柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第二章 「ヘンリー・ウィン」

  ヘンリー・ウィン(Henry Winn)は、西暦1850年頃(1858年8月春、イリノイ州ヂールズブルグへ移籍している)、芸国ジョージャ州リバーチーカウンチーフラミングトンに生れた(生年月日不詳)。父は牧師でジョンといい、母はメリーといった。母の兄である伯父サムェル・ロビンス・ブラウン博士(註一、Rev. Samuel R. Brown)は、東洋に於てプロテスタント宣教師の先駆であって、本邦へは、1859年(安政六年十一月一日)、亜米利加リフォームド教会(当時のダッチ・リフォームド)の宣教師として、デー・ビー・シモンズ(D. B. Simmons M.D.)と共にサプライズ号で神奈川に来た。

  (原註1)ブラウンは、1838年六月、ニューヨークのユニオン・セミナリーを卒業するや、モリソン教育協会の専任教師となって、妻帯するや否や、1838年十月十七日出航のモリソン号で、支那マカオに向い、二月二十日、マカオに着き、支那の児童の教育に当った。1843年、所用あって、シンガポールにも往ったが、再びマカオに帰った。夫人が健康を害したので、1847年、帰米した。その間五年、極東支那に於て支那人の教化に努力したのであった。それが、十六年後、再び彼の野心の的だった日本へ来て、基督教の根を下し、日本の文化に偉大な貢献を残して、惜しいことに膀胱炎の為めに、1879年(明治十二年)夏、帰米し、1881年(明治十四年)の夏、満七十歳で、ニューヘブン町で死去した。このブラウン博士の意見によって、ヘンリー・ウィンが支那へ行ったのだと思われる。

  ウィンの祖母ピー・エッチ・ブラウン夫人は、また敬虔な清教徒的賢婦人で、貧しい家庭にありながら、子供の誕生日毎に、聖歌を作った程である。つとに福音の伝えられていない異郷国民へ、伝道の門戸の開かれるように願っていた。殊に日本の鎖国時代に、ある水夫が日本から携えて行った漆器を見て、かかる精巧なる器物を製作し得る国民には福音を伝えねばならぬとて、日夜日本伝道のために祈ったとのことである。また、この夫人は讃美歌297番の原詩作者である。このピー・エッチ・ブラウン夫人の長子が我国プロテスタント最初の宣教師サムエル・ブラウン博士である。このブラウン博士の妹の子がウィンであるから、ウィンであるから、ヘンリー・ウィンが早くから東洋に来航したことは、けだしその祖母と、ブラウン博士と、母の感化によるものと信ぜられる。ヘンリー・ウィンには、三人の弟と一人の妹があった。第一の弟をジョージ・ウィンといい、米国に於て最初は麦粉製造業を営み成功している。末弟トーマスの欧亜漫遊(1923年(大正十二年)109日~1924年(大正十三年)二月七日)の費用を提供したのは、このジョージである。第二の弟はトーマス・ウィンで1851年(嘉永四年)6月29日生れ、1873年(明治六年)春、マサチューセッツ州アムハースト・カレッジを卒業、イリノイ州ファーマーズヴィルの教育にて、一年の間、経験と学資を得て、更にオーボルン神学校に一ヶ年、ユニオン神学校で三ヶ年在学し、明治十年(1877年)春、業全く成りて、その夏、イリノイ州マウントカーメルの教会で伝道に従事したが、外国伝道会社の秘書ロリー博士に推され、日本伝道にジー・ダブリュー・ノックス及びチー・チー・アレクサンドルと共に派遣されることに決定し、その年9月21日に、イーラーザ女史と結婚し、その年12月26日に、日米定期船「北京市号」で横浜、入港、その後、金沢(18771898年)、大阪(18981906年)等、内地の伝道に貢献し、更に満州(19061923年)へも伝道の手を延した。その後、一度帰国したが、昭和四年六月、再び来航、昭和六年二月八日、金沢日本基督教会で九十歳を以て死去した。

  第三の弟は、サルエル・ウィンで、法律家である。米国に在世、昭和十二年、八十二歳に相当する由。妹は、ルイズ・ウィンで、オーター家に嫁し、昭和十二年、八十四歳健在。このルイズ女史も横浜に来ていたことがある。

