柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 『柏崎通信』と題しながら、しばらく柏崎から遠ざかっていた。 そこで、柏崎に纏わるエピソードを。

 河井継之助の小千谷談判は周知のことだが、その相手である官軍軍監・土佐の岩村高俊と柏崎の関係に面白い事実を見つけたのである。 出所は先回にも引用した入澤達吉著『伽羅山荘随筆』の中の一文「河井継之助の最後」の文末に書かれている。

 岩村高俊の兄・道俊は、会津征討越後口総督・仁和寺宮に従って、柏崎に至った。 そこで、弟の高俊に出会う。 土佐を出てから一度も合う機会がなく、道俊は、既に弟・高俊は死んだものと思っていた。 それが、思わぬ所でバッタリと出会い、お互いに抱き合って再開を喜んだという。

 それまでの岩村家の家紋は菊の紋であったが、以前から、菊のご紋では恐れ多いと家紋を変えることを考えていたそうだ。 そこで、柏崎の出会いを奇貨と、「抱き柏」の紋を作り、これを家紋としたと云うのである。 因みに、「抱き柏」の紋を調べてみると、この家紋を使用したのは、岡山氏、森氏、金子氏、長田氏、吉田氏、後藤氏などが上げられるが、特に有名なのは、阿波徳島藩蜂須賀家である。 また、神紋としては、石川県楢本神社、寺紋としては、京都市正法寺、円通寺があるようだが、岩村家の家紋としての「抱き柏」は見当たらない。 故に、柏崎再開を記念して「抱き柏」を家紋としたこと事実だろう。

 しかし、今ひとつ推測の輪を広げると、長岡藩牧野氏の家紋が「三つ柏」であり、柏崎が戊辰北越戦争の最初の橋頭堡でったことも、家紋とした理由になるのではないだろうか。

 また、これは以前にも紹介したことだが、大山巌(通称・弥助)が柏崎市滞在中に生まれたのが、次男(長男が急逝したため嗣子となる)「柏」である。 星新一が、考古学・人類学を通して大山柏と親交のあった小金井良精についてかいた『祖父・小金井良精』にも、この時のエピソードが紹介されている。 ただ、大山柏が、明治22年6月2日に誕生しているところに興味が有る。 明治天皇の北越行幸が明治11年、東郷平八郎の新潟訪問が、明治39年である。 この間、品川弥二郎や大隈重信らが、柏崎を訪問したことを伝聞しているのだが、詳細は未だ調べていない。 今後の課題としたい。

 考えて見れば、戊辰戦争当時、岩村兄弟も大山巌も、20代の青年である。 今の年齢から比較することは出来ないが、柏崎での戦闘は、青年の心に強烈な印象を与えたに違いない。 それが、家紋や子息の命名に大きな影響を与えてのではないだろうか。

 尚、以前に書いた大山柏に関して誤謬があった。 考えてみれば当然のことだが、大山巌の夫人が、会津藩国家老の山川大蔵の末妹・捨松であるから、柏崎在陣中に大山柏が生まれる訳はないのである。 訂正して、お詫びしたい。

Best regards
梶谷恭巨

 


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