柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
第四節 領主 當地方ノ往古ノ領主ハ知ルノ途ナシ只王朝ノ末六條院ノ私領ニシテ鎌倉時代ヨリ吉野朝時代ニアリテハ毛利氏ノ領有セルコトハ前節鯖石庄ノ項ニ述ベタル如シ貞治参年上杉憲顕子憲栄ノ越後ニ封ゼラルヽヤ慶長三年景勝ノ會津ニ移サルヽ迄全国ハ上杉氏ニ統一セラレ他ノ族ヲ混ズルコトナシ当善根加納與板宮平モ其領ニ属セル 勿論ニシテ我領主ノ衰盛ヲ探グルモ又興アリ越後上杉氏ノ系譜ヲ左ニ挙グ 北條氏相模ニ勢力ヲ有セシヨリ山内家「遂ニ」上野ニ留マルアタハズ憲政文書家寶ヲ携ヘテ越後ニ奔リ家名ヲ越後上杉ノ宰長尾景虎(後ニ輝虎ト改名シ謙信ト号ス)ニ譲リ託スルニ後讎ヲ以テス景虎上杉氏ヲ冒シ越後守トナル時ニ越後上杉ニハ定實アリテ春日山ニ住セシガ後上杉景勝兄景虎ト家ヲ争フニ及ビ定實景虎ニ味方シテ其ノ家遂ニ滅ブ長尾上杉氏系譜ヲ左ニ挙ゲ仝好ノ士ノ参考トス 景勝ハ長尾政景ノ子上杉謙信ニ養ハレテ其嗣トナル初メ謙信越後越中ノ半ヲ景勝ニ与ヘ能登佐渡ヲ景虎ニ与フ 謙信卒スルヤ両子相争フ景勝遂ニ景虎ヲ仆シ全土ヲ領ス慶長三年正月豊臣秀吉ノ為メニ會津百二十万石ニ転封セラレ秀吉薨后関ケ原ノ役ニ関スル故ヲ以テ米沢ニ移サレ三十万石ニ削ラル 慶長三年堀左衛門督秀治上杉氏ニ代リテ越後ヲ領シ越前北庄ヨリ春日山ニ移ル食封三十万石頸城魚沼刈羽三島ハ総テ其ノ封内ニ帰セバ当地方モ勿論堀氏ノ治下ニ属ス 慶長三年堀氏封内ノ田畑屋敷ヲ検ス時猶旧法ニ因リ三百六十歩ヲ一反トシ其ノ小割ニ百四十歩ヲ大百八十歩ヲ半百二十歩ヲ小トス 慶長十一年秀治卒シ嗣子忠俊封ヲ襲ヒ越後守トナル 慶長十二年徳川氏天下ニ令シテ山城ヲ毀タシムルニ及ビ堀氏春日山ヲステヽ直江津近傍春日新田ニ福島城ヲ築キ従リ治ス慶長十五年二月忠俊事ニ座シ国除カルニ因ツテ松平上総介忠輝(東照公第七子)越後ニ封ゼラレ信濃国川中島ヨリ福島城ニ従リ治ス食封六十万石本村其ノ封内ニアル故ノ如シ忠輝慶応十七年高田城ヲ菩提原ニ築ク仝十九年三月徳川氏諸侯伯ニ命ジテ高田築城ノ役ヲ助ケシム松平陸奥守政宗台命ヲ奉ジ其臣片倉小十郎縄張普請奉行ニハ瀧川豊前守伊藤右馬允山城宮内等ナリ高田城ヲ一ニ鮫城或ハ法螺城ト呼ベリ竣リテ忠輝卿之ニ従ル 元和二年四月松平忠輝罪アリテ国除カル仝年酒井左衛門尉家次上野国高崎ヨリ高田ニ移封セラレ十万石ヲ食ムト雖モ当地方ハ酒井氏ノ封内ニ属セズシテ仝年牧野駿河守忠成上州大胡ヨリ長峰ニ移封セラルヽニ及ビ加納與板宮平ハ其封内ニ入ル善根ハ御料ナルヲ以テ之ニ関セズ長峰城ハ潟町上下濱直海濱ノ東ニアリ今日尚畳址邸跡ノ辨ズベキモノアリ 元和四年三月牧野忠成長岡ニ移封セラレ元和五年松平伊豫守忠昌(家康ノ孫越前中納言秀康之子)酒井忠勝ニ代リテ信濃川中島ヨリ高田ニ移封セラレ二十四万石ヲ食ムニ及ビ酒井牧野ノ領地其封内ニ入ルヲ以テ加納與板宮平ハ松平忠昌之領トナル寛永元年三月松平忠昌越前福井ニ移リ松平仙千代丸高田ニ封ゼラレ其封地前ト異ルナシ 仙千代丸父ハ秀康公長男忠直卿母ハ徳川秀忠三女後ニ越後守光長又ハ三位中将光長ト称ス 天和元年六月松平中将光長甥綱国罪アリ国除カルヽニ及ビ仝月幕府高田ヲ以テ番城トナシ松平大藏大輔榊原式部大輔(村上城主)牧野駿河守(長岡城主)溝口信濃守(新発田城主)在蕃セリ本郡ハ御用掛代官岡登次郎兵衛之ヲ支配シ加納宮平與板善根ハ其下ニ属ス 銅輸送の効率化では、大間々-平塚河岸間に最短ルートとなる、笠懸野の原野を縦断するルートを新たに設け、現在の太田市大原町に本町宿をつくりました。景能は、本町宿に水を引くため、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削も行いました。この笠掛野御用水は、宿用水としてでなく、笠懸野の原野に新田を開発することも目的とされ、笠懸野には、本町村のほか久々宇村・桃頭村(笠懸町久宮)などの新田村がたくさん生まれることになりました。 このように数々の業績を上げた景能でしたが、幕府から罪を問われ切腹を命じられました。景能の墓は、国瑞寺に置かれ、景能は現在も笠懸野の住民の尊敬を集めています。 明治に至り、景能の開削した笠懸野御用水は流路を変えて「岡登用水」として再興されました。