  ウィンの本邦歯科医業に従事したことは、『歯科沿革史調査資料』エリオット伝中に「ドクトル・ウィンという人、香港に業を開きしが、夏期の一部を我国に送り、莫大な収入を得しが、その勢力範囲を悉くエリオットに譲ることとなれり」との記載あり、更に著者の調査によれば、慶應三年、横浜在住の英国人ペーリーが発行(横浜百六十八番)していた万国新聞紙(邦字新聞紙の祖とも云うべきもの、第一集から第十八集まで十八冊を発刊するに満二年五ケ月に亘っている)の初集(慶應三年正月中旬発行)、第三集(同年三月下旬発行)、第四集(同年五月下旬発行)に、

 「口中一切療治仕候 百八番 ウヰン」

という簡単な広告を連載せるを見た。この百八番は山手に面した河岸で前田橋と谷戸橋との中間に位する商館である。また今泉源吉氏所蔵の左記金児篤斎謹告の引札(左右一尺三寸七分、天地一尺四分、和紙板刻刷(第十八図))がある。

 以上、中途であるが、今回はここまで。

 Best regards

梶谷恭巨

今回で、「第一章イーストレーキ」の入力は終了するが、取りあえず注釈を付けず、入力作業を続けることにしたい。

 

(渡航免状表、裏)

 

(右:メッサー、フルベッキ、ブラウン)(右:シモンズ)

  この在支時代に夫人はフランクを伴って、1863年秋、一度帰米し、母堂のもとで1864年(元治元年)一月二十一日に次男を挙げ、その年、香港へ帰航している。

  明治元年(1868年)、十歳になったフランクの教育の為め、夫人は二児を伴って米国に帰ることになったので、その後、単身イーストレーキは日本に来航、初め長崎に、次で横浜に来て業を開いた。この横浜開業時代に長谷川保兵衛が入門したのである。横浜の廃業は明治二年末、引上げることになり官許を得て、長谷川保兵衛を伴い支那に渡り上海、香港へ航し、明治三~四年頃、帰米、一家を挙げて更に渡独した。これ十三歳になった愛息フランクの教育の為めである。この独逸時代は主として伯林(ベルリン)で生活し、主としてkoniggratzer Str.104(ケーニッヒグラッツァー・シュトラッセ104)に居住したもののようである。この在独逸時代の、即ち明治六年(1873年)三月十四日、北米合衆国のオハイオ大学で、D.D.S.の名誉学位を得ている。(第十三図参照)

 

(図12:オーストレーキの名刺)(図13:イーストレーキ D.D.S.免状)

  イーストレーキの一代を通じて最も華々しい時代は、この在独時代だといわれる程、ベルリンの生活には大きな足跡が残されている。イーストレーキは、ベルリンに於て米国歯科医会のセクレタリーをつとめ、1875年五月三日にハンブルグでイーストレーキが講演した事が、デンタルコスモス(The Dental Cosmos Vol.17, No.10 October 1875)に掲載されている。論文は、“Suggestions”と題するものである(『W. C. Eastlake先生伝』、49ページ~54ページ参照)。

  またイーストレーキは、独逸政界の重鎮と交わり、鉄血宰相ビスマルクとも親交を重ねたと伝えられ、また米国の貴官が渡独の折には、しばしばイーストレーキを訪問するもの多く、その米独親善につくしたところが頗る多かった。

