柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 最近、アーネスト・サトウの『日本旅行日記』を入手した。 収録されている記録は、必ずしも年代順ではない。 そこで、先ず、新潟に係わる章から読み始める。 それにしても、驚くのは、サトウの観察眼と勤勉さ(こまめさ)である。 当時、在留外国人の間で流行した植物の観察がある。 また、後に刊行される『中部・北部日本旅行案内』あるいは『明治日本旅行案内』を意識していたのか、旅程の詳細、茶屋・宿所、あるいはその主人・雇い人の評価の記録も、実に面白いものである。

 さて、新潟に旅行に関しては、『日本旅行日記』の第一巻第四章「赤岳登山から新潟開港場へ」明治十三年(1880年)が、それに当る。 そこで先ず、この旅程の内新潟について紹介しよう。

 東京の自宅を立ったのが、5月24日、新潟県の赤倉温泉に宿泊するのが、6月3日である。

6月3日: 赤倉温泉、村越屋に泊まる。

 村越屋は、現在の赤倉ホテルである。

6月4日: 赤倉山-関山-新井(奈良屋に宿泊)

 現在の妙高市(旧新井市)に、奈良屋について問い合わせたところ、明治前後の新井宿の古地図に「奈良屋」があったそうだ。 現在の妙高市中町の交差点にある第八十二銀行新井支店北側で、現在は駐車場になっている所に「奈良屋」が在ったそうである。 この道(県道63号線)は、すなわち「北国街道」に当り、中町交差点から高田方面に約200m北上すると、東本願寺新井別院がある。 因みに、「奈良屋」は、旧新井宿の庄屋の分家だったそうだ。 サトウの「奈良屋」に対する評価は好い。 「奈良屋」に関する感想は、「宿の人々は礼儀正しい」という評価である。

 6月4日、サトウは、妙高山に登るのだが、道に迷い、予定を大きく狂わせ、午後四時過ぎに食事をしている。 「夕食にありついたのは九時になってからだ」と云うから、四時の食事というのは、遅い昼食と云うことなのだろう。 そこから関山まで歩き、さすがに疲れたのか、関山からは人力車で移送している。 この間、未だ明るい時期だだから、「辺りでは百姓たちが田植えを始めたばかりである」と、関東から信濃路と辿ってきた気候の違いを感じたのではあるまいか。 ところで、妙高山では道に迷った彼ではあったが、植物の観察だけは忘れていない。 新しい発見に喜んでいる気配さえ感じられる。

 また、「男女とも体を冷やさないように背中に綿入れという綿入れを羽織ているが、実際には、ここでは必要ないだろう。 何しろここの気温は高いのだ」と書いているところから、戸隠から妙高への山岳地帯の気温が余程低かったのだろう、それを踏破した安心感も加わった感想ではないだろうか。
 しかし、そんなサトウだが、道に迷った妙高でも、植物の観察は忘れていない。 寧ろ、新しい発見に喜んでいる気配である。 当に、サトウの人物像を窺わせるエピソードだ。

 余談だが、今回の問合せで、アーネスト・サトウが、余りにも知られていない事が残念に思われた。 今回は紹介しないが、戸隠・妙高を踏破した外国人は、アーネスト・サトウが初めてではないかと思うのだが。

 

6月5日: 今町-鉢崎-鯨波-柏崎(三須屋に宿泊)

 調べてみたが、三須屋の記録は見当たらない。 この旅程は、今町(現・上越市直江津)から鉢崎までは徒歩(8里7町、約33km)、鉢崎から鯨波まで乗船(2里19町、約10km)、鯨波から柏崎まで乗り物(籠か人力車か未記載、3里29町、約15km)だったようだ。 旧国道八号線(現在の8号線は架橋・バイパスなどで大分異なる)とほぼ同じ道筋だったと思われる。

 三須屋に宿泊中ち思われるが、女性が中国のグラスクロスと絹縮緬を売りに来たとある。 それぞれ一反を買い、価格は両方で7円だったそうだ。 柏崎は「越後の縮緬問屋」として有名だから絹縮緬(透綾)を買ったのは判るのだが、グラスクロス(ガラス繊維で織った布で、耐熱性に優れている)を買った理由が良く解らない。 季節は初夏であり、日差しを避けるには早すぎるように思われるので、耐熱性の布を買ったのは、もしかすると、食料の保存の為だろうか。

