○親元 四郎
○廣顯 五郎
『尊卑分脈』には、子として、●親顯○冬光の名前がある。
○貞繁
『尊卑分脈』には記載がない。但し、『稿本もりのしげり(毛利家関係文献)』(時山弥八編・大正5年)の「毛利家系図」には、記載がある。
毛利氏第六世代
○妙玄 僧となる。『寛永系図』、第四子に僧妙雲をかけて妙玄をいはす。同人なるべし。
『尊卑尊脈』には、「妙雲」とあり、「親茂」の次に記載。『稿本もりのしげり(毛利家関係文献)』(時山弥八編・大正5年)の「毛利家系図」は『尊卑分脈』と同じ。
●親衡 初、親茂 孫太郎 備中守 陸奥守 従五位下 入道号寶乗
『尊卑分脈』には、「陸奥守、改め親衡 法名寶乗 備中守と号す」とある。
元徳二年(1330、三月五日、祖父了禅、相伝の所領のうち安芸国吉田荘(吉田麻原[をはら])を譲りうく。元弘三年(1333、北朝、正慶二年)、後醍醐天皇、伯耆国船上(ふねのうへ)に潜幸のとき、一族ことごとく越後国にあり。親衡は安芸国に在邑せしかば、綸旨をたまふによりて船上にはせまいりて官軍にくはゝる。建武元年、親衡越後国にありといへども、千種忠顯が弟佐渡国司某とこころをあはせ宮方となる。延元元年(1336)十月、山門の宮方没落のとき、男元春、等持院尊氏より親衡が罪、恩免の御教書をまうしこひ、十一月、親衡、尊氏に降る。このとき男元春より麻原郷をうけて生涯の領知とす。正平五年(1350、北朝、観応元年)、足利直冬、築紫にをいて謀反のとき、親衡、宮方となりて、これに応ず。文中三年(1374、北朝、応安七年)、大内介弘世入道道階、安芸国に打入。ときに親衡をよび二男匡時、三男直元とともに宮方となり、道階に応じ、吉田麻原に五箇所の城郭を構へ、嫡男元春と相わかれて父子合戦にをよび、天授元年(1375、北朝、永和元年)八月、卒す。
○某 宮内少輔
『尊卑分脈』には、「親茂」の上、二番目に記載。『稿本もりのしげり(毛利家関係文献)』(時山弥八編・大正5年)の「毛利家系図」には、ただ「男子」とのみ記載。
○某 近江守
『尊卑分脈』には、「近江寺」とあり、一番に記載。『稿本もりのしげり(毛利家関係文献)』(時山弥八編・大正5年)の「毛利家系図」には、ただ「男子」とのみ記載。
毛利氏第七世代
●元春 初、師親 少輔太郎 備中守 右馬頭 従五位下 入道号元阿 母は三田入道某が女。
建武二年(1335)の春、曽祖父了禅、老衰せるにより、軍役をつとむることあたはず、髙尾張頭師泰に就て元春を代官として武家にまいらす。このとき元春元服して少輔太郎師親と名のる。(時に十三歳)八月、等持院尊氏、関東進発ののち元春所領安芸国吉田に下るいへども、すでに美濃判官全元、後醍醐天皇より、かの地の地頭職をたまはる。よりて其地をうしなひ、わづかに外祖父三田入道某をたのみて其国にあり。十一月、武田兵庫助信武、武家方に属し、同国矢野の城主熊谷四郎三郎入道覚を退治す。元春、信武と力をあはせ合戦し、且、全元が代官を追おとし、吉田庄をとりかへし地頭職に復す。のち其地の琴崎山に城を築いて、これに住し、のち又、其西北郡山にうつる。子孫隆元がときに至るまで居城とす。延元元年(1336)、京師にあり、正月、尊氏鎮西に下向のとき、命によりて、桃井修理亮直常が手に属し、安芸国にとどまる。五月、尊氏帰洛のとき、高師泰が手にありて軍忠をいたす。