柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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佐橋庄下司職毛利経光ハ大江廣元ノ孫ニシテ佐橋庄南荘ニ住セルコトヲ日本外史第十二巻毛利氏ノ記ニ

〔佐橋庄下司職・毛利経光は、大江廣元の孫にして佐橋庄南荘に住せることを、『日本外史』第十二巻・毛利氏のきに、〕

《佐橋庄の下司職(地頭)の毛利経光は、大江広元の孫に当たり、佐橋庄南荘に住んでいたことが、頼山陽の『日本外史』第十二巻・毛利氏の條に、次の様に書かれている。》

 

 廣元、有五子、長子親廣、承久之役、属官軍、不知所終、第三子曰季光、為左近将監、食相模毛利荘、因氏焉、娶三浦氏、死其難、季光子経光出鎌倉、居越後南荘、経光子時親、復起為六波羅評定衆、足利尊氏滅六波羅、加賜時親、以安藝吉田及河内利田

〔(毛利氏は、大江廣元より出ず、中略)、廣元(源頼朝を関東に佐け、中略)、五子有り。長子・廣親、承久の役、官軍に属して、終る所を知らず。第三子を季光(すえみつ)という。左近将監たり、相模の毛利庄を食(は)む。因って、これを氏とす。三浦氏を娶(めと)り、その難に死す。季光の子・経光、鎌倉を出で越後南荘に居る。経光の子・時親(ときちか)、復、起ちて六波羅(ろくはら)の評定衆となる。足利尊氏、六波羅を滅ぼし、時親に加賜するに、安芸の吉田及び河内の利田(かがた)を以てす。(後略)〕

《広元には五人の子があった。長男・親広は「承久の乱(役)」(承久三年、北条義時が京都を攻めた戦。1221年)の時、官軍に所属して、止まる所を知らない程に奮戦した。三男を季光といい、左近将監(サコンのショウゲン)に叙せられ、相模国毛利荘(神奈川県愛甲郡、厚木市周辺)を領有した。それにより、氏を毛利とした。三浦氏の娘を娶ったが、「宝治合戦あるいは三浦氏の乱」(執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)65日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。)の時、三浦氏に連座して滅ぼされた。その時、季光の子の経光だけは、越後国南荘に居て難を免れた。経光の子の時親は、後に毛利氏を再興し、六波羅探題の評定衆になった。足利尊氏が、「元弘の乱」(元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。)で、六波羅探題を攻略した時、尊氏に属して功績のあった時親は、安芸国吉田莊と河内国利田(加賀田郷、現・大阪府長野市加賀田)を加増された。》

 

【註】左近将監:左近衛将監、左近衛府の三等官。従六位上相当。定員四名。

 

毛利経光ハ越後佐橋庄下司職ナルコト萬壽寺ノ記ニ見エ南庄ノ同義假借レモ見ルベキ南條村ノ現今ニ後レルヨリ推シテ南庄ハ佐橋庄ノ南部一帯ノ地名ナルコト疑ナシ殊ニ善根八石城主ノ毛利氏ナルコト当村古記録ニモ散見スルトコロナリ而シテ子時親復起為六波羅評定衆ヨリ経光ノ一族南庄ニ住セルコトヲ知ラル

〔毛利経光は越後佐橋庄の下司職なること萬壽寺の記に見ゆ。南荘の同義仮に借れも見るべき。南條村の現今に後れるより推して、南庄は佐橋庄の南部一帯の地名なること疑いなし。殊に善根八石城主の毛利氏なること、当村の古記録にも散見するところなり。しかして子・時親また起り六波羅の評定衆になるより、経光の一族、南庄に住せることを知らる。〕

《毛利経光は越後国佐橋庄の下司職になった事が、萬壽寺の記録『萬壽禅寺記』に記載されている。佐橋庄は南荘と同義と考えることができるだろう。今の南條村の現状から推測して、南庄は佐橋庄の南部附近の地名と考えて間違いない。特に、善根の八石城主である毛利氏だった事は、この村の舊い記録にも見られる。そこで、経光の子である時親が六波羅探題の評定衆になった事からも、経光の一族が南庄に居住したと推測される。》

 

【補注】「毛利経光は越後国佐橋庄の下司職になった事が、萬壽寺の記録(『萬壽禅寺記』)に記載されている」とあるが、『萬壽禅寺記』にそれらしき記載が無い。よって、この部分に関しては、保留とする。尚、『萬壽禅寺記』の全文の入力が終ったので、以下、改めて若干の注釈を加えて掲載する。

