柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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日本外史ヨリ毛利氏ニ関スル記事ヲ左ニ抜抄ス

〔『日本外史』より毛利氏に関する記事を左に抜抄す。〕

  (第三子曰)季光[従五位下](為)左近将監[安藝守号西阿為評定]
〔第三子を季光といい、[従五位下]、左近将監となり、[安芸守、西阿と号し、評定(衆)になる]

食相模毛利荘因氏(焉)娶三浦氏死(於)其難[一作秀光]
〔相模の毛利荘を食む。因って氏とす。三浦氏を娶って、その難に死す。[一に秀光と作る]
(季光子)経光。(出鎌倉)[左近将監]、居越後南荘
〔季光の子の経光、鎌倉を出でて、越後の南荘に居る。〕
(経光子)時親[称修理亮](復起)為六波羅評定衆足利尊氏滅六波羅加賜時親以安藝吉田及河内利田(時親生貞親、貞親生親茂、・・・)
〔経光の子の時親、[修理亮と称す]復起きて六波羅の評定衆と為る。足利尊氏、六波羅を滅し、時親に加賜するに安芸の吉田及び河内の利田を以てす。〕
【註】この部分は、『日本外史』巻之十二、「足利氏後記」の「毛利氏」にある。岩波文庫『日本外史』(中)の249頁を參照。
【補注】()の部分は欠落、[]の部分は外史には無い。上記の所を念に為に記すと、「第三子曰季光、為左近将監、食相模毛利荘、因氏焉。娶三浦氏死於其難。季光子経光。出鎌倉。居越後南荘。経光子時親。復起為六波羅評定衆。足利尊氏滅六波羅。加賜時親以安芸吉田及河内利田。」である。

[][元弘三年五月七日]、高氏意益々決、抵京師。乃密使使伯耆請降。帝素聞其家聲、則大悦、賜使者、以 []、敕[]曰諸国官軍汝其師[]之以滅国賊賊滅之後賞當従所謂(中略)高氏[]兵南攻六波羅[自祈戦勝納一矢於廟]云々ト
〔また[元弘三年(1333]五月七日、高氏、意益々決し、京師に抵(いた)る。乃[]ち密かに使いを伯耆につかわして降るを請う。帝、素よりその家声を聞き、則ち大いに悦び、使者に賜うに、邑をもってし、勅(みことのり)曰く、「諸国の官軍、汝、それこれを帥(ひき)い、もって国賊を滅ぼせ。賊滅ぶるの後、賞は当に謂う所に従うべし」と。(中略)「高氏、兵を引いて、南のかた六波羅を攻めんとし、自ら戦勝を祈り、一矢を廟に納む。」云々と〕
【註】[]は著者の加筆。[元弘三年(五月七日)]の部分は、巻之六「新田氏正記」の「新田氏」の新田義貞の挙兵の部分にあり、岩波文庫版では(上)342頁に有り、続く部分は、巻之七「足利氏正記」の「足利氏上」の高氏が六波羅を討つ経緯の所からの引用であり、中略後も含め岩波版では(中)12頁からの引用である。
【補注】記載方法は前補注と同様。参考までに、中略を原文を挙げると、「
而名越高家後至、與官軍将源忠顕・赤松則村、戦于狐川敗死。高氏方張宴于桂川西。指一仏舎、問其名。或答曰、勝持寺。高氏西曰、我将勝而持之矣。乃声言往攻行在、遂上馬行入丹波。三年四月廿七日、至篠村、建旗于八幡廟前。州人久下時重、以二百騎、先至。旗号一番字。高氏見之問故。対曰、右大将之起臣祖重光、先衆而至。右大将親書賜焉。遂以為号。高氏大喜曰。我家之嘉兆也。五月七日、」である。

