柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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毛利氏第五世代

 

●貞親 次郎 左近将監 従五位下 入道号朗乗 母は長崎泰綱が女、亀谷局と称す。
建武元年(1334)、貞親、越後国にをいて阿曾宮の御謀反に与するのよしきこえしかば、勅勘をかうぶり、長井右馬助高冬にめし預けらる。延元元年(1336)、宮方に参り、山門遷幸のとき供奉し、還幸のとき出家し朗乗と号す。孫元春を憑(たの)みて安芸国に下向す。正平六年(1341、北朝、観応二年)正月卒す。
【補注】阿曽宮: 不詳。
【同2】長井右馬助高冬: 長井挙冬(ながい たかふゆ)、生没年:正和3年(1314年)-貞和3年(1347年)324日は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将・大江姓長井氏嫡流の当主、大江氏総領。通称は右馬助。(ウィキペディア參照)
◎『大日本古文書』「家わけノ一(毛利家文書)」(4)「毛利貞親自筆譲状」に、
譲與安藝國吉田郷者、自祖父寂佛之手、亡母(亀谷局)譲與、文永之譲狀、同副狀等在之、仍貞親
所譲給也、然者、先吉田郷計師親譲給者也、不可有他妨、有限年貢等可令進濟、仍譲狀如件、
〔安芸国吉田郷を譲与すは、祖父・寂佛の手より、亡母・亀谷局の譲与、文永の譲状、同じく副(添)状などこれあり、よって貞親に譲り給う所なり。然らば、先の吉田郷の計らいを師親に譲り給うものなり。他の妨げ有るべからず。限り有る年貢等、進んで済ませしむべし。よって件の如し。〕
    建武三年正月晦日      貞親(花押)
*頭注「經光、吉田郷ヲ亀谷局ニ譲ル」(尚、頭注は『大日本古文書』記載の頭注)
*同2「貞親、傳領シテ孫師親(元春)ニ譲ル」

◎『越佐史料』(第二巻)建武元年九月の条に、「是歳、毛利貞親、越後ニ於テ、大覺寺統ノ阿曾宮ヲ奉ジテ兵ヲ擧グ、仍テ、貞親、惣領長井高冬ニ預ケラル、尋デ、貞親ノ子親衡、佐渡國司千種某ニ從ヒ、越後ニ下向ス」とある。これに関して、『毛利文書』として、次に記載がある。
*頭注 「阿曾宮」
「元弘一統御代之時、建武元年元春祖父右近■■(大夫)貞親、於越後國、阿曾宮同心申御謀叛之由、就有其聞、蒙勅勘、惣領長井右馬助(高冬)ニ被預置畢」
【注釈】《元弘の南北統一の時代、建武元年(1334)、元春の祖父・右近大夫貞親は、越後国において、阿曽宮に同心(協力)して謀反したという風聞(噂)が都にまで届き、その為、勅勘(天皇からとがめ)をこうむり、一族の惣領(当主)である長井右馬助高冬に御預け(武家法における未決勾留・刑罰の1つで親族などの私人の元で拘禁状態に置くこと)にされてしまった》
「父親親衡、千種殿(忠顕)舎弟令同道佐渡國司■■(下向か)畢[おわんぬ]、其外了禪子孫悉令在國越後國畢、了■(禪)一人在京」
【注釈】《父親の親衡は、佐渡国司千種忠顕の舎弟に同道させ下向した。その外、了禅の子孫は悉く、越後国に在国させたが、了禅は一人京都に在った。》の意味と思われるだが、千種忠顕自身は、越後あるいは佐渡に下向した事実が無い為、「舎弟」を親衡の舎弟とも取れ、あるいは千種忠顕の舎弟とも取れ、浅学、本文記載の返り点(レ点、一二三点、上中下点、甲乙丙点)に従うと判読しがたい。中世漢文の読下しは難しい。