 

京城萬壽禪寺記(旧本真書躰)


本寺者郁芳門院追嚴道場、昔六條院也。郁芳諱媞子、白河上皇長女、右大臣顯房第一女、中宮賢子者聖母也。堀河帝者弟也。帝事郁芳以母儀。不以賢婦侍之。嘉保三年丙子今年十二月十七日、改元永長。)秋七月下澣(ゲカン、下旬)、郁芳不豫。八月二日大赦。祷平安也。夜有星隕。七日甲子暁登遐(トウカ、崩御)。二十一齢也。九日丙寅、上皇不任哀悼而落餝(ラクショク、落飾)。二十六日葬蓮臺寺側。永長二年丁丑、革郁芳遺宮為佛廬(ブツロ、仏のいおり)。俗称六條御堂。十月十四日供養。上皇出聖躬血書永劫護法願文。其文曰、世漸及澆季(ギョウキ、乱世・末世)雖属末法。不可改我此願。遠可期三會暁。我速證久品者、天眼鑿之。我暫留三有者、以怨念罸之。何世聖君非我後裔。誰家賢臣非我舊僕。一事一言違之背之。国主皇帝殊可加炳誡(ヘイカイ、いましめ)矣。永長二年十月十四日、自留手痕而表信。故曰御手印。藤原國明寄附江州田井郷而仰佛法。王法之庇廕(ヒイン、ひさしのかげ)。康和元年正月四日、六條院火。八月十二日、再造供養。平治元十月二十六日、因幡堂、河原院、崇親院、祇園離宮同時灾(サイ)。正嘉年中、十地上人、(又曰爾一上人、覺空禪師也。與其徒慈一上人。(賓覺禪師也。修淨土敎。慈一聞東福國師道風。徃扣其室。針芥相投。十地亦見國師遂領玄旨。二師棄教入禪。扁六條御堂曰萬壽禪寺。盖嘉暦三年、相模守平朝臣狀云、萬壽之題額、起最明寺之素意。弘長元年十一月二十四日、實覺禪師旌禪苑開堂之儀。翌日東福有賀狀。其略云、昨日無風雨難開堂。道德之至。随喜無極、於是實覺禪師、覺空禪師、爲兩開山。文永九年壬申十一月二十四日供養。同十年十月十二日火。元德二年庚午九月二十日、内親王崇明門院。(諱祺子。後宇多院皇女。聖母者永嘉門院。)新賜賓地。廣開紺園。此樋口東。高倉西。東洞院爲界也。元弘二年。(今年改元正慶)前住畊雲原之徒、紹臨奉朝命、就彼地。先建報恩精舎。奉安地藏尊容。修薦永嘉門院仙駕。(永嘉諱瑞子。中務卿宗尊親王女。嵯峨院孫女。後宇多猶子。嘉暦四年八月二十九日升遐(ショウカ、天子や貴人が死ぬる事)。四年者元德改元也。)崇明割尾州味岡本莊。充永嘉香燈。暦應三年庚辰、僧良悦附味岡新莊。六條萬壽與報恩合爲一寺。六條舊地、今號南院。報恩舊基、今曰琴臺。特爲郁芳仙祠。白河後宇多等同嚴追修。自永長上皇願文血書、宸衷(天子の心)之所感。寄田園於此寺者甚夥焉。弘長三年、關白殿下以泉州長瀧包富付與十地上人。建武五年、(暦應元年也。)一條殿下以長瀧彌富幷附之。弘安九年、室町院(後堀川皇女。)寄附江州田中莊。正和元年院宣。加州富積保爲祈禱賜之。貞治五年、寶篋(ホウキョウ、宝箱)相君以備前土師郷易越中佐味庄。又大小檀施洛中園地處々有之。明德四年、前住濟翁樹寄五條坊門朱雀窪田。充忌辰之茶湯。西京四段、綾小路室町、七條猪熊、六條高倉、又六條坊門萬里小路六條坊門高倉兩地、爲永觀都聞設浴之薪水、又禪通都聞施入銅錢壹陌緡、出其息爲開浴之設。至徳三年大内義弘梅窓居士歸附長門厚東郡吉部郷。爲浴僧之資。鹿苑大相國頒下鈞怙。爲季世證。此外有莊産田園被他剽略者、勢州木造庄、日置庄、三賀野庄、(小倭庄内幷八知山兩郷。)三箇庄、(三箇者庄名。)伊賀河合庄、柘植庄、長田庄院田、山田庄院田、越後佐橋庄、信州仁科庄、若州垣拔庄、丹波豊富庄、備前長田庄、江州羽田庄他。又五條堀川、六條坊門油小路、姉小路油小路、左女牛堀川、甲斐河五段、寺門西面楊梅路。此本志都聞冥福之地、一々契券(地券・手形・割符などの総称)、代々官苻(官符、太政官苻の略)、昭々焉。等持仁山相公、大執國柄、深信佛乘。殊興禪叢。令嗣寶篋相君、延文三年戊戌陞位於五山之列。至德初元甲子、鹿苑大相國遵先相君遺命。重降鈞帖(キンジョウ、公帖。禅宗寺院のうちの、五山、十刹、諸山などの官寺およびそれに準ずる寺院の住持任命の辞令)、定兩班位次。大方争議、不欲與之齒。