  我国の駐独代理公使であった品川弥次郎も在独時代、ベルリンでイーストレーキの診察を受け、当時イーストレーキの助手であった長谷川保兵衛を見出し、すすめて同伴帰国したことは、我国の歯科史上、特筆される事実である。明治元年以来、八ヶ年間イーストレーキの助手であった保兵衛は、かくして品川弥次郎と共に明治八年(1875年)末、決別退独し、また渡独の唯一の目的であった愛息の教育も一段落となり、ベルリン大学所定の学業を卒えて。プロシャの奇兵隊に入営した。加うるに和平親善の使命を帯び、世界漫遊の途に出でた前北米合衆国大統領ユリシーズ・シンプソン・グラント将軍も既に予定の日程を経て独逸を去り、東洋への遍路に向わんとするに際し、意を決して、イーストレーキ夫妻は、明治十二年(1879年)春、次男のW・デラノ・イーストレーキを同伴、急遽ベルリンを去り、再び香港に来航した。香港に於けるイーストレーキの治療所は居留地にあったが、住居はアルバニーロード十四番にあって、所定の時間に治療所に行って診療に従事して居た。この香港時代の助手は、米国人某ドクトルの外に前記長谷川保兵衛門下の安藤二蔵(その頃の香港領事・安藤太郎の弟)の二人であった。安藤は長谷川の命に従い、香港にイーストレーキを迎え、その助手として医業を援助したのであった。イーストレーキは香港を根拠地として、上海、北京、広東、マカオ、等に出張し、更にマニラにも渡航して歯科医業を伝えた。殊にシャム国王チュラロンコーン王(King Chulalongkon1868-1910)の親任を受け、Personal Dentistとして、国王の歯科治療を担当したという記録があるが、これは独逸より香港に再来の途次、バンコックに寄港した時か或は1860~1878年の在支時代であろうが、その年代は不詳である。

   

  イーストレーキは、自分等の最終の生活地を日本に求める事を決心し、明治十四年(1881年)六月十七日、安藤二蔵を伴って、マニラの出張から寄港するや、香港引上の準備を整え、八月二十九日にはアルバニーロードの住居で不要家具類の投売をなし、その年の秋、夫人ならびに次男及び安藤二蔵その他雇人を同伴、横浜に入港、ここに居を卜して居留地の百六十番館で再び歯科を開業した。

  この横浜での開業には、支那以来の安藤二蔵が助手をつとめたが、後には、同じく長谷川の高弟佐藤重が入門して助手をつとめた。長男のフランク・ワーリントン・イーストレーキの来邦(明治十七年)と共に、明治十八年頃、福沢諭吉の保証のもとに麹町一番町十二番地に住居を構えたことがあったが、後、明治二十年二月二十六日、愛息FW・イーストレーキの築地事務所内で五十三歳を以て病没した。この時、夫人は北米留学中の次男の結婚の為め、渡米中不在であったので、専ら長男に見守られながら長逝したのである。翌二十七日、嶺南坂教会で告別式を行い、青山墓地南甲種イ二の側七及び八号に埋葬した。

  ローズ夫人は、WC・イーストレーキの死後、寂しく日本へ帰って来たが、愛息フランクの企図した英語教育を助け、愛孫の教育によって旅愁を僅かに慰め、盛んにペンを取って、母国の新聞雑誌へ東洋事情を寄稿し、或は詩を寄せて日本の紹介に貢献した点が多い。夫君没後九年、即ち明治二十九年一月三日夜、東京市本郷区根津西須賀町一番地の仮寓で肺炎に侵され薬石効なく六十二歳を以て永眠した。夫人もまた青山墓地に葬る。長男FW・イーストレーキは、博言博士として知られ、本邦の明治文化に残した業績には歿すべからざるものがある。このフランクも、明治三十八年二月十八日、東京で病没している。次男WD・イーストレーキは、本邦に於て東大医科に在学中、事情があって渡米、米国で医学士となったが、晩年本邦に来り、年余にして東京で病没した。

  WC・イーストレーキは、本邦に来航した外人歯科医の嚆矢であって、その功績は歿すべからざるものがあるのみならず、東洋の生物標本の採集には一家をなしていた。万延元年、初めて東洋へ来航以来、熱心に貝類、昆虫類の採集をなし、欧米学界に標本を移送して、東洋の生物の紹介に尽した点が多い。再度の東洋来航以後の採集標本は、その代表的なものを、長男が、Mr. H. F. Moore来朝の折、託して北米合衆国ワシントン市の国立博物館The Smithsonian Institutionに寄贈している。この標本は南アジアに限った範囲のもののみではあるが、昆虫二百種、貝類五百種類に達している。