故ニ時親ノ安藝吉田ヲ領シタルハ元弘三年以後ニシテ毛利氏ノ中国ニ勢力ヲ得ルニ至レル根源ハココニ存スルト知ルベシ
《そこで時親が安芸吉田を領有したのは、元弘三年(1333)以後のことで、毛利氏が勢力を得たのは、「元弘の乱」中「六波羅攻め」に始まりがあったと考えるべきであろう。》

  貞親左近将監属官軍
〔貞親(左近将監)、官軍に属す〕

  親茂備中守属官軍
〔親茂(備中守)、官軍に属す〕

  師親隷新田義顕、義顕為足利氏将高師泰所滅(中略)属師泰(延元三年)師親去属師泰、師泰之改石見敵阻却川、師親與高橋某先衆乱流抜三城以功盡食吉田邑及師泰敗属山名時氏
〔師親(毛利元春)、新田義顕に隷(属)し、義顕、足利家の将・高師泰の為に滅ぶ所、(中略)師泰に属し(延元三年[1338])師親、去って師泰に属し、(?)、師親、高橋某と衆の乱流に先だって、三城を抜き功を尽くすを以て、吉田邑を食み、師泰の敗するに及び、山名時氏に属す。〕
【補注】(?)「師泰之改石見敵阻却川」の部分の解釈、特に師泰が石見国に行った事実が確認できず、また読下し文としても浅学で読下せない。】

  匡親宮内少輔 直衛為越後守
〔匡親(宮内少輔)、直衛、越後守と為る〕

  (右ハ関氏ノ調査ナリ)
《右(上記)は、関(甲子次郎)氏の調査である》
【補注】上記の出典は、未確認だが、関甲子次郎著作『柏崎文庫』の第一巻「年代記1」(神代より九十七代 後村上天皇 正平23年(1368)まで)ではないかと思われる。

 

経光ヨリ時親貞親親茂匡時等相傳ヘ居リシガ元弘二年匡時ハ護良親王ヨリ令旨ヲ賜ハリタリ

《経光より時親、貞親、親茂、匡時(まさとき)等が毛利家を継承して来たが、元弘二年、匡時の時、護良(もりなが)親王(後醍醐天皇の皇子)より、次のような令旨(リョウジ)を賜った。》

今度信越大将仰付候依而所領緋縅之鎧可相遣候依如件 内宮 匡時ぬしへ
〔この度、信越の大将を仰せ付け候。依って、所領、緋縅(ひおどし)の鎧、相遣わすべく候、依って件の如し 内宮 匡時主へ〕
【註】匡時:『尊卑分脈』によれば、親茂の二男。宮内少輔、大膳大夫、従五位下。
【補注】この令旨に関する出典不詳。『越佐史料』、『毛利家文書』あるいは『日本外史』に該当する文献が無い。調査継続。

亦成良親王ヨリ感状ヲ玉ハル

《また、成良(なりなが)親王より(後醍醐天皇の皇子)、感状を賜る。》

  今度高時征伐大刻抜群之働依而太刀一腰可相遣者や

    元弘二年八月十五日  成良

    郷原直衛
〔この度、高時の征伐、大いに刻し(大変厳しかった)、抜群の働き、依って太刀一腰(一振り)相遣わすべきものや
  元弘二年(1332)八月十五日 成良(なりなが)
  郷原直衛〕
【註】郷原直衛:『尊卑分脈』によれば、親茂の三男。越後守、号・有富、始め直広。
【補注】先の令旨同様、出典不詳。調査継続。

其後護良親王ヨリノ左ノ感状ヲ玉ハル

《その後、護良親王より、次のような感状を賜る》

  今度信越両国徴義兵候所其許之働抜群者也依而信濃国筑摩郡郷之原郷永七百六拾貫文洗馬郷永二百拾五貫文処可致加恩者也

              左中将  新田義貞

    匡時殿へ
〔この度、信越両国、義兵を徴し候ところ、そこもとの働き、抜群のものなり。よって信濃国筑摩郡郷之原郷の永七百六拾貫文、洗馬郷の永二百拾五貫文を加恩致すべきところのものなり。
            左中将  新田義貞
  匡時殿へ〕