大相國命南禪大淸、天龍德曵、建仁相山、東福天章、各寺西堂諸勤舊(勤旧、禅宗で知事、侍者、蔵主などの退職した者をいう)等。以連署、令定其班。遂無異論。至今受其賚(ライ、たまもの)。永德二年丁丑、大和國以寺産之契券官符雜亂紛冗而不便、點撿(点検)之。故提其綱要、命門眞權小府周清、連書一冊、準眞本。稱之曰靑表紙。自大相國以降、勝定、普廣、今大丞相。皆有花押。實爲家珍。永享六年甲寅二月十四日、六角堂、因幡堂、祇園離宮等、洛中人家、壱萬餘火、寺及其殃(オウ、わざわい)、蕩焉成墟、怪哉。與平治實相類。普廣相公、忝傾台恩。擢開山門葉邵外英。幹住持事、創中興業。同九年丁巳、捨播之安田東九條田園。洎罪譴籍没之財。而大殿山門丈室新成矣。法堂僧堂庫司浴室溷厠琴臺諸寮等、次第備矣。寶徳三年壬申、余與住持月谷諸老宿相謂曰、大小名利、大半有十境之名、未必天造地設、萬壽境中新撰十名、則可矣哉。即往前住天下大老東福景南和尚、請撰其名。和尚一々撰之。曰十地超關、大雄寶殿、新花更雨、枯木回春、東軒、南院、琴臺、鏡沼、三山神祠、千松客巡、乃結十境、以四韵一偈。曰、東軒虗谿包南院、海上三山常處開。夜月無心臨、鏡沼、暮雲有意傍琴臺、新華雨遂空談散、枯木春從冷坐囘。親禮大雄超十地、千松夾逕接方來。寶德壬申、孟秋日、前住當山景南英文、八十八歳、謹書、盖大雄寶殿、南院、琴臺者、不改舊名也。鹿苑竺雲和尚跋十境偈曰、寺必當有十境耶。十地寶覺、蓽路藍縷(ヒツロランル、とても苦労しながら仕事に励むこと、「篳路」は植物の柴を編んで作った、作りの粗い車、「藍縷」は破れるほど使い古した衣服。『春秋左氏伝』「宣公一二年」)之始、弘安辛巳以來、百七十餘歳之間住持者幾人、胡爲缺焉不爲之哉。不當必有十境耶。仍舊貫、如之何。々必改作今也。夫十者非自天而降、亦非從地而涌、蓋出當人之胸)次面竦一世之耳目。嚮者鼂夕于茲者、如唯識其面。而未知其名、而見其面。則靄然眉目(アイゼン・ビモク、気分などが穏やかでやわらいだ容姿)、驩爾心(カンジ・シンキョウ、喜びに満ちた胸中)頽壁毀垣(タイヘキ・キエン、崩れた壁と壊れた垣)、古松老柏(コショウ・ロウハク)、精氣一新、是所謂世必有非常之人。而後有非常之事也。夫或議之者、乃非常之元、黎民罹焉者也。然則自十地寶覺以降、遞代(テイダイ、代替わり)主盟者、可不謂之非常之人耶。無乃不遜(ゆずる)耶。肯首於大寂定中否。享徳貮禩(ニシ、二年)癸酉中秋、前南禪竺雲等連書。康正二年丙子上杉禮部挟豪權奪味岡庄、欲爲東征伐資糧、已入其地。一日莊舎四面軍聲、箭飛如雨、礫走如雷、禮部頓狂惶怖、將自殺、刃已犯膚、左右相救、還刃其救者而死矣。從軍之士開門闕。則寂無人聲。禮部急棄其庄。而不推自去。烏虖天乎神乎、未忘護法之勑(ライ、ねぎらい・いましめ)者甚驗矣。後世豪可爲鑑戒之。又琴臺側有石浮圖、其刻曰、弘長壬戌八月二日、古來稱曰彌富之塔、彌富初不知名字。寺莊長瀧彌富者、昔彼湯沐邑也。故假以名之。或云、郁芳之乳媼也。弘長壬戌、逝去。則與永長丙子相隔百六十七年、不足信之、弘長之刻。恐立塔之時耶。世俗傳説、郁芳者天下絶色。而無閨房之染、生信大乗、常持蓮經。故白河法皇自染宸翰、冩八軸授之。精進讀誦、手不釋巻、或時起一念淸淨之慢、魔伺其便、奪所持蓮經第八之軸去。爾來不豫而化矣。乳媼哀慕之餘、假觀音力、回邪歸正、托形於飛鳶護伽藍云、雖荒唐之説、宸翰蓮經、天下識也。惜乎隨永享之燼、不知燼耶。又奪耶。飛鳶者不曾去、如護者數日。若不見則或不祥也。自永長丙子至今寛正甲申、三百六十九年、郁芳事迹、開山行實、寺宇屮創、往々苦其難知、山中耆艾少長、相共請曰、和尚自七齢入此保社。適主丈室冝作傳記以貽將來、余謭才劣識、謙拒一ニ、固請不允、於是古老之説、街童之譚、寺庫契券、國朝載籍。一々攟摭(クンシャク、拾う)之、盖與當世大儒宗門耆衲(キノウ)、反復討論、面粗記顛末、後來博聞君子、庶幾補苴(つとに)遺漏、削正訛舛。則不亦善乎。