【注】千種忠顕: 千種 忠顕(ちくさ ただあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿(公家)。権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。官位は従三位参議、贈従二位。(ウィキペディア參照)
また、同史料に、『毛利文書』として、以下の頭注があり、次の文書が揚げられている。ただし、次にあげる『大日本古文書』には、同様の文書が無い。
*同2 「時親ノ子孫、越後ニアリ」および「足利尊氏ニ應ズ」
「建武二年冬、將軍家(尊氏)於關東御一統就御中違、海道御進發之刻、武田陸奥守(マヽ下同ジ)信武未爲兵庫助之時、自關東給御教書於安藝國、建■(武)二年十一月、捧御播(幡下同じ)於矢野城、令對治熊谷四郎三郎入道蓮覺之間、元春在國藝州、依爲幸、令同心(致合戦)、上洛仕、於京都、正月十六日、合戦以後、度度致忠節畢、武田信武者籠八播(幡)山、將軍御下向九州、之刻、桃井兵部大輔(義盛)殿未修理亮殿申時、藝州爲大將御留之間、属彼御手■(可)致忠節之由、就仰罷留、自九州待付御入洛申畢」
【注釈】《建武二年(1335)冬、関東において将軍家(足利尊氏)一統(武家方)で内紛があり、海道(東海の大道)を進発(出発)した折、未だ兵庫助に就任していなかった武田陸奥守信武は、安芸国で関東より御教書を給わり、建武二年十一月、矢野城において御旗を奉じて、熊谷四郎三郎入道蓮覚を退治しようとしている頃、元春は芸州(安芸国)に居り、家運向上のために、参戦に同意し、上洛し、京都における正月十六日の合戦の後も度々忠節を尽くした。一方、武田信武は、八幡山(東広島市?)に籠り、将軍・足利尊氏が九州下向の際、未だ修理允と云わなかった桃井兵部大輔義盛を芸州の大将として留め置かれたので、(元春)は桃井の陣に加わり、忠誠を尽くすよう(安芸国に)留め置かれたので、尊氏が九州から帰還するのを待って上洛した。》
【注】武田陸奥守信武: 南北朝時代の武将。武田信政の子信時にはじまる信時流武田氏の生まれ。甲斐源氏嫡流甲斐武田氏の第10代当主。『甲斐国志』によれば、「生山系図」を引用し室を足利尊氏の姪とする。室町幕府の引付衆にも任じられた。官位は、陸奥守、伊豆守、甲斐守、修理亮、左馬頭(ウィディペキア參照)。
 『太平記(1~3)』(日本古典文学大系・岩波書店・34~36巻)の内、第二巻「大樹摂津國豊嶋河原合戦事」(114-5)武田式部大輔。尚、頭注に「信武、但し、この時、降参したのではなく、安芸守護であったから八幡を捨てて安芸に帰った『天正玄公仏事法語』《『甲斐志料集成(8)』(甲斐志料刊行会編・甲斐志料刊行会・昭和10年刊)及び『甲斐叢書(第8巻)(甲斐叢書刊行会・昭和10年刊)に収録』)》」、第三巻「正行參吉野事」(15-5)武田伊豆守、同「四條縄手合戦事
上山討死事」(17-13)(19-1012)、同「薩多山合戦事」(157-1)、同「笛吹峠軍事」(188-814)武田陸奥守(信武?)、子息・安芸守(直信?)、同・薩摩守、同・弾正少弼、同「京軍事」(244-8)とある。
【補注】『天正玄公仏事法語』: 『甲斐叢書(第8巻)(甲斐叢書刊行会・昭和10年刊)に収録』)(552-15)「信光公第六世孫信武、在尊氏將軍幕下、建武初洛中逆虜蜂起、公隔淀河一道水、布陣於城南男山、不是准陰侯嚢沙背水(韓信の作戦計略『史記』)英略也哉、數戰兵盡、纔(わずか)從七騎、當得勝利、時謂之七騎武者也、將軍且退、息兵於關西筑之前州、公亦去在藝州居之、亡何將軍再起義兵入洛、公將三軍發藝州、亦應焉、悉平殘冠、四海歸一、信武公者、清浄心院是也」