宗良親王ノ令旨

宗良(むねなが)親王(後醍醐天皇の皇子)の令旨》

  来ル六日越後国之南庄地方軍兵相集可仕右執如件

    戊十月一日     宗良

    直衛殿へ
来る六日、越後国の南庄地方の軍兵、相集り右執り仕るべし、件の如し
  戊(戊寅[つちのえとら]?)十月一日   宗良
  直衛殿へ〕

【補注】戊年は、戊寅(つちのえとら)、1338年、延元3年[北朝]暦応元年[南朝]の事か、あるいは、戊子(つちのえね)、1348年、正平3年[北朝]貞和4年[南朝]か?

 

之等ノ古文考ニ依レバ匡時直衛ノ兄弟ハ勤王家ニシテ新田氏ニ属シ其功多ク信越ノ内ニ勢威ヲ振ヘ居タリシガ新田氏ノ衰フルヤ直衛ハ信州上高井郡小布施村ニ移リ其子孫郷原姓ヲ名告匡時ノ霊ヲ祀リ郷原神社ト尊称シ今尚ホ存ス

《これらの古文考によれば、匡時・直衛の兄弟は、勤皇家であり、新田氏に属して、その時の軍功が多く、信越の両国で武威を振るっていたが、新田氏の勢力が衰え始めると、直衛は信州の上高井郡小布施村に移住し、その子孫は、郷原姓を名乗り、郷原神社を建立して匡時の霊を祀った。今もその神社は、同地(小布施町大字押羽)に受け継がれている。》

以上ハ関氏ノ考査セラレタルモノニシテ以テ匡時直衛ノ勤王家ニシテ当地方ト関係浅カラザルヲ知ル

《以上は、関甲子次郎氏が調査研究されたもので、これ等から匡時・直衛兄弟が、勤皇家として、当地(鯖石一円)と深い関係があった事を知ることができる。》

コヽニ匡時直衛ニ関係深キ信濃宮即チ宗良親王ノ信濃御在穏ノ年月及状態ヲ添記シ仝好ノ士ノ参考トス

《そこで、匡時・直衛兄弟に関係が深い信濃の宮、すなわち宗良親王が信濃に御在隠(隠れ住んだ)年月と状況を史料などより書き加えて、同好の人々の参考にしたい。》

遠江風土記ニ興国年中宗良親王越中ヨリ信濃ヘ移リ爾後吉野ヨリ諸国ヲ巡リ往来数十年勤労回マズ天援六年ノ夏ノ頃マデ伊那郡ノ山中大河原ニ御住有シガ信濃ノ宮方ミナソムキ奉リテ香取高宗ヨリ外ハ御頼ミ無カリケレバ五月信濃ヲ落チ給ヒ吉野ニ帰ラセ給フ云

《『遠江風土記』に、宗良親王が越中より信濃へ移り、その後、吉野より諸国を巡り、往来する事、数十年、勤労回(?)まず、天援(天授の誤り)六年(1380)の夏の頃まで伊那郡の山中の大河原に住んでおられたが、香取(香坂の誤り)高宗だけが忠節を守り、信濃の宮方は皆離反したので、五月、信濃から、また吉野に帰られたと云う。》

【註】ここで謂う『遠江風土記』は、先ず『遠江国風土記』が考えられるのだが、作成時代が異なり、存在はするが未発見である事から、『遠江国風土記伝』(内山眞龍大人遺稿・岡部譲先生校閲、郁文舎刊・明治33年)の事ではないかと推測される。そこで先ず、『遠江国風土記伝』の構成から見ると、全13巻で、①浜名郡、②敷智[フチ]郡、③引佐[イナサ]郡④麁玉[アラタマ]郡、⑤長上[ナガカミ]郡、⑥磐田[イワタ]郡、⑦豊田郡(上・下)、⑧山香郡(北周智[しゅうち])、⑨南周智郡(山香郡と合併して周智郡)、⑩山名郡、⑪佐野郡、⑫城飼[キコウ]郡(城東郡)⑬蓁原郡(和名抄に[波伊波良]、榛原郡)であり、問題の部分は、③引佐郡の井伊郷(井伊家発祥の地)に出典と思われる記載がある。しかし、宗良親王に関する記載はあるが、内容に相違がある。