 またイーストレーキは、音楽の才に秀で、アマチュア楽団を組織し、在留外人の慰安と親善につとめ、しばしば公開演芸会を催して、支那の飢饉地救済資金等に当てた。イーストレーキは、自身東洋の歯科開拓に貢献したvばかりでなく、夫人、愛息等一家を挙げて、日本文化の各方面に尽すところ多く、在留外人中、出色なものというべきである。ここに泰西歯科学輸入七十五年を記念せんとして、昭和十年、社会歯科医学会は、記念碑建設を企て、全国に同志の出資を得て、昭和十一年二月二十二日、あたかもWC・イーストレーキ没後五十年に青山墓地内で建碑除幕式を行ったのである。

  

  以上、「第一章イーストレーキ」を終える。

 前回に続き、第一編第一章を紹介する。 

 ただ、下記に示したように、我国では、個人情報保護法等により、調査が非常に困難なのだが、米国の場合(一部、ヨーロッパの場合も)、物故人物(一部、生存者も含め)の情報を入手できる。この事は、自分としては重要な事だと思うのである。言い換えると、これらのサイトが民間によって運営されている事とと同時に、これらの情報を記入する人々の意識の問題である。

 強いて言えば、我国における個人情報は、その法理とは異なり、寧ろ個人情報が「官」によって管理されている事を意味する。言い換えれば、一般人の存在など、歴史的意味を持たないという意識が、日本人の歴史認識の根底にあると言えるのではないだろうか。更に言えば、過去の人々の存在は、個人情報として社会的に葬られていると云えないだろうか。

 現在生きる我々の背景には、ただ私のみではなく、その周辺の多くの人々との関係位に於いて存在する。すなわち、過去の人々の存在は、今生きる我々すべての共有すべき存在であり、共有すべき歴史的記憶なのでではないか。我々は、今を刹那的に生きているのではない。過去を継承し、未来に引き継ぐ責任があるのだ。

  大上段に構えてしまったが、下記の様なサイトを紹介する事によって、我国の現状と比較されれば、と思い本旨には多少逸脱するが、敢て紹介する次第である。

  尚、今回は、第一章の一部のみを紹介し、注釈は、第一章の終りにまとめて掲載する。

 【以下本文】

 

第一章「ウィリアム・クラーク・イーストレーキ」

 William Clarke Eastlake

 前回に続き、第一編第一章を紹介する。

 ただ、下記に示したように、我国では、個人情報保護法等により、調査が非常に困難なのだが、米国の場合(一部、ヨーロッパの場合も)、物故人物(一部、生存者も含め)の情報を入手できる。この事は、自分としては重要な事だと思うのである。言い換えると、これらのサイトが民間によって運営されている事とと同時に、これらの情報を記入する人々の意識の問題である。

 強いて言えば、我国における個人情報は、その法理とは異なり、寧ろ個人情報が「官」によって管理されている事を意味する。言い換えれば、一般人の存在など、歴史的意味を持たないという意識が、日本人の歴史認識の根底にあると言えるのではないだろうか。更に言えば、過去の人々の存在は、個人情報として社会的に葬られていると云えないだろうか。

 現在生きる我々の背景には、ただ私のみではなく、その周辺の多くの人々との関係位に於いて存在する。すなわち、過去の人々の存在は、今生きる我々すべての共有すべき存在であり、共有すべき歴史的記憶なのでではないか。我々は、今を刹那的に生きているのではない。過去を継承し、未来に引き継ぐ責任があるのだ。

 大上段に構えてしまったが、下記の様なサイトを紹介する事によって、我国の現状と比較されれば、と思い本旨には多少逸脱するが、敢て紹介する次第である。

  尚、今回は、第一章の一部のみを紹介し、注釈は、第一章の終りにまとめて掲載する。

 【以下本文】

 

第一章「ウィリアム・クラーク・イーストレーキ」

 William Clarke Eastlake

 

以下は、下記のURL、「Find a Grave」による。(興味深いので、参考の為に原文のまま記載)

http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=78618218

Birth:      Mar. 25, 1834

              Gloucester County, New Jersey, USA

Death:   Feb. 26, 1887

              Tokyo, Tokyo Metropolis, Japan

American dentist. Member of Royal Sussex

Masonic Lodge No.501, Shanghai.

Son of Richard Wells Eastlake and Sarah (Clark) Eastlake.

Married Almira Rose.

