七)白河藩主松平定信公のもので「感忠銘」と揮毫され、碑文は白河藩士広瀬典が書き、搦目村の大庄屋、内山官左衛門が寄進した。大きさは高さ七.一メートル、幅二.七メートルの巨大なものである。官左衛門は現白河市大信上小屋の第三次伊能忠敬測量隊の本陣大庄屋、内山茂市の一門である。子規は白河町に戻り遊郭の一角にある中町の俳諧師の中嶋麗(俳号山麓)宅に泊まる。そこで『夕顔に昔の小唄あはれなり』と詠んだ。五十八歳中嶋麗は小学校の教師で、子規とは俳句を通して交友があった人物ある。
 七月二十一日早朝、子規は町外れを散策し天満宮に登った。天神町の天満宮は天神様とも呼ばれ、奥州街道の枡形の坂の上にある。大きな鳥居があり石段の頂上に天満宮が鎮座している。天満宮の一角には子規の『夏木立宮ありそうなところかな』の句碑がある。句碑は昭和二十三年に白河の俳人古川竹翁が建立した。
 同日、明治俳壇の大御所で明倫講社の三森幹雄の紹介状を携え須賀川の俳諧師道山壮山を訪ねた。江戸時代須賀川からは可伸、等窮、雨考、たよ女などの俳人や銅版画家の亜欧堂田善を輩出している。子規は田善について「油絵も銅板の摺物も数年前大火にあい、貴重な作品を失い、実に惜むべし」と記している。平成二十二年の今年、田善の紙本油彩六曲屏風絵『浅間山図』は国の重要文化財に指定された。子規の鑑識眼は確かであった。後に近代俳句創始者となる子規は道山荘山と俳諧談義で大論争となり宿泊を辞し、午後郡山町に下車し駅舎に泊まった。そして伊予松山の弟子河東碧梧桐に若い子規は老年の荘山について「東北の宗匠は旧態以前の俳諧で頭が固く話しにならない。」と手紙に書いている。

短冊に残る友情の証し
郡山町(現郡山市)では同年の今泉丈助との交友が知られている。丈助は江戸時代初期から名主検断を努めた名家で、俳号を桐舎と云った。子規について「明治三十五年四月病重き子規を根岸の里を訪ね見舞った。前年の明治三十四年一月十八日病床の正岡子規より短歌が贈られてきた。子規の病気を気遣い真綿を送ると『みちのくのあだたら真綿肌に着て寒さゆうべぞ君し思ほゆ』と子規の歌が届き、丈助は早速『いたつきになやめる君がしのばれて雪の一夜をあかしぬるかな 桐舎』と返歌をした」との一文を残している。現在の今泉家には子規の短冊が大切に保管されている。子規没後、今泉桐舎など郡山の俳人は命日に子規忌の追悼句会を開いている。子規の弟子で俳句革新運動に共鳴した、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが何度も郡山を訪れて句会を開いている。
 郡山ではかき氷を食べ、「思うに夜間散歩して氷を噛むは、此地の名誉にして田舎の開化なるべし」と記している。子規は七月二十二日朝、芭蕉も訪ね歩いた浅香沼を見ようと一里余の距離にある福原村に徒歩で行った。安達太郎山が高く聾へ『短夜の雲をさまらずあだゝらね』と詠んだ。安達太良山は明治三十一年(一八九八)に大噴火しているが、子規が眺めた安達太良山は噴火前の山頂である。また、子規の見た一里余の福原の大池は長さ四五町、幅二町の池で浅香沼ではなく宝沢沼であった。この当時地元では全ての沼を浅香沼と呼んでいた。明治二十四年の地籍図では浅香沼は干しあがり消え失せている。これを見た後、郡山駅に戻り、汽車に乗り本宮に赴く。当時、本宮は大洪水の後で甚大な被害の傷を残しており、それをまのあたりに見て子規は心を痛めた。

