毛利家第二世代
〇親廣 左近將監 遠江守 民部少輔 武蔵守 蔵人 正五位下
入道號蓮阿
鎌倉右府につかへ、右府事あるとき其悼にたえずして入道し、すでにして京畿の守護となり、承久三年官軍にくははり、北条義時をうたんとす。六月十四日、宇治勢田の戦ひ敗れしかば逐電す。
《鎌倉右府(実朝)に仕えていたが、実朝暗殺事件を憂慮して出家したが、この時、京畿(畿内あるいは近畿)を守護する立場にあり、承久3年(承久の乱、1221)、官軍(後鳥羽上皇)の北条義時追討に参戦するが、宇治勢田で6月14日の幕府軍に敗北し、落ち延びて身を隠した。》
【註】右府: 右大臣。この場合、源実朝のこと。
承久の乱: 鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。
【補注】『中鯖石村誌』には、親廣の後、佐房→佐泰(上田)と続くのだが、出典が不詳。ただ、藤原(洞院)公定による通称『尊卑分脈』、正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(また『諸家大系図』あるいは単に『大系図』とも呼ばれる)によれば、
●佐房(すけふさ)左近将監 尾張守 正五位下 →
〇廣時 木之助 法名順阿(この家系は、長く続く。)
〇隆元 修理亮 木工助(以下不祥)
〇隆時 修理亮(以下不祥)
●佐泰(すけやす)上田太郎 →
〇佐時 尾張守 從五位下(この家系は、次の代後不祥)
〇長廣 弥次郎(この家系は、後二代続く。)
●泰廣(やすひろ)又太郎 (後、子(盛廣、泰元)の代まで記載、尚、この人物には、撰者が注目した以下のような記載がある)弘安八年十一月十七日奥州禅門合戦之時討死二十二歳《弘安8年(1285)11月17日、奥州、禅門の合戦で討ち死にした。年22に歳》ところが、ここに問題がある。弘安8年11月17日の合戦とは「霜月騒動」であり、「禅門之合戦」とは正応6年(1293)4月22日に起った内管領・平頼綱(禅門)の乱である。この2つの事件は、得宗家北条氏を揺るがす事件なので都にも伝わったのだろうが、伝聞情報なので、洞院公定も勘違いしたのではあるまいか。あるいは、出版時(吉川弘文館)の誤植かも知れない。
後年、旧萩藩編纂所の時山弥八の編纂した『もうりのしげり』に掲載された「毛利家系図」によれば、「久我(村上源氏、土御門)通親の猶子と為る」とある。余談だが、この弥八の父は、戊辰戦争・長岡藩との「朝日山の戦い」で戦死した奇兵隊の時山直八の子息である。また、吉田松陰の『松下村塾』で学び、松陰に「中々の奇男子なり、愛すべし」と評されたと云う。
〇時廣 蔵人 左衛門尉 從五位上 長井入道と號す。
關東の評定衆たり。
今の永井信濃守直方が家祖、右近大夫直勝東照宮の仰せにより、平氏長田の流をあらため、時廣が流の氏を冒し、家號も永井を称す。その世系は下に見えたり。
《今(寛政年間)の永井信濃守直方の家祖(永井宗家第九代、大和新庄藩一万石第五代藩主)で、右京大夫・直勝(譜代、永井宗家初代、上野小幡藩一万七千石、常陸笠間藩三万二千石、次代尚政の時、下総古河藩七万二千石)は、東照宮(徳川家康)の命で、平氏系長田姓から改めて、大江時廣の系統の姓である長井としたが、この時、苗字も永井とした。その家系については、大江氏系永井氏(巻619)に続く。》
【補注】詳細は省くが、この家系に連なるのが、作家、永井荷風、三島由紀夫である。
〇正廣 初、宗光 宗元 判官代 掃部助
寛永系圖、正廣に作る。那波を稱す。
【補注】那波姓は、上野国那波郡(現・群馬県伊勢崎市、佐波郡玉村町)に由来する。
〇女子 高(高階)刑部惟長が妻。
【補注】『尊卑分脈』には、刑部丞とあり、付記に「為足利庄依義兼申遣自右大将為御史奥州忍郡給之」とある。《内容としては、足利義兼のに従い奥州藤原氏討伐の功で右大将(頼朝)から奥州忍(信夫)郡の御史(地頭)に任命され、そこを領地として与えられた、という事か。》
髙階惟長は源平合戦(治承・寿永の乱)では源氏に味方して、後に陸奥国信夫郡地頭職となり、大江広元の娘を妻とした。鎌倉時代に入ると高階氏は足利氏に仕え、高師泰・高師直兄弟の曽祖父である重氏の頃に名字を高氏と改めた。(ウィディペキア)
●季光 四郎 左近將監 蔵人大夫 安藝介 從五位下
入道號西阿
