柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 東京帝国大学文科大学国史科卒業まで。

1870 明治 3 2 6 0 福岡県 旧黒田藩士の子として、福岡県早良郡原村字庄出身に生まれる。 (黒田家分限帳に記載が無い)
 ☆父は、「藤次郎」と思われる。
 ☆明治25年12月の脩猷館々友会第一回報告によると、住所が、福岡県早良郡庄村百廿九番地になっている。
1888 明治 21     18 福岡県 修猷館中学に入学(修猷館の史料を読むと、当時の学制で期間が3ヵ年であるところから推測)
1889 明治 22          
1890 明治 23          
1891 明治 24 3 24 21 福岡県 「軍隊投石事件」が発生、館長(校長)・尾崎臻(いたる)が引責辞任し、教頭であった「仙田楽三郎」が館長事務代行に昇格し、翌25年、福岡県立伝習館中学校長に転任 (仙田楽三郎については、現在調査中だが、断片的足跡が判っている。)
1891 明治 24     21 福岡県 修猷館中学(第3回)卒業
1891 明治 24     21 熊本県 第五高等学校(熊本)入学
 ☆本科第一部(文科)第三回卒業生、同期8名、この中に「広田直三郎」という人がいるが、昭和6年(1931)、東京鉄道中学(現、芝浦工科大学)第五代校長と同一人物か?
 ☆修猷館同窓会誌『館友雑誌』第一号の論説に『須ラク其義務ヲ全ウスベシ』を寄稿。 因みに、同じに論説に『遺伝ノ説』と題して関豊太郎が寄稿している。 関豊太郎は、宮沢賢治の盛岡農林時代の恩師であり、その後も大きな影響を与えた人物。
 ☆当時の学校長は、講道館の加納治五郎であり、後に書くが、羽石重雄が赴任する大阪府立二中の初代校長・有馬純臣は、加納治五郎の弟子(講道館)で、加納治五郎が第五高校校長に就任する際、招聘した人物。 このほかに、ラフカディオ・ハーンも招聘しており、羽石重雄は、有馬純臣とラフカディオ・ハーンの影響を受けたことが推測される。 ★この件についても、別項を設ける。
1894 明治 27 9   24 熊本県 第五高等学校(熊本)卒業
1897 明治 30     27 東京都 東京帝国大学文科大学国史科卒業

 付け加えるべき詳細があるのだが、容量オーバーのため削除。

Best regards
梶谷恭巨

 


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1947/05/18
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よろず相談家業
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歴史研究、読書
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柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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