柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 前回まで、陸軍の脚気論は統一されていたと考えていたのだが、陸軍部内でも反論が有った事が判ったので、それを紹介する。

 緒方洪庵の孫・緒方銈次郎(ケイジロウ)の手記によると、洪庵の子息・惟準(イジュン)が、脚気の予防策として、「麦飯」の供給を実施し、好成績を上げているのである。 以下、緒方家五代目・緒方惟之(コレユキ)氏著『医の系譜』から、その部分を引用する。

 「父は近衛師団軍医長に転ずると、かねてからの持論であった兵士の脚気予防策として、麦飯の供給を実行して非常な好成績を挙げた。 大阪師団で行われた堀内利国(惟準の妹九重の夫)軍医監のそれとともに、軍事衛生に一大問題を提供したのであった。 父は全国の師団に麦飯の断行を強力に主張したが、同僚や衛生委員とは意見が合わなかった(惟之=当時は、脚気の原因がビタミンB1不足にあるとする惟準らの説と、細菌感染説が対立していた)。 とうてい素志を貫徹することができないと慨嘆し、数ヶ月かけて熟慮した末、潔く軍職を辞することを決意した。 そして行李を収めて懐しい故郷大阪の地に帰った。」

 尚、堀内利国については、下記のサイトが詳しいので紹介する。
 
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/siryo/horiuchi.htm

 こうして見ると、脚気論は、単に陸海軍の対立ではなく、矢張り、医学の本質論として、当時の医学者間で論争された事が判る。 因みに、堀内利国が大阪師団(第四師団)で麦飯(米麦混合)を実施したのは、明治17,8年頃の事であり、当時、問題の石黒忠悳は、明治17年(1884年、前年には、中央衛生会委員・日本薬局方委員)、東京帝国大学御用掛、翌年、内務省衛生部次長・検疫事務取調委員に就任している。 尚、石黒忠悳の役職の略歴を『柏崎通信デジタルライブラリー』の『况翁閑話』(16)に記載したので、参照されたい。

 これは、後の事になるのだが、長谷川泰が斉生学舎を設立する動機とも言える、官と民との対立の遠因ではないだろうか。

Best regards
梶谷恭巨


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