柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 明治期の英語教育を考える上で、夏目漱石を抜きにしては語れない。 そこで、漱石の年譜を調べてみたところ、明治30年(1897)、漱石の第五高校時代に、佐賀県および福岡県の尋常中学校の英語授業を視察していることが判った。 また、その視察報告書が、『漱石全集』第26巻(岩波書店)に収録されていることも。

 漱石は、明治30年7月9日、実父である夏目直克の逝去(6月29日)により、上京し、9月8日に熊本に帰っている。 その後、10月10日が五高の創立記念日であり、教員総代として祝辞を述べている。 さて、視察であるが、年譜によると次の通り。

明治30年11月8日、佐賀県尋常中学校
同年、  11月9日、福岡県尋常中学修猷館
同年、 11月10日、福岡県久留米尋常中学明善館
同年、 11月11日、福岡県尋常中学柳河伝習館
同年、 11月23日、視察結果を『福岡佐賀二県尋常中学参観報告書』として、五高に提出している。

 興味深いので、『漱石全集』第26巻(岩波書店)収録の「福岡佐賀二県尋常中学参観報告書」より抜粋して引用する。 尚、原文では「カタカナ漢字交じり文」であるが、カタカナは平かなに、また、旧仮名遣いは新仮名遣いにし、便宜上、句読点を附し、項目の区切りには「:」を付けた。
 (注)は、『漱石全集』第26巻に記載された「福岡佐賀二県尋常中学参観報告書」の注解をそのまま引用した。 また、筆者の注釈については、(梶谷注)とし、赤字で表記した。

第一 佐賀尋常中学校(現、佐賀県立佐賀西高等学校)
(略)
四年級
課目: 訳読
用書: マコーレー著論文
教師: 専門学校卒業生某氏
生徒人員: 四十名許(バカリ)
授業法: 生徒をして数行を音読せしめ而る後、之を翻訳せしむ、夫より教師再び之を講ず
傾向: 教師生徒共に単に意義を解することのみを力(ツト)めて、発音法等に注意せざるが如し、又単語熟語等の暗誦を試みざるに似たり、用書困難にして此に及ぶの余裕なきか将(ハ)た此点に於て冷淡なるか
三年級
課目: 訳読
用書: 文部省会話読本
教師: 専門学校卒業生某氏
生徒: 四十名内外
教授法: 前に同じ
傾向: 此級に在っては四年級よりも少しは発音等に注意するが如しと雖ども、こは単に教師のみに止まり生徒は依然として冷淡なるが如し、且会話読本を用うるにも関せず其使用法は毫も会話読本の用をなさざるが如し、尤も他に会話の時間ありて之を補うが為か
二年級
課目: 会話作文文法
用書: 欠
教師: 平山氏(永く洋人に就て学びたる人)
(注)平山久太郎のこと。 文久三(1863)年福島県生れ。 慶応義塾正則科卒。 明治30年8月佐賀中学校教諭、33年4月宮城県第二中学校教諭。 32年10月9日付狩野亨吉宛書簡で漱石は平山の就職の斡旋をしている。
生徒人員: 五十名許
教授法: 生徒をして前回の英訳一二句を暗誦せしめ指名の上、之を講壇に上らしめ他の生徒に対して暗誦せる句を高声に誦せしむ(以上会話)、次に教師暗誦せる英語の続き一二句を日本語にて与え、生徒をして之を英訳せしむ、右終って生徒の英訳を黒板にて正し(以上作文)、而る後以上正たる英訳に就きて文法上の質問をなし、又此方面に向って新知識を授く(以上文法)
傾向: 教師は頗る正則的に英語の知識を注せんと企て、生徒の冷淡なるにも関らず、着々正則的に進歩するの見込みあり、且一時間内に在って会話作文文法の三科を教授するは諸科を融合して、打て一丸となすの便利あり、此方法因りて此師の授業を受けば少々なくとも、此諸科に対する知識は高等学校入学試験に応ずるに充分ならん

