柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 偶然に、『田原坂』という再放送のドラマを見る。 少々異論を唱えたい。

 何が異論か。 歴史を人の結びつき、すなわち「人間関係」から求めると、不可解な状況が見えてくる。 その契機となったのが、吉村昭著『長英逃亡』だ。 高野長英が「蛮社の獄」で永牢になる直接の原因は、水野忠邦による「天保の改革」ではなく、鳥居耀蔵の排洋学の思想にあるように思える。 何故に、敢えて「思想」かといえば、鳥居耀蔵の父親・林述斎の存在があるからだ。 林述斎は、江戸後期における幕府儒学の総元締め、しかも、親藩・美濃(岐阜)岩村藩・松平家の三男である。 林家は、周知の通り、林羅山を祖とし、幕府学問の長、大學頭(だいがくのかみ)、すなわち昌平坂学問所・「昌平黌」(しょうへいこう、湯島聖堂)のトップを継承する。 例えば、赤穂義士の処遇・処分について、荻生徂徠との対立で有名。 また、「寛政の異学の禁」にも関係する。

 しかし、その学問の系譜は複雑だ。 林述斎の門弟・佐藤一斎は、後の明治維新にも深く関係する山田方谷・佐久間象山・横井小南の師でもあるのだ。 そして、当時の武家としての素養・兵学は、山鹿素行に連なる。

 冒頭に戻ると、所謂「維新の元勲」には、暗黙の了解があったのではないかと思うのだ。 歴史に残る革命を成功するためには、単なる志あるいは熱意とか情熱では解決できない問題がある。 冷徹な計算あるいは論理の組み立てが必要だ。 敵を受け入れる寛容の精神も必要だが、その寛容の背景には、大局を見た計算があるのではないか。

 シェークスピアではないが、「人生は、目くるめく夢舞台」。 少々のインシデント(予想外の突発事)があったとしても、それはそれ、舞台の上ではアドリブも。 しかし、舞台は変わらない。 ストーリーも、その演者にも、観客にも夢舞台。

 明治の動乱を治めるためには装置が必要だったのではないだろうか。 しかも、身を犠牲にして、切るべきものを切らなければならない。 その立役者は、大物で無ければならない。 それが、西郷隆盛だったのではないか。

 西南戦争における西郷の行動あるいは在り方を見ると、大久保との暗黙の了解があったのではないかと思えるのだ。 先に揚げた『長英逃亡』に見える人脈の広がり、長英を匿う、それらの人々の信義。 高野長英という偉大なる個人ではなく、何かしら大きな枠組みに踊る人々の姿が見えるのである。 ただ、現在にそれを求める
ことは出来ないのかもしれない。 山鹿素行全集(全一巻、大正13年発刊)を持ち出し、偶然に開いたページが、『山鹿類語』治談(下)の「以得士為大要(士を得るを以って大要と為)」、そこに、面白いことが書かれていた。 「大曲尺」、茶道では「おおがね」と読むのだそうだ。 出展は、『南方録(なんぽうろく)』全7巻、千利休の秘伝書と云う。 その第5巻・「台子」に「大曲尺」が出ているそうだ。 茶道には門外漢。 ただ、「曲尺(かねじゃく)」から思うに、「台子」という茶道具を置く棚を作る時の枠組み、あるいは設計法のことか。 ならば、「大曲尺」とは、茶道空間の尺度あるいは基準になるべきもの、素行は、それをして、世の中の根本尺度あるいはフレームワークと云うのであろうか。

 そんなことを考えると、西南戦争が、また別なものに見えてくるのだが。

Best regards
梶谷恭巨


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