柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 ブログ『柏崎通信』、「羽石重雄に係わる足跡-覚書」に吉田さんという方からコメントを頂いた。 氏は、羽石重雄が、東京帝国大学文科大学国史科を卒業し、短期間、長野師範学校に勤めた後、中等教育の出発点となった大阪府立第二中学校(現、大阪府立三国丘高等学校)の同窓会の関係者とのこと。 最初のコメントは、「嘉納治五郎」の「嘉納」を間違えていたことへのご指摘だったが、その後、二回目のコメントがあり、「明治期の英語教育について」というものであった。 そこで、そのことについて、少々触れておきたい。

 羽石重雄が明治21年に入学した「修猷館」は、他の中学とは明確に異なる設立の経緯があった。 総ての学科を英語で教育していたのである。 そこで、『修猷館七十年史』から、開館時の黒田長溥(ナガヒロ、黒田家第十一代当主)の祝辞を引用すると次の通りである。

 「今般英語専修の学校を設立するに遭い、先祖の遺志を継ぎ旧昔の情義を懐(オモ)い、之を修猷館と云う。 今日修猷館に於て儒学を教授せす、英語を専修せしむる所以(ユエン)のものは今我国の文運日々隆盛に向い、教育の方法は現に欧米諸国と其主義を同うし、制度文物従て旧套を守て自ら劃(ハカ)るべからざればなり」と。

 興味深いので、開館当時の入学試験科目を上げる。

(1)修身: 論語、孟子
(2)歴史: 皇朝史略、日本外史、史記、十八誌略(内二ヶ所半葉)
(3)文章: 正文文章軌範(一葉)
(4)筆算: 自(ヨリ)加減乗除、至(イタル)比例(四題)

 また、科目並びに教科用書は次の通り。

(1)習字: スペンサー習字帖
(2)綴字: ウエブスター綴字書
(3)読方: ウィルキンソン読本(1~4)
(4)訳解: ウィルキンソン読本(1~4)、パーレー万国史、スウィキントン万国史、グードリッチ英国史、グードリッチ米国史

(5)文法: ウィルキンソン小文法書、クワッケンボス大文法書
(6)講義: ブラキー「セルフカルチュア」、スマイルス「セルフヘルプ」、(ブラキーとスマイルスは講師名)
(7)算術: ヒンソン算術教科書
(8)台数: ツドハンター小代数書、ロビンソン小幾何書
(9)物理: スチュワード物理学書
(10)兵式操練

 因みに、第一回の入学者数は、43名であり、職員は、隈本有尚館長の他、教員として神崎直三、松隈繁之助、書記として、米沢正三、大淵新三郎の5名であった。 また、当初の館則を上げると次の通りである。

(1)目的: 専ら英語を授け、其の他の高等専門学校に入るがため必須の学科を授く。
(2)定員: 210名
(3)年限: 3年
(4)学期: 前学期9月22日から2月28日、後学期3月1日から7月31日

 翌明治20年、学制が改正され、尋常中学の程度学科に準拠し、5年間の学科程度を3年で終了し、英語数学を主眼とし、漢文および歴史の内支那史以外は、総て英文原書を用いたとある。

 これら事からも判るように、「修猷館」という学校は、当時としてもベラボウに難しい中学であったようだ。 事実、43名の入学者に対し、卒業したのは、僅かに4名に過ぎないのである。 参考までに、その後の卒業者数を上げると、第二回(明治23年)が16名、第三回(羽石重雄の卒業年次)が44名、第4回が24名なのである。

 即ち、羽石重雄は、修猷館の三年間で、徹底した英語教育を受け、第五高等学校に入学しているのだ。 因みに、この時、修猷館から第五高等学校に入学したのは、9名だった。 修猷館での英語教育が、嘉納治五郎や有馬純臣に注目されたに違いない。 しかも、羽石重雄は、既に24歳である。 その事情はさて措き、この事が、大阪府立二中初代校長である有馬純臣をして、羽石重雄を招聘させたのではないだろうか。

 ところで、吉田氏の指摘された明治期の英語教育だが、当時の大学卒業の教員は、英語教科を兼任することが多かったのは事実だろう。 明治中期、中学の教員が不足し、校長の重要なる仕事の一つが「教員の確保」であったようで、特に、大学卒業者は引っ張りだこで金の卵的存在であった。 また、30年代は、中学校新設ラッシュで、先ず分校に、そして本校として独立した。 一例として、柏崎中学の場合を挙げる。

○明治33年、高田中学の分校として開校。 当時の陣容は、校長以下、教員6名、書記1名、校医1名とあり、その他に雇員1名とある。 また、入学志願者は166名、入学者数130名、3学級であった。 開校初年度の学科は、次の通り。

(1)兵式体操科(2)漢文地理(3)博物算術(4)英語(5)日本史国語

 これから見ても、兼務が多いことが判る。 英語に関しては、当時の在校生の回想文が残っている。 それによると、開校当時、身の周りの物を英語で暗記することが授業だったようだ。 ところが、二年目、大学を卒業した先生に交代、発音が違うと記憶した単語全てをやり直しさせられたのだそうだ。 また、新潟から米国人宣教師が来校し、英会話も指導していたと云う。 ただ、柏崎は日本石油の発祥の地でもあり、米国人技師が2名いたようで、度胸試しに、話し掛けたというエピソードも残っている。 また、時に外国船が入港することもしばしば在ったようで、矢張り度胸試しで話し掛けたが、チンプンカンプンで全く理解できなかったとか。 もしかしたら、その船員、日本海貿易の関係からして、ロシア人であったのかもしれない。