《信光公の第六世の孫である信武は、尊氏将軍の幕下にあった。建武の初め、洛中の逆虜(宮方)が蜂起した。公(信武)は淀川を挟んで、城の南の男山に布陣した。これは、淮陰侯(韓信、後の漢高祖・劉邦の武将)の「嚢沙背水の計」の如き英傑に外ならない。数度戦い兵は尽き、従うのは僅かに七騎だが、勝利した。人々は、これを「七騎武者」と云った。また一方で、将軍は撤退し、関の西、九州で兵を休ませ再起を図った。公(信武)もまた去って安芸国に居住した。何の逃げたのではない。将軍は再び義兵を募って入洛したのだ。公は、まさに三軍を募り安芸国を出発し、残党を悉く平定して、国を統一した。信武公とは、清浄心院にほかならない。》
 また『尊卑分脈』には、「延文三(1358)四卅(三年四月三十日)出家依森院殿御事也、九州探題、康永(1342-1345)天龍寺供養随兵、陸奥守、伊豆・甲斐守、兵庫頭、甲斐守護、號八福寺」とある。以下、武田氏祖・信光から系図を挙げる。
●信光(大膳大夫、武田五郎、伊豆守、法名光蓮[]又號伊澤、右大將家御時賜石禾[]庄、五郎承久亂之時、賜安藝國守護職了)
 ○朝信(弓上手、武田太郎)
 ○信忠(悪三[]郎、改高信)
→●信政(武田小五[]郎)
  →●信時(治部少輔、伊豆守)
    →●時綱(弾正少弼、伊豆守)
      →●信
宗(安木[]守護、彌六、伊豆守)
        →●信武

 ○信長(一條氏祖、弓馬就者、武田五郎、號一條六郎)
 ○信隆(岩崎氏祖、號岩崎、武田七郎)
 ○信継(岩崎八郎、石橋)
 ○信基(岩崎九郎、長[]淵)
 ○光信(岩崎十郎、岩崎、依爲嫡子譲得武田屋敷)
 ○光性
【同2】矢野城: 広島市安佐区矢野にあった山城。
【同3】熊谷四郎三郎入道蓮覚: 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。熊谷頼直の次男。通称は四郎三郎、蓮覚は法名、実名は熊谷直行。足利尊氏が鎌倉で挙兵すると、安芸国守護・武田信武も建武2年(1335年)12月に挙兵する。後醍醐天皇が指導する朝廷への不満から、毛利元春や吉川実経等を始めとする安芸の有力な豪族が尊氏方に参加。熊谷氏の総領家も足利方に従うが、分家であった蓮覚とその子直村、甥の直統らは南朝方に味方した。武田軍の東上を阻むべく、自身の築城した矢野城に籠城して、武田信武率いる足利勢との間に同年1223日、矢野城攻防戦が開始された。少数とはいえ天然の要害を利用した堅城であった矢野城に立て籠った蓮覚は、多勢の武田軍を相手に奮戦奮闘し、寄せ手の吉川師平が討死、多くの将兵が負傷、死亡した。しかし4日間の籠城戦の後、矢野城は落城。蓮覚ら一族は討死した。安芸熊谷氏は当時4つの家に分かれており、分家筋であり、血の繋がりも薄くなりかけていた蓮覚の一族は、この南北朝の混乱期に総領制からの独立を狙って、反乱を起こしたものと考えられる。(ウィキペディア參照)
【補注】熊谷氏に関しては、当時の武家習慣、情況及び上下関係などが解るので、『熊谷家文書』(『大日本古文書・いえわけ第14「熊谷・三浦・平賀家文書」の内、「熊谷家文書54・建武三年3月8日(尾張守直經上巻)桃井義盛下文」以下を挙げる。
「下    熊谷小四郎直經
   可早令領地安藝國西條鄕内寺家分地頭職(事)
  右以人依有忠、所領置也、任先例、可令領掌之狀如件、