 そこで天授六年(1380)から宗良親王の所在を捜すと、『静岡市史編纂史料』(静岡市役所教育課市史編纂係・昭和2年)、(第二巻)附録第二編「宗良親王御年譜」に、「(天授六年)五月、宗良親王、信濃を出でて河内国山田(今南河内郡天野村小山田であろう。[現・河内長野市])に閑居し給う。

○中務卿宗良親王信濃の国より上りて河内国山田という所に住み侍りし頃、九月十三夜の月いと明かりしに申しおくりし。
    関白左大臣 冬實
 面影も見しにはいかに変るらむ、姨捨ならぬやまのはのつき
    中務卿宗良親王
 身の行方慰めかねし心には、姥捨やまのつきも憂(うい)かりき。」

とある。

【補注】『遠江国風土記伝』の著者、内山眞龍は、「17401821(元文5‐文政4)、江戸後期の国学者。遠江の人。通称弥兵衛。渡辺蒙庵に漢学を,賀茂真淵に国学を学ぶ。真淵没後は,伊勢の本居宣長と協力して,よく遠江国学の礎を固めた。早くから《風土記》の研究に志し,諸国を実地踏査して,《出雲風土記解》《遠江国風土記伝》を相次いで完成。《日本書紀》の注釈の集大成を期した大著《日本紀類聚解》は,朝廷に献上された。その他,著作には《新撰姓氏録註》《国号考》など。」(『世界大百科事典』參照)

 また、岡部譲は、「伏見稲荷宮司。姓は賀茂、名は真少、称連、御楯と号する。真淵の末孫にあたる。昭和12年(1937)歿、89才。」(weblio參照)

又李花集ニ次ノ御題ニテ詠マレシ歌見ユ

《また『李花集』に次の題で詠まれた歌がある》

興国五年信濃国大川原ト申ス山ノ奥ニ籠居シ侍ルニタヾカリハノナ山里ノカキホワタリ見ナラヌ心地シ侍ルニヤフシワカヌ春ノ光待チ出ル鶯ノ百囀モ音思出サレシカバ
〔興国五年、信濃国大川原と申す山のおくに籠り居侍りしに、たゞかりそめなる山里のかきほわたり、見ならはぬ心地し侍るに、やうやうわかぬ春の光、待ち出づる鶯の百囀(ももさえずり)も昔思ひ出でられしかば〕
《興国五年(後村上天皇、1344年)、信濃国大川原(大河原)という山の奥に籠られていたが、ただひと時かぎりの山里のかきほ(垣穂[垣根])渡り、見ならはぬ(見慣はぬ[見なれない])心地がしますが、ようやく分る春の光を待って出てきた鶯の何度も聞こえる囀り(さえずり)も、昔を想い出されたので》

かりのやどかこうはかりの呉竹を
ありし園とやうぐいすの鳴く

   〔假(仮)の宿、囲うばかりの呉竹を
在りし園とや、鴬のなく〕

【補注】『李花集』:後醍醐天皇の皇子、宗良親王の家集。集中の和歌の最下限から考えて、1371(建徳2)年以降の成立とされている。上下2巻、部立があり、上巻は春夏秋冬、下巻は恋と雑歌である。親王の歌899首を含め、総計1006首収められている。『新葉和歌集』撰進の際に、多くの歌が収められた。各種の写本は、十市遠忠による1530(享禄3)年か翌年筆写の本を祖本としていて、1941年に刊行された岩波文庫本(松田武夫校訂)も同様である。(ウィキペディア參照)

