柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
第二項 鯖石庄(佐橋庄)
東鑑文治二年注進状ニ越後国荘園廿三ノ内三島郡ニ属スルモノ佐橋庄六条院領比角庄穀倉院領宮川庄前斉(斎)院領大神庄仝上ノ四トス 〔東鑑文治二年、注進状に越後国荘園二十三の内、三島郡に属するもの佐橋庄(六条院領)比角庄(穀倉院領)宮川庄(前斎院領)大神庄(同上)の四とす。〕
【註】東鑑: 『吾妻鏡』、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。(ウィキペディア參照) 『越佐史料』第一巻、文治二年丙午 紀元千八百四十六年(1186年) 『吉川本・吾妻鏡』六 文治二年三月十二日、庚寅(コウイン、かのえとら)、〈(第五巻に記載)小中太光家為使節上洛、是左典厩賢息、二品御外姪、依可令加首題服給、被献御馬三疋長持被納砂金絹等、二棹之故也、又〉関東御知行国々内、乃貢米未済荘々、召下家司等、注文被下之可加催促給之由云々、今日到来。
佐橋庄タルヤ其区域明ナラズト雖モ六条院ノ領地タルコト左古記録ニヨリ一層明確ナリ 〔佐橋庄たるやその区域、明らかならずといえども、六条院の領地たること、左古記録により、一層明確ナリ。〕 《佐橋庄は、その場所がはっきりと判っているとは言えないが、六条院の領地であった事だけは、前掲の史料からも、更に明確になった。》
東鑑文治二年ノ条ニ六条院領佐橋庄一条院女房右衛門佐局沙汰云々トアリ又萬壽寺記ニモ佐橋庄ハ其寺領タリト 〔東鑑、文治二年の条に六条院佐橋庄一条院女房右衛門佐局沙汰云々とあり、また萬壽寺記にも佐橋庄はその寺領たりと。〕 《『東鑑(吾妻鏡)』の文治二年の条に「一條院女房右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね)沙汰」と云う記載があり、また『萬壽寺記』にも佐橋庄は萬壽寺の寺領であるとある。》
【註】萬壽寺記: 『萬壽禪寺記』あるいは『京城萬壽禪寺記』
承保二年白河天皇京都六条ニ造営シテ移御皇后ト為シ禅位ノ後仍仙洞タリト拾芥抄ニ見エ又百練抄中左記ニ永長元年皇女郁芳門院媞子薨ず上皇落飾宮ヲ棄テテ佛宇ト為ス萬壽寺之ナリ永享六年回禄シテ廃ス院ハ上皇ノ御在所ノ称ナリ又転ジテ上皇御身ヲ申シ奉ル語ニモ用イラレ以テ白河上皇ノ御領地タルヲ知シル然ルニ六条内裡(裏)ハ転ジテ寺トナルニ及ビ寺領トナレルナリ 〔承保二年(1075)、白河天皇、京都六条に造営して移御(イギョ、天皇・上皇・皇后などが他所へ移ること)し皇居と為し、禅位の後、よって仙洞(上皇の御所)たりと、『拾芥抄(シュウカイショウ)』に見え、また『百練抄(百錬抄)』中、左記に永長元年、皇女郁芳門院媞子(イクホウモンイン・テイシ)薨ず、上皇落飾、宮を棄てて仏宇となす。萬壽寺、これなり。永享六年、回禄(カイロク、火災)して廃す。院は上皇の御在所の称なり。また転じて上皇御身を申し奉る語にも用いられ、もって佐橋は、白河上皇の御領地たるを知る。然るに六条内裏は転じて寺となるに及び寺領となれるなり。〕 《承保2年(1075)、白河天皇は、京都六条に新に御所を建てて皇居(六條内裏)としたが、応徳3年(1086)、堀河天皇に位を譲り上皇になったので、ここが上皇の御所である仙洞(六條院)となったと、『拾芥抄』に記載がある。また『百練抄』の「永長元年」の項、左記(同年の詳細が左記)に、皇女である郁芳門院媞子の逝去に伴い、上皇は出家して、御所を廃し、改めて萬壽禅寺とした記載があり、永享六年には、上皇の御所が火災で焼失、上皇の御所を意味するとともに、上皇自身を表すのが「院」である事から、佐橋庄が、白河上皇の領地である事が判り、更に六條内裏が焼失して萬壽禅寺になった事から、寺領となったものである。》
【註】『拾芥抄』: 中世日本にて出された類書(百科事典)。城中下全3巻。元は『拾芥略要抄』とも呼ばれ、『略要抄』とも略されていた。