      建武三年三月八日        修理亮(桃井義盛)花押」
  *頭注 「義盛、直經ニ安藝西條鄕内寺家分地頭職ヲ預ク」
また、同「熊谷家文書224・建武三年6月25日(支族上)尼智阿(熊谷有直後家)代朝倉佛阿軍忠狀」
「    (證判「(直義)花押」)
 安藝國三入本庄一分地頭尼代朝倉兵衛三郎入道佛阿屬當御手致軍忠事、
一、去年十二月廿三日、(安藝)矢野城合戦之時、押寄西尾頸高矢倉本、捨身命抽軍忠之条、福嶋新左衛門入道、武藤五郎入道見知候畢、
一、今年正月十二日、令發向京都、自同十三日至十六日、於(摂津)供御瀬致警固畢、
一、同十六日合戦
、於法勝寺南大門幷完谷口面、香河兵衛五郎、大多和彦太郎等同所合戦之間、令存知者也、
一、同十七日、向西坂本、致警固畢、
一、同十九日、令發向八幡面、至大將御上洛之日、抽軍忠畢、
右、軍忠之次第、證人分明之上、大將又有御存知者哉、然早欲賜御證判矣、仍言上如件、
     建武三年六月廿五日       沙弥佛阿狀(裏、花押)
 進上   御奉行所」
 *頭注 直義證判
 *同2 三入本庄一分地頭代朝倉佛阿
 *同3 矢野城ニ戦フ、見知ノ人、福島新左衛門入道、武藤五郎入道
 *同4 法勝寺南大門幷ニ完谷口ニ戦フ(法勝寺は京都白河に在った六勝寺の一つ、完谷口は不詳)
 *同5 八幡ニ発向ス
【同4】桃井兵部大輔義盛: 『太平記(一~三)』(日本古典文学大系・岩波書店・34~36巻)の内、第二巻「節度使下向事」(52-7)、同「將軍御進發大渡・山崎等合戦事」(78-2)及び第三巻「御所圍事」(70-2)に登場する。出典の部分は、「節度使下向事」の部分(建武二年11月8日)。
また、『尊卑分脈』(吉川弘文館・明治37年刊)「清和源氏」10巻95頁に記載。参考の為に「桃井氏家祖」より「義盛」までの家系図を略記す。尚、この家系は南北朝時代、争乱の時代の一族の様子を知る上で興味深い。(説明書きは読下し)
●義胤(桃井と号す。近江守、従五位下右馬允・兵部少輔、「足利四郎」(義助の子なり)義助早世の後、祖父の子と称す云々)→●頼氏(桃井三郎)
→●胤氏(「桃井」三郎次郎、実は如幻の子)→●満氏(「桃井」又二郎)
  →●尚義(「桃井」孫二郎、元弘元年鎌倉において討死)、孫二郎系桃井氏祖
    →●義通(「桃井孫二郎」、刑部大輔)
     ○義盛(修理允)
     ○胤義「桃井」孫三郎、(孫)三郎系祖
     ○直氏(四郎)
 ○如幻(僧)
 ○頼直(「桃井」小次郎、或は「本伝」に、義胤の末子「頼氏の舎弟」云々。小次郎系桃井氏祖。)
  =>貞頼(桃井六郎、実は、僧・如幻の子云々。)
*同3
 「高師泰ニ属ス」
「同建武三年五月、將軍家自九州御進發■(之)時、髙越後守(師泰)手、致忠節畢、自建武三年迄至于歓應(観下同じ)二年、越州發向所々、一ケ度不闕致忠畢、此段世以無其隠者也」
《建武三年(1336)五月、将軍家が九州より進発した時、髙越後守師泰に属し、忠節を尽くした。建武三年より観応二年(1351)まで、越州高師泰に従い転戦したが、一度だけ従わなかった。これ事は、それだけに世間に隠せない事である。》
*同4 「時親、元春ヲ代官トシテ尊氏ニ属セシム」
「此刻、了禪老體、依不叶行歩、出家仕、忍南都、自九州御入洛、參㝡前[最前]、孫少輔太郎師親、進代官、可致忠節之旨、再三令申之間、預御感畢」
《この折、了禅は老体で、歩く事も出来ず、出家して南都(奈良)に隠棲していた。(尊氏)九州より入洛の時は、最初に参陣し、孫の少輔太郎師親は代官に昇進した。忠節を尽くすと再三にわたり進言し、(尊氏より)感状を頂いた。》
