柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 先日、作家の木島次郎氏から興味深い話を聞いた。 阿賀野川周辺の取材中の話だそうだ。 詳細は不明なのだが、奇兵隊の名簿の中に、明らかに柏崎市北条周辺の出身者と思われる名前が多く在ったのだそうだ。 その事情というのが、山県有朋が柏崎に在陣した当時、「我々は、毛利家の遺臣である」と、北条周辺の人々が訪ねて来たのだと云うのである。 これは、有り得ることだ。

 北条時頼の時、大江広元の子・季光(毛利姓大江季光)は、「宝治の合戦(あるいは、三浦氏の乱)」で、娘が時頼の正室であるにも拘わらず、妻の兄である三浦泰村に加勢し、越後国佐橋庄に在った四男経光を除き、族滅している。 その後、経光は許された。 四男の時親は、南北朝時代を通じ、幕府の重鎮として家を維持するのだが、本拠地を安芸国吉田庄に移した経緯があるのだ。 一方、経光の長男の基親の家系は、その後、北条(きたじょう)、安田と姓を変え越後に残った。 詳細は省くが、その家系が、上杉氏の米沢移封の後も、今の柏崎市に残った訳だ。

 戊辰戦争当時、柏崎周辺の事情は複雑である。 柏崎(大久保陣屋)を中心にした桑名藩領は、越後の国に点在し、石高にしておよそ八万石くらいあった。 桑名藩主・松平定敬(さだあき)は、会津藩主・松平容保の弟であり、容保が京都守護職の時、京都所司代を務めた。 その為、柏崎は、戊辰戦争(北越戦争)の激戦地の一つになった。

 ところが、一方では、戦前から長州の国学者・近藤芳樹(後、明治天皇の侍従)が、国学を通じて、勤王派工作を行っていた。 その為、柏崎は東西二分して、戊辰戦争に与したのだ。 以前紹介したことがあるが、為に、柏崎から新選組に入隊し、函館戦争まで従軍した人物が、少なくとも五名は居たのだ。 因みに、官軍(西軍)に、私財をなげうって協力したのは、豪商・星野藤兵衛と云う。 後に、これが為に、星野家は没落し、明治11年の明治天皇北越行幸の折、子息と弟が、その窮状を近藤芳樹を通じて、明治天皇に上訴し、従四位と金1000円を遺贈された。

 迂闊だったのだが、こうした事情から官軍に参加した柏崎人があったのでは、と思ってはいたのだが、資料を見つけることができなかったのだ。 そこに、木島氏の話である。 早速、『奇兵隊日記』を調べてみた。 これに関連するのは、その内、『越後口日記』(慶応4年4月25日~同閏4月10日)、『柏崎会議所日記』(慶応4年5月10日~同8月1日)、『与板出張出軍日記』(慶応4年5月27日~8月1日)、『奇兵隊本陣日乗』(慶応4年7月12日~同8月24日)、『津川会議所日記』(慶応4年9月17日~同9月27日)がある。 また、『奇兵隊日記付属』として、『争地度数死傷者名簿』と『軍忠状写死傷姓名録』(明治元年)も調べてみた。

 しかし、これらの史料の中には、柏崎出身者を思わせる姓名がないのである。 もっとも、記載されている死傷者は、いわゆる士官か、その従者のみで、一般の隊員に関する記載がないのであるが。

 そこで、これはお願いなのだが、何方か、柏崎毛利の遺臣の奇兵隊入隊者の事情をご存じはないだろうか。 実に興味ある事実だが、未だ関連する史料に行き当たらないのである。

Best regards



 

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