随分前、柏崎の番神堂を訪ねたことがある。 番神堂は、日蓮宗の三大聖地の一つとして有名だが、その寺の入口にある大きな石碑のことについては、皆さん余り気を止めないようだ。 私が気になったのは、その石碑のことだ。 記憶が定かではないのだが、その石碑が関矢孫左衛門の顕彰碑だったと記憶するのだ。 (間違いであれば御容赦。)
関矢孫左衛門は、後に紹介するように、現在の柏崎市新道の飯塚家から現・魚沼市並柳の関矢家に養子に入った。 幼年時には、藍澤南城の最晩年に「三余堂」で勉強した。 関矢家に養子に行くのは、関矢家の前当主・徳左衛門が、矢張り、藍澤南城の門人であった縁であろう。
その関矢孫左衛門が、石黒忠悳が片貝村池津の石黒家を継いで初めて出来た親友なのだ。 石黒は、そのことを『懐旧九十年』に、懐かしげに書いている。 結びつけたのは、「尊王攘夷」思想だ。 若い二人(共に、二十歳前後)は、越後一円の私塾を訪ね、同志を求めている。 三余堂にも来ているのだが、南城先生は既になく、代替わりしていた(娘婿・朴斎の代)。 軽くあしらわれたようだ。 序でに言えば、話を聞いてくれたのは、柏崎の原修斎と粟生津の鈴木文台の二人だけだったとか。
この辺りから、路が分かれるのかもしれない。 しかし、青春の思い出、半世紀以上後になっても、石黒忠悳には貴重な想い出だったようだ。
大橋佐平が、明治18年に『北越名士伝』を著し、関矢孫左衛門に付いて書いている。 それを入院中の暇に任せて打ち込んでみた。 まだ、検証はしていないのだが、取り合えず、少々長くなるが、それを紹介する。 (『北越名士伝』は、明治18年、大橋佐平51歳の時、長岡の大橋書房(越佐新聞社、子息・新太郎)から出版。 巻頭が、勤皇の志士・本間精一郎、巻末が河井継之助。 大橋佐平の思想の一端が窺える校正になって居る。 この辺りも興味深いが、それは又別項で。)
以下、原文。 但し、印字の不明瞭な部分があり、そこは、■を入れ、推測できる部分は()内に書いた。 また、原文でルビがないところには、()内に読みを入れた。
******
関矢孫左衛門君、幼名は猶吉、後正人と改む、通称孫左衛門、忠靖又は恭卿と号す、刈羽郡新道村飯塚七十郎の第四子也、弘化元年一月を以て生る、後越後魚沼郡並柳村関矢徳左衛門に養わる、因て其の姓を胄(チュウ、よつぎ、ちすじ)す、関谷氏は元と藤原秀郷に出ず、秀郷数世の孫、関忠員(タダカズ)なる者、始て越後に移り、関矢氏と称す、世々郷族たり、君性豪岩、幼より人に異なり、長ずるに及んで奇行多し、窃(シソカ)に幕府の専横に■(よる)王室の式微を歎ず、慶応乙丑の年、長谷川鉄之進の米澤藩に使いするや、帰途越後に来り、細かに長土西藩の情勢を説き、勧るに勤皇の事を以てす、賊徒探りて之を知り、遂に関門を四境に置き、道路之が為梗塞す、君乃ち鉄之進を其の家に匿し、相謀て奥羽北越の景勢を長藩に報ず、又有志の徒と屡々米澤を往復し。