柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 なけなしの金を叩いて、竹越与三郎著『二千五百年史』を購入した。 明治・大正期の名著と云われたが、反皇国史観から、戦時中は発禁処分を受けた。 この本に関しては、以前、紹介した事があるのだが、ご記憶にあるだろうか。 日清戦争後から続く動乱の時期、著者・竹越三叉(与三郎)は、西園寺公望の懐刀と言われて、日本近代史に大きな影響を与えた人物と云われる。 彼は、新潟とも無縁ではない。 詳しい事情は措くとして、柏崎の近隣、柿崎の出身と言っても差し支えない関係にある。 竹越三叉の影響は、今のところ確証は無いが、小野塚喜平次の門下である蝋山政道にも影響を与えているのではないか。

 序でに言えば、この本、近代デジタルライブラリーからダウロードできる。 ところが、トナーが不足状況で、この大書をダウンロードして、印刷するより、最廉価本を入手する方が得策だった。 入手先は、北海道は札幌の古本屋。 古本屋との付き合いも半世紀に及ぶと、その古本屋の姿勢が見えてくるものだ。 今回の本には、付箋などあり、これが教科書として使用された形跡がある。 ところが、意外だったのは、付箋代わりに使用されたものだ。 ひとつは、本社が京都市にある「ナガサキヤ」という菓子屋の北海道地区北海道営業所のスタンプがある「マロンの秘密」、「旬栗にフランス製菓技術との結晶です」、「栗はそのまま喰べるのが一番おいいしいとはかぎりません」、・・・・・・など。 そのケーキに添付されたカードなのである。 因みに、挿入されていた箇所は、「物部中臣両氏の大敗」だった。 次にあったのが、「電信電話料金領収書」のはがきである。 時は、出納消印から昭和52年9月10日。 これは、「血族を重んずる古風」にある。 だから何? と言われても仕方ないが、初版が明治29年に出て以来、改定と版を重ねて、大正の末年に出版された800ページに及ぶ大書の中にあったことに驚くのである。 余談だが、この本、古本としては相当に傷んでいるが、価格と送料を合わせて1450円で購入。 どうも、最近は、1000円が目安で、それ以上の本を買うことが出来ない。

 三叉・竹越与三郎については、ウィキペディアにも紹介があるので、省略するが、竹越家は柿崎の出身であったことは保留しておきたい。 これは、その当時に於ける酒造業にも関係する。 詳しい資料がある訳では無いが、長年(代々)、越後杜氏を勤めていた義父の話によると、関東一円の杜氏の90%が、越後出身者であったとか。

 本題に戻る。 実は、この本に着目したのは、幕末に関する記述である。 最初の出会いは、生田萬。 それが、書かれているというので、その箇所を確認する為に購入した。 ところが、本文中に発見できないのである。 検索の対象は、天保の飢饉だ。 漢文読下し調の文章だから、字義の裏を読む必要がある。 以前に紹介したときには、孫引きだったので、その点に疑問があった。 生田萬に関する部分、注釈にあったのである。 曰く、「天保八年六月、越後柏崎に一揆三千人起る。大塩の徒と称するも三十余人之が首領たり。日ならずして平ぐ」と。

 確かに、実際の生田萬の乱とは異なるようにも思える。 首謀者と云われるのは、僅かに数人である。 しかし、この時、三條の宮嶋氏に累が及んだと謂う形跡を見ない(調査不足なのかもしれないが)。 しかも、事を起こすに当って、何ゆえに、生田萬の居住地である柏崎ではなく、三條を基点として、しかも、舟行し荒浜に上陸、距離にしても二三里はある桑名藩の陣屋に向うのか。 それに、生田萬の平田塾同門でもあり、盟友でもある諏訪神社宮司の樋口英哲(出羽)などが参加したという文献を見ないのだ。 (生田萬を柏崎に招聘したのは樋口英哲。) これは、どう考えても不思議である。

 これ等から推測すると、竹越三叉が、大塩に与した首領30人と書くのは、必ずしも不思議ではないのである。 しかも、彼は柏崎とも縁の深い人物なのだ。 明治も後期とは言え、彼が充分な確証も無く、注釈を加えるはずも無いのである。 寧ろ、読む者にとって、本文に暗に示す内容より、注釈が目に付くのが、読者の常ではないだろうか。

 とまあ、こんな事から推測すると、「生田萬の乱」、全く視点を変えた解釈が必要なのではないだろうか。 何しろ、歴史的事実として簡単に扱われているにしては、多くの史書に登場しているのも事実なのだ。

 生き様は様々だが、時の流れと共に、記憶から遠ざかり、その源流すらも不明になるのが昨今。 しかし、大河の源流を求める番組が多く放映される。 さて、この歴史的「光行差」、時の流れに乗る「舟」から観る風景と、岸辺から見る「舟」のある風景、この相対性をアインシュタインは何と言うのだろうか。 ところで、思いついた「歴史的光行差」、これは行ける。 確かに、歴史認識の問題点は、「光行差」なのかも知らない。

Best regards
梶谷恭巨


コメント
漱石「福岡佐賀中学参観報告書
梶谷恭巨様
「柏崎通信」「明治期の英語教育について(3)」を拝読しました。漱石の「~報告書」は私が31年前熊本大で漱石現資料を発見したもので、「国文学」昭和54年1月号に発表しました。岩波「漱石全集」の注は私の論文を引用したものです。貴稿で気になる所があります。福岡県立明善中学校と称した時期はなく、明治30年には「福岡県久留米尋常中学明善校」といい、大正元年高宮乾一校長時代は「福岡県立中学明善校」といいました。また高宮乾一は県立になってから第6代校長です。それにしてもなぜ高宮校長がここに出るのですか。漱石英語教育と関係ないと思います。松下丈吉校長の長男元のことが出ていますが、これも漱石とは関係なく、むしろ松下丈吉が帝大予備門で漱石に英語を教えたか、どうかを調査されると、面白いと思います。詳しくは拙著『喪章を着けた千円札の漱石』(笠間書院)「熊本時代漱石の「佐賀福岡尋常中学校参観報告書」」をお読みください。これも6年前に上梓したもので、その後判明したこともありますので、いずれ発表したいと思います。      原武 哲
【2009/07/21 22:29】 NAME[原武 哲] WEBLINK[] EDIT[]
無題
原武哲様
 コメント、ありがとう御座います。ご指摘の件、「中学明善校」に訂正しました。
 また、高宮乾一校長の件ですが、本来、「ある旧制中学校長の足跡」から書き始めた旧制中学校の校長の交流、特に、新潟県と九州という遠隔地の人事交流を追いかけていた事に起因します。 その過程で、知ったのが「報告書」という訳です。関心があったので、資料として紹介したというのが本音で、注釈も、それに従ったものです。
 何しろ素人、不備な点が多々ありますが、御容赦ください。今後とも、ご教導頂ければ幸いです。
Best regards
梶谷恭巨
【2009/07/22 02:21】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]


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歴史研究、読書
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河井継之助記念館友の会会員
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