加フルニ鎌倉草紙ニ康永三年春頃小山若大丸奥州ヘニゲ下リ宮方ノ与黨ヲカタラヒ隠居シタリシガ奥州ハ関東(鎌倉管領ノコト)ノ分国ト成テ代官目代数多下リ隠家モナカリシカバ奥州ノ住人田村庄司ヲ頼ミテ故新田義宗ノ子息新田相州(義隆)ナラビニ其従兄刑部少輔ヲカタラヒ大将ト号シ白河辺ニ打出ル間上州武州ニ隠レ居タル宮方ノ末葉悉ク馳集ル又云新田相州殿ハ去ル永徳ノ頃マデ信濃国大川原ト云フ所ニ深ク隠レ有ルヲ国中皆背キ申シ宮ヲ初メ新田一門浪合ト申ス所ニ皆討死シテ父子二人打チモラサレ奥州ヘニゲ下ルト、康永ハ北朝ノ年号ニシテ吉野朝ノ興国五年ニ当ルサレバ宗良親王ハ興国五年ニ信濃ニ入ラレ信越ニ軍ヲ募ラレタル時南荘ノ直衛ニ令旨ヲ下シ給ヘラレシナラン戊年十月トセルハ丙戊(戌?)十月ニシテ興国七年即チ正平元年ナラン然ラバ毛利氏ハ南庄ノ人民ヲ引率シテ代々官軍ニ組シ足利氏幕府ヲ京都ニ開キ関東ニ管領ヲ置クヤ尚宗良親王ノ幕下ニ活動シテ逆臣足利氏ヲ撲滅シ京都ヲ回復セント計レルモ機運ノ未ダ至ラサル為メカ永徳ニ至リ宗良親王モ薨ゼラレ新田氏モ信濃国ヲ去ルニ及ビ毛利直衛小布施ニ落チ入リタルナラン然レドモ毛利ノ残党当地ニ尚繁栄セリ実ニ佐橋ノ地タルヤ其領有タリ而シテ正平十九年上杉左近将監憲栄越国主護職ニ任ゼラレ春日山ニ在城スルヤ上杉氏ノ幕下ニ属スルノヤムナキニ至ル

《加えると、『鎌倉草紙』に康永三年(1344)春頃、小山若犬(大は誤り)丸が奥州に逃げ下り、宮方の与党を誘って隠れ住んでいたが、奥州は関東(鎌倉管領のこと)の分国となって、代官や目代が多数下って来たので、隠れる所も無い為に、奥州の住人・田村庄司(清包)を頼って、故新田義宗の子息・新田相州(義隆)並に、その従兄・刑部少輔を説得して大将と称して、白河辺りに出撃している間に、上州・武州に隠れていた宮方の末葉が悉くはせ参じた。また伝える所の拠れば、新田相州殿は、先の永徳(1381-1384)の頃まで、信濃国大川原という所に人知れず隠れていたのだが、国中の皆に背かれた宮をはじめ新田一門も、浪合という所で皆討死したが、父子二人だけが生き延びて、奥州へ逃げ下ったそうだ。康永は北朝の年号にして吉野朝の興国五年(1344)に当る。そうすると、宗良親王は興国五年に信濃に入られ信越に兵を募られた時、南荘の直衛に令旨を下されたのだろう。「戌(戊は誤り)年十月」としたのは、丙戌年(1346)十月に、興国七年、すなわち正平元年になるからである。そうであれば、毛利氏は南荘の人々を率いて、代々官軍に味方して、足利氏が幕府を京都に開き、関東に管領を置いても、尚、宗良親王の幕下で活動して、逆臣足利氏を撲滅し、京都を回復しようと計画したが、機運に恵まれずなかった為か、永徳年代(1381-1384)に至り、宗良親王も崩御され、新田氏も信濃を去ってしまい、毛利直衛は小布施に落ち延びたのであろう。しかしながら、毛利の残党は、それでも尚、当地に繁栄し、実に佐橋の地に至っては、その領地であったのである。そうして、正平十九年、上杉左近将監憲栄(のりよし)が越後国主(守の誤り)護職に任じられて春日山に在城すると、上杉氏の幕下に属さなければならなくなったのである。》

