柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 『况翁閑話』を『柏崎通信-資料編』に第五回(資料18)まで掲載した。 資料編は、基本的に総てブログ版『資料編』に転載しているのだが、何しろ、『資料編』への訪問者が少ない。 今日の時点で、157。 今年の4月から始めた訳だから、これも仕方ないとは思っているが、矢張り少々残念である。 そこで、資料についても、特に『况翁閑話』は、注釈とコメントが多いので、本編にも掲載することにした次第である。

 さて、そこで、『况翁閑話』だが、初回には、博文館の坪谷善四郎による『緒言』を省略していたのだが、それも掲載すべきと判断し、加筆修正して、改めて掲載する。 とうのも、当初は、『况翁閑話』を石黒忠悳を知る上での、単なる資料と考えていたのだが、注釈などしていく内に、維新前後から明治末までを知る上に於て、これが極めて優良な資料であると思うに至ったのだ。 となると、矢張り、博文館の大橋佐平・新太郎親子と坪谷善四郎との関係も重要になる。 石黒忠悳は、殊に郷土意識の強い人で、大橋佐平が博文館を創業し、後に、「日本の出版王」とまで云われるようになった背景には、石黒忠悳の多大なる影響があったと考えられるからだ。 例えば、大橋図書館の設立などある。 尚、坪谷善四郎に関しては、『况翁閑話』の第一回に若干の注釈を載せた。

『况翁閑話 附况翁談片』-緒言

 人の世に立ち、志を成す頼る所あるなり、其所頼なくして立世成志する者古来稀なり、明治維新は志士風雲に乗ずるの時期、而して此に三拾四年、其間世に立ち志を成し名を一世に揚げたるもの幾千百、然れども仔細に其出所を尋繹すれば、曰(イワク)藩閥、曰夤縁(インエン)、此二に頼らざるものは私に其技術を鬻(ヒサイ)で以て之に頼るものなり、彼の聳肩謟笑(ショウケントウショウ)以て上長の歓を迎え姦商と結託して上長の財を殖し、酒楼に随伴して愛妓を妁(シャク)し、以て身を立て栄を得る輩に至ては此に列するに足らざるなり、何をか藩閥と謂う、身雄藩に生れ若くは身を雄藩に投じ、藩威を負うて進み、同藩旧故の元老に頼て、身を立る者是なり、何をか夤縁と謂う、元老若くは豪富の子女を納(イ)れ、其姻戚となりて縁を求め身を頼るもの是あり、何をか技術を鬻で之に頼ると云う、碁奕書画謡舞歌曲を巧にし、若くは愛妾狎妓(アイショウコウギ)の病疾を療(イ)し、以て権家豪紳の歓を迎うる等、其他此類皆是なり、如此の世に立ち身を一介の書生に起し介然自立、藩閥なく夤縁なく又一点技術を私鬻するの媚侫(ビネイ)なく全く身を職事に尽し、遂に藩閥元老輩に信敬せられ、職事を以て外国の識者に賞賛せられ、身健(スコヤカ)に名盛なるに、方(マサ)て断然冠を挂(カケ)て栄を後進に譲りたる者、况翁石黒男(男爵)を除て亦誰かるや、蓋し男の脳髄常に冷静大事に対して動くことなく、小事に応ずるに忽(ユルガセ)にせず、平常の談片語屑洋々旨味滋(シゲ)し、太陽記者此に見あり、明治三十一年より同三十二年に亘れる間、時事に応じて談話せらるゝものを得る毎に、之を世に公にし積て数十に至る諧謔の間、憂世警人する所深し、所謂身厳密に在て尚毎に国を憂うるものか、海舟伯(伯爵)、既に白玉楼に帰り、雪池(ユキチ)翁亦尋て逝矣、警世の語を聞くこと稀なり、幸に况翁在るを以て世未だ寂寥ならざる也、男(男爵)翁と称するも齢(ヨワイ)未だ耳順に達せず、世人尚翁に望む所あるなり、此編宜しく男の実歴談及况翁叢話と併せ見る可きなり。 明治三十四年十月 坪谷善四郎謹識

(注1)夤縁(インエン): 「夤」とは、①つつしみおそれる「夤畏」②のびる(延)、連なる、からみつく。 このと事から、「夤縁」とは、「しがらみ」とでもいう意味になるのだろう。
(注2)聳肩謟笑(ショウケントウショウ): 肩を聳やかし、疑って笑う
(注3)媚侫(ビネイ): こびへつらうこと。
(注4)太陽記者: 坪谷善四郎のこと。 『太陽』は、博文館が、日清日露戦争間に創刊した雑誌の一つ。 明治28年1月創刊(月一回)、明治29年1月より月二回、同33年1月1日より月一回、昭和3年2月第34巻第2号にて終刊。 (坪谷善四郎編著、昭和7年刊『大橋佐平翁伝』の復刻版参照)
(注5)白玉楼: 唐代の詩人・李賀の故事から、文人・墨客が死後に行くといわれる楼閣にこと。
(注6)雪池(ユキチ)翁: 福沢諭吉のこと。

 「緒言」からも窺えるように、况翁・石黒忠悳(タダノリ)は、実に波乱万丈の人生を生きた人である。 さて、最初の出会いは何処だったろうと振り返ってみると、どうも司馬遼太郎の小説『胡蝶の夢』であったように思う。 その後、越後の医療史など追う中で、どうしても気なる存在が、石黒忠悳だった。 『懐旧九十年』を読んで、年表的に知っていた人物像が、一挙に人間味を帯びてきた。 何故、これだけ面白い人生を歩んできた人が、小説にならないのだろうとか。 そこで、近代デジタルライブラリーなどで、石黒忠悳に関する文献を収集してみた。 その一つが、『况翁閑話』である。 ざった眼を通してたときには、それほどの関心を引かなかったのだが、改めて、資料編として採り上げてみると、時代背景についても、そうなのだが、文脈の裏にある深さを感じた。 そこで、『柏崎通信』の本編に掲載する事にした次第である。

 いずれにしても、歴史はパッチワークに似ている。 様々人間模様を継ぎ合わせていくと、全く別な世界観が広がる。 旧制中学の校長の足跡の一段落とは言えないのだが、もう一つの軸として、况翁・石黒忠悳を採り上げてみたい。 さて、どのような展開になるのやれ、はたまた、他の軸との関係や如何に。 広くなり過ぎた人間模様の大海に飲み込まれてしまうのかもしれないのだが。

Best regards
梶谷恭巨


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