(群馬県みどり市の公式ホームページより転写) 此ノ時代ニアリテハ領民ヲ三分シテ御天領又ハ「御」料所御預領御私領トス御天領ハ幕府直轄ニシテ代官支配ニ係ルモノナリ次ニ御預領トハ幕府直轄ナルモ地方大名ノ之ヲ預ケ支配スルモノナリ次ニ御私領ハ大名ノ領民タリ而シテ互ニ相羨ミ相卑ミ甚シキハ婚嫁ヲモ通ゼザルニ至レリトイフ 貞享三年稲葉丹後守正通相州小田原ヨリ十一万石ニテ高田ニ移封セラル加納與板宮平ハ其封内ニ属シ善根ハ御天領ナルコト故ノ如シ 元禄十四年稲葉丹後守正通下総佐倉ヘ徒リ戸田能登守忠実(松平忠昌ノ二男)下総国佐倉ヨリ高田ニ移封セラルヽニ及ビ加納與板宮平ハ其封内ニ入ル 《元禄14年(1701)、稲葉丹後守正往が下総国佐倉(10万2千石)へ移封となり、戸田能登守忠実(松平忠昌の二男)が下総国佐倉(7万1千石)から入れ代りに高田(6万8千石)に移封された。加納・与板・宮平は、その封内に入った。》 寶永七年松平越中守定重伊勢桑名ヨリ高田ニ移封シ十一万石ヲ食ム加納與板宮平ハ其封内ニ属ス 因幡守貞遠 越中守定儀 越中守定賢ノ四代高田居城寛保元年十一月定員奥州白川ニ移封セラレタリト雖モ加納與板宮平及ビ善根半部ハ依前松平家領タリ 文政六年松平越中守定永白川ヨリ勢州桑名ニ移封セラレタリ当村ハ従前ノ通リニシテ明治元年ニ至ル 領主ノ節終ルニ臨ミ加納與板宮平ノ永ク関係ヲ有セシ松平家ノ系譜ヲ記ス 越中守定治―摂津守定良―越後守定重(高田在城)―因幡守定達―越中守定輝 越中守定治: 「定治」の名前は久松松平の系譜に見当らない。定綱の間違いではないだろうか。 摂津守定良(さだよし): 定綱系久松松平家2代、伊勢桑名藩主。父・定綱は下総山川藩、常陸下妻藩、遠江掛川藩、山城淀藩、美濃大垣藩、伊勢桑名藩の各藩主。 越後守定重(さだしげ): 定綱系久松松平家3代(養嗣子)桑名藩主→高田藩主。伊予国松山藩主・松平定頼の三男。 因幡守定逵(さだみち): 定達とも書く。定綱系久松松平家4代、高田2代藩主。高田藩初代藩主・松平定重の五男。 越中守定輝(さだてる): 定綱系久松松平家5代、高田3代藩主。 越中守定儀(さだのり): 定綱系久松松平家6代、高田4代藩主。松平定重の六男。甥定輝が早世したため跡を継いだ。 越中守定賢(さだよし): 定綱系久松松平家7代(養嗣子)、高田5代藩主→白河初代藩主。陸奥守山藩主・松平頼貞の六男。 越中守定邦(さだくに): 定綱系久松松平家8代、白河2代藩主。 越中守定信(さだのぶ): 定綱系久松松平家9代(養嗣子)、白河3代藩主。8代将軍・吉宗の孫、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男。第11代将軍・徳川家斉の時、老中首座として「寛政の改革」を断行した。 定永(さだなが): 定綱系久松松平家10代、白河4代藩主→桑名初代藩主。 定和(さだかず): 定綱系久松松平家11代、桑名2代藩主。 定猶(さだみち): 定綱系久松松平家12代、桑名3代藩主。 定敬(さだあき): 定綱系久松松平家13代(養嗣子)、桑名4代藩主。美濃国高須藩主・松平義建の八男。尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主徳川茂栄、会津藩主松平容保、石見浜田藩主松平武成は兄。維新後、西南戦争に旧桑名藩士を率い従軍、兄・会津松平容保の跡を継ぎ日光東照宮宮司など。 定教(さだのり): 定綱系久松松平家14代(養嗣子)、桑名藩知藩事、子爵。第三代藩主・松平定猷の長男として生まれたが、幼少であり庶子であった為、第四代定敬の養子となった。家督は定敬の四男である定晴が婿養子となって継いだ。 定晴(さだはる): 子爵(養嗣子、定教の長女・栄子と結婚)、定敬四男。和雄は、養子になる前の名前。 定光(さだみつ): 楽翁・松平定信の自序伝『宇下人言・修行録』(岩波文庫の収蔵・初版昭和17年)の校訂を行なう。 |
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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