第二 福岡修猷館(現、福岡県立修猷館高等学校)
(略)
(梶谷注1)明治27年8月7日、初代館長であった隈本有尚が館長に再任、漱石視察当時、隈本有尚が館長であった。
(梶谷注2)『修猷館七十年史』(昭和30年刊)には、明治30・31年の記載がない。 即ち、漱石の視察に関する記述は掲載されていない。
(梶谷注3)その後、『修猷館二百年史』を入手、『七十年史』には記載の無かった漱石視察の詳細が掲載されている。
(原武哲先生より)隈本有尚については、先生稿の毎日新聞筑後版『夏目漱石をめぐる人々』第20回「隈本有尚①から③」に詳しい。 尚、毎日新聞久留米支局のご好意で、『夏目漱石をめぐる人々』の全文をFAXして頂き、詳細を知ることが出来た。 感謝。
二年級
課目: 訳読
用書: 読本
教師: 平山氏
(注)平山虎雄のこと。 福岡市生れ。 東京帝国大学法学部選科に二年間修学。 明治24年4月より昭和5年3月まで修猷館に在任。
(梶谷注1)上記「法学部選科」とあるは、「法科大学撰科」ではないだろうか。
(梶谷注2)『東京帝国大学一覧』(第11冊を参照)、第10章「分科大学通則」の第7「撰科規定」によれば、下記の通り。
第一條 各分科大学課程中一課目又は数課目を撰びて専修せんと欲し入学を願出つるときは各級正科生に欠員あるときに限り毎学年の始に於て撰科生として之を許可す
但課目に依り其一部を撰ぶを許可することあるべく又所撰の課目学年半途に始まるものなるときは其始業の前に於て入学を許可することあるべし
第二條 撰科生は英仏独の語学を撰ぶことを得ず、但所撰の課目を専修するに必要なるときは之を兼修することを得
以下、第九條までの規定があるが、省略する。
(原武哲先生より)「帝国大学法学部選科」と書いたのは、後の名称に書き換えたもので、正確に当時の名称でいえば、「帝国大学法科大学撰科」です。 東京帝国大学になるのは、京都帝国大学が設置された明治30年6月からです、とのこと。
生徒人員: 五拾名許
教授法: 最初に各節の冒頭に於て綴字及び発音の練習をなし、次に読方に移る、初め教師模範を示し、次に生徒一節宛(ズツ)之を練習す。 此(カク)の如くすること二回、初回は出来よき生徒よりし次回は下位の生徒に及ぶ、読方の教授法頗る厳格にして少瑕を寛仮せず、訳読の教授法も亦読方に同じく教師先ず一節を訳し上位の生徒、之に傚(ナラ)い、一巡の後、上位の生徒、之を復習すること一次にして終る
傾向: 全体の傾向は読方に重きを置きて厳に発音「アクセント」を練習するものの如し、故に生徒は此点に於て頗る進歩せるが如し、此級の生徒は中学に入りて始めて英語を学べるものなれども、他中学の生徒に比して少なくとも発音の点に於て優るべきを信ず、訳読も亦他と異にして生徒は自宅に在っては只復習するに止まりて、翌日の部分を下読するの労なきを以て自然と既に稽(ナラ)い得たる部分を反復するの余地あるべし
三年級
課目: 訳読
用書: 第四読本
教師: 鐸木(スズキ)氏(農学士か)
(注)鐸木近吉のこと。 明治29年5月より32年まで修猷館に在任。
(梶谷注)『札幌農学校一覧』によれば、鐸木近吉は福島県平民、明治24年7月卒業(第9期)、農学士とある。

(原武哲先生より)鐸木近吉は、(修猷館着任前)、明治24年9月から明治29年4月まで、仙台の東北学院で博物理科の教授(『東北学院七十年史』1959年刊)とのこと。
生徒人員: 四拾名許
教授法: 此級に在っては二年級と異にして生徒は各自下読の上にて教室に入る、而して指名せられたる生徒は一節位宛教科書を音読の上にて和訳す、而る後、教師又重ねて之を訳す
傾向: 此級に在っては二年生程発音法に注意せざるが如く教師生徒共に意義に重きを置くが如し
四年級
課目: 和文英訳
題目: 新艦進水式
教師: 小田氏(同志社卒業後米国に遊学せる人)
(注)小田堅立のこと。 旧名良平。 岡山県生れ。 同志社英学校よりアメリカのオハイオ州オブリン大学選修部修業。 明治22年3月より6月までと、29年5月より31年6月までの二回、修猷館に在任。
(梶谷注)岡山県商業学校初代校長(明治31年開校、現岡山県立岡山東商業高等学校)、明治35年、岡山市立商業学校(現岡山県立岡山南高等学校)初代校長兼務、岡山に於ける商業教育の先駆者の一人と云われている。 元治2年(1865)1月10日生-昭和19年(1944)5月26日没、旧姓・三宅。 岡山ペンクラブ編著『岡山人じゃが3 信念に生きる』、第二章「岡山県商業教育3人の先駆者」に採り上げられている。
生徒人員: 四拾名許
教授法: 生徒両三名をして自作の英訳を黒板に書せしめ教師之を批評訂正す、尤も生徒の困難を感ずべき単語字句は予め之を教うるものゝ如し、かく一遍訂正せる者を浄書の上、教師に呈出せしむ
傾向: 教師は常に英語を用いて殆ど日本語を雑(マジ)えず、生徒も亦力(ツト)めて英語を使用せんとするものの如し、文章は固より疵瘕(シカ)なきにあらずと雖ども中学四年生の文章としては大に観るべきものありと思考す
五年級
課目: 訳解
用書: 「ゴールドスミス」論文集
教師: 小田氏
生徒人員: 四十名許
教授法: 生徒順次に一節宛を和訳するの外は毫も日本語を用いず、教師生徒共に英語を使用するに熱心なるが如し、而して此時間は訳読の課に属すと雖ども実際は会話及び文法の授業となるものにて、現に五年級の英語は和文英訳を除くの外は皆此授業中に含まるゝものゝ由なり
傾向: 西洋人を使用せざる学校に於て斯くの如く正則的に授業するは稀に見る所にして、従って其功績も此方面に向っては頗る顕著なるべきを信ず

 長くなったので、今回は、ここまでとし、次回、久留米明善館及び柳河伝習館について引用する。

 さて、上記二校に対する漱石の評価を比較してみると、前回書いた様に「修猷館」の英語教育に対する特異性が明らかであるが、詳細については、該報告書の引用完了後に。

Best regards
梶谷恭巨


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