柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
第二 與板村
白川風土記ニ曰ク、與板ハ柏崎陣屋ヨリ卯辰ノ方二里十八町ニアリ、村長サ東西一丁許、南北六丁許、戸数五十七軒、向背等シカラズ、東ハ御料所善根村ヘ七丁許、西ハ久米村ヘ拾丁許、南ハ宮平村ヘ七丁許、北ハ加納ヘ七丁余、地界入リ交リ分明ニ記シ難シ、堰一ケ所、村ノ南十丁五十間、御料所石曽根村ノ地内ニアリ鯖石川ヲ堰グ参拾五間ニ株土俵ヲ以テ造ル、御料所善根村、当領宮平村ノ地内ヲ挽キテ当村ノ田所ニ灌グ 以上ハ白川風土記ヲ抜抄シタルモノナルガ其年代ヲ詳ニセザルヲ惜ム。幸ニシテ阪田一弥方所有ニカヽル観音堂土蔵中ヨリ寛政及文化ノ書上明細帳ヲ発見セリ、寛政三年ハ紀元二千四百五十一年ニシテ今ヨリ凡ソ百十年昔ナリ、其ノ重要ノ事項記載ス 《以上は、『白川風土記越後国之部』から抜抄したものだが、書かれた年代を明らかにしていたのが残念である。ただ幸いに、阪田一弥氏方に所有されている観音堂の土蔵から寛政と文化年代の「書上明細帳」を発見した。寛政三年(1791年)は皇紀2451年に当たり、今からおよそ110年昔のことだ。その中で重要と思われる事項を紹介する。》 【補注】白河藩の時代、刈羽五組制度が成立し、五大肝煎が各組に置かれる。柏崎市史(中巻第三章第二項「大肝煎・庄屋と郷(在)会所の変遷」1「大肝煎」)に、「鯖石組坂井・高橋・西巻の三大肝煎は変動することなく幕末を迎えた。これに対し上条組は、明和期(1764年から1772年)の記録で下組は関矢で変わらないが、上組は早くも飯塚弥兵衛に代わって宮川四郎兵衛となり、さらに文化期(1804年から1818年)には上組は山田健介(下山田)、下組は山田甚三郎(山甚・やまじん)が大肝煎となり幕末に至ったが、慶応四年に山甚が瀬下平七に代わっている。上条上組の大橋・飯塚は郷内出身であるが、宮川・山田はともに柏崎町商人である。また、下組の山田も柏崎町商人である。彼等は家業で蓄えた資本を農村に投下し、寄生地主となり、不在村居町の大肝煎に就任するのであるが、その農村進出は宝暦期(1751年から1764年)に増大している。(中略)なぜ上条郷だけが町人支配を受けたのか興味深い問題である。」とある。また、次の2「刈羽郡諸村の庄屋」に、加納村(源十郎・小左衛門)、与板村(平四郎・市郎大夫)、宮平村(権兵衛)の記載がある。
一、当村ヨリ松野山上田妻有魚沼海道筋ニ御座候 一、家数五拾七軒 一、農業外 男ハ正月ヨリ農出之節マデ農道具拵仕候 一、当村ハ蚕無之候 以テ鯖石川ハ今昔ヲ問ハズ灌漑ノ利ヲ与フト共ニ汎濫ヲ極メ人民ヲ害スルノ状、察セラルベシ 一、糀屋貮軒(こうじ屋二軒) 一、紺屋貮軒 (こん屋二軒) 一、鍛冶屋壱軒(鍛冶屋一軒) 與板ハ久野木郷ノ中心地ニシテ街道ニ沿フテ交通ノ便ヲ得コヽニ種々ノ営業職ノ存在スルモ理ナリ 一、地続隣村 西ハ久米村道法壱里山道ニ御座候 一、越後国之御下ニ 一、庄屋給米 四石八斗ニ御座候百姓割合而出シ候 一、組頭給米 七斗但シ百姓割合而出シ申候 一、仲便給米 壱石六斗但シ百姓割合貮人ニ而相勤メ申候 《この他、文化元年(1804)の書上帳には、領主の事が詳しく書かれているが、他の節に改めて記載する。その他、家数を57軒と記載し寛政との増減はなく、他も大差ないので省略する。》 |
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77
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誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
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歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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