柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 前回に続き、漱石の『福岡佐賀二県尋常中学参観報告書』(岩波書店『漱石全集』第26巻収録)を引用する。 凡例は、前回と同じ。

第三 久留米明善黌(福岡県久留米尋常中学明善校、現福岡県立明善高等学校)
(略)
(梶谷注)福岡県立中学明善校第二代校長(県立になって第六代校長、同窓会会長)・高宮乾一は、新潟県立柏崎中学第二代校長から、大正元年10月11日、中学明善校校長に転出、その後、大正6年3月2日、福岡県立福岡中学校初代校長。 福岡中学は、修猷館の寄宿舎の一部を借りて、同年4月1日開校した。 尚、高宮乾一は、明治30年7月、東京帝国大学文科大学国史科卒業で、羽石重雄と同期である。
一年級
課目: 訳読及び綴
用書: 読本
教師: 失名
生徒: 五十六名
教授法: 首(ハジメ)に単語に就き発音及び意義の復習を行い、次に訳読を授く、其方法は全く直訳にて「彼が彼の顔に於て落ちし」等の言語を用い、而る後、之を意訳す、故に音読直読[訳]意訳の三段落を通じて始めて日課を終るものなり
傾向: 生徒教師共に正則的方面に於て冷淡なるが如し
四年級
課目: 訳読
用書: 中外読本
教師: 稲津氏
(注)稲津雅通のこと。 文久三(1863)-昭和六(1931)年。 久留米市生れ。 慶応義塾卒。
生徒: 三十六名
教授法: 教師意義を講じ終って生徒質問を呈出す、一時間中生徒は単に教師の説を聞くのみ
傾向: 教科書比較的に難渋なるの感あり、参観の時、教師の講じたるは慥(タシ)か十七世紀以前の文学と覚ゆ、是生徒の輪講を試みざる源因なるべし、かゝる文章は高等学校の三年生と雖ども解釈しがたからんと思う、従って発音其他の点に於て殆んど注意を与うるの余地なからん
五年級
課目: 訳読
用書: 「クリミヤ」戦争記
教師: 松下氏
(注)松下丈吉のこと。 安政六(1859)-昭和六(1931)年。 久留米市生れ。 慶応義塾卒。 東京帝国大学予備門・日本中学を経て、明治27年2月明善校第三代校長、31年11月退職。
(梶谷注)長男が海軍中将・松下元、明治17年(1884)8月10日-昭和28年(1953)12月1日、少将・海軍兵学校校長の時、考案した「五省」は有名。
 一、至誠(しせい)に悖(もと)る勿かりしか
 一、言行に恥づる勿かりしか
 一、気力に缺(か)くる勿かりしか
 一、努力に憾(うら)み勿かりしか
 一、不精に亘(わた)る勿かりしか

生徒人員: 三十名許
教授法: 不通行わるゝ処の輪講にして、且目立ちたる点なし
傾向: 五年生としては一般に学力不足ならが如し、然れども質問の夥多(カタ)なるより察すれば生徒はあながち不勉強なるにもあらざるべし(参観時間三十分許なるを以て精細に観察するを得ず

