柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
ここで、『毛利家文書』における関係文書を紹介する。ここに謂う『毛利家文書』とは、東京帝国大学文学部飼料研鑽掛(現在の東京大学史料編纂所)が編纂した『大日本古文書』に収録されたものである。尚、冒頭の漢数字は、同書に付けられた文書番号である。 【註】沙彌は、「沙弥(シャミ)」、出家して十戒は受けたが、まだ具足戒は受けていない男子の僧。出家したばかりで修行の未熟な僧の意味。 【補注】 毛利経光は、蔵人、右近将監、從五位下、入道して、寂仏という。 時親当地ヲ去ルト雖モ尚一族ノモノ止マレルナラン 〔時親、当地を去ると雖も、尚、一族のもの止まれるならん〕 《時親は、当地・南庄を去ったが、一族は、尚、止まっていた様である》 【註】元徳二年は、西暦1330年、この年、後醍醐天皇、花園上皇、将軍は金沢貞顕、執権は北条守時。翌元徳三年には、南北朝に分れ、北朝は光厳(コウゴン)天皇になり、南朝は、後醍醐天皇、元号は元弘となる。 【補注】毛利孫太郎親茂は、初め「親茂」改めて「親衡(ちかひら)」、孫太郎、備中守、陸奥守、從五位下、入道して、宝乗と云う。 南條村東方ノ八石山余派ナル丘山ニ城の内ト称スル家アリ之レ其地ハ古城蹟ナルヲ以テ称ス其傍ニ一社アリ明治ノ初年其屋敷ヲ拡メントシテ一頭骨ヲ発掘ス藍澤南城先生ハ此古城址ヲ毛利経光公ノ築キシモノトノ説ヲ立テラレタルヲ以テ城の家ニテハ毛利玄蕃允経光毛利修理亮時親ト記セル位牌ヲ佛殿ニ安置シ以テ今ニ追弔スト 〔南條村、東方の八石山余派なる丘山に城ノ内と称する家あり。これ、その地は古城跡なるをもって称す。その傍らに一社あり。明治の初年、その屋敷を拡めんとして、一頭骨を発掘す。藍澤南城先生は、この古城址を毛利経光公の築きしものとの説を立てられたるをもって、城ノ家にては、毛利玄蕃允経光、修理亮時親と記せる位牌を仏殿に安置し、もって今に追弔すと〕 《南條村の東方にある八石山に連なる丘の上に、「城ノ内」と云う家がある。これは、この地域が古城跡であった事に由来する。その傍に神社がある。明治時代の始め頃、この境内を拡張しようとした所、ひとつの頭骨が発掘された。藍沢南城先生は、この古城址を毛利経光公が築いたという仮説を立てられので、「城の家」では、毛利玄蕃允経光・毛利修理亮時親と 銘記した位牌を作り、仏壇に安置し、今も追弔しているとの事である》 又口碑ニ毛利公ハ当地ヲ御立退キナサレタリトモイヘリ 〔また口碑に毛利公は当地を御立退きなされたりといえり〕 《また伝承によれば、毛利公は佐橋の庄を立ち退いたと伝えられている》 抑々毛利経光ノ在城年月不詳ナリト雖モ三浦泰時ノ北条氏ニ殺セラレ三浦氏ノ滅亡ハ寶治元年ナレバ経光ノ南荘ニ来レルモ其頃ト大差ナキヲ知ル殊ニ石川中村嘉平治氏ノ系譜ニ弘安五年三島郡鯖石庄善根館主毛利家云々ト寶治ト弘安トハ僅カ三十年ノ差ノミ以テ毛利ノ存スルナリ口碑傳説等多少ナキアラザレドモ口碑傳説ニハ年代ヲ缺キ前後ヲ混淆シ甚ダ不確実ナルノミナラズ奇怪ノ説ヲナシテ信ズルニ足ラザルモノ多シサレバコヽニ毛利氏ノ家譜(日本外史)ト関甲子次郎氏ノ編纂ニ関スルモノヨリ抜抄ス之レ又多少ノ疑惑ナキアタハズ然レド郷土史完成期日モ切迫シ余日ナケレバ其ハ他日ニ譲ラン殊ニ毛利氏ハ南朝ノ忠臣ナレバ其事跡ヲ明ニスルハ當村教育ノ為メニ切望スルトコロナリ 〔そもそも毛利経光の在城年月不詳なりといえども、三浦泰時の北条氏に殺せされ、三浦氏の滅亡は宝治元年なれば、経光の南荘に来れるも、その頃と大差なきを知る。