柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
第三項 刈羽郡ヲ誤マリテ一時沼垂郡ト称ス 寛文年中郡号復古ノ命アリシ時刈羽郡誤リテ沼垂郡ト為ス其ハ越後古七郡ハ頸城三嶋魚沼古志蒲原沼垂岩船ナリ然ルニ中世ニ至リ刈羽山東アリテ三島沼垂ノ名称見エズ故ニ寛文中郡名復古ノ意ニテ三島ヲ山東ニ沼垂ヲ刈羽ニ擬スサレバ当時代ノ二田神社々領継目状ニ 〔寛文年中、郡号復活の命ありし時、刈羽郡、誤りて沼垂郡と為す。それは越後古七郡は、頸城・三嶋。魚沼。古志・蒲原・沼垂・岩船なり。然るに中世に至り、刈羽・山東ありて、三島・沼垂の名称見えず。故に寛文中、郡名復古の意にて、三島を山東に、沼垂を刈羽に擬す。されば当時代の二田神社社領継目状に〕 越後国沼垂郡長橋領二田神社領仝所之内五十石事下略寛文五年七月十日 椎谷観音縁起 越洲沼垂郡長橋庄大辻山正福寺ノ本尊則之嵯峨天皇弘仁云々寛文五年三月 沼垂郡と誤称セルハ寛文ノ初年ナルコト上記ノ如シ刈羽郡ニ復シタル年度ハ詳ニセズト雖モ二田神社領状ヨリ見レバ貞享二年頃迄凡ソ二十年間ナリ然ルニ元禄三四年頃ヨリ又改メテ三島郡ト復古ス之貞享三年稲葉丹後守高田在城ヨリ元禄十四年下総佐倉ニ改封セラルヽ間ニシテ郡名ノ復古ハ稲葉氏ノ意ニ出デタル如シト山田氏旧蹟志ニ論ゼリ或ハ然ラン故ニ戸田能登守忠真高田ニ来ルヤ直ニ刈羽郡ト改メラレタルハ仝年以後ノ検地帳ヲ照ラシテ明ナり 〔沼垂郡と誤称せるは、寛文の初年なること、上記の如し。刈羽郡に復したる年度は詳にせずと雖も、二田神社領状より見れば、貞享二年頃、およそ二十年間なり。然れども、元禄三四年頃より、また改めて三島郡と復古す。これ、貞享三年、稲葉丹後守、高田在城より、元禄十四年、下総佐倉に改封せらるる間にして、郡名の復古は、稲葉氏の意に出でたる如しと、山田氏、旧蹟志に論ぜり。あるいは然らん故に、戸田能登守忠真、高田に来るや、直ちに刈羽郡と改められたるは、同年以後の検地帳を照らして明なり。〕 【註】この部分は、ほぼ山田八十八郎著『刈羽郡旧蹟志』からの引用であると考えられる。よって、該当する箇所に関し、同書の全文を挙げ、可能ならば注釈あるいは出典について記す事にしたい。 越後古七郡は、頸城・三島・魚沼・古志・蒲原・沼垂・岩船なり。然るに中世に至り、苅羽・山東ありて三島・沼垂の名称見えざるを以て、寛文中、復古の意にて、三島を山東に、沼垂を苅羽に擬し、其名称を改めたることは、前章、地理志料、地名辞書(吉田東伍著『大日本地名辞書』)に述るが如し。然るに二書は単に其改めたることのみを云うて、例証を挙げざるは頗る不備の感あり、因て、左に二田社領継目状、並に椎谷観音堂縁起を揚げ、寛文の誤を確実にす。 二田神社社領継目状二通 越後国沼垂郡長橋領二田村明神社領、同所之内五十石事、並山林竹木諸役等免除、任慶安元年二月廿四日先般之旨〔慶安元年二月二十四日、先般の旨を任じ〕、永不可有相違者也〔永く相違あるべからずものなり〕 越後国沼垂郡長橋領二田村明神社領、同村之内五拾石事、並山林竹木諸役等免除、任慶安元年二月廿四日、寛文五年七月十一日、両先般之旨、永不可有相違者也 椎谷観音堂縁起 越州沼垂郡長橋庄大辻山正福寺之本尊則云々、 嵯峨天皇弘仁辛卯云々、 按 沼垂の名称を誤用せしは、寛文の初年に始まりて、苅羽郡に復したる年度を詳にせず。然れども二田社領状に拠れば徳川將軍四代五代に渉り、殆んど二十年を経過せしか如し其間、官民間に種々の扞格齟齬(捍格齟齬、互いの意見を認めず、かみ合わない事)を生じたるなるべし。況んや苅羽が越後の中郡にして沼垂は北郡に偏し、地理に於てニ十里余の距離あるをや。又天和検地帳に都(すべ)て苅羽郡を記載しあれば、貞享二年の二田社領朱印状に沼垂郡と記せしは千判の例に沿襲せし誤なりと知るべし。 『刈羽郡旧蹟志』第一篇郡郷部「元禄年間の復古」 後、元禄三四年の頃より、凡十年間、苅羽郡を改め三島郡に復古したるは、当時。村々の新田畑検地帳の表紙並に口書に明記せり。 按 本文十年許(ばかり)は貞享三年、稲葉丹後守正通、高田在城より元禄十四年、下総佐倉に改封せらるる間にして、郡名の復古は稲葉氏の意に出でたるか如し、其謂(いい)は、同氏は本姓、越智、祖神を三島の神とす。(大三島・大山祇神社〈おおやまづみじんじゃ〉の祭神・大山積神)想うに、三島郡の根據正しき名前を改め苅羽郡としたるは、同氏の甚だ意に満たさる所なるべし。因て古名に復されたるならん。然るに元禄十四年、戸田能登守忠真が高田に在城するや、又直ちに苅羽郡に改められたり。故に同年以後の検地帳等には一も三島郡を書きたるものなし。 『刈羽郡旧蹟志』第一篇郡郷部「近古称苅羽氏者〔近古、苅羽氏を称すは〕」 地理志料に云、苅羽、義経記作苅羽浜〔義経記は苅羽浜と作す〕、今有苅羽村〔今、苅羽村有り〕、北越太平記、北越軍談、長尾実景居此、称苅羽氏、遂呼其領邑、為苅羽郡者、戦国時、此例纂多。 《『日本地理志料』に、『義経記』には「苅羽浜」という記載があり、今は、苅羽村がある。また『北越太平記』・『北越軍談』には、長尾実景この地に住居して、苅羽氏と称し、最後には、その領有する村を苅羽と呼んだ。苅羽郡が成立したのは戦国時代の事で、こうした例を集めて見ると実に多い。》 地名辞書に云、荒浜に近く苅羽村あり。因て接するに北越太平記、北越軍談等に長尾の一門に彦次郎実景と云ふ人、此苅羽て苅羽彦次郎とも呼び、又所々散居の間、族を分たんが為に、古志の長尾、苅羽の長尾なんと云ひ、天文十年、昭田常陸助、三條俊景と共に長尾晴景に叛きし時、一味の者を所々の城々へ分ち遣はしたるにも、苅羽へは世良田九郎左衛門遣置等の事あれば、一方の渠率 |
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1947/05/18
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