第四 柳河伝習館(福岡県尋常中学伝習館、現福岡県立伝習館高等学校)
(略)
(梶谷注1)『伝習館七十五周年記念誌』(昭和44年刊)によると、漱石視察の時(明治30年11月)、伝習館館長の席は空席で、教諭・西英盛が館長心得とある。
 西英盛は、明治5年山口県に生れ、同26年7月、山口高等学校本科第二部を卒業、同29年、東京帝国大学理科大学物理学科卒業後、福岡県尋常中学伝習館に教諭として採用され、同30年、館長心得、同31年4月、福井県福井尋常中学教諭を経て、同33年10月27日付で、第四高等学校教授として着任した。 大正14年3月退任、退任後も、一年間嘱託講師を勤めた。 『第四高等学校一覧』、『金沢大学資料館紀要』(4:1‐24、2006年3月)掲載の竹村松男著「保存された四高物理機器」を参照。
(梶谷注2)伝習館と修猷館の関係は深く、明治31年2月から3月まで、修猷館初代館長・隈本有尚(明治27年、修猷館館長再任)が、暫定的に伝習館館長心得を勤め、同年4月、修猷館で「軍隊投石事件」が発生した時(明治24年)の教頭であった仙田楽三郎が、新潟県長岡中学校長から伝習館館長に着任した。 『柏崎通信』の「ある旧制中学校長の足跡』シリーズで、この辺りの事情を書いている。
 仙田楽三郎は、新潟県長岡の出身、長岡藩士で、東京大学予備門理科志望を明治12年7月に卒業、東京帝国大学理科大学に進学するが、卒業者名簿に名前がない。 事情により中退したのかもしれない。 その後、長崎県長崎中学初代校長を勤め、修猷館教頭(一時期、館長代行)、新潟県長岡中学校長を経て、伝習館館長に就任している。
 余談だが、仙田楽三郎が第12代校長に就任した新潟県長岡中学の第15代校長・坂牧善辰は、明治23年7月第一高等中学校文科志望を卒業しているが、同期卒業者の一人が漱石・夏目金之助であり、『野分』のモデルと云われる。 また、長岡中学第22代校長・羽石重雄は、修猷館の第三回(明治24年)卒業生であり、当時の理科の担任が仙田楽三郎であった。
(梶谷注3)初代館長・立花政樹は、東京帝国大学文科大学英文学科を明治24年7月卒業。 英文科第一期唯一の卒業生であり、二年後の明治26年7月に第二期唯一の卒業生が、漱石・夏目金之助である。
(原武哲先生より)立花政樹に関しては、先生の毎日新聞筑後版『夏目漱石をめぐる人々』第29号から31号「立花政樹①から③」に詳しく紹介されている。 尚、前回にも書いたが、毎日新聞久留米支局のご好意により、同文を読むことができた。 感謝。
一年級
課目: 訳読及綴字
用書: 斎藤氏著第二読本
教師: 玉真氏(長く米国に遊学せる人)
(注)玉真(タママ)岩雄のこと。 明治五(1866)年、福岡県生れ。 29年6月アメリカ・ミシガン州アルビオン大学文学科卒。 30年3月より31年3月まで伝習館に在任。
(梶谷注1)『伝習館七十五年記念誌』によれば、嘱託とある。
(梶谷注2)近代デジタルライブラリーに玉真岩雄著『商業会話案内』(明治38年、興文社刊)の登録がある。 閲覧可。
 表紙の表題は下記の通り。
   『Guide to Commercial Conversation』
   I. TAMAMA. A.M. Ph.D.
   Professor of English in the Keio Gijuku Commercial Scholl,
   Author of "Practical Lessons in English Conversation"
 上記著作は、明治35年(1902)、興文社刊、成田山仏教図書館の蔵書目録に記載。
(原武哲先生より)玉真岩雄(1872年8月24日-1941年2月22日)、福岡県山門郡城内村鬼童町(現、柳川市)生。 伝習館、長崎加伯里学校(後に鎮西学館)卒。 明治24年より北米英領コロンビア州ビクトリア府専門学校、同25年9月米国ミシガン州アルビオン大学文学科入学、同29年6月卒。 テネシー州ハリマン市テンパランス大学大学院入学、同30年2月まで英文学専攻。 同年3月伝習館嘱託教員、同31年4月高地中学校教員、同33年4月静岡中学校教員、同34年慶應義塾大学勤務、大正8年3月辞職、拓殖大学、麻布中学校、東京殖民貿易語学校で教鞭、昭和8年3月~同11年8月まで東京府立高等学校、その後、東京保善商業学校の経営に当たる。
(梶谷注3)東京殖民貿易語学校・東京保善商業学校: 現・学校法人保隣教育財団・東京保善高等学校、1916年、安田財閥の安田善次郎の寄附により「東京殖民貿易語学校」が開校、校長、新渡戸稲造。 その後、経営が安田保善社に移り、1923年4月、保善商業学校新設、東京殖民貿易語学校を改組し、東京保善商業学校となる。
生徒: 六拾名許
教授法: 生徒は勿論日本語にて教科書を訳解し、教師も書中にある言語は日本語にて説明すれども「書を開く」「翻訳せよ」等の命令的の語は重に英語を用うるが如し
傾向: 一般の生徒の出来も教師の教方も可なるが如し
二年級
課題: 和文英訳
用書: 山崎氏著英語教科書
教師: 同志社卒業生某氏
(注)加藤延年をさす。 慶応二(1866)年福岡県生れ。 明治22年6月同志社英学校卒業。 28年4月より32年4月まで伝習館に在任。
(梶谷注1)『伝習館七十五年記念誌』によれば、雇教員とある。
(梶谷注2)熊本女学校の回顧文集(正式名称不詳)に、加藤延年の回顧文がある。 それによると、明治22年(1889)同志社卒業を、熊本英学校と熊本女学校の教員を兼務、担任課目は、地理・博物・生物・生理・理化・数学とあり、時には、週30時間以上の授業を受け持ったとある。 因みに、当時の月俸は15円、内5円を父親に送金していたようだ。 明治28年に郷里・柳川の教員となり、明治32年4月、同志社に転じ、以降23年間、同志社に奉職したとある。 また、熊本女学校時代、同志社理科学校に留学という記載が在るところから、専門は、寧ろ理科系であり、英語は専門ではなかったようだ。 また、初の本格貝類図鑑「原色日本貝類図鑑」の著者・吉良哲明氏が戦後発刊した貝類研究誌『夢蛤』の附録として、加藤延年著『貝類和名彙』があるのは、その査証ではないかと考える。
(原武哲先生より)加藤延年(1866年6月29日-1945年4月25日)、福岡県山門郡宮ノ内村(現、柳川市)生。 明治16年12月柳川中学校初等科(現、伝習館高校)卒、同17年9月久留米中学校(現、明善高校)に転じ、同18年2月京都同志社英学校に転じ、同22年6月同校普通科卒。 同22年7月~同28年4月まで私立熊本英学校教員。 その間、同24年9月~同25年2月まで同志社波里須理化学校に入学・修学。 同28年4月~同32年4月まで伝習館雇教員。 同32年4月同志社普通学校で、理科・地理・歴史を教え、昭和8年定年退職した。 同志社教会日曜学校教師、宗教教育に尽力した。 島津製作所博物顧問、平瀬貝類研究所研究員、岩倉の同志社高校に「加藤コレクション」を作った。
生徒: 五拾名内外
教授法: 教科書中にある和文を英訳せしめ順次に之を黒板に書かしめ之を訂正する
傾向: 此種の書を厳密に教授せば将来非常に利益あるべし、然し生徒の文章中文法の誤謬あるは問わざるも綴字の乱雑なるは二年級にして未だ英字を書するの時日短きが為か
三年級
課目: 和文英訳
用書: 斎藤氏著会話文法
教師: 農学士某氏
(注)水野喜太郎をさす。 慶応二(1866)年、北海道生れ。 明治20年7月、札幌農学校卒。 30年2月より31年6月まで伝習館に在任。
(梶谷注1)『伝習館七十五年記念誌』によれば、教諭とある。
(梶谷注2)1955年刊の水野喜太郎著『英文法-図解研究』という本があるが、同一人物であろうか。
(梶谷注3)『札幌農学校一覧』によれば、水野喜太郎は、北海道士族、明治20年7月卒業(第六期)、農学士とある。
(原武哲先生より)水野喜太郎(1866年9月1日-?)、北海道石狩国札幌郡苗穂村103番地、士族。 明治16年7月札幌農学校貸費生。 同20年7月卒。 同年同月北海道庁五等技手、同22年8月富山県尋常師範学校教諭心得、同23年4月同校教諭、同25年11月私立成城学校講師、同28年4月千葉県私立上埴生学館講師、同30年2月~同31年6月まで中学伝習館教諭。
生徒: 四拾名内外
教授法: 前と異なる処なし、但二年に在っては英訳を一々黒板に書せしめ、此級に在っては只生徒の口答に止まること多し、思うに二年級に在っては専ら文章を学び、此級にあっては会話を主とするにあるか
傾向: 然れども過半の生徒は教師の問に答え能わざるのみならず、会々(タマタ)ま答うるも誤謬多きこと甚し、以て生徒の余ろ英語に熱心ならざるを見るべし
四年級
課目: ユニオン第四読本
教師: 農学士某氏
生徒: 三十五名許
教授法: 先ず生徒をして輪講せしめ教師再び之を講じ、而る後、質問に移る、読方等正則的訓乱には余り意を用いざるに似たり
傾向: 注意すべきは生徒の発音よからぬことなり、又訳読の力も割合に進まざるに似たり

