柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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【註1】三島(三嶋)駅等に関しては、浅井勝利氏の『研究ノート・古代北陸道越後佐渡路に関する諸問題』(新潟県立歴史博物館「研究紀要」第1120103月掲載)に詳しく、それを参照した。尚、佐味の関連遺跡としては「上越市木崎山遺跡」、三嶋(三島)に関しては「柏崎市箕輪遺跡」が関連遺跡として揚げられている。

【註2】荒川に関しては、文脈からも疑問がある。『越後名寄』(第二巻)「川」の条に「荒川」の記載があるが、頸城郡(中頸城郡、現上越市)にあり、次のように書かれている。(便宜上、カタカナは平仮名に直した。また旧仮名遣いは現在仮名遣いに変更し、読み易くする為、句読点を加えた。)

 「上にて関川と云、水上は飛驒堺(境)より出、妙光山(妙高山?)戸隠山の間、渓(たに)、信越の堺を流れ、関川関所の前を過、荒井(新居)の駅より東を周り、さて渋井川・屋代川など流れ入て一つに成。高田郭(城)の後を行、此當(このあた)りより荒川と云えり。末は直江・今町の港なり。高田入口に橋在、今町と春日新田の駅の間は舟渡し也。渋井川は、カンナ山・火ウチ山の間より出る。屋代川は難波山より流れ出。」とある。

 また、吉田東伍の『大日本地名辞書』中巻「越後國・中頸城郡・荒川」の項に、次のように書かれている。

   「荒川 妙高山の西北なる回谷中に発し、焼山の東南を繞(めぐ)り、東に折れ黒姫と妙高の間に至り苗名瀧と為り、関川駅に至り、野尻湖の余水を容(い)れ北に折れこれより中游〈中流〉と為る、新居駅より下游〈下流〉と為り高田町の東を過ぎ、直江津の東に於て保倉川を容れ海にに朝宗(多くの河川がみな海に流れ入ること)す、長凡(およそ)十八里。中游以上は関川とも、下游には北川とも云えり。後略」とある。

 

 

 元明天皇寧楽建都ノ時に勅シテ国郡郷名ハ好字ヲ着セシメ且ツ必ズ二字ヲ用ヒ其郡内ニ生ズル所ノ諸物及土地ノ沃脊等ヲ史籍ニ載セシメテ言上セシム是レ即チ風土記ノ初ナリ時ニ里ヲ改メテ郷トス和名抄ノ編纂セラレタルハ元明帝以後ノコトナレバ三島郡ヲ三郷トセリ即チ三島・多岐・高家是レナリ今三郷ノ区域詳カナラザレドモ山田八十八郎氏ノ論正確ニ近キニ似タレバコヽニ挙グ

〔元明天皇、寧楽(ナラ)建都の時に、勅して国郡郷名は好字を着せしめ、且つ必ず二字を用い、その郡内に生ずる所の諸物及び土地の沃脊(ヨクセキ、瘠あるいは塉の誤植か)等を史籍に載せしめて言上せしむ。これ即ち風土記の初めなり。時に里を改めて郷とす。和名抄の編纂せられたるは、元明帝以後のことなれば、三島郡を三郷とせり。即ち、三島・多岐・高家、これなり。今、三郷の区域詳かならざれども、山田八十八郎氏の論証、確に近きに似たれば、こゝに挙ぐ。〕

《第43代元明天皇(女帝、661年〈斉明天皇7 - 721年〉1229日〈養老5127日〉)が、奈良(平城京)に藤原京から遷都した時(和銅3310日〈710413日〉)、勅令を発して、国郡郷の名称は、縁起の良い文字を当て、更に漢字二文字を用い、その郡内の産物や土地の良し悪しなどを歴史書に掲載せよと命じ、その事を言上させた。即ち、これが『風土記』編纂の初めである。その時に、里を改めて郷とした。和名抄(『倭名類聚抄』)が編纂されたのは、元明天皇以後の事だから、三島郡を三つの郷、すなわち三島・多岐・高家としている。今は、この三郷の区域も明確ではないが、山田八十八郎氏の論証が、かなり近いものだと考えられるので、次に引用する。》

 

【註】『続日本紀』(巻第六)和同六年五月甲子の条に「畿内七道国郡郷名著好字、其郡内所生、銀銅彩色草木禽獣魚虫等物、具録色目、及土地沃塉、山川原野名號所由、又古老相傳舊聞異事、載于史籍言上。〔畿内・七道・国郡郷の名は好き字に著し、その郡内に生ずる所の、銀銅・彩色・草木・禽獣・魚虫等の物は、具(とも)に色目を録し、及び土地の沃塉(ヨクセキ)、山川・原野の名号・所由(ショユウ、由来)、又古老の相伝・旧聞・異事は、史籍に載せて言上せよ〕」とある。推測すると、原文は、この『続日本紀』からの出典と考えられる。