   寛正五年龍集(リュウシュウ、一年)甲申佛歓喜日

                  住持天佑梵嘏(テンユウボンカ、室町時代の僧。臨済宗、京都天竜寺の雪心周安の法をつぎ、万寿寺住持となる。寛正(かんしょう)五年(1464)同寺の寺誌「京城万寿禅寺記」をあらわした。語録に「万寿語録」がある。)謹記  

    右萬壽禪寺記依無類本不能挍合(コウゴウ、比べ合わせる)

 

【註】味岡荘: 『荘園志料』(上巻)第三編「近国二」の尾張国春部郡に「味岡本荘」と「味岡新荘」の記載がある。先ず、その本文を引用する。
 康和三年(北朝・永徳三年、1383)の院庁下文に見えて、当時白河院御領なりしが如し、其の後、元弘中(北朝・元徳三年~正慶二年、建武の新政で年号統一「建武」となる、1331-1334)崇明門院は、本荘を割きて、萬壽寺に寄附し、永嘉門院香燈料に充て、興国元年(北朝・暦応三年、1340)、僧・良悦は、新荘を以て萬壽寺に寄進せり、康正(1455)の頃は、萬壽寺は新荘のみ領して、本荘は嵯峨・大慈寺領となりたるが如し、今郡中熊野荘内南北外山村の辺りと云う。
【徴證】に、『朝野群載(巻四)』、『萬壽禅寺記』(本文)の引用があり、また「尾州味岡荘段銭」に、五貫八十文、嵯峨大慈寺領(康正二年)、「尾州味岡新荘段銭」に、八貫二百六十文、萬壽院領、「尾州味岡段銭」に、一貫五百文、伊勢平左衛門尉殿、同「尾州味岡段銭」に、一貫五百文、伊勢彦左衛門尉殿、の記載がある。

 

【補注】上杉礼部: 『史料綜覧』(第八巻)後花園天皇、将軍・足利義政、康正二年(1456)十二月の條に、「上杉朝廣、味岡荘ヲ横奪シ、軍資ヲ徴セントシテ果サズ」(『京城萬壽禅寺記』、『諸家系図纂』)とある。また『系図綜覧』(国書刊行会編・大正4年)下巻「関東管領・上椙(すぎ)山内・扇谷(おおぎがやつ)両家及庶流伝」の系図に拠れば、高藤8代後の頼重の次男・重顯の傍系だが、後に関東管領と為る憲顯の父・顯定の養子になっている事から、憲顯との関係に疑問が残るが、今のところ不祥である。

 

  

 

経光ノ一族南庄ニ住セルコトヲ知ラル

〔経光の一族、南庄に住せることを知らる〕

《経光の一族が、南庄に住んだ事が知られる》

 


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