 また、女性が売りに来たというのも興味深い。 明治11年には、明治天皇が北陸行幸しており、柏崎は往復の行在所であった。 この時、戊辰戦争で官軍方に味方した星野籐兵衛の弟と子息が、旧交のあった侍従の近藤芳樹に戦後の窮状を訴えている。 復路、これが功を奏し、明治天皇から遺族に対し下賜金千円と籐兵衛に対して従四位下が遺贈されている。 このことから推測すると、桑名藩に味方した町衆の多かった、特に柏崎の縮緬問屋には、英国の外交官であるサトウに対して、依然として遠慮があったのかもしれない。 因みに、友人であり同僚であったウィリアム・ウィリスは、戊辰戦争の時、柏崎の官軍病院で傷病兵の治療をしている。 また、彼の日記あるいは報告書では、柏崎の印象がよくない。 好印象を書き始めるの新発田藩以降のことで、敵味方の区別なく治療を行うのは、会津からのことだ。 (詳細は、以前に紹介しているので省略する。)

(注)鯨波は、戊辰戦争の激戦地だった。 しかし後に長岡なども通るのだが、戊辰戦争に関する記載は全く無い。 余談だが、この時、サトウは37歳だった。

 

6月6日: 荒浜-椎谷-寺泊-弥彦

 6時20分に出発。 荒浜(現・柏崎市荒浜)と椎谷(柏崎市椎谷、旧椎谷藩堀家一万石)の間で海水浴をし、「とても気持ちがよかった」と書いている。 前日の旅程が、余程きつかったのだろうか。 現在の国道352号線を出雲崎まで北上。 海水浴をしたと云うのは、この辺りに柏崎刈羽原子力発電所があり、宮川まで道は大きく内陸部に迂回しており、昔は砂丘だったと聞いているので、当時と大分様相が変わっているのが、現在の高浜海水浴場辺りだろうか。

 現在の「良寛と夕日の丘公園」付近から、国道402号線を北上し、寺泊へ。 ここでも海水浴をしている。 現在、この辺りで海水浴場といえば、寺泊中央海水浴場がある。

 サトウが、寺泊を通過した当時、「大河津分水」は、工事が中断された状態にあり、現在とは随分違った風景だった。

(注)着工1870年-1875年に中断-竣工1922年、大河津分水の工事が中断する原因は様々だが、ひとつに地元民への負担金(一石当り一両二分)の問題があった。 この時(明治三年)、寺泊で、次いで西蒲原郡一円で起こった騒動の仲裁役を、県から頼まれたのが、観音寺久左衛門(松宮勇次郎)だ。 しかし、会津の殿様に味方した罪人であり、殿様が謹慎中なのに、どうして引き受けることができようか」と、この申し出を断っている。 寺泊から弥彦まで、どうような道を通ったかは、書かれていないが、弥彦神社は、弥彦山の内陸側にあることから、現在の大河津分水の河口付近、寺泊小屋場辺りから内陸部に道を取り、国上山を迂回して、現在の「道の駅国上」辺りを経て、弥彦に到着したのではないだろうか。

 この間、「海岸線はとても楽しかった。 果てしなく続く山とはまた違い、よい気分転換になった。」との感想を書いている。 確かに現在でも、この海岸線は、ドライブコースとしても最適で、特に、皐月の頃が快適である。 ただ、この日の記述は少ない。

 ただ、8里32町(約35km)、歩いたとある。 しかし、「右足の親指のつめ根のふくらみに肉刺をこしらえ.....」、「人力車の車夫も同じ様な状態になった思うとやむを得ないと判断した。」と書いているところを見ると、海水浴がたたったのかも知れない。 そこで、寺泊から弥彦までが約11kmであるから、出雲崎と寺泊の途中から人力車に乗ったのではないかと思われる。 また、この旅の道中、しばしば人力車を雇っているが、自分は歩き、荷物を載せたこともあるので、柏崎出発時から人力車を雇っていたことも考えられる。 因みに、柏崎の中心部から弥彦神社までを推測するルートで測ると、約54kmある。

