柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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高志国ハ越国ト記ス其因詳カナラズ

〔高志国は越国と記す、その因詳らかならず〕
(高志国は越国と書くが、その理由はよく分っていない。)

越国ハ蝦夷ノ巣窟ニシテ鎮撫ニ力ヲ盡サンコト史蹟ニ明記セリ

〔越国は蝦夷の巣窟にして鎮撫に力を尽くさんこと史籍に明記せり。〕
(越国は、蝦夷の巣窟であり、その鎮撫に尽力した事が様々な歴史書に明記されている。)

 崇神天皇ノ九年ニ大彦命ヲシテ北陸路ニ遣ハサレタルハ正シク皇命ニ服従セザル蝦夷征服ノ目的ニシテ其子孫ハ多ク此ノ地ニ止マリテ教化ニ努メラレタルナリ

 〔崇神天皇の九年に大彦命をして北陸路に遣わされたるは正しく皇命に服従せざる蝦夷征服の目的にして、その子孫は多くこの地に止まりて教化に努められたるなり。〕
(第10代崇神天皇の9年〈88BC〉、大彦命を北陸路に派遣したのは、天皇の命令に従わない蝦夷の征服が目的であり、その子孫〈大彦命の子孫〉の多くは、この地に止まって、蝦夷の大和同化政策を進めて行った。)

 景行天皇ノ三十九年日本武尊ヲシテ東夷ヲ征セシメ給ヘル時尊ハ吉備武彦ヲシテ越国ニ遣シ尊ト美濃国ニ会セシム日本武尊ノ行ハ其以前竹内宿禰ノ北陸及東山諸国ノ巡視ノ実境報告ニ起因セバ此ノ時代ニ於テ猶一部ニ土族ハ勢力ヲ得テ跋扈セシナラン崇神天皇時代ニ久比岐国ヲ置カレ后凡ソ一百五十年ヲ経テ成務天皇時代ニ高志国深江国ヲ置カレ其国造ハ大彦命ノ子孫ナルコト史ニ見ユルヨリ推セバ当時代ニ於テハ大彦命ノ子孫繁栄シ華夷雑居ト云へ政治ノ統一モヤヽ整ヘタルモノヽ如シ

 〔景行天皇の三十九年、日本武尊〈やまとたけるのみこと〉をして東夷を征せしめたまえる時、尊は、吉備武彦〈きびのたけひこ〉をして越国に遣わし尊と美濃国に会せしむ。日本武尊の行は、その以前、竹内宿禰〈たけうちのすくね〉の北陸及び東山諸国の巡視の実境報告に起因せば、この時代において、なお一部に土族は勢力を得て跋扈〈バッコ〉せしならん。崇神天皇時代に久比岐〈クビキ〉国を置かれのち、およそ一百五十年を経て、成務天皇時代に高志国深江国を置かれ、その国造は大彦命の子孫なること、史に見ゆるより推せば、当時代においては大彦命の子孫繁栄し華夷雑居といえ、政治の統一も、やや整えたるものの如し。〕

(第12代景行天皇の39年〈110AD〉、日本武尊に東夷の征服を命じられた時、尊は吉備武彦を越国に派遣して美濃国で会合するように命じた。日本武尊の行った事は、その昔、竹内宿禰による北陸道及び東山道諸国の巡視の際の視察報告によるもので、この時代でもまだ、一部の蝦夷などは勢力を持っていて朝廷に従う様子は無かったようだ。また崇神天皇時代に、久比岐国が置かれた後、およそ150年経て、第13代成務天皇の時代〈131191AD〉に高志国と深江国が置かれ、大彦命の子孫が国造になった事が史書に記載されている事から、大和人と蝦夷が雑居していたのであろうが、大彦命の子孫が繁栄して、政治的には統一が保たれ、治安も維持されていた様だ。)