殊に石川中村嘉平治氏の系譜に、弘安五年、三島郡鯖石庄善根館主・毛利家云々と。宝治と弘安とは、僅か三十年の差のみ。もって毛利の存するなり。口碑伝説等、多少なきあらざれども、口碑伝説には年代を欠き、前後を混淆(コンコウ)し、甚だ不確実なるのみならず、奇怪の説をなして信じるに足らざるもの多し、されば、ここに毛利氏の系譜(日本外史)と関甲子次郎氏の編纂に関するものより抜抄す。これまた多少の疑惑なきあたわず。然れども郷土史完成期日も切迫し、余白なければ、それは他日に譲らん。殊に毛利氏は南朝の忠臣なれば、その事跡を明らかにするは、当村教育の為に切望するところなり。〕 《もともと毛利経光が南條に居た時期は確かではないのだが、三浦泰村が北条氏によって殺されて三浦氏が滅びたのが宝治元年(1247)の事なので、経光が南荘(南條)に居住したのも、大体同じ頃だとは思われるが、注目すべきは、石川の中村嘉平治氏方に伝わる家系図に拠れば、弘安五年(1282)に三島郡鯖石庄善根の館の主である毛利家などとあり、宝治と弘安は、およそ30年位の差がある程度だから、恐らくこの時代に在住したのではないだろうか。伝承や伝説は多少あるのだが、これらには年代が明記されておらず、前後の関係が不明瞭で、とても精確な物とは言えず、怪しげな説も多く、信じがたいものが多い。そこで、ここでは頼山陽の『日本外史』による毛利氏の系譜と関甲子次郎氏の編纂した史料(『柏崎文庫』か)から抜粋したものを紹介する。ただ、多少の疑問もある。しかし、この郷土史(『中鯖石村誌』)の完成時期も迫っており、記載できる余白が少ないので、詳細については、またの機会に譲りたい。また、毛利氏は南朝の忠臣であるから、その事跡を明らかにする事は、当村の教育上も有益であり、出来る事なら、詳細にわたる村誌の調査研究と出版を望んでやまない。》 毛利氏ノ系譜 【補注】著者は、頼山陽の『日本外史』と関甲子次郎氏の、恐らく『柏崎文庫』を参照していると思われるが、系譜として集大成された堀田正敦の『寛政重修諸家譜』を参照したい。 〇大江廣元(以下、『寛永重修諸系譜』による。〇は兄弟姉妹。) 縫殿允: 律令制における中務省管下の女官人事・裁縫監督機関の官吏。大允(ダイジョウ)は従七位上、少允(ジョウジョウ)は従七位下。 少外記: 外記は、朝廷組織の最高機関・太政官に属した官吏。少外記(ショウゲキ)は、正七位上。權少外記は、その少外記の次官。 天文博士: 陰陽寮に設置された教官で天文道のことを 担当する。正七位下相当。 明法博士: 大学寮に属した官職の 一つ。令外官(律令に無い官職)。定員2名で、当初は正七位下相当。当時は、中原氏の世襲官職になって居た為、官位が正五位下だったと思はれる。 左衛門大尉: 左衛門府の判官であり、左衛門大尉(さえもんのタイジョウ)は、本来、従六位下の官位だが、平安時代末期、既に官位の序列も乱れていた。 検非違使: 京都の治安維持と民政を所管したが、平安時代末期には、北面の武士の職種の様になった。 兵庫頭: 武器管理庫の長官。 掃部頭: 宮中の儀式の設営や清掃を所管する掃部寮の長官。 大膳大夫: 朝廷において臣下に対する饗膳を供する大膳職の長官。 国の守: 従来、安芸守、因幡守は、従五位下(權介は、次官の補佐官)、陸奥守は、従五位上の官位だった。