*同5 「貞親、後醍醐天皇ニ供奉ス」
「此刻、元春祖父右近大夫貞親、爲□宮方、供■(奉)山門、先□皇(後醍醐天皇)御臨幸之時、出家仕、(法名號朗乗)」
《この時、元春の祖父・貞親は、宮方に属し、後醍醐天皇の山門(サンモン、比叡山)行幸に供奉し、その後、出家した。法名を朗乗と云う。》
*同6 「親衡、足利氏ニ應ズ」
「親衡令同道佐渡國司、爲御敵、令在國(越後)之間、同建武三年十月、元春依申沙汰御教書、同■(十)一月初而參御方畢、其外一族等同心」
《親衡は、佐渡国司を同道させ、御敵(宮方)に属して越後に居たが、建武三年10月、元春は、道理(沙汰)を申上げて御教書により、同月11月に、初めて尊氏の下に参上した。他の一族らもこれに従った。》
「如此、元春親祖父幷迄至一族等、悉爲御■(殿)之間、於了禪之跡者、元春一人爲代官致忠條、世以無隠、且建武三年七月了禪之譲明白也」
《このようにして、元春、親(親衡)、祖父(貞親)から一族に至るまで悉く武家方(尊氏)になり、了禅(時親)の跡を継いだ元春が、一人、皆の代官として忠節を尽くした事は、皆知る所であり、建武三年7月の了禅の譲り状は明白で確かなもである。》
*同7 「時親、安藝ニ下向ス、在京料トシテ吉田鄕山田村、京屋地ニ所ヲ元春ニ譲ル」
「建武三年六月晦日、山門合戦破之間、了禪■(爲)老體、在京爲無益之間、就高越州、其子細申入、蒙御免、下向藝州之刻、爲在京料所、吉田鄕・山田村・京屋地ニ所、(一所、北少洛堀河[路下同じ] 一所、北少洛町)先宛給畢、其外一族若黨等成敗事、家昇(督)事等、見彼狀畢、屋地ニ所、爲元春判刑(形)、令沽却赤松美作守畢、了禪之狀ニ見師貞者、飯田左衛門師貞、船中之間、召具被下向事也、(彼飯田左衛門尉師貞者、寶乗召仕、麻原鄕爲代官、去々年、應安七年死去了)」
《建武三年(1336)6月晦日(末日)、山門合戦に敗れた頃、了禅(時親)は老体の為に京都に居て何の役にも立たなかったので、高越後守師泰にその理由を申し上げ、参戦を断った。安芸国へ下向するに先だって、在京の料所(特定の所用の料にあてる領地)として、(安芸国高田郡)吉田郷山田村と京都の屋敷地として二カ所、一つは北小路堀川(下京区)、もう一ケ所は北小路町(中京区)を(元春に)与えた。その外、一族郎党などへの裁定や家督相続の事等、先の宛状に見える通りである。屋敷地二カ所に付いては、元春が証印をして、赤松美作守(貞範?、美作守護職)に売却(沽却)した。了禅の書状にある師貞とは、飯田左衛門師貞の事で、船を使ったので、供として召し連れ下向されたのである。(かの飯門師貞は、宝乗に召し仕え、麻原郷の代官をしていたが、一昨年の応安7年(1374、南朝・文中3年)に死去した。)》
【注】山門合戦: 便宜上、先ず、
『日本史年表』(岩波書店)の建武3年の事項を挙げる。
 1月、(新田)義貞・顕家ら、足利軍を破り入京。
 2月、尊氏、旗下の将士に建武政府の収公地を返す。
    尊氏、摂津打出・豊島河原で(楠)正成・義貞に敗れ、九州へ走る。
    途中室津で軍議、中国・四国の侍大将の配置を定める。
 3月、尊氏、筑前多々良浜に菊地武敏を破る。
    顕家、義良親王と陸奥へ行く。
 4月、尊氏、一色範氏らを九州に留めて東上。
 5月、尊氏、義貞・正成を兵庫湊川に破る。正成戦死。
 8月、尊氏の奏請で、豊仁親王即位(光明天皇)。
