柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
6月、問合せていた「澤吹忠平」に関する回答が、村上市生涯教育課の田辺さんと言う方から電話であった。 ひとつ判ったことは、「澤吹忠平」が、村上藩内藤家の家臣であったことだ。 また、墓所の所在地も判明した。 村上市の光徳寺である。 そこで紹介して頂いたのが、菩提寺・光徳寺(藩主内藤家の菩提寺でもある)の住職・小林氏だ。 連絡をしてあるとこことで、早速、光徳寺に電話したが、住職不在とのことで、後日、改めて連絡することにした。 因みに、宗派は、浄土宗とのこと。 また、光徳寺の奥さんと思われる人だったが、村上城跡保存育英会を紹介された。 そこで、こちらの方に電話してみる。 そこで判ったのが、分限帳に確かに「澤吹忠平」の記載があるということと、澤吹家が、幕末、八石と合力金一両の家であったということだった。 話が前後するが、田辺さんの調べによると、先の光徳寺の住職が大学時代、澤吹忠平の子息から英語を学んだということである。 この子息というのが、どなたか不明であるが、保存育英会のその後の連絡によると、昭和15年2月21日、子息・孝次氏から保存育英会に「澤吹忠平」の死去と住所の更新の連絡が記録されているということだった。 それによると、当時の子息の住所は、 東京都中野区野方三丁目1532番地、ということだった。 田辺さんから詳しいことは光徳寺の住職に聞いてもらいたいということだった。 住職によると、現在は、相模原の方にお住まいとか。 既にお孫さんの時代だそうだ。 お盆とか命日には、供養の依頼があるそうだが、村上に来られた記憶は無いのではないかということだった。 取り敢えず、覚書として羅列したが、「澤吹忠平」の人物像が何かしら具体的になってきた。 先ず、八石という石高から、澤吹家が下級武士の家であったことが窺える。 また、後に新潟学校に入学する経緯から、当時の村上藩の藩校「文武館」に通い、そこで相当の成績であったと思われるのだ。 しかも、前回紹介したように、教諭がほとんど高等師範あるいは高等女子師範の出身者である中、長岡女子師範学校の創立以来の教諭であったことを考えると、『理化学示教』を著したことからも推測できるように、理化学教育の分野では、一家言をなしていたことが、大きく評価されていたのではないだろうか。 また、ご子息が、今のところ不詳だが、何れかの大学で教鞭をとっていたことからも、教育一家だったのではないかと思われるのだ。 因みに、村上市では、「澤吹忠平」のことを初めて聞いたとのこと。 電話での雰囲気からすると、市の人物誌に採り上げてもらえそうだ。 もしそうであるなら、実に嬉しい事だ。
これまで、近代中等教育に携わった何人かの校長を調べてきたが、どうも共通ではないかと思われるのが、藩の大小は別にしても、多くが下級武士出身者ということだ。 また、戊辰戦争の影響が大きかったことも窺える。 そして、これが意外に重要ではないかと思うのだが、校長・教諭といった上級教職員の移動範囲が、予想外に広いということだ。 これらのことが、近代現代における中等教育の基底にあったことが、以後の歴史に大きな影響を及ぼしたのではないだろうか。
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プロフィール
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77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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