柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 「行不由徑(行くに、こみちによらず)」、『論語』(雍也第六、ようや)にある言葉
だが、先日、諸橋徹次先生が、この言葉を座右の銘ににされていたことを知った。 「な
るほど、正論・大道を行かなければ、あの『大漢和辞典』は完成しなかったということ
か。」

 ところで、メンバーの一人である西澤君が、シナリオ講座という連載を柏崎マイコンク
ラブの掲示板に書いている。 私が、彼に敬服するのは、映画の助監督から始まったであ
ろう映像に対する信念を持ち続けていることだ。 まさに、「行不由徑」ではないか。 
こういう人が、最後に大成するのであろうか。 少々歯車の合わないところもあるのだ
が、傍観しているのではなく、期待をこめて見ている次第だ。

 それに比べると、どうであろう。 私などは、何とも横道の多い人生を歩いてきたもの
だ。 ただ、西澤君の話は、実に面白いことを示唆してくれる。 コンピュータの技術者
の在り方についてだ。 彼の場合、コンピュータや技術は、自己の表現の為の単なる道具
である。 しかし、これが、コンピュータの技術者の場合は、その道具を作る立場なの
だ。 ある時は、データベース、ある時は、数値解析、しかし、時には、ホテルの予約管
理や市販のソフトでも済むような業務システムまで、手がけなければならない。 即ち、
その都度、価値観や観念さえ変えなければならない場面に遭遇する。 何しろ、クライア
ントが最優先される社会なのだ。 その意味では、傭兵に近い、あるいは、傭兵そのもの
かも知れない。 未だ纏まってはいないのだが、いつかは、「傭兵の倫理」について書こ
うと思っているくらいなのだ。 要するに、「行くに、径に由らず」ではなく、「径に迷
い、大道を失う」危機と常に相対している訳だ。

 「ああ、それで、戦史とか軍事学を」と言う人がいれば良いのだが、中々そうは見ても
らえない。 先に付け加えると、軍人と言う場合は、国家と言う前提がある。 (一例と
して、ハッチントンの『The Soldier and The State』。) そこで、「傭兵」と書いた
訳だが、これにも実は問題がある。 まあ、この話しは別の機会に書くことにしよう。 
それこそ、径に迷ってしまいそうだ。

 話しが、あらぬ方向へ進んでしまった。 実は、論語の「行不由徑」には続きがある。
 それを書くと「径に迷う」。 要するに、諸橋先生が、この言葉を座右の銘とされたこ
とには、何とも深い意味がありそうなのである。 因みに、ある対談の中で、諸橋先生の
「言葉が消えていく。 何とかしなければならないと考えたのが、大漢和辞典編纂の動機
だが」との言に、「それは、戦前もそうでしたか」と司会者、「そうです。 ・・・」
と。 この辺りの事、解釈は皆さんにお任せする。 参考のために、次のサイト(Web
漢文大系)を。

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男性
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1947/05/18
職業:
よろず相談家業
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歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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