 皇極天皇元年越辺蝦夷数千人内附ノコトアリ尋イテ渟足石舟ノ二柵ヲ建テ辺塞ト為ス以テ蝦夷ノ恭順セルモノハ其罪ヲユルサレ然ラザルモノハ皆奥陸ノ地ニ払ハレ彼等ノ侵略ヲ塞ギシナラン是ヨリ僅五年ニシテ齊明天皇ノ後代柵養津刈ノ蝦夷数人ニ冠位ヲ授ケ冬ニ至リ内属朝献スルモノ多シ天皇ノ四年越後国阿部臣比羅夫舟師百八十艘ヲ率ヒテ蝦夷ヲ伐チ齶田渟代都加留三郡ノ蝦夷降ルコヽニ郡領ヲ定メ渡島ノ蝦夷ヲ召シ撫諭シテ帰ルト以テ越ノ蝦夷ハ勿論齶田渟代ヨリ都加留ノ蝦夷モ略ニ降附シ渡島(今ノ北海道ノ南部)ノ蝦夷ニ至ルマデ皇化ニフニ至ルコヽニ於テ越国モ隈ナク皇化ニ沿フヲ得タリト云フベシ爾後凡ソ三十年紀元一千三百三十三年天武天皇ノ御代越国分レテ三越トナル

 〔皇極天皇元年、越辺の蝦夷数千人、内附(ナイフ、服属)のことあり、尋(つい)で渟足(ぬたり)石舟(いわふね)の柵を建て、辺塞(ヘンサイ)と為す。もって蝦夷の恭順せるものは、その罪をゆるされ、しからざるものは、皆奥陸(陸奥?あるいは奥陸奥?)の地に払われ、彼等の侵略を塞(ふせ)ぎしならん。これより僅か五年にして、齊明天皇の後代(御代?)に柵養(きかう、陸奥の柵を作る〈役人〉)津刈(つがる)の蝦夷数人に冠位を授け、冬に至り、内属(=内附)朝献(チョウケン)するもの多し。天皇の四年、越後国の阿部の臣・比羅夫、舟師百八十艘を率いて蝦夷を伐(う)ち、齶田(あきた)渟代(ぬしろ、能代)都加留(つがる)三郡の蝦夷降る。ここに郡領を定め、渡島(おしま、北海道)の蝦夷を召(め)し、撫諭(ブユ)して帰ると、もって越の蝦夷は勿論、齶田、渟代より都加留の蝦夷も略(ほぼ)に降附(コウフ)し、渡島(今の北海道の南部)の蝦夷に至るまで、皇化に嚮(むか)うに至る。ここにおいて、越国も隈(くま)なく皇化に沿うを得たろと云うべし。爾後(ジゴ)、およそ三十年、紀元千三百三十三年、天武天皇の御代、越国分れて三越となる。〕
(第35代・皇極天皇元年〈642AD〉、越国辺境の蝦夷数千人が大和朝廷に服属したことがあり、ついで渟足(沼垂)石舟(岩船)の柵(要塞)を設け、辺境を守る要塞とした。そこで、蝦夷の内で恭順する者は、その罪を許され、従わなかったものは、皆、今の東北地方である陸奥に追放された、蝦夷による反乱を鎮圧することができた。これにより、その後わずか五年で、第37代・斉明天皇〈655AD〉の代に、柵養の津軽の蝦夷数人(書記に二人)に冠位を授けたところ、その冬には、服属するものが多くなった。斉明天皇4年、越後国の阿部比羅夫は、180艘の艦隊を率いて蝦夷を征討し、齶田(秋田)渟代(能代)都加留(津軽)三郡の蝦夷が降伏した。その結果、ここに郡の領域を定め、また北海道南部の蝦夷を呼び集め、大和朝廷に起伏する様に説得して帰ると、越の蝦夷はもとより、齶田、渟代、都加留の蝦夷も大方が帰順し、北海道南部の蝦夷までも、次第に大和朝廷に従うようになった。その結果、越国の全域が、大和朝廷に帰順したと云うことができるだろう。これよりおよそ30年、紀元1333年〈673AD〉、第40代・天武天皇の時代に、越の国を三つに分け、三越、すなわち越前、越中、越後の国が成立した。)


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