 10月、義貞、恒良・尊良両親王を伴い越前に下る。
 11月、後醍醐、光明に神器を渡す。
     尊氏、「建武式目」を定める(室町幕府成立)。
 12月、後醍醐、吉野へ移る(南北朝分立)。
 次に、
『後鑑』の建武三年
【補注】『後鑑』(あとかがみ): 室町幕府の歴史書。三四七巻、付録二〇巻。1853年成立。江戸幕府が成島良譲らに命じて編纂させた。歴代将軍の事績を中心に、1331年から1597年までの史実を編年体で叙述し、各条ごとに典拠史料を掲げる。(『大辞林』参照)
 「『太平記』伝、山門ニハ京中無勢ナリト聞テ、六月晦日、十萬餘騎ヲ二手ニ分テ今路西坂ヨリソ寄タリケル。將軍始ハ、態小勢ヲ河原ヘ出シテ矢一筋射違ヘテ引セラレケル間、千葉(貞胤、千葉介)・宇都宮(公綱[きんつな])・土居(通増)・得能(道綱)・仁科(重貞)・高梨(不祥)ガ勢、勝ニ乗テ京中ヘ追懸テ攻入。飽マデ敵ヲ近付テ後、東寺ヨリ用意ノ兵五十萬餘騎ヲ出シテ竪小路横小路ニ機變ノ陣ヲ張、敵ヲ東西南北ヨリ押隔テ四方ニ當リ八方ニ圍テ餘サシト戦フ。寄手、片時ガ間ニ五百餘騎人討レテ、西坂ヲ差テ引返ス。サテコソ京勢ハ、又勢ニ乗リ、山門方ハ力ヲ落シテ、牛角ノ戰ニ成ニケリ。」
【補注】『太平記』(日本古典文学大系・岩波書店)第二巻「京都両度軍事」188p-10に記載。
「『梅松論』伝、去程に勢洛中へ寄來るよし虚騒ぎ繁かりし間、兼日(兼ての日)、手分有て先細川の人々四國の勢を召具して内野(上京区)に(彌)陣をとる。法成寺(平安時代中期に藤原道長によって創建された寺院、中京区に法成寺跡)河原には、師直(高師直)を大將として大勢を相したが(随)へて相侍所に六月晦日拂暁に義貞大将として、大勢内野の細川の人々(細川頼春[足利氏の支流・細川京兆家]や細川顯氏・定禅親子[奥州細川氏]が集めた中国・四国の国人衆)の陣へ寄來る。身命を捨て戰ふといへども打負て、洛中へ引退く處に、敵二手に成て、大宮(現・四條大宮辺り)猪熊(同四條猪熊辺り)を下りに、所々に火を擧る。同時に師直の陣、法成寺河原に於て合戦ありしに、味方打勝けり。かゝる所に下御所大將(足利直義、尊氏の弟)として三條河原に打立て御覧しけるに、敵東寺近く八條坊門邊迄亂入、煙見へし間、將軍の御座覺束(おぼつか)な(奈)しとて、御發向あるべきよし申(もうす)輩(やから)多かりける所に太宰少弐(大宰府の次官=少弐を名字とした九州の御家人、守護職)頼尚が陣は綾小路大宮(下京区)の長者達遠が宿所にてぞありける。頼尚の勢は(八、以下同じ)三條河原に馳(はせ)集りて何方(いずかた)にても將軍の命をうけてむかふべきよし、兼て約束の間、彼河原に二千騎打立て、頼尚申けるは、東寺に勇士多く属し奉る間、假令(たとえ)敵堀鹿垣(堀や枝のついた木や竹で作った垣)に附とも、何事かあらん。御合力(加勢)のためなりとも、御馬の鼻を東寺へむけられバ北にむかふ師直の河原の合戦難儀た(多)るべし。是非に就て今日は御馬を一足も動さるべからず。先頼尚東寺へ參るべしとて、三條を西へむかふ所に敵大宮は新田義貞、猪熊は伯耆守長年(名和長年)二手にて、八條坊門まで攻下りたりし間、東寺の小門を開て、仁木頼章(兵部大輔、二郎三郎)、上杉伊豆守重能(尊氏の従兄弟)以下打て出で、攻戰ふに依て、一支もさゝ(支)へず(春)して、敵、本の路を二手にて引上る處に、細川の人々頼尚、洛中の條里を懸(馳)切懸切(かけきり)戰ひしほどに、伯耆守長年、三條猪熊に於て豊前國の住人草野左近将監(不祥)が爲に打と(取)られぬ。