鎌倉右府につかへ、父廣元が所領の地所々にありといへども、相模國愛甲郡毛利の庄は本領たるによりて、季光これを領し、その地によりて毛利を稱し、關東評定衆の列たり。建保四年十二月十四日左近将監に任じ、五年二月八日蔵人に補し、四月九日從五位下に叙す。承久元年正月二十七日右府ことあるののち出家し西阿と號す。三年六月北条泰時にしたがひ一方の大將となりて大軍を率ひ京師を攻、淀芋洗等の要害をやぶる。寶治元年六月五日三浦若狭司泰村謀反して鎌倉の營を襲はむとす。季光軍兵を引率して營にまいる。季光が室は泰村が妹なり。鎧の袖をひかへていふ、今親戚のしたしみをすて、北条が權勢にくみしたまふはもののふの本意にあらずと、しきりにこれをはづかしむ。季光にはかに心變じて三浦が陣にくははり、終に敗軍して法華堂に入、泰村等とともに自害す。年四十六。室は三浦駿河守義村が女。
《季光は、鎌倉右府(実朝)に仕え、父の広元の領地があちこちに有ったが、相模国愛甲郡毛利庄が本領だったので、ここを自分の領地とし、この地名を取って毛利と称して、関東評定衆の一人となった。建保四年(1216)12月14日、左近将監に就任し、同5年(1217)2月8日、蔵人、同4月9日、従五位下に叙せられた。承久元年(1219)正月27日、右府(実朝)が公暁により暗殺され、その後、出家して西阿を号した。同3年6月、北条泰時に従い、一方の大将として大軍を率いて京都を攻め、淀、芋洗等の要害を陥落させた。(承久の乱)宝治元年6月5日、三浦若狭守泰村が謀反して鎌倉幕府を襲おうとした。季光は、兵を率いて幕府に向う。しかし、季光の妻は泰村の妹だった。その妻は、鎧の袖を引いて、「今、親戚の縁を棄てて、北条執権に味方するのは、武士としての本文ではあるまい」と、しきりに夫である季光を辱めた。季光は、ここにおいて決心を変え、三浦方に味方して幕府軍に破れ、法華堂に逃げ込んで、三浦泰村の一族郎党と共に自害した。享年46歳。》
〇女子 飛鳥井(藤原)宰相雅經が室。
【補注】『尊卑分脈』によれば、藤原雅経は、京極摂政・師実公流難波流の従三位・参議とあり、飛鳥井家の家祖である。師実公流伽羅は、花山院・大炊御門・難波の各流が生まれている。
〇女子 (中原)大外記師業が妻。
【補注】『尊卑分脈』によれば、中原師業(ものなり)は、大外記・正五位上とあり、中原氏の嫡流に連なる。
〇忠成 蔵人 左近將監 刑部少輔 從四位下 號海東判官
關東の評定衆たり。
【補注】『尊卑分脈』によれば、上記に記載のない官位として左衛門尉がある。また、「海東判官と号す」の他、「続古今・玉葉等作者」とある。また、孫・広茂(稲葉守、父は、美濃守・従五位下忠茂)に「新後撰(新後撰和歌集)・続千載(続千載和歌集)・続後拾(続後拾遺和歌集)・新千載(新千載和歌集)等之作者」とある事から和歌集に掲載された事が判るのだが、不祥。更にその子である廣房(左近将監。刑部少輔)も、「続千(続千載和歌集)・続後拾(続後拾遺和歌集)・新千(新千載和歌集)・新拾(新拾遺和歌集)等作者」とあり、親子供に歌人であったようだ。
〇尊俊 大僧都
【補注】この人物に関しては、不祥。
〇重清 右兵衛尉 伊賀守 水谷を稱す。
実は大藏大輔重保が男、廣元が猶子となる。
寛永系圖正五位下重清とし、水谷伊賀守某が猶子となるといふ。
《実は、大藏大輔・重保の子息で、広元の猶子となった。しかし、寛永系図では、正五位下・清重とあり、水谷伊賀守某の猶子となったとある。》
【補注】前世代の末娘「大蔵大輔・重保が女」の條を參照。
〇女子 寛永系圖に、贈内大臣義朝が室とせり。今の呈譜に重清が妹ありといへども、義朝が室たること詳ならずといふ。
《寛永家系図には、贈(没後に内大臣を追贈された)内大臣・義朝の正室としている。しかし、『寛政重修諸家譜』の編纂時に提出された家譜には、重清の妹だったとあるが、義朝の正室であったという事は、確かではない。》
【補注】「贈内大臣義朝」と云う記載は、『平家物語』(巻12)「紺掻之沙汰(こんがきのさた)」(日本古典文学大系・岩波書店)に「故左馬頭義朝の墓へ内大臣正二位を贈らる」とあるが、その註に、『尊卑分脈』にも「贈内大臣正二位」とあるが、明らかでない、とある。因みに、『尊卑分脈』には、「贈内大臣藤原義朝娶」とある。
〇女子 (藤原)大納言公國(寛永系圖、実國)が室。
【補注】『尊卑分脈』には、「権大納言藤原実国娶」とある。また、実国については、閑院公季流滋野井系に「実国、正二・権大納言、滋井と号す」とあり、その末流にも権大納言実国がある(もう一名あるが、これは官位等の記載が無く別人と思われる。しかし、「大納言公国(きんくに)」については、同書に藤原系6名の記載があるが、大納言とあるものが無い。