地元の俳人と俳句談義
徒歩で田舎道を辿り行きながら『水無月やこゝらあたりは鴬が』と詠み、二百余年の昔、芭蕉翁のさまよう足跡を慕い『その人の足あとふめば風薫る』と詠んでいる。
 その後、二本松南杉田村の素封家俳人の遠藤菓翁を訪ね宿泊する。菓翁は味噌醤油の醸造業を手広く営み、村長も勤めた人物である。後に樋口一葉の妹クニの娘きくは、この遠藤家に嫁いでいる。二十三日早朝『夕立に宿をねだるや蔵の家』、『水無月をもてなされけり時鳥』と詠んで菓翁宅を出発した。杉田小学校校門隣に子規の句碑『短夜の雲をさまらずあだゝらね』がある。これは昭和二十三年子規の五十一回忌を祈念し安達太良句会が建立、揮毫は子規の弟子寒川鼠骨(そこつ)のものである。
 子規は南杉田から黒塚を訪ね、そこで『涼しさや聞けば昔は鬼の家』と詠んでいる。黒塚の現在の観世寺住職に話を伺った。「子規は黒塚を見聞し、本堂で先代の住職から安達が原の鬼婆の伝承を熱心に聞いたそうです。よほど強い印象を受け、新聞『日本』に多くの紙面をさいて原稿を掲載しました」と語っている。
 黒塚で鬼婆の話を聞いた後、子規は阿武隈川の供中の渡しの橋本茶屋で一休みした。茶屋の主の名は大槻満寿と云い、二本松町根岸の風流人であり、油屋を営んでいたが店をたたみ、その当時は粗末な茶店を開いていた。茶屋の主人と俳句談義になり、油井の根岸の櫛見青山という人物を訪ねるように薦められた。青山は文化俳諧の道にも造詣が深く、青山に会った子規は満福寺を訪ねるようにと言われた。満福寺の現在の住職中村昌順氏に話を伺った。「子規は道に迷いながら歩いてやっと満福寺に辿り着きました。そしてこちらで『下闇にたゞ山百合の白さかな』『寺に寝る身の尊とさよすゞしさよ』という句を作っています。」子規が一夜の宿とした満福寺の当時の住職蓮阿は、六十七歳で子規が訪れたときには満福寺は火災の後で庫裏も仮住まいであった。火災の原因は仏像の手の平にある金の玉を取ろうと本堂に入り込み証拠を隠滅しょうと犯人が放火したためであった。後に本堂は二本松の廃寺となった松丘寺を九十円で譲り受け解体して再建している。蓮阿は連歌を好み、子規と縁台を庭に広げ語りあった。この蓮阿は明治二十七年八月二十四日に亡くなっている。子規との出会いの一年後であった。満福寺には子規の句の短冊『寺に寝る身の尊とさよすゞしさよ』が保存されている。また、高村千恵子の実家はこの寺の檀家でもあり寺には高村光雲の書「喜」も大切に所蔵されている。

飯坂で詠む歌の数々
 七月二十四日 満福寺を出発し二本松駅より汽車に乗る。子規は福島の旅籠に泊まり『見下ろせば月に涼しや四千軒』と詠んだ。福島城下は、古来より蚕を飼う者が多く阿武隈川の舟運、福島河岸や船場河岸が開かれ、奥州街道から分岐する米沢街道、会津街道、中村街道などの水陸交通の要衡の地でもあった。しかし、伊予松山藩士の子であり『春や昔十五万石の城下かな』と詠んだ子規の目には、福島の町は東北の小さな城下町であり、さびれた一田舎町に写ったのである。
 七月二十五日、子規は阿武隈川の岡部の渡しを渡る。この渡しも昭和十二年文知摺橋が開通し廃止になっている。文知摺に名刹安洞院がある。ここを訪ね『涼しさの昔をかたれ忍摺』と詠んだ。その後、子規は猛暑の中を福島に戻った。