義貞(に)は、細川公卿定禪、目を懸て度々相近付、に義貞危く見へしかども、一人當千の勇士ども(共)、下(折)塞(ふさがり)て命に替り討死せし間、二三百騎に打な(奈)されて、長坂にかゝ(懸)りて、引(く)とぞ聞へし。南は(八)畿内の敵、作り道(サクドウ)より寄來りしを、越後守師泰、卽時に追散し、大將(大勢)打取り(る)、宇治よりは法性寺(京都市東山区本町にある浄土宗西山禅林寺派の寺院)邊まで攻入たりしを、細川源蔵人頼春、内野の手なりしを召ぬかれて、大將として、菅谷(すがたに)邊まで合戦せしめ、打散しける。竹田は、今川駿河守頼貞(後に丹後・但馬・因幡の守護職、今川氏は、足利氏御一家・吉良家の分家)大將として、丹波但馬の勢馳(せ)向(ひ)て追落す。六月晦日、数箇所の合戰、悉(ことごと)く未(ひつじ)の刻以前に打勝ける。(翌日)七月朔日、三條河原に於て首(頸)の實檢あり。數千餘とぞ聞へし。云々。」
【補注】『梅松論』下巻後段に記載がある。尚、文献としては、『群書類従』合戰部一・巻第三百七十一「梅松論」上・下(経済雑誌社・明治27年、内外書籍株式会社・昭和11年)がある。
「『名和系圖』云、長年、長田小太郎行高(親)、子長田又太郎(長年、以下皆長年)、伯耆守東市正(ひがしのいちのしょう[司、つかさ])、村上太郎左衛門尉、從四位下、本名長高俊、後醍醐天皇勅定(諚)、元弘三年閏二月廿九日夜、被任左衛門尉被下、年字同三月三日、伯耆國被宛下號、從四位位下、村上伯耆守長年、御治世之後、因幡國被宛下、因伯兩國之成主、建武三年六月晦(七月十三日)、京於内野自害、法名釋阿。」
【補注】文中、名和長年に付いては、長田又太郎、伯耆守、東市正、村上太郎左衛門尉、長高俊など、皆、名和長年の事である。
「『斯波系圖』云、信貞、小三郎行貞、子小三(太)郎、因幡守左衛門尉、建武三年六月晦日、於京六角猪熊、神本三郎太郎兼繼ガ爲ニ討死。」
以上の事から、この日、東寺山門付近で激しい戦いが在った事が窺える。

*同8 「時親、所領ノ處分」、「佐橋庄ハ敵陣相奪ノ地」
「同建武四年、任約束之旨、悉可譲給之由、元春致了禪訴詔(訟)之處、了禪如令申者、孫太郎親茂參御方畢、幷孫子等降參之上者、悉譲與師親者、自余之仁等可令無足之間、且不便之次第也、安藝國吉田庄事者、於當所有其切(功)之間、親茂一期之後可知■(行)由、被譲之間、雖歎申、菟角被仰之上、吉田鄕・山田村爲當知行之間、麻原鄕者、親々衡爲懸命、一期之間可持、越後國佐橋庄(刈羽郡)南條爲敵陣之間、麻原鄕不持者、惣可及餓死之■(由カ)了禪被計(訴カ)申之間、不及力、寶乗一期待暮畢」
〔同建武四年(1337、南朝・興国2年)、約束の旨を任じ、悉く譲り給うべきの由、元春、了禅(時親)が訴訟致すところ、了禅が申せし如くは、孫太郎親茂が御方(宮方)に参じおわんぬ、並に孫子等、降参の上は、悉く師親(後に元春)に譲与するは、自余の仁等、無足(所領や給地を持たない)せしむべきの間、且つ不便の次第なり。安芸国吉田庄の事は、当所において、その功を有すの間、親茂一期の後、知行すべき由、譲られるの間、歓び申すといえども、兎に角、仰せられの上、吉田郷山田村、当知行となすの間、麻原郷は、親・親衡、懸命をなす、一期の間、持つべし。越後国佐橋庄南條は敵陣をなすの間、麻原郷は持たざる者、たちまち餓死に及ぶべきの由、了禅、訴え申せらるの間、力及ばず、寶乗(親茂、後に親衡)、一期待ち暮らしおわんぬ。〕