 英語もさることながら、他の教科の教員について調べようと思うのだが、ほとんど資料が無いのが実情である。 そこで、学校史や同窓会誌の論説や回顧文などを当たるのだが、これも中々難しい。 戦前あるいは戦後も30年辺りまでの資料に、若干教師の足跡を見つけることがある位なのである。

 例えば、先に上げた開校二年目(明治34年)に着任された英語教師・岡本幸実先生は、回想文によると、大学の卒業で、教頭であったそうだ。 人の記憶と謂うものは、経済に絡むと鮮明に残るのか、この岡本先生の給与は、校長より高かったのだそうだ。 因みに、初代校長である渡辺文敏先生は、庄内藩士、新潟師範学校卒業後、高田中学柏崎分校の主席教諭として着任、教員は、初めの頃、新潟師範の同級生とか後輩が多かったようだ。 岡本先生については、調べてみるのだが、東京帝国大学一覧には名前が無い。 明治時代は、姓名が変わることが得てしてある。 いずれにして、回想では、先のように給料のことが書かれている。 小さな手掛かりだが、それを頼りに調べてみたい。 話が前後するが、当時の教師の給料は、非常に安かったのも事実だろう。 記憶を頼りに上げてみると、校長の給料が35円くらいで、一般の教員の給料は、学歴にも拠るが20円前後ではないだろうか。 但し、大学卒は、別格で、40円以上であったようだ。 そこで、先の逆転現象が生じるのである。 (記憶が曖昧なので、この話は、資料を調べて、改めて報告する。)

 兎に角、明治の中等教育の草創期は、教員不足とも相俟って、相当に自由度が高かったようだ。 例えば、矢張り回想文に、教科書の選定で校長と対立し、啖呵をきって辞職した先生がいたことが書かれている。 もしかすると、各地で頻繁に起った校長排斥運動なども、この流れに沿うものなのかもしれない。

 私事だが、昔、20年くらい前のことだったろうか。 ビジネス専門学校のコンピュータ関連の授業を受け持ったことがある。 開校当初で、教員の確保が出来なかったこともあるのだろうが、自分が担任した教科は、各コンピュータ言語を含めると10教科もあり、しかも併設の栄養士専門学校でも教えたから、授業の準備が大変だったことを思い出す。 学校は当に草創期、コンピュータは今ほど普及していない時代だ。 明治、中等教育の草創期と比べるべきもないが、自分の経験がイメージとして重なるのである。

 いずれにしても、「明治期に於ける英語教育」は、当時の中等教育の実態を知る上で、キーワードになるのではないだろうか。 羽石重雄の取材も一段落し、その周辺を追いかけていたのだが、英語教育には特殊性があるので、存外追求し易いのかも知れない。 しかし、英語教育に関しては、第二次世界大戦の影響もあり、困難が予想される。 まあ、気長に取り掛かるしかないのであろうが。

Best regards
梶谷恭巨


コメント
明治教師の経済
 書いた当の本人が書くのも問題があるのだが、乗稿後に、配信版に指摘があり、取り敢えず、その点を明確に。
 すなわち、当時の教員の給与の問題。 これには多いな格差があり、例えば、夏目漱石の給与なりを調べてみると、予想外の展開があり、実のところ、当惑している。
 その論点と謂うべきが、職制と職階、号俸と等級の問題である。
 余にも自由度が大きすぎるというのか、実のところ、その基準たるもの実態を把握する事が出来ない。
 理由の一つとして、既に百年の昔の公文書が公開されていないのも事実である。 ただ、これは地方レベルの問題なのだが。(地域では、係累がが現に存続し、その影響があると云う事であるらしい。)
 いずれにしても、吉田氏に感謝。
 英語教育は、当時の中等教育のキーワードであり、驚くことしきり也。
 お許しを頂けるなら、その辺りを開明する為、資料編を充実したく、皆様のご協力を男長居した次第である。

Best regards
梶谷恭巨
【2009/06/09 22:02】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]
大阪府立二中開校時の教員の給与について
久しぶりに拝見しましたが、大阪府立第二尋常中学校(現・三国丘高校)同窓会の吉田です。
明治期の中学校教員の給与は、相当な格差があったようです。本校資料室に残る開校時(明治28年)の職員表によれば、当時32歳だった校長・有馬純臣は年俸800円、38歳の教諭は年俸600円(以上2名は奏任官待遇)、他の教諭2名は月棒45円と40円、42歳の助教諭月棒25円、教員心得3名は月棒25円1名と18円2名、書記2名は月棒15円と12円で、他に週数時間担当の非常勤教員3名がいました。
英語教育については、授業時間は週28時間で在学5年間通算140時間のうち、英語は29時間で最も多く、次いで国語・漢文の20時間ですから、英語を重視しています。学年別の授業時間では、入学最初の3年間に19時間、4年生と5年生は各5時間ですから、最初にたたき込む方針だったようです。
なお、1期生入学者156名のうち卒業できたのは33名でしたが、アルファベットを知らないで入学した者もいたそうで、当時の英語教育は大変だったと思います。また、家庭の事情による中途退学者も多く、当時の社会の貧しさが想起されます。
【2009/10/29 04:14】 NAME[Whitesox] WEBLINK[] EDIT[]
旧制中学教員の給与
 初期の旧制中学に於ける教員の給与には関心があります。 色々調べてみると、給与規則はあるのだが、職制と職階というか、多重構造のようで、職制上の地位が同じでも、学士であれば給与は高く、漱石ではないが、校長より高い給与を貰っていたケースもある。 それに、「お雇い」になると、もう給与規定などの外、特に「お雇い外人教師」などは、その典型です。 今のところ、特に調べている訳ではありませんが、興味深い問題です。
【2009/10/29 12:02】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]


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