医王寺断念し帰途へ
福島より人力車を走らせ飯坂温泉に行く。その時背中に寒さを覚え感じ結核が発病したのではないかと心配する。飯坂の和田屋という宿に着くと、ようやく寒気も収った。最初はむさくるしい裏部屋に通され、眺めが悪く一寸の風景も見えない。しかし裏の崖に山吹が咲いておりそれで心がなごんだ。やっと夕方には涼しく眺めも良く表通りが見える部屋に移ることができた。そして旅の疲れをとるため、鯖の湯の共同浴場に入浴した。浴場は雑踏芋を洗うような混雑振りで、飯坂温泉の風景を「新町とて遊郭あり。櫓に提灯をつけて男女四五人が三味線にあわせ踊るあり。これを盆踊りというとぞ」と記している。飯坂温泉で毎夜開かれる盆踊りを珍しく感じ楽しげに眺めている。また、飯坂ではアメリカに渡る大志を抱く若者平蔵に相談を受け、旅先で出合った若者の青雲の志に関心を抱いている。『平蔵はあめりか語る涼みかな』と詠んだ。子規は友人である秋山兄弟の弟真之の渡米をことのほか喜んだが、一方で羨ましくもあり自分の外国に行けない不遇を妹の律に慰められていたのである。また、子規は「奥州地方はキュウリを生にかじる事はあたかもマクワ瓜を食べるがごとし。客をもてなすのに茶菓子の代りに糠漬の香の物を出だすなど其質素なることは総じて関西の知らざる所なり」と記している。
 二十六日小雨そぼ降る中、摺上川の十綱橋を渡る。『釣り橋に乱れて涼し雨のあと』と詠んだ。
医王寺断念し帰途へ

子規は義経の主従であった佐藤継信・忠信兄弟に思いを馳せる。子規は二十七日雨朝、芭蕉も訪れた佐藤継信・忠信兄弟の菩提樹飯坂町平野の医王寺をぜひ訪れようと考えていた。源頼朝・義経兄弟の悲劇は、判官びいきの日本人の心の中に悲劇の英雄としてとして深く根ざしている。子規は平泉以来の家来である継信・忠信兄弟が義経の身代わりとなって果てた忠臣に深く心を打たれ、芭蕉の『笈も太刀も皐月にかざれ紙幟』の句にこめられた母親の心情を思い胸が熱くなった。しかし、体調が思わしくなく、医王寺訪問を断念し人力車で桑折町に出た。そして人力車で桑折の葛の松原より岩沼へ向う。途中、葛の松原を過ぎ松原の街道沿いにある掛茶屋「中の茶屋」で一時間ほど休んだ。その道は昔より葛の松原と呼ばれ西行法師・芭蕉などが歩いた街道として知られている。子規は桑折より汽車に乗る。伊達の大木戸は夢の間に過ぎて岩沼に下る。子規は仙台・松島・大石田そして酒田、八郎潟・秋田・大曲と紀行し水沢より夜汽車に乗り東京への帰路に着いた。汽車の中で『背に吹くや五十四郡の秋の風』、東白川郡にかかるときに『白河や二度こゆる時秋の風』と詠んでいる。九月二十日正午『みちのくを出てにぎはしや江戸の秋』と上野駅に戻った。
 
