柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 ネットサーフをしていたら、明治に起った「脚気論争」の事が眼に入った。 要は、森鴎外脚気悪役論である。 そして、元凶は石黒忠悳にあるとする意見だ。 医学的問題は措くとして、明治の脚気論争は、果たして妥当な評価を受けているのだろうか。

 当時の医学研究と教育の状況を考えると、問題の発端は、必ずしも「脚気」の問題ではない。 それを裏付けるのが、後に紹介する石黒忠悳の『懐旧九十年』にある兵食に関する記述である。 我が国には、武士階級はあっても、平和の続いた江戸時代は、常備軍というものを持たなかった。 これは、集団行動としての問題点、特に兵站あるいは兵食の問題が重要視される事が無かったことを意味する。 世界史的に見ても、兵站問題が軍事学として採り上げられることは、ほとんど無かったといえるだろう。 兵站問題が、軍事科学として着目されるのは、米国の南北戦争後のことではないだろうか。 多くの兵学書で取り扱われたのは、戦略と戦術であり、弾薬や戦術機材の補給問題を除き、兵站、特に食糧問題は二次的問題だった。 要するに、南北戦争以前の戦争では、兵士の食糧は略奪によって、よく言えば現地調達によって賄われていたのである。

 明治になり常備軍が編成され、平時に於ける兵食問題が浮上する。 兵隊を集める為にも、十分な兵食は農民募兵の目玉なのだ。 腹一杯に食べる事が、農村出身の兵には魅力だったのだ。 最初は玄米で支給されたものが、白米に変化するのも、兵の出身者の多くが農家の次三男であったことに由来する。 農村出身者にとって、銀シャリをたらふく食う事が何よりのご馳走だったのである。 脚気問題が、後に大論争を惹き起こす原因の発端がここにあった。 集団一律の食事など、今までに経験した事の無いことだったのである。 結果として、軍隊内で脚気が多発する。 その原因が食事にある事に気付いたことが、脚気論争の始まりだろう。

 すなわち、脚気論争の功罪よりも、その過程を評価すべきではないかというのが私の意見なのだ。 結果として、海軍の高木兼寛に軍配が上るのは、飽くまでも結果でしかないのである。 石黒忠悳は、最も信頼する森林太郎(鴎外)を独逸に派遣する。 当時の医学の最先端に在ったのがドイツなのだ。 この選択に誤りは無いだろう。 しかし、脚気は日本の風土病と見られていた時代だ。 最先端のドイツでも、兵站としての食事問題は研究されていたかもしれないが、食生活の異なる欧米に脚気問題など存在しなかったに等しいのである。 寧ろ、食事問題、言い換えると、栄養学に着目した石黒忠悳や森林太郎、あるいは高木兼寛らの陸海軍の軍医達を賞賛すべきではないだろうか。 余談だが、栄養学が軍事科学の一分野として成立した事には着目すべきだろう。 今でも、米国における栄養学は、軍事科学あるいは宇宙工学の一貫としてNASAなどで研究されており、しかも、最先端を進んでいる。

 さて、そこで、先に書いた石黒忠悳の『懐旧九十年』から引用しよう。 特に、次に揚げるのが、北軍の将軍であり、大統領になったグラントに関わる記述で有る事が興味深い。 以下、原文(岩波書店、『懐旧九十年』)の全文をタイプしたものである。

『懐旧九十年』 第五期、18 「グラント将軍来朝と兵食問題」

 陸軍で兵食の定まったのは、山縣陸軍卿が紀州から津田出という人を招き、陸軍少将に任じて会計経済のことを一任し、委員を設けて出来上ったのが陸軍給与規則の始めで、すべての給与がこれで統一されたのです。 この時に食は白米六合に、金六銭となりました。 元来一人扶持といえば、玄米五合であるが、それを白米五合にすれば充分であるとのことであったが、私は、徴兵は農民が多く、農民は大食であって一時に減食すると力を減ずるからいけないと主張して、白米六合とし副食代も六銭としたのです。 陸軍の給与制度についてはこの津田少将は忘れてはならぬ人です。 その頃の将校の頭には栄養というようなことは頓となく、山地元治君なども早くより真に驍将であったが、どこまでも自分の元気一つで兵を率い、兵は常に困苦欠乏に慣れさせなばならぬというので、折々弁当なしで行軍させたことなどもありました。 晩年になって私に対し、兵食については昔随分無茶をやったが、あれは自分の無理であったと申されました。

