柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 このところ、以前は資料として抜粋的に読んでいたカッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々(滞日日記抄)』を読んでいる。 いつもの通りという感覚があるが、この本も、良き古き時代の風景と日本人を活写する。 カッテンディーケ(ヴィレム・ヨハンコルネリス・ホイセン・ファン、但しホセイン以下が姓、1816-1866)は、オランダで建造された後に「咸臨丸」と呼ばれる「ヤパン号」ほか一隻を回航するとともに、第二次オランダ海軍教導団の指揮官として、安政四年(18579月、長崎に着任した。 カッテンディーケは、滞在期間が僅か二年余りの所為か、あるいは、カッテンディーケの指揮下にあり、より長く滞在し、日本の近代医学あるいは科学を教導したポンペが余りにも有名なので、その陰に隠れ、知る人が少ない。 しかし、カッテンディーケなくしては、その後の日本を率いることになる勝海舟や坂本竜馬は、育ったなかったかもしれない。 そのことが、『長崎海軍伝習所の日々』の随所に窺われる。

 カッテンディーケの周到さは、既に、本国において発揮されていたようだ。 日本に関する書籍・資料は言うに及ばず、先人や学者を訪問し、
あるいは書簡にて問い合わせるだけでなく、若干ではあるが日本語の指導も受けているのだ。 日本着任後は、その洞察力を発揮する。 本来の任務から言えば、海軍士官教育にとどまればよいのだろうが、日本の風俗・慣習・制度まで、観察し日記に書いているのだ。 特に、商館長・ドンケル・クルチウスの依頼により単身上海に行き、上海の現状を備に報告した部分は、その冴えたるものだ。 上海租界の成立から税関制度、外交関係、風俗人物誌まで、事細かに報告している。 これは、例えば、アーネスト・サトウなど、他の資料で読んだ内容に比べても遜色がない。 むしろ、オランダ人であることから、国益に囚われず客観的かもしれない。

 こうした人物像からも想像できるが、カッテンディーケは、帰国後、昇進するが、まもなく退役(海軍中佐)して、
政治の世界に転進、海軍大臣に、更に外務大臣に就任し、在任中に病没した。 こうした人物が、来日し、有為の生徒を指導したことは、日本にとって幸いであったのではないだろうか。

 兎に角、オランダと日本の関係は深い。 しかも、オランダの歴史は複雑なので、それが為に、明治維新に拘わる日蘭関係、あるいはオランダの果たした役割は、重要であるにも拘らず、見逃しがちだ。
 それは、西欧への窓口であったというだけでなく、オランダの複雑な歴史故に、日本の開国の在り方を、若干の貿易独占的欲求があったにせよ、公平に判断し、時には列強との仲介役を担ったことにある。 すなわち、外交において赤子の如き日本を、単に科学技術だけではなく、漸進的開国へ導いたと解釈することもできるからである。 言い換えれば、当時の帝国主義の常套手段である「砲艦外交」に唯一批判的であった国でもあるのだ。

 オランダの苦難の歴史、あるいはその隆盛と衰亡の歴史は、それだけに日本人が最も学ばなければならない歴史なのかもしれない。 また、
カッテンディーケやその先人にも見えるように、人として、日本の良き理解者であり、(時には、賞賛者として)、西欧への紹介者であった彼らの系譜を調べることも重要ではないだろうか。

 とまあ、そういう次第で、カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』は、推奨に値する本だと思うのである。

 

Best regards
梶谷恭巨

 

 

 


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