子規の最期
子規は明治三十四年、まだ若い三十四歳の時、病床のため長い原稿は口述筆記となり、六月から病室の前に糸瓜棚を設け毎日眺める日々が続く。
 子規は独身で、三歳下の妹、律が郷里の松山から上京し献身的に兄の看病をした。
 子規は「病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。布団の外へ足を延ばし体を休める事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。」と自分の病状を記している。十一月六日、ロンドンの夏目漱石に「イキテイルノガ 苦シイノダ」と自分のつらさを綴った手紙を書いている。明治三十五年一月十八日から容態が悪化し、九月十八日に妹の律とで弟子の河東碧梧桐に支えられ『糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな』と画板に書いたのが絶筆となり、十九日午前一時に永眠した。
 子規にとって奥州の旅は尊敬する芭蕉の足跡をめぐり、東北の見知らぬ土地、風習に触れた意義深い旅であった。東京都北区田畑、子規庵の近くの大龍寺を訪ね三十五歳の若さで逝った子規居士之墓に参詣した。死を迎える最期まで俳句・短歌・随筆を書き続け、弟子である高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節ら後進を指導し、近代俳句の創始者とうたわれた子規の偉大さに現在も日本人は心を打たれている。正岡子規の東北俳句紀行(1)
 伊能忠敬研究会東北支部長・日本大学工学部講師  松宮 輝明
病身押し「奥の細道}追体験
 正岡子規は俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼし、明治時代を代表する文学者の一人である。 
 子規の遺品の中に百数点の地図がある。江戸中期の測量家伊能忠敬の地図を元に明治十年陸軍参謀本部が作製した二十万分の一の地図である。地図の郭外東西南北には朱書きで丸く囲まれている。子規はこの地図十一枚を携え明治二十六年の夏奥州の旅に出た。
 子規は慶応三年(一八六七)伊予松山藩士の子として生まれ、夏目漱石の代表作で知られる「坊ちゃん」の松山中学を明治十六年十六歳の時中退。翌年上京し東京大学予備門予科(後の第一高等学校)に進み哲学、国文学を学ぶ。同期に夏目漱石、生物学者南方熊楠、新体詩人・評論家の山田火妙らがいる。
 子規は同じ歳の幸田露伴に脱稿した小説「月の都」を持参し批評を受けたが「君は小説家には向いてない」と言われ小説家を断念した。また、英語が苦手で学年試験に白紙の答案を出し落第し、明治二十六年三月、二十六歳の時に東大を退学、その後は小新聞「日本」の新聞記者となり筆を振るった。
 子規は東大を中退したその年の七月十九日から松尾芭蕉の「奥の細道」を追体験するため、奥州の俳諧師を訪ねながら東京から八郎潟までの旅をした。
 子規は二十二歳の時、結核を患い喀血して倒れているため病臥の身をおして、死を覚悟の旅でもあった。芭蕉は門人曽良との二人旅、季節こそ違え子規は一人奥州へ旅立った。この旅は、新聞「日本」に紀行文「はて知らずの記」として掲載している。序文は「松島の風、象潟の雨、いつしかとは思ひながら、病める身の行脚道中覚束(おぼつか)なく、うたゝ寝の夢はあらぬ山河の面影うつゝにのみ現はれて」となっている。

写真  子規の旅立ちの姿(二十三歳の時)

白河で結城城址を訪ねる
 子規は七月十九日、上野駅から東北本線に乗車し宇都宮で一泊、翌二十日『汽車見る見る山をのぼるや青嵐』と詠み奥州の入り口である白河駅(白河町・現白河市)に降り立った。
 白河の郊外の東に半里ばかりに結城氏の城趾があると知り、畦道を辿りながら結城城を訪ねた。三重の塔の観音堂は屋根がことごとくめくれ、斜めに傾いて、今にも倒れそうな光景を目にする。釣竿をもった翁から「観音堂は御一新の頃までは壮厳で三階まで登れたが今は詣でる人もなく仏法は末世に及んで今は哀れな姿になってしまった。」と結城城にまつわる話を聞いた。その後、水車場をめぐって行くと、結城氏の古城の搦目手門にある碑を目にする。巌石を垂直に巧みに斬ってあるその碑には感忠銘と題する文が刻まれている。結城親子の南朝への忠義に感激し、碑文に刻まれた全文を書き写した。しばし碑前にやすらぎ『涼しさやむかしの人の汗のあと』と詠んだ。碑の題字は文化四年(一八〇七)白河藩主松平定信公のもので「感忠銘」と揮毫され、碑文は白河藩士広瀬典が書き、搦目村の大庄屋、内山官左衛門が寄進した。大きさは高さ七.一メートル、幅二.七メートルの巨大なものである。官左衛門は現白河市大信上小屋の第三次伊能忠敬測量隊の本陣大庄屋、内山茂市の一門である。子規は白河町に戻り遊郭の一角にある中町の俳諧師の中嶋麗(俳号山麓)宅に泊まる。そこで『夕顔に昔の小唄あはれなり』と詠んだ。五十八歳中嶋麗は小学校の教師で、子規とは俳句を通して交友があった人物ある。
 七月二十一日早朝、子規は町外れを散策し天満宮に登った。天神町の天満宮は天神様とも呼ばれ、奥州街道の枡形の坂の上にある。大きな鳥居があり石段の頂上に天満宮が鎮座している。天満宮の一角には子規の『夏木立宮ありそうなところかな』の句碑がある。句碑は昭和二十三年に白河の俳人古川竹翁が建立した。
 同日、明治俳壇の大御所で明倫講社の三森幹雄の紹介状を携え須賀川の俳諧師道山壮山を訪ねた。江戸時代須賀川からは可伸、等窮、雨考、たよ女などの俳人や銅版画家の亜欧堂田善を輩出している。子規は田善について「油絵も銅板の摺物も数年前大火にあい、貴重な作品を失い、実に惜むべし」と記している。平成二十二年の今年、田善の紙本油彩六曲屏風絵『浅間山図』は国の重要文化財に指定された。子規の鑑識眼は確かであった。後に近代俳句創始者となる子規は道山荘山と俳諧談義で大論争となり宿泊を辞し、午後郡山町に下車し駅舎に泊まった。そして伊予松山の弟子河東碧梧桐に若い子規は老年の荘山について「東北の宗匠は旧態以前の俳諧で頭が固く話しにならない。」と手紙に書いている。
 写真 白河市天神町天満宮に建つ子規の句碑「夏木立宮ありそうなところかな」