大いに計画する所あり、蓋し草莽の徒事を謀る、力微にして成すあるに足らず、雄藩に依て其の力を仮に如(シ)かずとせしが故なり、翌丙寅の年、村松藩七士を殺す、七士は勤皇正義の士、奸党の為め忌まれて茲に至る、時に志士多く会津藩に悪まれ、村里の安処するを得ず、君乃ち脱走奔命の士を其の家に会し、笠松健吾、松山一郎をして二毛に入り、深く有志の徒に交らしめ、又高橋竹之介をして奥羽に至り、専ら其の山川風土人情を探知せしむ、竹之介南部仙台に至て帰る、慶応三丁卯の年、将軍徳川慶喜大政を奉還し、諸藩に令して命を俟(マ)たしむ、君等之を聞き以為(オモエ)らく、二百余年兵馬の権、一朝にして之を捨つ、天下の勢、寔(マコト)に然らざるを得ずと雖も、豺狼(サイロウ)不逞の徒、或は変を起し乱を煽するなきを保せず、今に及んで宜しく之が備を為すべきなりと、則ち同志を瓜生村に会し、松田秀次郎、高橋竹之介をして京師に至り、私(ヒソ)かに謀議する所あらしむ、明治戊辰の年、京師果して変あり、君桜井省吾と将さに京に入らんとす、頚城郡今町に到りて同志に会す、適々(タマタマ)竹之介京より帰り、北陸道鎮撫先鋒の書を奉じて来る、乃ち共に与に転じて下越に至る、此時に方(アタ)り、会津藩兵を越後に出し、新発田村上松村の諸藩を劫(オビヤ)かし、転(ウタ)た猖獗(ショウケツ)たり、君等乃ち坂谷村池浦某の家に会し、旗号を作り、金穀を集貯し、滞留する事数日、相謀って曰く、烏合の兵能(ヨ)く賊の鉾に当るに足らず、而して王師の到る将さに近きにあらんとす、今の策を為す、止(タ)だ各々力を竭(ツク)して同志の士を募るにあるのみと、於是相散じて専ら士衆を糾合せんと欲す、此年三月、鎮撫使総督の宮越に下り、営を高田に置くの説あり、君等同志り共に将さに結装して発せんとす、然れども総督宮到らず、各藩名代人を召て路を中山道に取り、遂に江戸に出ず、有志の徒皆失望慷慨せざるなし、而して賊軍の勢威益々熾(サカン)なり、翌四月大音龍太郎鎮将府の命を以て越に入る、君則ち同志に代り、単身江戸に到らんとす、十七日程(テイ)に上(ノボ)る、別を其の母に告げ、心生きて還らざるを期す、依て相対して泣く、母妻共に能く見る事能わず、君の柏崎に至るや、賊兵街に充ち、厳に往来を誰何す、翌日鯨波に到り、舩(フネ)を傭い、辛うじて高田に出で、室幸次郎の家に泊す、止る事二日、賊兵の挙動を窺う、時に賊軍富倉峠を超え、信州飯山に出で、復た兵を分て本道を警(イマシ)む、君乃ち高田を発し、関山に至り、賊の邏兵に捕えらる、然れども百方他なきを陳す、賊其の行李を解き、身体を検するに共に異状なし、乃ち之を放つ、君漸くにして虎口を脱し、松代の軍に投じ、越後の景勢と其の心事を以てす、先是同藩士馬場要人越に来り、屡々我が同盟に逢う、即ち共に昼夜兼行して東都に出ず、街■(ガイク)寂寥、平日熱鬧(ネツドウ、ルビには「ネツトウ」とあるが? 人が込み合っている様)の状を残さず、宿を求むれども殆んど得ず、遂に清崎藩邸に宿し、大音龍太郎を彦根藩邸に訪い、倶に四條鎮撫督府の陣に至り、具(ツブサ)に越の形情を陳し、且つ曰く、列藩賊焔を消する事能わず、闔国(コウコク)将さに鬼蜮(キイキ、ルビには「キコク」とある? 