《どうも話が複雑だが、了禅(時親)は約束(元春との約束か?)したので、元春に(所領と給地)総てを譲るが、子の貞親は宮方として山門(比叡山)に籠り、孫の親茂(親衡)も宮方に与し、降伏したので、他の一門一族の者も、所領や給地を失う事になって非常に困った状況になってしまった。安芸国吉田庄については、元春に軍功があったのだから、親茂の死後、元春の知行とするのは当然でうれしい事だが、兎に角、吉田郷山田村を当面の知行とし、麻原郷については、親衡(貞親)が懸命に守ったのだから、死ぬまでは知行にして良いだろう。越後国佐橋庄南條は、敵陣(宮方)の中になったいるので、麻原郷が無ければ、収入が無く餓死しかねない、と了禅が訴えられるのだが、了禅の思う様にはならず、寶乗すなわち親茂(親衡)は、最後まで吉報(自分の所領になる事)を聞く事も無く没した。》
*則注 「吉田庄土貢ヲ注」
*頭注9 「佐橋南條ハ二千貫ノ地」
「了禪之跡所領、越後國佐橋庄南條地頭職、安藝國吉田庄地頭職、河内國加賀田鄕地頭職、此等三ヶ所也、佐橋南條者二千貫、吉田庄者千貫、加賀田鄕者二百貫之地也」
〔了禅の跡、所領は、越後国佐橋庄南條地頭職、安芸国吉田庄地頭職、河内国加賀田郷地頭職、これら三ヶ所なり。佐橋南條は二千貫、吉田庄は千貫、加賀田郷は二百貫の地なり。〕
【補注】貫(高): 土地の面積、その年貢の量を銭(貫文)で表した。時代は違うが、戦国時代、甲斐武田家の例では、一貫=籾一石との研究がある。
「歓(観)應元年、父親親衡起謀叛、罷成御敵之刻、元春爲御方之處、藝州先守護武田信武、吉田庄地頭職内、吉田鄕者、爲元春當知行、爲御方之上者、不及子細、於麻原鄕者、父親親衡爲知行之地之上者、可爲闕所之由令申、入代官、致違亂之間、髙越州下向備後國之時、就歎申、武田方越州依被遣狀、知行無相違者也」
〔観応元年(1350、正平5年)、父親・親衡、謀反を起し、御敵(宮方)にまかり成るのとき、元春、御方(武家方)と為るのところ、芸州・先の守護・武田信武、吉田庄地頭職の内、吉田郷は、元春の当知行と為し、御方を為す上は、子細に及ばず、麻原郷においては、父・親衡知行の地と為すの上は、闕所と為すの由、申すべく、代官を入れ、違乱致すの間、髙越州(越後守・高師泰)、備後国・下向の時、歎き申すに就き、武田方、越州、状を遣わされるにより、知行、相違なきものなり。〕
*同10 「貞親、遁世シ元春ヲ慿[たの]ミ安藝ニ下向ス」
「宮内少輔入道・近江守・上總介等申本領之間、祖父右近大夫貞親(法名朗乗)、建武三年十一月出家遁世仕、憑元春下向藝州之間、吉田鄕内上村、麻原鄕内山田村、爲時料所、朗■(乗)一期有知行之由、令申之處、彼上村・山田村兩村、三人ニ、朗乗一期之後、爲永領可知行之旨譲與之由承、爲御敵出家遁世之仁之譲狀、不可立者也、但親衡有去狀云々、此與之儀者哉、朗乗于元春去狀雖有所望依不出也」
〔宮内少輔入道・近江守・上野介等、本領を申すの間の事、祖父右近大夫貞親(法名朗乗)、建武三年(1336、南朝の延元元年)十一月、出家遁世仕り、元春を憑(たの)み、芸州へ下向の間、吉田郷内・上村、麻原郷内・山田村、為時(?)料所、朗乗、一期知行有るべきの由、申せし処、彼の上村・山田村両村、三人に、朗乗一期の後、永領となし知行すべきの旨、譲与の由承り、御敵となり出家遁世の仁の譲り状、立つべからざる者なり。但し親衡去り状を有す云々、この与の儀の者か、朗乗、元春去り状において、所望有といえども、出さざるに依るなり。〕


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