短冊に残る友情の証し
郡山町(現郡山市)では同年の今泉丈助との交友が知られている。丈助は江戸時代初期から名主検断を努めた名家で、俳号を桐舎と云った。子規について「明治三十五年四月病重き子規を根岸の里を訪ね見舞った。前年の明治三十四年一月十八日病床の正岡子規より短歌が贈られてきた。子規の病気を気遣い真綿を送ると『みちのくのあだたら真綿肌に着て寒さゆうべぞ君し思ほゆ』と子規の歌が届き、丈助は早速『いたつきになやめる君がしのばれて雪の一夜をあかしぬるかな 桐舎』と返歌をした」との一文を残している。現在の今泉家には子規の短冊が大切に保管されている。子規没後、今泉桐舎など郡山の俳人は命日に子規忌の追悼句会を開いている。子規の弟子で俳句革新運動に共鳴した、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが何度も郡山を訪れて句会を開いている。
 郡山ではかき氷を食べ、「思うに夜間散歩して氷を噛むは、此地の名誉にして田舎の開化なるべし」と記している。子規は七月二十二日朝、芭蕉も訪ね歩いた浅香沼を見ようと一里余の距離にある福原村に徒歩で行った。安達太郎山が高く聾へ『短夜の雲をさまらずあだゝらね』と詠んだ。安達太良山は明治三十一年(一八九八)に大噴火しているが、子規が眺めた安達太良山は噴火前の山頂である。また、子規の見た一里余の福原の大池は長さ四五町、幅二町の池で浅香沼ではなく宝沢沼であった。この当時地元では全ての沼を浅香沼と呼んでいた。明治二十四年の地籍図では浅香沼は干しあがり消え失せている。これを見た後、郡山駅に戻り、汽車に乗り本宮に赴く。当時、本宮は大洪水の後で甚大な被害の傷を残しており、それをまのあたりに見て子規は心を痛めた。
写真 今泉丈助に贈られた短冊