これよりのち師泰に属し、しばしば軍功をあらはす。六月晦日、曽祖父了禅辞して安藝国に下向のとき、在京の料として河内国吉田郷山田村をよび京都の宅地二所をゆづらる。興国二年(1341、北朝、暦応四年)、曽祖父が家督を継、正平五年(1350、北朝、観応元年)、足利直冬、築紫にありて謀反す。父をよび諸弟等これに与し、宮方の旗をあぐるといへども、元春独、師泰にしたがひ、石見国にをいて所々の合戦に軍忠を抽。中にも江河の先陣、世もってこれを称す。二十二年(北朝、貞治六年)、宝筐院(ホウキョウイン)義詮より本領安堵の御教書を下さる。建徳二年(1371、北朝、応安四年)、今川伊代守貞世入道了俊、探題となりて九州に渡海し、菊地以下の宮方を討。元春、命をうけて探題に属し、九州在陣七年の久しきにをよぶといへども一度も国に帰らず。所々にをいて軍功をあらはす。
『史料綜覧』(第六巻)「建武三年(1336)十月十二日」の条に、
「十二日、尊氏、義貞北国ニ赴クト聞キ、村上信貞、小笠原兼經等ヲシテ、之ヲ撃タシム、尋(つい)デ又、毛利元春ヲシテ、父親衡ノ越後ニ在ルヲ誘降セシム、(市河文書、毛利文書)」
『尊卑分脈』に、
「貞治五年、寶匡院殿義詮之時元春抽軍忠親父寶乗幷弟匡時直衡等為宮方元春独為將軍方此時毛利家安危未決以元春之軍功安堵畢」
〔貞治五年(1366)、寶匡院殿義詮の時、元春、軍忠抽く(ぬきんでる)。父親寶乗並に弟、匡時、直衡らは宮方の為、元春独り將軍方と為る。この時、毛利家の安危は未だ決せず、元春の軍功をもって、安堵におわんぬ。〕
◎『大日本古文書』「家わけ八ノ一(毛利家文書)」(5)「足利義詮御教書」に、
參御方、可抽軍忠之状如件
貞治五年九月二日 (足利義詮花押)
毛利右馬頭殿
*頭注「足利義詮、元春ヲ招ク」
◎同(6)「足利義詮安堵御教書」(切紙)に、
參御方致忠節者、本領不可有相違之狀如件、
貞治六年三月五日 (義詮花押)
毛利右馬頭殿
*頭注「足利義詮、元春ヲ招ク」
◎同(七)「今川了俊(貞世)預ケ狀」に、(但し、■は不明、[]は推測、[?]は辞書に無い漢字。)
■■■■■■■同國■■庄領家半濟、(■[毛]利大膳權[大][夫][知]行分)幷■立庄領家半[濟]事、爲所[々][兵]粮[?]所之替、所領置也、[任]先例、可致其[沙][汰]之狀如件、
應安七年八月五日 沙彌(今川了俊花押)
毛利右馬頭殿
*頭注「兵粮料所ノ替」
【補注】兵粮料所: 南北朝時代に幕府が軍勢発向諸国の本所領年貢を、1年を限って兵粮米にあてるよう指定した所領。年貢の半分をあてる場合が多いが、3分の1の場合もあった。南朝側の朝用分と対応した政策で、歴史的には、治承・寿永の内乱期の兵粮米を背景としたものである。1352年(正平7∥文和1)7月、幕府は近江、美濃、尾張3ヵ国の本所領年貢の半分を兵粮料所として配下の軍勢に預け置くよう守護に命じ、翌8月には伊勢、志摩、伊賀、和泉、河内の5ヵ国を加えて対象国を拡大していった。(平凡社『世界大百科事典』参照)
◎同(8)「室町将軍家(足利義満)御教書」には、
於九州所々致忠節之上、去月十二日渡筑後河、抽戰功之由、今河伊與入道了俊所注申也、尤神妙、向後彌可致軍功之狀、依仰執達如件
應安七年十二月廿四日 武蔵守(細川頼之花押)
毛利右馬頭殿
*頭注「足利義詮、元春ノ筑後川ニ於ケル戦功ヲ褒ス」
