柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
【註】 吉田博士: 吉田東伍、(よしだ とうご、元治元年4月14日(1864年5月19日) - 大正7年(1918年)1月22日)は日本の歴史学者、地理学者(歴史地理学)。新潟県出身(現:阿賀野市安田村)。「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人。(ウィキペディア參照) 神代巻: 『古事記』上巻の三、〔天照大神と須佐之男命〕 「須佐之男命」以下: 原文・読下し文・現代語訳の三対訳を添付。(青空文庫參照)
以上、尚、添付の『大日本地名辞書』(越後國)については、参考として添付した。また、添付ファイルは、容量等の制約からPDFファイルに変換して添付した。
『大日本地名辞書』(中巻) 吉田東伍 越後國 凡例:赤字は注釈付、青字は管見、()は原文のまま、《》は原文中の出典〔〕、[]は原文のルビ、〔〕は便宜上付けた読みである。 越後國 西は越中、西南は信濃、南は上野、東は岩代、東北は羽前、西北は海に至る、長さ六十里に上る大國にして、其奥羽の州界には大山脈あり、謂ゆる越後山脈是也。此國今十五郡(外に新潟市あり)に分ち、新潟縣治に属す。(北越とも云ふは南の越前の對稱也) 越後は地形三大段と爲る、上越後、中越後、下越後なり、(北越軍記などの軍書に多く上郡、中郡、下郡と云ふ、卽是)頸城郡を上越後とす、其東頸城は高陵起伏して魚沼郡に連接するを以て、魚沼も上越後の内とす。米山以北を中越後とし、阿賀野川の北二郡を下越後とす。信濃川は魚沼幷に中越後を貫流し、大小の江水之と相依附して一大澤國を成す。上郡下郡に沼澤の變して低野土田と爲れる者多く、近世頗廣衍富賑の名あり。天正検地三十九萬石、慶安に至り四十五萬石の計数あり、後田野益開け、寶歴の比俗諺に百五十萬石髙の目ありと雖、稍誇大の嫌あり。
送僧之越 鐡兜 北陸連三越、群陽秋已藏、送君當此際、禮祖向其方、 深洞聞熊語、寒嚴見佛光、七奇何必七、一雪壓歸裝
越後和名抄に古之乃美知乃之利と注し、延喜式七郡に分つ、是れ盖〔けだし〕和同五年以後の疆域と云ふ。中世三島郡を刈羽と改め、古志郡の西を分ち、山東[サントウ]と號し、沼垂郡を廢して蒲原郡に併せ、磐船郡を瀬波[セバ]と改む、其數舊に仍り七郡たり。近世山東を三島に改描し、瀬波を岩船に復古し、明治十三年頸城を東西中に、魚沼を南北中に、蒲原を東西南北に分ちしを以て合十五郡とす。而て和同以前の形勢を考ふるに、當時華夷雑居の境にあたり、謂ゆる邊遠國なり、延喜式に遠國と注し、俘囚料九千束を録す、殊に大同類聚方に蝦夷藥積聚の八劑を擧げて、越後國蝦夷等之傳方八箇と曰へり。大寶令に、 凡邊遠國、有夷人雜類(義解云、謂夷者夷狄也、雜類者亦夷之種類也)之所應輸調役者、隨事斟量、不必同華夏、(義解云、謂中國也) とあるも越後幷に出羽陸奥の事を知らる。其邊夷を化服して郡國を建置せられし跡を探るに、神代に方り出雲の大國主命(大己貴神)の來臨せられしと傳ふる故跡は、實に頸城に存す、(沼川鄕幷に居多[コタ]神社)叉古志郡の名を遺すより推せば、其上古稱して廣く越國と云へる大域の奥區中心卽此。(古志郡の條参考)崇神天皇の時、大彦命の北陸道[こしぢ]を巡行したまへるは、越國蝦夷の化服したまはんが爲ににして、當時の夷酋を八掬脛〔ヤツカハギ〕と號す。 大彦命の事は崇神記に見え、古事記には其子建沼河別命の東方より巡りませる者と相津[アイヅ]に往遇ふと載せ、相津は後の會津なれば、越後より出て給へる王子の巡路自ら分明す。姓氏錄に「阿部氏遠祖大彦命、遣治蝦夷之時」(彌彦神社を參考すべし)とあれば、此越路[コシヂ]の巡行は征夷の爲なりし事も分明し、釋紀に見ゆる越後風土記の逸文「美麻紀(崇神)天皇御宇、越國有人、名八掬脛、其脛長八掬、多力太強也、是出雲之後也、其族類多」とあるは、又強援傍證たり。出雲之後と云へるは稍詳ならず、出雲風土記に大國主命が越の八口[ヤツクチ]を平定したまふ事を錄し、(岩船郡八口を參考)今も當國に出雲崎出雲庄の地名あれば、出雲と名づくる夷類も此地に居りしと信ぜらる、蓋出雲大神に從属せる部種の謂歟。