陰険な人の例え、『詩経』)の有たらんとす、敢て請う王師之れを欽定せよ、義兵の挙は則ち某等亦謀ある所あるべしと、事総督大府に聞れ、菊章の大隊旗を賜う、偶々松田秀次郎、二階堂良硯亦会す、君乃ち二人を提(チッサゲ)て、旗章を奉じて国に帰る、閏四月巡察使大音龍太郎を上州権田村に訪い、同国各藩の兵を会して三国嶺の賊を撃ち、捕獲頗る多し、君又先鋒と為て越に入らん事を請う、故あって果さず、既にして松代に赴き、■(鎮)するに義挙の方策を以てし、軍器を得し事を謀り、乃ち郡奉行成澤某の書を得て帰る、此時に方(アタ)りて王師既に越に入り、柏崎、雪峠、小出島等に転戦す、而して松代の軍小出島に在り、君乃ち行て軍資粮食を謀議し、郷党壮士三十二名を募りて一小隊と為し、以て松代の軍に加わる、二十村栃尾口を守り、賊兵と半■(蔵)金村に戦、之を破て軍を進む、時に松田秀次郎等兵を与板城に挙げ、方義隊と称す、乃ち隊を合せて与板山を守り、塁を賊軍に対し、砲撃絶ゆる■(こと)なし、七月君仁和寺宮に謁し、錦袖の符印を賜はる、是より称して親兵と云う、八月五頭山を守り、尋て亀田に屯す、九月総督府の命に依り、村上口に進み、庄内鶴ヶ丘城に入る、此行隊名を撰んで居之隊と名く、十月校内より凱旋し、芝田に止まり、屯陣を命じられ、翌十一月更らに加茂を守衛す、明治二己巳の年五月、水原府下守衛を命ぜらる、十一月太政官達あり、隊中三十歳以上を解き、以下悉く兵部省に隷せしむ、翌三年一月、君水原を発し、三小隊を率い、中山道を経て東京に入る、先是松田秀次郎京に在り、君代りて其の兵を管し、清水邸に屯す、二月隊名を廃し、北辰金革二隊と合し、第三遊撃隊と称し、取締に任ぜらる、四月駒場野に於て演習す、聖駕臨して式を行い、勅語天杯を賜う、五月皇城平川御門を警衛し、尋て田安御門を守る、九月兵部省賞与あり、金五拾円を賜う、翌月隊を解て家に帰り、明治五年八月柏崎県第十四大区小九区戸長に任ず、此際屡々地租改正の議に参じ、昇等任命少からず、九年更らに第十四大区長に任ず、十年二月地租改正の事畢(オワ)り、賞詞を賜う、此の年西南の変起る、六月君職を辞し、軍に従う、先是君朝旨を奉じ、数次説て従軍を願わしむ、懇篤具(ツブ)さに至る、募る所凡(オヨ)そ七十余名、君之を率て京に至る、発するに臨み、県令永山盛輝勗(ツト)むるに国歌を以てし、以て其の行を壮(サカン)にす、七月三等少警部心得を命ぜられ、新撰旅団第六大隊第三中隊長に任ず、幾くならずして賊徒誅に伏し、君亦隊を解き国に帰る、十月地租改正御用掛を命ぜられ、翌年一月に至て之れを辞す、九月聖駕北巡の時に際し、長岡行在所に於て謁見を許さる、蓋し君国事に尽すの精、終に天朝に達して然るなり、十一月長岡第六十九国立銀行を創立するや、君撰ばれて其のトと頭取と為り、十二年四月郡区改正の挙あるに及び、遂に北魚沼郡長に任ぜらる、十五年十月、南魚沼郡長を兼ね、翌年二月兼官を免ず、君資性豪活、夙(ツト)に国事を以て憂とす、又事に幹たるの才あり、今北魚沼郡長たるや、属僚を統うる規率あり、甚だ苛察ならずと雖も郡治大に張り、衆皆悦服す、君又鰥寡(カンカ、男やもめと後家女)孤独を扶助し、志士の後家貧しき者あれば、■傾けて之を救う、而して金を醵(キョ)し公益を謀る事少からず、賞賜を得る事前後数十回に及ぶと云う。
******
以上
尚、この文章に関しては、注釈など付け、後に『資料編』に掲載する予定。
Best regards
梶谷恭巨