柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
前回から判ったことは、意外な事実だった。 先ずは、その経緯から。 澤吹忠平著『理化学示教』の必要な部分をダウンロードし(表紙、目次、奥付)、よく見ると、奥付の著者名に住所があった。 ところが、これが小さな字で、よく見えない。 先入観で、大阪の住所だと思っていたら、これが、どうも本籍であるらしのだ。 天眼鏡で見ると、何と新潟県ではないか。 新潟県岩船郡村上本町百七十五番地 何と新潟県人だったのだ。 この事からも、澤吹忠平が『理化学示教』の著者と柏崎高女の校長が同一人物である事は間違いあるまい。 さて、昨日、柏崎市立図書館から回答があった。 これもまた驚きである。 以下の事が判った。
明治38年(1905)4月8日、柏崎高等女学校第二代校長として、長岡高等女学校教諭から栄転。 以上の事から、澤吹忠平は、文久2年(1862)生まれということが判る。 羽石重雄の9歳年長ということになる。 大阪府立二中に、羽石重雄が赴任した時期(明治31年、1898)が重なる可能性も十分に考えられるのだ。 また、羽石重雄が、柏崎中学第四代校長として着任するのが、大正4年(1915)であるから、この時期も重なるのである。 もし、大阪府立二中で同僚であった時期があるとすれば、柏崎で旧交を温めたであろう事も想像に難くない。 さて、問題なのは、出身地・村上から長岡高女までの経緯である。 村上に生まれた澤吹忠平は、何処で中等教育を受けたのであろう。 先ず、考えられるのは、新発田中学ではないかと考えた。 幸い「近代デジタルライブラリー」に、珍しく「中学校一覧」が収録されていた。 これは発見である。 しかし、新発田中学の第一回卒業生は、明治33年だった。 ただ、この資料から今まで未調査だった柏崎中学の校長のことが判明した。
柏崎中学初代校長・渡辺文敏は、 そうなると、足で稼ぐというか、それぞれの学校を遡って調べなければならない。 問合せも、メールで出来るところはよいのだが、どういう訳か、問合せにメールを使っている学校が意外に少ないのである。 まあ、それは措くとしよう。 しかし、どういう経緯で、澤吹忠平は、福岡県尋常中学(修猷館?)の教諭になったのであろうか。 また、どこで理化学を学んだのであろう。 『理化学示教』を著したとき、彼は働き盛りの33歳である。 しかし、理学士・石川弥太郎に校閲を依頼しなければならなかった。 すなわち、大学(当時は、東京帝国大学のみ)を卒業していない。 これは、大きな意味を持つ。 勿論、その後のキャリアにも影響するだろう。 因みに、「近代デジタルライヴラリー」で「明治」と「理化学」をクロス検索すると、21件のヒットしかないのである。 しかも、「理化学示教」に絞り込むと、ヒットは5件、その最も古いのが、澤吹忠平著の『理化学示教』なのである。 前回紹介した「いるか書房別館」の調べによると、明治33年までに出版された「理化学示教」と題した教科書は、22冊であり、最古のものは明治25年のもので、澤吹忠平著は、二番目に古いのだそうだ。 この事実だけでも、澤吹忠平の人物像に興味が湧く。 人生の終の棲家が柏崎市四谷三丁目であったことも。
次回は、『理化学示教』の自序を紹介しようと考えている。 |
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プロフィール
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77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
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歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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