仁安三年十二月十三日、縫殿允(寛永系図、縫殿頭)となり、嘉應二年十二月五日、權少外記に任じ、承安元年正月十八日、博士、少外記となり、三年正月五日、從四位下に叙し、二十一日、安藝權介に任ず。治承四年、頼朝將軍の招きにより關東に下向し、後、相模國愛甲郡毛利庄を宛行はる。壽永二年四月九日、從五位下に叙し、元暦元年九月十一日、因幡守に轉じ、十月六日、あらたに公文所を置れしとき別當職に補せられ、着坐して政事を沙汰す。文治元年四月三日、正五位下に昇り、二年二月七日、肥後國山本庄をたまふ。是より先、行家、義經等を追捕すべきの命ありといへども、容易にこれを捕へ得ず。頼朝ふかくこれをうれふ。廣元議していはく、世、旣に澆季にをよび、姦宄の徒、日々に多し。東海道は、幕府鎮撫したまへば、靜にして不慮のことなし。その他は道遠く坐りながらにして防禦しがたし。亂賊しばしば起りて、これを征せむには、毎兵勞して民弊ゆべきなり。國衙庄園に地頭を置れ、所にしたがひて追捕せしめむにはしかじとなり。頼朝大によろこび、則、奏してその議のごとく行はる。これよりしてをのづから兵馬の權みな幕府に歸せしかば、其功を賞せられて加恩の地をたまふ所なり。建久二年正月十五日、公文所をあらためて政所と稱し、はじめて吉書始め行はれしとき、廣元、猶別當職たり。二年(寛永系圖、四年とす。)四月朔日、明法博士ならびに左衛門大尉に任じ、使の宣旨をかうぶり、十一月五日、博士、検非違使を辞す。十二月十七日、後白河法皇より銀劔をたまふ。七年正月二十八日、兵庫頭に補せられ、正治元年十二月二十二日、大膳大夫直講師を辭し、かさねて掃部頭に任じ、又、大膳大夫に任ず。二年十一月十九日、從四位上に叙し、建保二年正月五日、正四位下に昇り、四年正月二十七日、陸奥守に任ず。六月十一日、廣元、狀を捧げて、廣元、掃部頭・廣季がもとにやしなはれしより、このかた中原氏を冒すといえへども、式部少輔・維光とかつて父子の義あるときは、をのづから継嗣の理にかなふ。その姓、大江に復し、たえたるをつがんとこふ。七月朔日、勅許あり。これより子孫相継て氏となす。(寛永系圖に關東にをいて頼朝兄弟の義に准じて源と號す。しかれども、氏、廣元一代なり。大官令と號すといふ。呈議に、廣元、鎌倉執務のとき、平氏の役をつとむる事あり。しばらく平氏を稱すといふ。いまだ親が是なることを詳にせず。よりて重記す。)五年十一月十日、出家して覺阿と號す。嘉禄元年六月十日(寛永系圖に十八日)、卒す。年七十八(寛永系圖に八十三)。法名、覺阿。 《仁安三年(1169)12月13日、縫殿允(寛永系圖では、縫殿頭)とあり、嘉応二年(1170)12月5日、権少外記に任じられ、承安元年(1171)正月18日、天文博士、少外記となり、同三年(1173)正月5日、従四位下に叙せられ、同21日、安芸権介に任じられた。治承4年(1180)将軍・源頼朝の招かれて関東に下向し、その後、相模国愛甲郡毛利庄を与えられた。寿永2年(1183)4月9日、従五位下に叙せられ、元暦元年(1184)9月11日、因幡守に転任し、同10月6日、新しく公文所が設置されると、その別当職に任命され、政事を所管し、裁決を下した。文治元年(1186)4月3日、正五位下に昇格し、同2年(1187)2月7日、肥後国山本庄(〈熊本県〉山本郡山本郷、東西山本庄がある)これより先、行家や義経等を追捕せよとの命令あったが、容易に捕縛する事が出来ず、頼朝は深く憂えていたが、廣元が評定の席で、「世の中は、既に澆季(ギョウキ、道義が廃れ乱れた世の中)になっていて、姦宄(カンキ、内外の乱れ、正義や道義に反する)の徒、すなわち悪人が日ごとに多くなたが、東海道は幕府によって鎮撫され、静かになって事故も起こらない。その他の地域は、遠方なので動かなければ、防ぐ事ができない。反乱がしばしば起きるが、これを制圧するには、その度に、兵は疲労し、民は疲弊する。そこで、国衙(国の役所)や庄園に地頭を配置して、その場所付近で、追掛けて捕まえるしかない。」