Father of Dr. William Clark Delano Eastlake and Frank Warrington Eastlake.

Family links:

Parents:

  Richard W Eastlake(? – 1881)

  Sarah Clark Eastlake(1810 – 1891)

Children:

  William Clarke Eastlake(1864 – 1910)*

Siblings:

William Clarke Eastlake(1834 -1887)

  Richard Eastlake(1842 – 1910)*

  Thomas Summers Eastlake(1849 – 1896)*

  Harry Y. Eastlake(1851 – 1902)*

  Walter R. Eastlake(1856 – 1900)*

Burial:

 Aoyama Cemetery

 Tokyo

 Tokyo Metropolis, Japan

 Plot: Foreign Sec. S1 i-2, Plot 7-9

 (上記、「*」付の項目はリンクがある事を示す。)

  ウィリアム・クラーク・イーストレーク(William Clark EastlakeD.D.S.が日本へ来たのは万延元年(西暦1860年)だと伝えられている。この年の一月十九日に北米合衆国当局から渡航免状第一六九〇號(第八図、九図参照)の下附を受け、ニュージャージー州リヴァトンの開業を廃して、当時三歳のフランク・ワーリントン(Dr. Frank Warrington E.)(後の博言博士)と夫人アー・ヴァーノン・ローズ・イーストレーキ(Almira Vernon Rose E.)を同伴し日本に来たのである。この時、神奈川では開業らしき開業はしなかったが、兎に角、イーストレーキは外国人歯科医来邦の嚆矢にして、この年を以て一般に本邦の泰西歯科学発祥の年となす所以である。イーストレーキは英国王族ヨーク(York)家から起り、英国の国政に参画し、近世まで華冑に列したが、イーストレーキの父リチャード・ウィリス・イーストレーキ(Richard Willis E.)の代に故あって渡米し後、帰化するに至った。イーストレーキはニュージャージー州グロセスター県カルペンテスランヂング(Carpenter’s Landing, Gloucester County, New Jersey)で天保五年(1834年)三月二十五日に生れた。イーストレーキ一家が渡米後は、英国に残して来た財産は、帰化と共に英国政府に没収するところとなり、加うるに南北戦争等の影響を受けたのか銀行の破綻相次ぎ、為めに富を減じたが、それでも貴族的な環境に青年となった。この頃の米国は、内部的には州を拡大して南と西へ国勢を張り、宗教団体は、外国伝道会社を擁して未開地への基督教布教に狂奔した。自然科学者は亦、東洋の未開地の開拓(征服)に熱心であったから、W.C.イーストレーキは早くから歯科医術を修め、その傍ら動物学を研究し、両道によって雄飛せんことを期していた。イーストレーキは十八歳の頃、既に一人前の歯科医術家として立ち、独立生活を立てていたが、1855年(安政二年)111日、フィラデルフィアの教会で、エー・エー・ウィリス牧師の下で、アルミーラ・ヴァーノン・ローズと結婚した。この時、夫妻共に二十二歳だった。このローズ夫人は又ニュージャージー州生れのドイツ系の貴族の出で、四人兄弟の二番目で、デラウエア州のイルミントン大学卒業の文学士であった。子弟教育に熱心で、詩をよくし、文章に長じ、加うるに美貌の賢夫人だった。このローズ夫人と結婚後、ニュージャージー州カムデン(Camden)市で開業したが、1856年(安政三年)716日に長女エウヂニア・ヴァーノン(Eugenia Vernon E.)を早産し、生後僅か二時間の夭折に落胆した。次の長男妊娠に際しては、カムデン市の郊外リヴァトンに転じ、ここで長男フランク(Frank Warrington E.)を1858年(安政五年)122日に挙げ、平和な生活を経た三年後は、東洋への渡航を祈ったのである。