地元の俳人と俳句談義
徒歩で田舎道を辿り行きながら『水無月やこゝらあたりは鴬が』と詠み、二百余年の昔、芭蕉翁のさまよう足跡を慕い『その人の足あとふめば風薫る』と詠んでいる。
 その後、二本松南杉田村の素封家俳人の遠藤菓翁を訪ね宿泊する。菓翁は味噌醤油の醸造業を手広く営み、村長も勤めた人物である。後に樋口一葉の妹クニの娘きくは、この遠藤家に嫁いでいる。二十三日早朝『夕立に宿をねだるや蔵の家』、『水無月をもてなされけり時鳥』と詠んで菓翁宅を出発した。杉田小学校校門隣に子規の句碑『短夜の雲をさまらずあだゝらね』がある。これは昭和二十三年子規の五十一回忌を祈念し安達太良句会が建立、揮毫は子規の弟子寒川鼠骨(そこつ)のものである。
 子規は南杉田から黒塚を訪ね、そこで『涼しさや聞けば昔は鬼の家』と詠んでいる。黒塚の現在の観世寺住職に話を伺った。「子規は黒塚を見聞し、本堂で先代の住職から安達が原の鬼婆の伝承を熱心に聞いたそうです。よほど強い印象を受け、新聞『日本』に多くの紙面をさいて原稿を掲載しました」と語っている。
 黒塚で鬼婆の話を聞いた後、子規は阿武隈川の供中の渡しの橋本茶屋で一休みした。茶屋の主の名は大槻満寿と云い、二本松町根岸の風流人であり、油屋を営んでいたが店をたたみ、その当時は粗末な茶店を開いていた。茶屋の主人と俳句談義になり、油井の根岸の櫛見青山という人物を訪ねるように薦められた。青山は文化俳諧の道にも造詣が深く、青山に会った子規は満福寺を訪ねるようにと言われた。満福寺の現在の住職中村昌順氏に話を伺った。「子規は道に迷いながら歩いてやっと満福寺に辿り着きました。そしてこちらで『下闇にたゞ山百合の白さかな』『寺に寝る身の尊とさよすゞしさよ』という句を作っています。」子規が一夜の宿とした満福寺の当時の住職蓮阿は、六十七歳で子規が訪れたときには満福寺は火災の後で庫裏も仮住まいであった。火災の原因は仏像の手の平にある金の玉を取ろうと本堂に入り込み証拠を隠滅しょうと犯人が放火したためであった。後に本堂は二本松の廃寺となった松丘寺を九十円で譲り受け解体して再建している。蓮阿は連歌を好み、子規と縁台を庭に広げ語りあった。この蓮阿は明治二十七年八月二十四日に亡くなっている。子規との出会いの一年後であった。満福寺には子規の句の短冊『寺に寝る身の尊とさよすゞしさよ』が保存されている。また、高村千恵子の実家はこの寺の檀家でもあり寺には高村光雲の書「喜」も大切に所蔵されている。
写真二本松市南杉田に建つ子規句碑「短夜の雲をさまらずあだゝらね」(子規の弟子寒川鼠骨(そこつ)揮毫)

写真 満福寺にある子規の句「寺に寝る身の尊とさよすゞしさよ」


飯坂で詠む歌の数々
 七月二十四日 満福寺を出発し二本松駅より汽車に乗る。子規は福島の旅籠に泊まり『見下ろせば月に涼しや四千軒』と詠んだ。福島城下は、古来より蚕を飼う者が多く阿武隈川の舟運、福島河岸や船場河岸が開かれ、奥州街道から分岐する米沢街道、会津街道、中村街道などの水陸交通の要衡の地でもあった。しかし、伊予松山藩士の子であり『春や昔十五万石の城下かな』と詠んだ子規の目には、福島の町は東北の小さな城下町であり、さびれた一田舎町に写ったのである。
 七月二十五日、子規は阿武隈川の岡部の渡しを渡る。この渡しも昭和十二年文知摺橋が開通し廃止になっている。文知摺に名刹安洞院がある。ここを訪ね『涼しさの昔をかたれ忍摺』と詠んだ。その後、子規は猛暑の中を福島に戻った。
写真信夫文摺石