と提言した。頼朝は大変喜び、直ぐに奏上して、評定の提言の通りに実行に移した。こうした事から、兵馬の権(軍隊を統帥する権力)は、みな幕府に集中したので、その功績を賞されて、更に領地を加俸される事になった。建久2年(1191)正月15日、公文所を改革して政所と謂う名称に変え、改名してはじめて「吉書始め(初めて出す政務上の文書を奏上する)」の際にも、広元は、依然として別当職だった。同2年(寛永系図は4年)4月1日、明法博士と共に左衛門大尉(さえもんのたいじょう)に就任し、勅使の宣旨によって、同11月5日、博士と検非違使の職を辞した。同12月17日、後白河法皇より銀製の剣が下賜された。同7年(1197)正月28日、兵庫頭に任じられ、正治元年(1199)12月22日、大膳大夫・直講師(じきこうじ?、天皇の侍講の事か?)は辞任したが、更に掃部頭に就任され、また大膳大夫に任命された。同2年(1200)11月19日、従四以上に叙され、建保2年(1214)正月5日、正四位下に昇り、同4年(1216)正月27日、陸奥守に任命された。同6月11日、広元は状を捧げて上奏し、「過って広元は掃部頭・広季に養育された時から今日までは中原姓を名乗って来たけれども、実父である式部少輔・維光とは、自ずから維光の跡継ぎとしての義理があるので、大江姓に戻って、絶えた実父の家を継ぎたい」と請願した。同7月1日、これに対して勅許が下り、この時から子孫は大江姓を継承して氏とした。(寛永系図には、関東では、頼朝兄弟の手前、源姓を名乗った事もあるが、源姓を名乗ったのは広元一代限りの事で、大官令と称していた。広元が鎌倉幕府の執務をしていた時、平氏の役職に就いた事があり、この時はしばしば平氏を名のった事があったが、親族がこの点を明らかにしていないので、そのまま記載する。)同5年(1217)11月10日、出家して覚阿と号した。嘉禄元年(1225)6月10日(寛永系図では18日)に没した。享年78歳(寛永系図には83歳)。法名は覚阿である。》 〇秀嚴 阿闍梨 僧都 左女牛若宮の別當たり 【補注】左女牛(さめうし)若宮は、京都の若宮八幡宮の事。昔、左女牛小路に在った事から「左女牛八幡宮」とも云われた。因みに、阿闍梨・僧都である秀厳が、頼朝によって若宮神社の別當職に任じられたのは、本地垂迹説(神仏混淆)によるもの。 〇女子 田村伊賀守仲敎が女。 【補注】『尊卑分脈』に、伊賀守仲教(なかのり)の祖父・藤原影頼(島田二郎・近藤武者・武者所、後、貞成)は大友・武藤氏の開祖、父・能成(武者所・左近将監、近藤太と称す)は、近藤氏の開祖。伊賀守仲教については余り記述が無いが、子・仲能(亀谷・評定衆・刑部大輔)とあり、孫の代で、二男・重輔(しげすけ、淡路守)が水谷を称した。 〇女子 〇女子 大蔵大輔・重保が女。 |
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プロフィール
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77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
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歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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