 

 地勢ト古名称ノ遺ルモノトニ拠リ考フレバ鵜川鯖石川中島川ノ三流域ヲ以テ三島トスベシ鵜川ニ剣野ノ三島神社鯖石長鳥二流域ニ跨リ北條ノ御島石部神社アリ別山川ヨリ東吉井曽地赤田妙法寺阪田二田別山等ノ山巒ヲ繞ラシ今ノ三島郡ノ界ニ至ルヲ多岐郷トスベシ曽地ニ多々神社別山ニ多岐神社アリ別山川ヨリ西海ニ至リ北一大崎石地ニ延ビ南鯖石川ノ流末ニ及ブヲ高家郷トスベシ村名ニ高町瀧谷アリ又武町保瀧谷城アリ
 小国ノ一区域ハ地勢他ノ三郷ト自ラ異ナルヲ以テ別ニ一郷トスベシ此地ニ於ケル中世以後郷庄等ノ名称ヲ交ヘズ単ニ小国保ト称シ来ルハ謂アルニ似タリ
(倭名抄に三島郡を三郷に分つ。三島・高家・多岐、是なり。今三郷の区域詳ならざるも)地勢と古名称の遺(のこ)るものとに拠り考うれば、鵜川・鯖石川・中島川の三流域を以て、三島(みしま)郡(原本には「郷」とある)とすべし。鵜川と剣野の三島神社、鯖石・長鳥二流域に跨(またが)り、北條の御島石部神社あり、別山川より東吉井・曽地・赤田・妙法寺・阪田・二田・別山等の山巒(サンラン)を繞(めぐ)らし、今の三島(サントウ)郡の界(さかい)に至るを多岐(たき)郷とすべし。曽地に多々神社(多々神社名称の説、第七篇に具載す〈註・第七篇之二「東中通部・中通村」寺社の項冒頭〉)、別山に多岐神社あり、別山川より西、海に至り、北一(「一」は誤植か?原本には無い)、大崎・石地に延び、南、鯖石川の流末に及ぶを高家郷とすべし。村名に高町・瀧谷あり、また武町保、瀧谷城あり。小国の一区域は、地勢、他の三郷と自ずから異(原本では「殊」)なるをもって、別に一郷とすべし。この地における(原本では「於て」)中世以後、郷庄等の名称を交えず、単に小国保と称し来る(原本では「来りし」)は謂あるに似たり(第六篇小国部參照)。〕

《地勢と昔の名称の残るもから推論すると、鵜川・鯖石川・中島川の三つの流域の周辺を三島郡と考えるのが妥当だろう。また、鵜川と剣野の三島神社、鯖石川と長鳥川の二つの流域に跨り、北條の御島石部神社があり、別山川より東吉井・曽地・赤田・妙法寺・阪田・二田・別山などの山なみに囲まれた、今の三島(サントウ)郡と境界に至るまでを多岐郷と考えるのが妥当だろう。更に、曽地には多々神社があり、別山に多岐神社があるが、別山川から西の方角に海に至るまで、北の方に大崎・石地まで、南に鯖石川の河口までを高家郷と考えるべきだろう。それに由来すると思われる村の名前に高町・瀧谷があり、史跡として、武町保や瀧谷城がある。
 また、小国の一部は、地勢や他の三郷の様子とは異なるので、独立した一郷と考えるべきだろう。この地域における郷庄などの名称は、中世以降、他と重なる所がないので、単に小国保と伝承されるのは、そうした訳があるのではないだろうか。》
【註】この部分は、山田八十八郎の『刈羽郡旧蹟志』第一篇・郡郷部「郷荘保変革」(P76)にある。因みに、この部分は、『柏崎市史』(上巻・第六章・第三節「三嶋郡の分立」・「遺跡の分布と郷の所在」の項・P620)にも引用されている。また、同市史では、『柏崎編年史』(上巻・第一章「越後国の形成と柏崎」概説二「越後国三嶋郡三嶋郷と柏崎の関係」・P4、新沢佳大編著・昭和45年刊)を引用し比定している。また、『小国町史』では、第二章「古代の小国」第一節「国・郡・郷・駅・式内社」の「三島郡(刈羽郡)とその三郷」の項に同様の記載がある。


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