医王寺断念し帰途へ
福島より人力車を走らせ飯坂温泉に行く。その時背中に寒さを覚え感じ結核が発病したのではないかと心配する。飯坂の和田屋という宿に着くと、ようやく寒気も収った。最初はむさくるしい裏部屋に通され、眺めが悪く一寸の風景も見えない。しかし裏の崖に山吹が咲いておりそれで心がなごんだ。やっと夕方には涼しく眺めも良く表通りが見える部屋に移ることができた。そして旅の疲れをとるため、鯖の湯の共同浴場に入浴した。浴場は雑踏芋を洗うような混雑振りで、飯坂温泉の風景を「新町とて遊郭あり。櫓に提灯をつけて男女四五人が三味線にあわせ踊るあり。これを盆踊りというとぞ」と記している。飯坂温泉で毎夜開かれる盆踊りを珍しく感じ楽しげに眺めている。また、飯坂ではアメリカに渡る大志を抱く若者平蔵に相談を受け、旅先で出合った若者の青雲の志に関心を抱いている。『平蔵はあめりか語る涼みかな』と詠んだ。子規は友人である秋山兄弟の弟真之の渡米をことのほか喜んだが、一方で羨ましくもあり自分の外国に行けない不遇を妹の律に慰められていたのである。また、子規は「奥州地方はキュウリを生にかじる事はあたかもマクワ瓜を食べるがごとし。客をもてなすのに茶菓子の代りに糠漬の香の物を出だすなど其質素なることは総じて関西の知らざる所なり」と記している。
 二十六日小雨そぼ降る中、摺上川の十綱橋を渡る。『釣り橋に乱れて涼し雨のあと』と詠んだ。
医王寺断念し帰途へ

子規は義経の主従であった佐藤継信・忠信兄弟に思いを馳せる。子規は二十七日雨朝、芭蕉も訪れた佐藤継信・忠信兄弟の菩提樹飯坂町平野の医王寺をぜひ訪れようと考えていた。源頼朝・義経兄弟の悲劇は、判官びいきの日本人の心の中に悲劇の英雄としてとして深く根ざしている。子規は平泉以来の家来である継信・忠信兄弟が義経の身代わりとなって果てた忠臣に深く心を打たれ、芭蕉の『笈も太刀も皐月にかざれ紙幟』の句にこめられた母親の心情を思い胸が熱くなった。しかし、体調が思わしくなく、医王寺訪問を断念し人力車で桑折町に出た。そして人力車で桑折の葛の松原より岩沼へ向う。途中、葛の松原を過ぎ松原の街道沿いにある掛茶屋「中の茶屋」で一時間ほど休んだ。その道は昔より葛の松原と呼ばれ西行法師・芭蕉などが歩いた街道として知られている。子規は桑折より汽車に乗る。伊達の大木戸は夢の間に過ぎて岩沼に下る。子規は仙台・松島・大石田そして酒田、八郎潟・秋田・大曲と紀行し水沢より夜汽車に乗り東京への帰路に着いた。汽車の中で『背に吹くや五十四郡の秋の風』、東白川郡にかかるときに『白河や二度こゆる時秋の風』と詠んでいる。九月二十日正午『みちのくを出てにぎはしや江戸の秋』と上野駅に戻った。
 
子規の最期
子規は明治三十四年、まだ若い三十四歳の時、病床のため長い原稿は口述筆記となり、六月から病室の前に糸瓜棚を設け毎日眺める日々が続く。
 子規は独身で、三歳下の妹、律が郷里の松山から上京し献身的に兄の看病をした。
 子規は「病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。布団の外へ足を延ばし体を休める事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。」と自分の病状を記している。十一月六日、ロンドンの夏目漱石に「イキテイルノガ 苦シイノダ」と自分のつらさを綴った手紙を書いている。明治三十五年一月十八日から容態が悪化し、九月十八日に妹の律とで弟子の河東碧梧桐に支えられ『糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな』と画板に書いたのが絶筆となり、十九日午前一時に永眠した。
 子規にとって奥州の旅は尊敬する芭蕉の足跡をめぐり、東北の見知らぬ土地、風習に触れた意義深い旅であった。東京都北区田畑、子規庵の近くの大龍寺を訪ね三十五歳の若さで逝った子規居士之墓に参詣した。死を迎える最期まで俳句・短歌・随筆を書き続け、弟子である高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節ら後進を指導し、近代俳句の創始者とうたわれた子規の偉大さに現在も日本人は心を打たれている。
【2011/10/05 13:55】 NAME[松宮輝明] WEBLINK[] EDIT[]


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