 弥彦には、5時半に到着。 何処に宿泊したか書かれていない。 これまでの例からすると、本陣あるいは脇本陣を利用しているから、この日も、この何れかに泊まったことが推測される。

 植物観察も忘れていない。 「道中は極めて楽で、峠で二重のウツギを発見した。」と嬉しそうな気配である。 この「ウツギ(卯の花)」は、同じユキノシタ科ウツギ属でも、開花の時期、写真などから、「ヒメウツギ」ではないかと思われる。

 しかし、それにしてもサトウの健脚ぶりには驚いてしまう。 肉刺のことは『日本旅行日記』を通じて、よく出てくるが、ほとんど気にしていない風である。 草履もよく使用したようだが、この時は、何を履いていたのだろう。 自身の服装についても、余り記述が無いが、興味が湧く。

 

 余談だが、恐らく同じ道筋を通ったと思われるウィリアム・ウィリスの日記や報告書の印象と随分異なるいることに興味が湧く。 勿論、ウィリスは、公式な任務として、この道を辿っているのだから、視点が異なるのも仕方が無い。 それに、戊辰戦争の後遺症とおよそ十年の歳月は、この地方の風景や状況を、また、サトウ自身の心象風景も変えただろう。 ただ、概して、ウィリスの文章と、サトウのそれとでは、明るさが違うように思える。 一つには、生まれ育った環境の違いがあるだろう。 また、年齢の差も影響しているのかもしれない。 いずれにしても、当時の模様を知るには、外国人の日本観を比較することが有効に思える。

 

6月7日: 赤塚-内野-新潟

 天気が悪かったようだ。 弥彦から赤塚(現・新潟市西区赤塚)まで、人力車を利用している。 この間、北国街道(現在の県道2号線か)、地図によれば、約18kmの道のりである。

 「道は粘土質で湿っている」と書いている。 前編を通じて道路の状態に関する記述が多いが、これは、その地方の状況を知る指標と考えたからではあるまいか。 江戸時代、街道の状態は、その藩の治世・財政状況を表したと云う。 その為、各藩は街道の整備には気を配った。 サトウは、当然、そのことを知っていたと思われるが、寧ろ、この日記は、後の『旅行案内』の為のメモ的な意味で、交通の便も書いたのかもしれない。

(注)明治9年(1876)に内務省は、全国の道路を国道・県道・里道に分類し、且つ、国道を一等(幅員12.9m、7間)、二等(幅員10.8m)、三等(幅員9.0m)に分類した。 しかし、当時は鉄道優先で、国道政策は財政的にも破綻していた。

(注)江戸時代の街道: 五街道は幅員5間(11m)、脇街道は幅員3間(5.5m)で、路面には、砂利や小石を約一寸(3.3cm)くらいの厚さに敷いて、踏み固め、その上に、砂を撒いていたようだ。 杉・松・桜などの並木も整備されていた。

 赤塚から内野までは歩いている。 約8㎞。 ここでも道路の状態を書いている。 「道路は状態は良いが砂質である」と。 海岸が近くなるので、海砂が積もっていたのかもしれない。 いずれにしても、弥彦から新潟までの記述は、道路状態に関するものの外、殆ど書かれていない。 平坦な新潟平野には見るべきものがなかったのだろうか。

 新潟には、午後の二時頃に着いている。 宿泊は、「ミオラ(Miola)ホテル」、現在のイタリア軒である。 「主人は礼儀正しく世話好きな人で、設備は粗末であるが、日本の宿よりはよい」と書いている。

(注)ホテル・イタリア軒の前身である「ミオラ・ホテル」は、明治7年(1874)に来日したフランスの曲馬団のコックだった、イタリア人ピエトロ・ミリオーレが、新潟興行中に病で倒れ取り残された為、当時の県令・楠本・正隆が、これを憐れみ、資金援助して牛肉販売店を開業させたことに始まる。 因みに、ホテル名「ミオラ」は、ミリオーレを新潟人が「ミオラ」と呼んだことに由来する。
 また、ミオラ・ホテルは、この年の新潟大火(1880年8月7日午前1時出火)で消失したが、翌年には、同地に本格的西洋料理店「イタリア軒」として新装開店した。 尚、文中の「礼儀正しい世話好きな主人」とは、ピエトロ・ミリオーレである。 余談だが、新潟大火の翌日、奇しくも柏崎大火が起こっている。