(署名) 第五高等学校教授 夏目金之助

 以上、二回に亘り、漱石の『福岡佐賀二県尋常中学参観報告書』(一部省略)を紹介したが、流石に漱石であり、短文ではあるが、当時の英語教育の模様が活写されている。 これから判ることは、当時の英語教育が必ずしも統一されたものではなく、各学校の方針あるいは各教師の意向によって、様々であることが見て取れる。 

 先々回の時点では、未だ漱石の「報告書」の存在を知らなかったこともあるのだが、当時の英語教育格差が単に人手不足のみに起因するのではなく、確固とした学校の教育方針あるいは姿勢に大きく影響されているのではないかと思い始めている。 特に、教師の履歴を求めてみると、その事が良く判る。 即ち、前後の履歴が明確であればあるほど、その学校の優位性が現れて来るように思えるのだ。

 幸い手持ちの資料の中に、修猷館と伝習館の二校の校史があったので、それを頼りに各種資料をあったのだが、矢張り以前にも書いた様に、学校史と謂うものは、単に一校の資産ではなく、社会全体の資産として、何らかの形で統合管理すべきものではないかと考えるのである。 しかも、デジタル化の必要性を。

 (梶谷注)として書いた内容には、「旧制中学校長の足跡」の取材で得た資料・情報を書き加えたが、これからも判るように、教育人事の交流は全国規模で行われているのだ。 恐らく、この事が、我国の教育の全体的底上げの効果を生んでいると考えるのである。 でなければ、地域格差は計り知れないものになったであろう。

 しかも、調べていく過程では判ったのは、教育の全体的底上げ効果が、情報の共有によって齎されたのではなく、人事の交流という人間関係の形成によって醸成されているのではないという確信めいた思いなのである。

 未だ研究の不足もあり、一片を採り上げて全体とみなす、という訳にもいかない。 しかし、現状では、その一片の積み重ねしかない。 さて、どうしたものかとは、最近の心境である。

 今回のテーマは、羽石重雄縁の大阪府立第二中学の同窓会の関係者・吉田氏より端を発したものである。 感謝。 今後も、氏のような良き理科支社の出現を願って、明治期中等教育を追及していきたい。 

Best regards
梶谷恭巨


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