柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
三井の総帥・益田孝翁が、佐渡の生まれであることは知っていたが、改めて『自叙益田孝翁伝』を読んでみると、単純に佐渡の出身、三井の総帥では片付けられない。 家系そのものが、幕末維新史に深く関係しているのである。 益田家は、上州の医家の出で、翁の五代前から佐渡金山の地役人を勤めた。 曽祖父の時、佐渡奉行の信頼が厚く、以後、祖父・父共に目付役に就いている。 父親・鷹之助が出色の人で、漢学はもとより、歌にも優れ、算盤・和算を得意とし、またお玉が池の玄武館・千葉周作に一刀流を学び、免許皆伝を受けている。 これだけの才人、目に止まらぬはずは無く、地役人から幕府直属の役人になり、函館奉行支配調役下役に抜擢されている。 その後、池田筑後守(姫路)の渡欧使節団の随員に選ばれ、フランスに渡る。 この時、益田孝翁も、父親の従僕として渡欧しているのだ。 (パリで撮った親子の写真が残っている。) 維新後、一時期、福沢諭吉の書記をしたことがあり、慶応義塾の最初の規則は、益田鷹之助が書いたのだそうで、福沢諭吉が、後に、益田孝翁にお前の父親が書いたのが未だ残っているとよく言ったそうだ。 鷹之助は、仕事の関係から江川太郎左衛門の役宅に行き来があり、特に、江川家手付(家老職に相当)の柏木修蔵と親交があり、柏木修蔵が福沢諭吉と昵懇であったことから、書記の職を得たそうだ。 因みに、柏木修蔵は、神道無念流の斎藤弥九郎の高弟の一人だった。 また、斎藤弥九郎も江川家手代であったのだから、この辺りの人間関係は追及すると別な局面が見えてくるのかもしれない。 いずれにしても、益田孝翁を追いかけようと思っていたのが、むしろ、翁の父・鷹之助に興味が湧く。 翁の贔屓目も有るのかもしれないが、人の関係を見ていくと、どうも只者ではない。 地役人から最下級の幕府役人になったというだけでは、その後の履歴に疑問が残る。 しかし、何しろ文献が少ない。 益田孝翁にしても、明治までの履歴に意外性を感じる。 例えば、翁は、麻布の善福寺(アメリカ公使館)で外国方通詞(見習いのようなものだったらしい)をしている。 当時の公使は、タウンゼント・ハリスだ。 しかも身近に接しているのである。 ハリスに対する評価は、敬愛と云うほどに高い。 特に、唐人お吉の話などは出鱈目だと、憤慨しているのである。 益田孝翁は、フランスから帰国後、ナポレオン三世が派遣したフランス軍事顧問団の洋式訓練に参加し、後には騎兵隊を指揮している。 大鳥圭介のように江戸を脱出はしなかったようだが、勝・西郷江戸城明け渡し談判が成功するまでは、一戦を覚悟、死も厭わなかったと語っている。 しかし、どうもこの辺りの時期は、人びとの思惑が錯綜し、人間関係も一筋縄では追いかけることが出来ない。 維新史を研究するためには、年表的な事実ではだめだというのが実感。 個々の人間関係を地道に追いかけていかなければならない。 益田孝翁の物語が、それを物語っている。 滅多矢鱈に人名が出てくる。 それに、諱があり、通称がある。 『自叙益田孝翁伝』は昭和14年に発刊されているのだが、当時の人には、その人名も周知のことだったのだろう。 実は、益田孝翁の後継者であった団琢磨暗殺事件(血盟団事件)と、我家には多少の因縁が有る。 団琢磨氏の後継者になったのが、大叔父・佐々木哲二なのだ。 これにも諸説あり、柏崎では史料・文献の入手が困難。 子供の頃聞いた記憶と父が残した記録が有るが、不確かなことが多く、家族・親族向けにのみ連載を書いている。 ただ、ここ数年、江戸後期から明治にかけて追いかけていると、どうもこの時代が、現在を考える上で、最も重要な時代ではないかと思えるのだ。 朝のNHKの番組『まちかど情報室』で、日本でも自分史あるいは家系図に関心が高まっているとか。 自分史用ソフトとか行政書士による系図の作成などがあるようだ。 少なくとも、四代あるいは五代前くらいまでなら、今でも調査は可能だ。 子孫のためにも、何かの形で、ご先祖のことを残しては如何だろう。 梶谷恭巨 |
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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