柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 先ず、前回で兵食の問題を揚げ、食習慣の相違により、西欧の軍隊には脚気が少なく、その為、脚気に関する研究が二次的であったと書いたが、訂正する。 と言うのも、ドナルド・キーン著『明治天皇』に脚気に関する記述があった事を思い出し、調べてみると、英国海軍では、既に、ビタミン不足が脚気の原因として、予防の為にライムジュースの摂取が必要と認識されていた、とあった。(『明治天皇』下巻第三十七章の注10)

 さて、それは措き、脚気論争は当時の日本医療界の姿勢をよく表していると思うのである。 それは、大村益次郎が軍制改革を試みる姿勢にも現れている。 世界に類を見ないのが明治維新前後の状況だ。 大体にして、医師が軍制改革を行う国なのである。 これが幸いしたのだろう。 兵食問題が、逸早く論議の対象になるのである。 そして、グラント将軍(大統領)をして、日本の兵食に対する賞賛を得るのである。

 また、次に揚げるように、明治天皇が明治10年に京都で脚気に掛かったことも、その後の脚気論争に影響を与えるのではないだろうか。 明治天皇は、その後も、気節の変わり目に何度か脚気の発作を起したが、明治15年の発作が最も激しかったようだ。 脚気調査会が生れる背景でもある。 ただ、着目したいのが、当時の医学者が一面的見方をしていない事である。 文中にある漢方医・遠田澄庵への諮問などは、その例であろう。

 私事だが、社会調査研究所で配属されたのが医薬情報システム部だった。 その頃、先輩であり友人である関野氏から、漢方のシステム化の話しがあった。 驚いたのは、漢方医学が実にシステマティックであたことだ。 神農以来の歴史、更には、三国志で有名な華佗の話。 明治の文明開化の時代、漢方にも目を向けた当時の医師たちの見識には経緯を評すべきだろう。

 序での事だから付加えると、社会調査時代、関野氏と『寒傷論』の読み会をした。 大抵は、居酒屋での事だったが、それでも、それなりのプログラムを作成した。 確か、小太郎漢方製薬のシステムに反映されたと聞いている。 その後、織田先生が漢方を取り入れ、特に内科の慢性疾患に処方していた。

 今日は定期の検診日だった。 二週間分の抗がん剤の料金が15000円。 これじゃあ、オチオチ癌にもなれない。 万年落選といっては失礼だが、その西川君も癌だという。 私よりも重症のようだ。 システム屋として、永年、医療の世界に関わってきた。 パラメディカルが軽視される日本である。 これからは、総体的な医療を考えなければならない時代だろう。 そうした事を考えると、明治の医学者の姿勢についても振り返って見る必要があるのではないか。 後に(注)に紹介する越後出身の池田謙斎の経歴などは、その冴えたるものである。 漢文を習い、剣法を習得し、兵学の為にオランダ語を学んで、最後には医学に到達する、その生き様には敬意を表さずにはいられない。

 余談だが、自分の好きな作家であるマイクル・クライトンは、ハーバードで先ず民俗学・人類学を学び、英国に留学した時、エジプトの発掘調査に参加した。 そこで彼が得たのは、人間を研究するには医学を学ばなければならないということだ。 結果として、ハーバードの医学部に再入学した。 彼の作品の魅力は、そんな彼の姿勢にある。 英語の表現は平易だし、現場主義的な発想は、緊迫感と共に、人間に対する真摯な視点を感じるのである。 昨年(今年だった?)の彼の訃報は、その作品を全て読んだと自負する自分に取って、他人事とは思われぬショックを与えた。 遺作になるだろう(最後に発表された)作品が、11月24日に発売される。 アマゾン米国の案内で、早速予約。 さて、どんな物語が展開するのか。 一つ付加えると、クライトンが「地下のドクター」という表現で、高度に先鋭化された医療技術をさせるのが、システム屋だと言っている。 自分がIEEEのEBMに籍を置いたのも、彼の影響なのだ。 無くなる寸前に、来日したことを知る人は少ない。 2mもある大男のクライトンが、ミステリーCHのインタビューに応えた。 最後に訪問したかったのが日本だと。 『インナートリップ』で、泰の仏教に見せられた彼が、結論として選んだのが日本とは。 考えさせられる事実である。

 大分、本論から逸れてしまった。 ただ、言いたいのは、それぞれが様々経緯から医学を学んだのが、維新前後の医学者だった事だ。 脚気論争が、単なる医学論的展開に終始する事に違和感を感じる。

 当時の医学が、人間学であった事を知る必要があるのではないか。 初期の段階、IBM165、先ず教えられたのは、当に人間学であった。 今、ITがバブル崩壊で低迷する。 それは、人間学を忘れたからではないのだろうか。 地下室に埋もれていても、今のこの世の中で、不可欠なのがシステム屋かもしれない。 その中で、医学を志す学徒が入れば、これほど幸いな事はないのだ。 どうも日本では、学際は縁遠い事実なのかもしれない。

 さても、要らざる事を長々と書いてしまったようだ。 この項、これで終りにしよう。 脚気論争については、もう一回だけ書く事にするが、それには暫らく時間を要す。 以上、以下、『懐旧九十年』を。

『懐旧九十年』 第七期 日露戦役以後 3 脚気調査会、軍医学校の寿像(後段略)

