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柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 前回に引き続き、法科大学編入時及び在学中の教師を紹介する。

○理財学
 文学士
 
和田垣謙三: 1860年8月30日(万延元年7月14日、但馬国豊岡(現、兵庫県豊岡市)に、豊岡藩(京極家)の札場奉行・産物奉行などを歴任した和田垣譲の次男として生まれた。幼少より読書を好み、初め藩校・稽古堂学頭の久保田精一に学び、廃藩置県後、一時期、地元の医師についてドイツ語を学んだ。その後、上京し、ドイツ語の習得に努めたが、東京外国語学校を経て、開成学校に入学、ドイツ語と鉱山学を専攻した。明治10年、開成学校と医学校が統合され東京大学にが創設されると、文学部第一科(史学哲学及び政治学科)に進学、周辺の薦めもあり、1880年、東京大学文学部を理財学・哲学専攻で、8名中首席で卒業、英国のロンドン大学、ケンブリッジ大学キングス・カレッジ(正式な入学ではなく聴講生であったようだ)で経済学を学んだが、納得がいかず、1883年、ドイツ・ベルリン大学に入学し、改めて経済学を専攻した。1884年(明治17年)、帰国、東京大学文学部第二科(政治学及び理財学)で理財学講師、翌年末、学部改変に伴い、法学部政治学科講師、明治19年(1886)帝国大学令により、法学部は法科大学となり、教授、明治31年、農科大学へ移った。経済学草創期の経済学者である。1919年(大正8年)7月19日、没。
 和田垣謙三に関しては、三島憲之氏の論文『和田垣謙三と明治・大正期の経済学界』という労作がある。上記、略歴も、氏の論文を参照した。

 興味深いのは、理財学(経済学)が、初め文学部の一学科であったことと、その最初の教師が、フェノロサであったことだ。 また、前回紹介した田尻稲次郎は、フェノロサと伴に、初期経済学の指導的教官であり、三島氏によると「フェノロサ=田尻時代」と称された。 和田垣帰国後、フェノロサは理財学担任を退き、田尻は理財学の講義を和田垣に譲り財政学を担当した。 三島氏によれば、それ以降を「田尻=和田垣時代」と云う。 尚、関心のある方は、三島氏の『和田垣謙三と明治・大正期の経済学界』が、PDFでダウンロード可能なので参照されたい。
 
Best regards
梶谷恭巨


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