柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 先週、柏崎常盤高校の副校長から、「澤吹忠平」に関する回答、6ページに亘るFAXを頂いた。 感謝。 出典は、『柏崎常盤高校六十年史』とのこと。 これで、澤吹忠平先生の人となりが判って来たが、その前に、更なる事実が判明したので、それの経緯を紹介する。

 先ず、長岡市立中央図書館への問合せから、澤吹先生が、長岡高等女学校の創立時に、嘱託として勤めて居られたことが判った。 その初代の校長を萩原此吉という。 前任が、長岡女子師範学校であった。 感謝。

 当時の校長は大きな権限、特に人事権を持っていたようで他の例からみても、校長が澤吹忠平を招聘した事は間違いないだろう。 そこで、女子師範学校について、改めて調べてみると、幸いに、『長岡女子師範学校一覧』(但し、大正7年のもの)と『創立四十周年記念誌』(新潟県長岡女子師範学校校友会・同窓会、昭和15年刊)が、「近代デジタルライブラリー」で見つかったのである。

 これにより、出身校が判った。 入学・卒業年月日は不明だが、「新潟学校百工化学科」を卒業している。 この学校は、明治9年(1876)に創立され、僅か四年後の明治12年(1880)に廃校になった。 明治9年、新潟県師範学校と県立新潟学校が併合し、新潟学校と改称し、百工化学、英語講習、英語、師範の4学科が設けられた。 澤吹忠平は、この四年間の何れかの年に百工化学科を卒業したと推測される。

 ところで、この新潟学校に関しては、上越教育大学の石田文彦氏及び同大学院の小島浩治氏が、『明治初期工業教育の萌芽(1):新潟学校百工化学科の創設』、『明治初期工業教育の萌芽(2):新潟学校百工化学科の挫折』という論文を『科学史研究』の第二期39号(2000年頃)に発表されている。 実に興味深い論文だ。 何とか入手したいと考えている。

 話を戻す。 残念だが、福岡県尋常中学までと、その後、大阪府立第二中学校までの経緯は、依然として不明である。 しかし、以下のことを確認した。

 澤吹忠平は、明治33年4月12日、長岡女子師範学校の創立と共に理化学教諭として着任、明治38年4月4日、柏崎高等女学校校長に転任、この間、長岡高等女学校の理化学嘱託教諭を兼務している。 柏崎高等女学校の在任期間が15年2ヶ月であるから、ほぼ20年の間、女子高中等教育、特に、理化学教育に尽力したといえるだろう。

 参考までに、長岡女子師範学校創立時の教師陣を紹介すると、下記の通りである。

◎校長 廣瀬吉弥 高等師範学校中学師範学科卒、  在任期間:明治33年2月~明治34年11月
      (免官)
○教諭 内田慶三 高等師範学校国語漢文専修科卒、      明治33年3月~明治43年 1月
      (転任)
○教諭 澤吹忠平 新潟学校百工化学科卒、                           明治33年4月~明治38年 4月
 兼舎監 (転任)
○教諭 萩原此吉 高等師範学校教育学科卒、                        明治33年3月~明治36年 3月
 兼主事 (転任)
○教諭 藤巻直治 東京美術学校卒、                                   明治33年9月~大正7年現在在籍
○教諭 秋月耕野 女子高等師範学校卒、                        明治33年3月~明治34年4月
 兼舎監 (転任)
○教諭 高山ヨシミ 女子高等師範学校卒、                            明治33年4月~明治36年 4月
 兼舎監 (休職)

 以上、7名が挙げられている。 この外、助教諭1名、嘱託訓導3名、訓導8名、書記1名であり、内訓導8名の全てが新潟県師範学校の卒業生である。 また、澤吹忠平と同じ、新潟学校卒業者は、嘱託訓導の近藤正武がいるが、『長岡女子師範学校一覧』の現旧職員録に記載がない。

 これからも判るように、澤吹忠平が、高等師範学校と同等あるいはそれ以上の評価を受けていることが推測される。 すなわち、『理化学示教』の著者として、一家を成していたことが窺えるのである。

 そこで、少々長くなるが、件の『理化学示教』の自序を上げておきたい。 当時に於ける理化学教育の状況の参考として。

「理化学示教」
自序
 著者久しく中学の教諭に承け理化の二学(物理と化学)を講ずる事、茲(ここ)に十年、具(つぶ)さに此学を教授するの難きを験せり。 蓋(けだ)し精巧なる器械、其(その)室に充ち、百千の薬物、其架上に列なるあるも、学期の時を限るあり、匆忙(そうぼう)の間、未だ其所期に達せずして止むの不幸に際会する事、其常なればなり。 況(いわ)んや百般の設備完(まった)からざるに於てをや。 而(しか)して著者が最も此の困難を感ぜしは、理化示教の一課なりしなり。 其時間を問えば僅々四十時間を出でざるに、二種の実験的学科に就きて、是らが概意を授けんとす。 其困難なる固(もと)より弁を俟(ま)たず。 此を以て出来得る限り時間を節約して、出来得る限り充分なる実験的授業をなさんと欲せば、何人も良教科書の助に頼るの外なきなり。

 著者の知る所を以てすれば、理化示教に関しては未だ一も適当なる教科書あることなし。 蓋し全く用書之なきにあらざるも、著者の感ずる所以てせば、其欠点頗(すこぶ)る多きに似たり。 故を以て著者は自ら量(はか)らず、筆を操て此一書を成すに至れり。 著者が此書を編するに当て企図せし所は、紙数を二百五十ページ以下と定むるの外

 (第一)記載の事項は実験を以て主となす事
 (第二)各章の連絡繁簡必ず其宜(よろしき)を得る事
 (第三)鮮明にして趣味ある用図を多くする事
 (第四)文辞の平易にして明確なる事
の数点に在りしが、自らを其局に当るに及んでは意の如くならざりしもの尠(すくな)しとせず、特に用図の期するが如くならざりしを憾(うら)みとす。 然りと雖(いえど)も之を既刊の書に比せば、尚、大に優るものあるを信ぜずんばあらず。

 理学士石川弥太郎君は大阪府第一尋常中学の教職にありて、多年研究せられたる此学教授の経験と淵博なる其学識とを以て、本書校閲の労を取られ、著者は同君の高見に依て益を得たる事、尠からず。 されば、著者は謹んで茲に同君の好意を謝せざるを得ず。

 今や印刷成る、乃(すなわ)ち一言を巻端に附して、之を公に、以て江湖の採択を俟つと云爾(いうのみ)。
   明治二十八年二月   著者識

 この時、33歳、著者・澤吹忠平の気概が如実に表れている文章である。

 今回、澤吹忠平の、理化学教育と女子中等教育という二つの面を持つことが判った。 自分としては、これは意外な展開である。 資料収集が何処まで出来るか、いずれにしても、興味ある人物である。

 
Best regards
梶谷恭巨  


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