 脚気は我国に多く困難な病気でありますが、明治天皇陛下におかせられても、夙(ハヤ)くより夏期には御脚気の気味にて、御足の重倦を感ぜられたことがありました。 或る年、最も御傍近く召使われる一侍従が脚気にかかり漸次(ゼンジ)に重くなり、伊藤・池田両侍医の治療も効を奏せず、この上は速やかに高燥の地に転地するのほかなしと勧められたのを、更に漢方脚気専門医遠田澄庵(チョウアン)に診治を乞うたのでしたが、遠田君は転地の要なきを説いて家法の薬を以て治癒せしめました。 そしてこのことが、いつしか御聴に達したものと見えます。

注)伊藤: 伊東方成の事か、従三位勲一等宮中顧問官侍医頭 伊東方成の概歴
天保5年(1834年)12月15日(宮内庁記録)上溝久保(現相模原市)3599医師 鈴木方策の長男として誕生、番田の医師・井上篤斉に学び江戸に出て蘭医・伊東玄朴の象先堂に入門後、玄朴の養子となり文久2年(1862年)林研海と共に幕府最初の留学生としてオランダで医学を収め明治元年11月帰国、新政府に迎えられ、順次昇進、能く明治天皇の侍医を勤め更に再三渡欧して研鑽、大正天皇のご養育に献身、明治31年5月2日逝去、下谷天龍院に葬られる。 生家の土蔵は方成晩年の贈り物である。
(注)池田: 池田謙斎のこと。 幼名・圭助、天保12年(1841)11月1日、越後・蒲原郡西野(現・新潟市東区西野)の里正(庄屋)・入澤健蔵の次男として誕生、後に江戸で開業していた伯父の入澤貞意宅に寄宿、午前中に漢学を瀬川道元に学び、午後に剣を心形刀流の第九代・伊庭軍兵衛秀俊(没年から推定して)に学んだ。 また、当時の関東代官・竹垣三右衛門の子息・竹垣龍太郎にオランダ語を学び始める。 その隣家に引越してきたのが緒方洪庵だった。  当時、緒方洪庵は幕府医学所頭取で、学生はすべて医学所で学ばせる方針だった。 しかし洪庵は文政9年に急死、一旦、兄・恭平が郷里で開業したので、その手伝いの為、帰郷する。 その後、また江戸に出て医学所で学ぶが、新頭取の松本良順と合わず、緒方洪庵の子息・惟準にオランダ語を学ぶ。 この時、緒方洪庵の未亡人の勧めで、一旦、家格の関係から緒方家の養子になり、池田玄仲(多仲)の養子になる。 当時、圭助は兵学を学ぶ為、オランダ語を習っていたが、養子縁組を機に医学の道に進むことになる。 元々、入澤家が医者の家であった(親の兄弟4人が医者、兄弟も医者)ので、医学に進むことにそれほど違和感は無かったようだ。 その後の経緯を書くと長くなるので、省略する。
(注)遠田澄庵: 文政2年(1819年) - 明治22年(1889年)7月29日)は、幕末の漢方医。 幕府奥医師、名は景山、号は木堂、脚気治療の名手として知られる。

 しかるにまた一方では脚気は全く東洋の病で欧米人のかって知らざるところであるから、この治法こそは漢方医に限るという論を主張する者が続出するようになりました。 この時、陛下は大久保内務卿を召されて、近年脚気に斃れる者ようやく多いが、この病の治療法につき新、古、医方に託して研究せいむるようにとの御仰せであったので、内務卿は明治十一年東京府に命じ、脚気病院設立委員会を置き駒込に病院を設けたのでありました。

 私も当時『脚気論』という著書を公にしていたので、この脚気病院設立委員に選ばれ設立に力を致したのです。 病院の治療医院は新方では佐々木東洋・樫村清徳、古方では今村亮・遠田澄庵の四人でした。 しかし古方の両人の主張で、私が報告委員として全体の実況を厳正公明に報告するよう委託されたのです。 この病院の報告は年々内務卿の手を経て、陛下の御手許へ奉呈されましたが、その治療成績は古方より洋方がずっと好成績でした。

 しかし脚気の病原については諸説紛々として定まらず、従って正確なる治療法もなく、医学上一の難問題であり、軍隊においてもこの病のために支障を来たすこと少ないのです。 これが私などが前々から調査の必要を切論していた所以(ユエン)です。 しかるに明治四十一年に至り、寺内陸軍大臣は各著名の医学者を集めてこれを調査せしむるために、脚気調査会なるものを設けんとて、その会設立のことを内閣に進言されました。 すると徳大寺侍従長からこれに関して私の意見を徴されました。 明治天皇は、徳大寺侍従長を召され、内閣からここに脚気調査会設立の件が出たが、脚気については石黒がかって多年苦心しているから、この件について、同人の意見を内調してみよとの御主旨の仰せがあったとのことです。 私が陸軍現役を辞してからもはや十一年になるに、私が以前脚気のことを専心調べていたことを当時聞こし召され、それを御記憶あそばされて、このたびの仰せであるとは実に恐懼(キョウク)に堪えません。 私は衷心この挙に賛成の旨を述べ、徳大寺侍従長の命でその件についての意見を書いて差出しました。 その後数日にしてこの調査会は設けられたのです。 これも、明治天皇の聖慮の周密にわたらせ給い、御記憶の良き御ことを追慕し奉る一端であります。

 後段、略。


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