  1858年(安政五年)、米国と日本との間に通商条約が締結され、待期していた外国人は直ちに日本へやって来た。外国伝道会社は日本通商直後、在支のウィリアムス(Dr. Willis Williams)が長崎に来り、帰支後、牧師サイル(Mr. Syle)及びウッド(Henry Wood)と協議し、米国の聖公会(Episcopal)長老教会(Presbyterian)改革教会(Reformed)の伝道局に各々宣教師派遣を要求し、更に英語や科学、殊に医療の普及が伝道の端緒を得る最良策である事を進言して来たので、北米長老教会は、1859年(安政六年)1018日にヘボン夫妻(J. C. Hepburn M.D.)を、改革教会は、同年111日、ブラウン夫妻(Re. V. Samuel R. Brown)及びシモンズ夫妻(D. B. Simmons M.D.)を神奈川に上陸せしめ、又改革教会のフルベッキ(Rev. Guido F. Verbeck)を117日、長崎に上陸せしめた。このヘボンとシモンズは共に立派な医師で、ブラウン、フルベッキも亦第一流の教育家で宣教師である。

  米国が斯く第一流の人物を我邦に向けたことは卓眼といわねばならぬ。以降、渡来の宣教師の何れもが、同様の方針によって人選されたが、本邦に歯科医として一番乗りをしたイーストレーキの如きも第一流の人格と教育を擁していた人物といってよいのではある。なにせ、三百年の鎖国を太ぶったばかりの日本だが、蘭学を通して泰西科学は日本国民の上層には著しく浸潤していた。殊に尊皇攘夷に国論は沸騰し、加うるに泰西思想及び科学者の舶来があって、騒然たる時代であったから、外国人の在邦生活も容易ではなかった。然るに各国は有利なる経済国交を夢み、競うて来航した。よりよき提携を念じて第一流人物を吾邦に送ったことは、それだけ吾邦の思想的な収穫も大であったというべきである。

 イーストレーキの本邦渡来の動機については知るよしもないが、東洋の博物学方面の究明と歯科医術を以て未開地の開拓に熱烈な思慕があったことは想像される。かくして万延元年(1860年)イーストレーキ夫妻が、神奈川に入港したのであるが、開港間もない時代の神奈川(横浜)には外国人が僅かに百数十名在住するに過ぎざる状態で、永住的開業は到底不可能だったと思われる。従って入港間もなく支那へ再航、香港に根拠を定め、上海、北京その他へ出張しながら泰西歯科医術を普及し、その余暇に貝類ならびに昆虫を採集した。然し歯科医開業では甚大な収穫を納めていたのである。

 (続く)

『歯科医事衛生史』前巻の第一遍「外人歯科医」から始める。 

 本文の前に。読んで判ったのだが、写真にもある様に、シーボルトが歯科医学を我国に紹介した嚆矢(最初の人)である可能性がある。実に興味深い。また、維新以前の歯科医師が、写真の説明文にある様に、全く社会的地位が無かった事には、予想はしていても驚く事だ。外国人歯科医が、当初、我国に定住しなかった理由かもしれない。

 また、東京帝国大学に歯科が新設されたのは、明治30年(1897)頃であったようで、この時、耳鼻咽喉科と整形外科も新設されて居る様だ。読み進める中に、この辺りの事情が明らかになるのではないかと思うのだが、その後の医学史を考える場合、実に興味深い事実である。 

歯科医事衛生史』(前巻)

【緒言】

  我国に泰西歯科学が渡来した経路を按ずるに、

第一、   支那を介して漢学によって東漸したもの。

第二、   外国人、殊に葡萄牙人和蘭人等によって、所謂南蛮医学或は蘭医学の一科として東漸したもの。

第三、   外国人歯科医によって、直接本邦に紹介されたもの。

第四、   外国に在った日本人が、歯科医術を修得帰国して本邦に紹介したもの。

の四つを考えることが出来る。

 第一の支那を介して東漸せし事実に就ては、支那の口科書の発達によって之を説明し得ると同時に、本邦ぬも早くから之が輸入され口科医に伝えられたことは想像される。

 第二の外国人医師によって医科の常識が紹介され、殊にシーボルトの如き外科に長じたものは外科的歯科処置をよくした。在来の口科医が、是等の洋方医術によって蒙を啓かれた点は相当に多い。

 第三の外国人歯科医から直接紹介された点は最も大なるものであって、記録によれば万延元年(1860W.C.イーストレーキが横浜に来たのを以て嚆矢とする。次で、レスノー、ウィン、アートラック、エリオット、パーキンス、アレキサンドル、ギュリッキ等が記録に見える。