【注】本文中、匡時・直衛兄弟と出て来るのだが、「直衛」は「直衡」の誤り、あるいは誤記・誤植ではないだろうか。この件に関しては、現在、「毛利家三代」に続く、「毛利家四代」あるいは「五代」で詳細を記す。

【補注】『鎌倉草紙』は、『鎌倉大草紙』の誤り。『群書類従』合戦部巻第三百八十二、『群書類従』(明治35年刊・経済雑誌社)では、13650頁。また『史籍集覧(第5冊)「通記第二十三」』(近藤瓶城・近藤圭蔵・明治35年)。更に『群書類従:新校・第十六巻』(昭和3年刊・内外書籍)では、473頁。『史籍集覧』の『鎌倉大草紙』の序には、漢文で次のように書かれている。以下、読下し文と注釈等を付け加える。

《古は左右の史有り、行と言を記し、善悪を一時(別に、眨[まばたき])に弁じ、勧懲(善を勧め、悪を懲しめる[勧善懲悪])、百世に無し〔垂歟、「垂か」〕。これ戴籍(サイセキ、書籍に載せる)の権輿(ケンヨ、始まり)、本朝、記録と称すは、多くを為さず。就中(かなんずく)、この記は、尊氏の末流の遺書にして、関東の大家の旧記なり。君臣上下の儀説、父子長幼の情、親疎有り、曲直有り、読むは事迹(ジセキ、事跡)を既往に鑑み、しかして心術(心の持ち方、哲学)を当来(来るべき世、未来)に誡(いまし)めるものは、あに君臣の枢機(スウキ、要点)を失うべきかな。》

また、『鎌倉大草紙』と異なる部分も多いので、該当する部分を、記載する。以下、原文に若干の注釈を付けた。尚、これは、「田村庄司の乱」であり、応永2年(1395年)から3年(1396年)にかけて、陸奥国安積郡(後世の磐城国田村郡)の田村則義・清包父子一族によって起こされた鎌倉府に対する反乱。通説では、小山若犬丸と連携して起こされた「小山氏の乱」の一環とみなされている。(ウィキペディア參照)

《応永三年の春の比(頃)、小山若犬丸、奥州へにげくだり、宮方の余党(与党)をかたらひ、隠居たりしが、奥州は関東の分国と成て、鎌倉より代官目代数多下り、隠家もなかりしかば、奥州の住人田村庄司清包(きよかね)をたのみて、古新田義宗子息新田相州、ならびに其いとこ刑部少輔をかたらひて大将と号し、白河辺へ打ていつる間、上州武州に隠居たる宮方の末葉ことごとく馳集る。此田村庄司は征夷將軍坂上田村丸、陸奥守にて下向のとき、我出生の地に子孫を一人残し給ひ、代々則(すなわち)田村の庄司と号す。北畠殿の国司の時より宮方にて代々関東へ不属(属さず)自立の志ありしかば今度の小山とも一味同心す。鎌倉殿、是を聞て則十ヶ国の軍兵を引率し、同二月廿八日、御進発。同六月朔日、白川(白河)の城、御下向。結城修理大夫が館、御座。大勢下向のよしを承り、新田、小山、田村等、悉退散して行方をしらず成行ける間、六月十九日に白川を御立あり、七月朔日に鎌倉に還御成(也)。同四年正月廿四日、小山若犬丸ども二人若年にてありしを会津の三浦左京大夫、是をめしとり、鎌倉へ進上しけるを実検の後、六浦の海に沈めらるる。》


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1947/05/18
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