◎同(9)「今川了俊(貞世)自筆書狀」に、
(押紙)「今河伊與守了俊自筆也」
御代官目安一[見][候][了][且]加判形候事、如何と存候也、麻生山合戰事者、以御指南、大内ニ問答候て、入眼[候][き][大][内]すてニ歸國候了、難儀時分、城山陣取事、愚意[ニ][候][し][か(変体仮名)][と][も][諸]人可然申候處ニ、以御張行、彼山に(変体仮名)取移候、踏候き、筑後河度候て後、皆宇山ニ上事、肝要事候き、是又一向御張行候ツ、本折城ニ兵粮入候之事、以御意見沙汰、是又諸人存知事候、所隈陣取事、愚意通申候處ニ、御張行候、成功候了、水島引事、可爲夜陰之由、御一身御意見候之間、無相違候ツ、路々御同道候之事、皆人存知候、又藝州輩今度落上ニ御堪忍候、是又目出候、如此條々ハ(変体仮名)、中々御一見狀なとまても候ハ(変体仮名)ぬか(変体仮名)と存候、毎度愚意同心に(変体仮名)御張行候故に(変体仮名)、[口]遊もありし事に(変体仮名)て候しそか(変体仮名)し、此興候、度々京都ニも[申][入][て][候]間、可御心安候哉、恐々謹言
(永和二年)三月十一日 [沙][彌](了俊花押)
毛利右馬頭殿
*頭注「麻生山合戦」
*同2「城山ノ陣取」
*同3「本折城」
*同4「所隈ノ陣取」
*同5「水島ノ退陣」
*同6「今川了俊、元春ノ軍功ヲ認ム」
◎同(10)「今川了俊(貞世)擧狀寫(切紙)に、
毛利右馬頭元春申本領安堵事、可被經御沙汰候哉、於鎮西、自[?、ウ冠に取]前随分致忠節候之間、如此執申候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言
(永和二年)六月九日 沙彌了俊(御判)
*頭注「了俊、元春ノ本領安堵ヲ管領細川頼之ニ執申ス(シッシン、とりもうす)」
◎同(11)「細川頼之施行狀」に、
安藝國吉田庄地頭職事、任去貞治六年三月五日安堵御教書、可被沙汰付毛利右馬頭元春之狀、依仰執達如件、
永和三年七月晦日 (頼之)武蔵守(花押)
今河(了俊)伊與入道殿
*頭注「幕府、了俊ヲシテ吉田庄地頭職ヲ元春ニ付セシム」
◎(12)「室町將軍家(足利義満)下文」に、
(義満花押)〇以下(花押1)トアルモノ皆之ニ同ジ
下 毛利右馬頭元春
可令早領地安藝國吉田庄地頭職事
右、任曽祖父刑部少輔(時親) 法師(法名了禪)去建武四年正月十六日譲狀、可令領掌之狀如件、
永和四年七月四日
*頭注「義満、元春ヲシテ吉田庄地頭職ヲ領掌セシム」
○匡時 初め匡家 宮内少輔 大膳大夫 従五位下 毛利を称し、子孫、桂・坂・光永・志道・口羽等を称す。
○直元 初め直廣 直衡 越後守 毛利を称し、子孫にいたりて有富を称す。
毛利氏第八世代
●廣房 亀若丸 中務大輔 治部大輔
安芸国東西条の戦ひに討死す。
○廣内 初、實廣 三郎 兵部少輔 毛利を称し、子孫、麻原また門田を称す。
『尊卑分脈』には、「兵部少輔、麻原と号す。廣内と改む。
●弘親(兵部少輔)→廣顯(少輔三郎)
○廣國(常陸介)→●顯衡(少輔四郎 常山桂岳と号す)
○親心(ちかむね、宮内少輔)
○廣能→●秀元(少輔五郎)
○廣頼
○忠廣 左馬助 中馬を称し、後、長屋・平佐を称す。
○廣世 左近少監 長井掃部助貞廣が養子となり、猶、毛利を称す。
○元淵 子孫、小山を称し、又、福原にあらたむ。