 レスノーに関しては、慶應二年五月七日、同月二十七日及び八月二十五日の三回「海外新聞」に次の広告を見る、蓋し本邦に於ける泰西歯科医の広告としての嚆矢であろう。

 

(註1)泰西:    西洋の事。

(註2)葡萄牙人:ポルトガル人

(註3)和蘭人:  オランダ人

(註4)南蛮医学:西洋医学(洋学)

(註5)蘭医学:  オランダ医学(蘭学)

(註6)東漸:    だんだんと東洋に拡がる

(註7)支那:    チャイナの漢訳語

(註8)口科書:「口科」は、口腔外科の事と思われる。ただし、この辺りは専門の分野になるので、取りあえず措く。

(註9)(外人歯科医):各外人歯科医に関しては、それぞれの項を参照。

(註10)海外新聞:ジョセフ・ヒコ(濱田彦藏)の『海外新聞』は、岸田吟香の援助で、元治元年(1864)に発刊された。浜田彦蔵は、幼名を彦太郎、通称を「アメ彦」と言われた。天保8821日(1837920日) - 明治30年(1897年)1212日)尚、当時の新聞広告に関しては、次の文献に詳しいので紹介する。

 http://www.yhmf.jp/pdf/activity/adstudies/vol_09_01_02.pdf

 (写真及び解説)

 
(本品は西暦1823年(文政6年)8月、シーボルト(独人)が持って来た愛用の抜歯器である。これがシーボルトの愛児に残され今は長崎図書館に珍蔵されている。) 

 是等の外国人歯科医中、アレキサンドルが一人仏国であるのみで、他は何れも米国人である。日米通商条約締結後、イーストレーキ先ず神奈川に来たが、歯科を永く開業するに至らず香港に再航した。ヘンリー・ウィンも亦日本に業を開かず、香港に行って開業し、後年、横浜に出張所を出し毎年来港した。兎も角、明治前は横浜も未だ外国人歯科医の永続的開業を許す程度には開化していなかったのであるから、恐らく数ヶ月の出張的開業を以て事足りたもののようである。

 (写真及び説明文)

W.C.イーストレーキの蔵した日本風俗写真帳に当時の横浜街頭の歯科医の写真を揚げ、次の英の説明が附されている。)

英文の大意(拙訳、ご容赦)

旅する歯科医

 この愛すべき人物は、立派なあごひげを愛でる数少ない日本人の一人だが、横浜では知らぬ人の無い人で、歯科医を兼ねた足専門医としての治療は、外国人の間でも著名である。

 当時の歯科医は、大道芸人や占い師と同様で、様々な治療薬をお守りと同じように売ったり、抜歯や魚の目の切除の仕事が無ければ、刀の飲み込んだり、詐欺師紛いのトリックで子供相手に身をやつし、日々を送っている。使用する歯科器具はと言えば、原始的な代物で、苦痛の高にに見合う程度のもので、まあ料金もその程度だ。

  又これ等の外国人歯科医の日本へ渡来せし動機は全く不詳であるが、エリオットの如きは支那が有望なるを知り支那に於て開業の考えなりしを、横浜の同胞が引留め開業せしめたという。ウィンは伯父の宣教師S.R.ブラオン(ブラウン)博士が横浜に居たためだし、ギュリッキは父母に兄二人姉一人が神戸に居たのだから、之等の在留同胞の誘致が来航の動機となりしは想像される。

 次にW.C.イーストレーキ、ヘンリー・ウィン、セントジョージ・エリオット、ハラック・マンソン・パーキンス、ペー・アレキサンドル、ギュリッキ等、稍々判然としている外人歯科医の小伝を揚げることにする。

 (註11S.R.ブラウン:  詳細に関しては、ウィキペディアを参照。

 以上、「緒言」

 「広田直三郎」に付いて書く前に、羽石重雄の卒業した「修猷館」の同級生の概要をまとめておきたい。

 羽石重雄は、明治23年、中学「修猷館」の第三回卒業生である。この年の卒業生は44名。内、第五高等中学校(熊本)に進学したものは、羽石を含め9名である。その内訳は、医科2名、本科法学科2名、同文科1名(羽石重雄)、同理科2名、同工科1名(理科から工科へ転入)、予科甲1名だった。因みに、第一回卒業生は、4名、第二回、16名、羽石の次の年の卒業生は、24名だった。