 その頃、米国大統領グラント将軍が来朝せられたことがあります。 その時、陸軍では兵営だの練兵だのまで一覧に供したのでした。 私は接待員の一人でしたが、或る日、近衛の兵営にて兵の食物を見て、その簡易なるに驚かれ、親しく私にその栄養状況を質問されたから、私はその食物に含む栄養分量から、労力の程度等を委(クワ)しく話し、これまで幾度も西洋食に変革しようとの話もあったが、私は常に反対して来たことなどを話し、現在の兵食(米六合、金六銭)では決して十分とは申されぬから、いずれ若干の増額を要求して改正するつもりであると語ったら、将軍のいわるるに、数回練兵も見たし、また各個の運動も見たが、その作業といい、疲労程度といい、我が国の陸軍に比して大なる遜色もない。 しかも食料においては我が国の兵一人に費するところを以て、貴国の兵殆んど三人を養うことを得る勘定である。 それを国民の常食と違う西洋食に帰るなどということは、固より取るに足らぬが、この後経費の都合が出来て今日よりも改良するは宜(ヨ)いが、兵食を上進するということには十二分の考慮を要する。 何となれば、兵一般の望みは、先ず第一が粮食である。 ゆえに一度定めたる食費を一銭でも減ずるということには、大なる苦情を持来たすものである。 それは日々の給与金を減ずるの比ではない。 幸いに貴国ではこの食にも苦情もなく、また栄養にも不足ない以上は、兵食の費額を増すということは大いに考えねばならぬ大事である。 いわんや先日来聞くところによれば、なお増兵するの計画だとのことであるから、ここで誠心誠意自分の心持を述べると、懇々話されました。 その時、私もなるほど大兵政を統べた経験ある人は、兵を養うにも用兵経済にも秀でているものだと深く感心しました。

 その後、海軍で高木兼寛君の主唱で、パンを主とする洋食が採用せられ、陸軍でもこれに倣うべしとの論が出て来、殊に薩摩出身の将校によって盛んに唱導され、洋食・邦食の論議は一時非常に喧ましいものでした。 しかし私は断じて洋食論に譲らず、我が国は国初以来、邦食を以て人口繁殖して今日に至っている、これを改良するには吝(ヤブサカ)ではないが、そのどこが悪いか第一に長短を学問的に精査してその成績によって徐(オモム)ろに改善に進むべきである。 なお徴兵制度の下において、兵食を一般国民食と全く別に違わせるということは甚だ考えものである。 一朝、大兵を挙げる必要が生じた場合にも、食糧物資の調達に直に行き詰ってしまう。 パンの原料、その副食物等はともに今の現状では困難であるというような点で洋食論に反対し、一方また、兵食と我が国古来の食物との学問的研究のために軍医森林太郎君に独逸留学を命じ、当時世界的に有名であったフォイト博士に就いて栄養学の研究をなさしめた。 これが我が国における食物の近代的研究の始まりであります。 そこで森君が留学をおえて帰朝するや、直ちに陸軍々医学校で多数の兵士を用いて兵食調査の実験をなさしめ、同じく帰朝した内科専門の軍医谷口謙(ケン)君をしてその排泄物の検査をなさしめ、食物の単なる成分分析検査による化学的議論より更に歩を進めた栄養摂取の衛生学的結論を得たのでした。 かくして翻訳的な食物論ではなく、この我が国の実際を学問的に実験調査した結論によって、兵食は洋食とする必要なく日本食で何ら支障なきことを明らかにし、ここに陸軍兵食の根本原則を確立したのでありました。 この森軍医がすなわち後の軍医総監で、かの有名な文豪森鴎外博士です。 この検食記事は、我が陸軍々医学校業府にその初期における重要事業として記載せられており、その成績は今日でも引用せられる貴重な経験となっています。

 尚、次回、これに続いて関連する部分を紹介する。

 


コメント
該当のブログがどこであるか分からないのですが
初めまして。bn2islanderと申します。
石黒氏に対する批判的なエントリーを書いたことがあります。

http://d.hatena.ne.jp/bn2islander/20081218/1229602301

現在では、石黒氏が主犯という説は、持っていません。と言うのは、石黒氏が、陸軍の兵食改善を目指し、失敗した経緯があるからです。

引用させていただきます。

"食は白米六合に、金六銭となりました。 元来一人扶持といえば、玄米五合であるが、それを白米五合にすれば充分であるとのことであったが、私は、徴兵は農民が多く、農民は大食であって一時に減食すると力を減ずるからいけないと主張して、白米六合とし副食代も六銭としたのです。"

白米六合、副食六銭と言う枠が問題であり、陸軍に脚気が多発した原因の一つに、陸軍は海軍より兵食にお金をかけることができなかったということが問題だったと、現在は考えています。石黒氏個人の問題とは思いません。

私が書いたエントリーは、修正されるべきなのですが、なかなかその機会がなく、そのままになっております。

なお、高木氏退役後、海軍では脚気が増加したという記録もあり、高木氏が脚気の撲滅に成功したかといえば、必ずしもそうではないと考えます。
【2009/12/08 23:24】 NAME[bn2islander] WEBLINK[] EDIT[]
脚気論のエントリーについて
 コメント、有難うございます。

 さて、貴兄の言われるエントリーについて、実のところ、石黒忠悳に関する情報収集の過程で偶然に読んだもので、何処であったか記憶が定かではありません。 ただ、Googleで検索した結果であることは事実です。

 また、脚気論争に付いては、それ自体を問題にしているのではなく、明治維新前後あるいはそれ以降のの教育に、その前後の事情から医学が大きな影響を与えたと考えており、脚気論争は、そのひとつの表れではないかと思案している次第です。

 浅学、十分な回答とはいえません。 御容赦。 今後ともご教授の程、宜しくお願します。

Best regards
梶谷恭巨
【2009/12/09 00:22】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]


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