鯖石川ノ称ハ鵜川(右川)左川と対称セラレタルニ起リタル由ナルガ當地方ニ魚類ノ化石ヲ産シ方俗鯖石ト呼ビタルヨリ其音類スルニヨリ遂ニ左川ヲ鯖石川ニ転称シタルモノカ萬壽寺記ニ寺領越後国佐橋荘下司職毛利経光地出化石俗称鯖石ト而シテ鯖石ヲ産セルハ經光ノ時代ニアラズシテ古キ昔日ノコトナラン吉田博士佐橋ヲ一ニ鯖石ト作リ鯖石川ヨリ来レルヲ述ベタリ或ハさばいしノい略サレさばしト為リ遂ニ佐橋ト當字シタルモノナラン佐橋庄ハ北條南條ヲカケテ当地ヲ併セ称セルコトハ石川中村氏ノ家譜ニ三島郡鯖石庄善根八石云々弘安五年ト明記セラレタルヨリ北條専称寺及安田ニ遺レル古記録ニ照ラシ明確ナリ而シテ北條鹿島神社棟札ニ米山東刈羽郡佐橋庄北條郷云々天正十三年トアリ戦国時代ニ入ルモ猶庄名ヲ附称シタルノミナラズ文化年間ニ於ケル加納村ノ書上状ニモ刈羽郡久野木郷鯖石庄加納村ト添ヘ加ヘタリ之俗称ト雖モ以テ当地方ハ昔ノ佐橋庄園地タルヲ証スルニ足ル 〔鯖石川の称は、鵜川(右川)、左川と対称せられたるに起りたる由なるが、当地方に魚類の化石を産し、方俗、鯖石と呼びたるより、その音、類するにより、遂に左川を鯖石川に転称したるものか、萬壽寺記に寺領・越後国佐橋莊、下司職(ゲシシキ、平安末期から中世にかけて荘園の現地で荘務をつかさどる地位)毛利経光、地出化石、俗称鯖石と、而して鯖石を産せるは、経光の時代にあらずして、古き昔日のことならん。吉田博士、佐橋を一に鯖石と作り、鯖石川より来れるを述べたり。あるいは「さばいし」の「い」略され「さばし」と為り、遂に佐橋と当て字したるものならん。佐橋庄は北條・南條をかけて当地を併せ称せることは、石川・中村氏の家譜に、三島郡鯖石庄善根八石云々、弘安五年と明記せられたるより、北條・専称寺及び安田に遺れる古記録に照らし明確なり。而して北條・鹿島神社棟札に米山東、刈羽郡佐橋庄北條郷云々、天正十三年とあり、戦国時代に入るも、猶、庄名を附称したるのみならず、文化年間における加納村の書上状にも、刈羽郡久野木郷鯖石庄加納村と添え加えたり。これ俗称といえども以て当地方は昔の佐橋庄園地たるを証するに足る。〕 《鯖石川の呼称は、鵜川すなわち右川と対して左川と呼んだ事に起因していると云われるが、この地方では、魚類の化石が出土し、この辺りでは「鯖石」と呼ぶ事もあり、その発音が「左川」とよく似ている事から、次第に転化して、左川を鯖石川と呼ぶようになったと思はれる。『萬壽寺記(萬壽禅寺記)』(前記參照)に寺領、越後国佐橋莊とあり、後代の地頭である下司職だった毛利経光が、出土した化石、すなわち俗稱である鯖石を地名に用いたと云うが、化石である「鯖石」が出土したのは、経光の時代の時代ではなく、それよりも随分と昔であったようだ。吉田東伍博士は、佐橋を先ず「鯖石」とし、「鯖石川」に由来すると述べているが(【註】參照)、これは「さばいし」の「い」が省略され「さばし」となり、更に転化して「佐橋」と当て字したものだと思われる。佐橋庄は、北條から南條を合せて呼ばれている事は、北條の専称寺や安田に残る古文書などからも明らかであり、またこの事は、北條の鹿島神社の棟札にも、米山の東、刈羽郡佐橋庄北條郷など、天正十三年と書かれており、戦国時代に入ってからも、庄名を付けて呼んでいるばかりか、江戸中期にあたる文化年間の加納村の書上状にも、刈羽郡久野木郷鯖石庄加納村との添え書きが見える。この事は、俗称とは言え、この地域が佐橋庄園であった事を証明しているという事が出来るだろう。》
【註】吉田博士、云々: 吉田博士、すなわち吉田東伍博士の事。続く文章は、『大日本地名辞書』中巻「越後国・刈羽郡」の「佐橋(サバシ)」の項(中巻・2025頁中段)を参照したと思はれる。以下、原文。 旧庄名にて、又鯖石に作る。北條・南條などを本とし、近地を籠めたる私田の号なりしを知る。水名に起ると雖(いえども)、本来此辺に出る魚類化石を方俗鯖石と呼ぶに因る。東鑑、文治二年の條に「六條院領佐橋庄、一條院女房右衛門佐局沙汰」とあり、又萬壽寺記(群書類従本)にも佐橋庄は其寺領たりしこと見ゆ。其下司職は大江廣元の孫毛利経光の家へ伝え、謂ゆる毛利氏、北條氏、石田氏、安田氏など皆其佐橋庄地頭の裔孫に出ず。当国にて名高き旧家とす。 【補注】『荘園志料』(清水正健編・昭和8年・帝都出版社刊)は、上下二巻、全国の荘園を網羅した上下2300頁を越える大著であり、荘園研究の重要な資料である。当然のことながら、この大著が参照された訳ではないが、参考の為に、当該部分を紹介する。出典部分は、下巻・第十七篇「遠国三」越後国(1916P)三島郡の佐橋荘(1919P)。以下、引用。 佐橋庄下司職 |
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