 また、第一回・第二回卒業生の概要に付いては、下記の通り。

〇第一回卒業生(明治21年)
 大島鳴海 → 第一高等中学校英法科、明治26年7月卒
 時枝誠之 → 「誠之」名では無いのだが、「萬龜」の名前が、上記大島と同期にある。
        但し、これが同人であるかは不明。
〇第二回卒業生(明治22年)
 現在確認できたのは、次の三名
 川口虎雄、不破熊雄、三根正亮
 で、共に第五高等学校本科卒業(明治25年7月)、東京大学工科大学に進学している。

 以下、「広田直三郎」について、

 第五高等学校一覧によると、広田直三郎は「福岡平民」とある。しかし、先の様に、「修猷館」の卒業生に記載がない。この事から、現在の福岡市以外の出身の可能性もある。この件に関しては、追って調べたい。尚、書き方を少々変更し今回は、資料が断片的なので羅列的の紹介する。

〇在学時代: 広田直三郎は、五高の機関誌『龍南』に四回に亘り、『英国女皇ヴィクトリア陛下伝』(G.バーネット)を翻訳、掲載している。尚、このバーネット作の該書籍を検索するが、今の所、発見していない。因みに、バーネットと言えば、バーネット夫人の『小公子』など想い出すのだが、関連は不明である。以下、その概略。


『龍南』に「英国女皇ヴィクトリア陛下伝」を掲載。
 明治24年(
1891)11月26日刊、第1号4043ページ
 明治25年(1892)  1月25日刊、第3号(第二)
   同年       3月20日刊、第5号、同(第三)
            5月20日刊、第7号、同(続き)、がある。

〇明治31年7月東京帝国大学文科大学史学科卒業。

*経緯は不明だが、広田直三郎は、同期入学生より一年遅れて卒業している。
*同年史学科の卒業生に、旧制山口県立岩国中学校初代校長であり、旧制新潟県立長岡中学校第16代校長・橋本捨次郎がいる。因みに、羽石重雄は、岩国中学第三代校長である。(羽石は、この後、柏崎中学第4代校長として初めて新潟の地を踏むことになる。)また序に記すと、山口県萩中学校初代校長・雨宮厚太朗は、同史学科明治30年卒であり、羽石重雄は、萩中学第三代校長である。

〇明治33年(1900)5月、広田直三郎編『中学西洋歴史』を出版。
出版元は来島正時。

〇朝鮮研究会刊『荘陵誌・平城続志』に記載。
(京城朝鮮研究会、明治44年(1911)年4月)巻末所載の一覧よると、評議員として、総督府中学校教諭として、広田直三郎の名前が見える。

〇大正2年(1914)4月、釜山(現在の韓国・釜山)中学校初代校長に就任。

〇大正4年(1915)、広田直三郎著『寒灯夜話』を出版。
   出版元は、先と同じ来島正時とある。

大正9年(1920)、マキアベリの『Dell’arte della guerra』の翻訳『兵法論』(興亡史論刊行会)を出版。因みに、この本は、浜田幸策訳『戦術論』として再訳され岩波文庫に収蔵された。

〇大正11年(1923)4月8日~昭和3年(1928)8月23日、旧制長崎中学第10代校長。
 在任時代の昭和3年(1928)5月刊『長崎談叢』第一輯巻頭に、「島原乱原城攻防雑記」の記載がある。

*旧制長崎中学初代校長は、旧制新潟県立長岡中学校第12代校長(明治26年~同31年)は、仙田楽三郎である。因みに、仙田楽三郎は、その後、島原中学校初代校長を務めている。尚、仙田楽三郎については、出身校等、前期の経歴が不明であり、調査中だ。

○昭和6年(1931)4月1日、東京鉄道中学校(芝浦工業大学の前身)第5代校長に就任。

 以上、現在まで確認できた「広田直三郎」の略歴である。

 尚、何方か「広田直三郎」に関して、お知らせ頂ければ幸いである。

Best regards
梶谷恭巨



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1947/05/18
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