 ここ新潟で、サトウは風邪を引いたようだが、人力車の車軸が折れるほどの風雨を押して、宣教師のファイソン夫妻を訪問している。 「ファイソンは豊かな髭をたくわえた宣教師で、夫人は青白い顔をした面白い人で、二人には四人の子供がいる」とある。 そこに、医療宣教師のセオパルド・パーム博士が訪ねて来て、団欒に加わったようだ。 この旅では、必要に応じて人夫を雇っているが、従者は井上喜久三郎を伴っただけだったので、よほど人恋しかったのかもしれない。 また、新潟開港以前に、公使・パークスと下見に来ているので、新潟の変化に大いに関心があったのかもしれない。

(注)ファイソン(Philip Kemball Fyson)は、1874年生まれの英国人宣教師で、1874年(明治7年)に新潟に赴任し、約7年間にわたり伝道に従事した。 1896年(明治29年)には、長年にわたる伝道と聖書翻訳に功績があったとして主教に任じられた。 1908年(明治41年)帰国。

(注)パーム(Theobald Adrian Palm)は、1848年生まれの英国人で、1874年(明治7年)医療宣教師として来日。 新潟でパーム病院を開設した。 新潟地方の風土病といわれたツツガムシ病を初めてヨーロッパに報告したことで知られている。 1884年(明治17年)帰国。

 

 今回は、新潟までの旅を紹介した。 6月8日、一日新潟に滞在後下記旅程で先に進むのだが、後半は次回で。

 9日: 大野-白根-新飯塚
10日: 栗林-三条-今町(見附)-長岡-片田-十日町-妙見
11日: 小千谷-川口-堀ノ内-栃原峠-浦佐
12日: 五日町-八幡-六日町-塩原-関-湯沢-芝原峠-三俣-中ノ峠-小豆峠-二居
13日: 朝貝-三国峠へと続く。

Best regards

梶谷恭巨

 


コメント
気になる点
アーネストサトウ氏の文章をそのまま引用したためだと思いますが、気になった点が2つありましたので、書きます。(1)ミオラ氏の名前ですが、「ミリオーネ」ではなく、「ミリオーレ」だと思います。また、「ミオラホテル」なる言葉が出てきますが、ミオラ氏が経営していたのは、牛肉・牛乳の販売およびその料理店で、ホテルではないと思います。単に、アーネストサトウ氏が、ミオラ氏の所に泊まったのをホテルと書いただけではないでしょうか?
【2016/04/08 11:43】 NAME[カセイジン] WEBLINK[] EDIT[]
Re:気になる点
>アーネストサトウ氏の文章をそのまま引用したためだと思いますが、気になった点が2つありましたので、書きます。(1)ミオラ氏の名前ですが、「ミリオーネ」ではなく、「ミリオーレ」だと思います。また、「ミオラホテル」なる言葉が出てきますが、ミオラ氏が経営していたのは、牛肉・牛乳の販売およびその料理店で、ホテルではないと思います。単に、アーネストサトウ氏が、ミオラ氏の所に泊まったのをホテルと書いただけではないでしょうか?

 ご指摘、ありがとうございました。ミオラ氏の名前については、明らかに間違いでした。本文を訂正します。
 また、「ミオラホテル」の件に関しては、イタリア軒様に確認しています。回答を得次第、対処させて頂きたいと思います。

Best regards
梶谷恭巨

 イタリア軒より回答を頂きました。

 それによると、ご指摘の通り、1880年(明治13年)当時、ホテルとしては営業していなかったとの事です。付け加えますと、当時の建物は、三階建てで、一階が店舗、二階が宴会場、三階が住居だったとの事です。ただ、ゲストルームは有った様で、新潟に来た外国人等に提供していた様です。
 以上の事から、アーネスト・サトウは、伝聞としてホテルと解釈したのかも知れません。
 尚、イタリア軒では、アーネスト・サトウの事を御存じなかったようでしたので、ホームページにサトウの宿泊に事など掲載されてはどうかと、お奨めしました。

 以上、ご指摘に対するお礼を申し上げます。

Best regards
梶谷恭巨
【2016/05/10 12:06】


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