大同方に「蝦夷藥、□□國蝦夷等之傳方、國俗普所知也、元者大己貴神〔おおなむちのみこと〕授之神方也」とあるも越後國にて、彼夷の出雲大神に授賜はりしは、頗由來あるを覺ゆ。 景行紀に「日本武尊曰、蝦夷凶首、咸伏其辜〔つみ、コ〕、唯信濃國越國、頗未從化【中略】於是、分道、遣吉備武彥於越國、令監察其地形嶮易及人民順不【中略】日本武尊【中略】出美濃、吉備武彥、自越出而遇之」云々、民夷雜居したりし情形その詞にあらはる。國造本紀を審按するに、崇神朝に先づ久比岐[クビキ]國に置かれ、成務朝に高志國と深江[フカエ]國を加へらる。皇極帝元年、越邊蝦夷數千内附の事ありて、尋〔つ〕いで渟足〔ヌタリ〕石舟の二柵を建てて邊塞と爲す、北陸の拓地此際に至り始めて阿雅 [アガ]北に及ぶ。 齊明帝の時、越國守阿部臣比羅夫舟師を率て蝦夷を伐つ、遂に飽田、渟足、津輕の三郡を建て渡島[ワタリ]の夷を招き、粛愼〔みしはせ、あしはせ〕を伐ちて還る、其事舊史に詳なり。而も後比羅夫援韓の軍に從ひ西海に赴き利あらず、前に収めし北海の夷郡は皆離畔〔離反〕したるごとし。天武帝の朝に北陸分れて三國(若狭佐渡を併せて五國)と爲り、久比岐、高志、深江の地に、頸城、魚沼、古志、蒲原の四郡家を置かれ、之を射水、砺波、新川等に併せて越中となす。(親不知の南北に渉れりと知るべし)沼垂磐船以北は卽越後國にして、田川郡、及び飽田、津輕等の夷境を羈縻す。(鼠關の南北に渉れりと知るべし)當時越中越後の境界は沼垂に在り、卽信濃會津の二水の海口是也。大寶二年三月、越中の四郡を割き越後に併す、四郡は史に具注せずと雖、頸城、魚沼、古志(三島は古志郡の分郡なるべし)蒲原の地たること、形勢を推考して之を知る。和銅元年九月、新に狄部に出羽郡を建て越後に属せしむ、五年九月に至り、田川以北を割きて出羽國と爲し、越後の疆域是より大變なし。 史に越後の字を始見せるは文武紀「元年十二月、賜越後蝦狄物各有差」とある是なり、然れども持統紀已に越前の国名ありて、天武帝朝の末に三越の區分ありしと考へらる、論北陸道の下に詳にす。文武紀三年、越後蝦夷一百六人賜爵有差、大寶三年、令筑紫七國及越後國、簡點采女兵衛貢之、但陸奥國勿貢、かくて元明紀に至り、和銅元年出羽郡を建て、翌年三月征夷の軍起る、「陸奥越後二國蝦夷、野心難馴、屡害良民、於是遣使徴發云々、佐伯石湯爲征越後蝦夷將軍、自兩道征伐、七月令諸國運送兵器於出羽柵、送于征狄所、又命越前越中越後佐渡四國、船一百隻送于征狄所、八月將軍佐伯石湯等事畢入朝」とこの征狄所は蓋出羽柵なり。五年九月、出羽國を置かるゝ時の奏議に「北道蝦夷、遠□阻嶮、實縦狂心、屡驚邊境、自官軍雷撃、凶賊霧消、狄部晏然、皇民無擾、誠望便乘時機、遂置一國、式樹司宰、永鎭百姓」云々。 天平十五年佐渡國を越後に併せられしが、天平勝寶四年、舊に依り佐渡分立す。 越後名寄云、越後は市振より府屋[フヤ]、凡八十有餘里、東南に高山聳えて陽氣を懸隔し、西北に海水を帯びて陰氣餘りある故、寒濕深し、仍て雪の降ること早く、峰には九月より頂白く、春に至り五月猶殘雪あり、土地は肥て草木繁茂すれど、秋には雨多く、稲を刈採るも乾燥せず、糓實堅からず。○北越雜紀云、慶長二年、上杉景勝分國、越後七郡、佐渡三郡、信濃之内四郡、出羽之内二郡、合十六郡、検地、《長上正言紀》當時凡百萬石、越後知行高四十五萬六千石、其後開發田圃、今時一百五六十萬石。 (按に、越後正保中六十一萬二千石、其郡別は、
【註】 北越軍記: 雲菴 [著][出版者不明]、 寛永20 [1643]、全十六巻、尚、別名『北越太平記』として、『越後史料叢書』第一編に収録、デジタルライブラリーからダウンロードが可能である。 鐡兜 : (テットウ)河野鐡兜、河野は<かわの>ともいう。江戸後期の医者、漢詩人、俊造と称し鐵兜はその号で秀野人ともいう。文政8年播州網干に生まれ幼にして学を好み神童と称された。医を業としたが、のち梁川星巖の門に入り、好く詩学に通じ全国各地に遊学し、遂に江戸に於いて家塾を開く。慶応3年43才にて没す。著書に「覆醤詩談」「鐵兜遺稿」等がある。引首印は「秀野」、「秀野人」の下に、白文の「越羆之印」、朱文の「夢吉」の落款印が押されている。(好古斎、http://kohkosai.com/index.htm 參照) 和名抄: 『和(倭)名類聚集』二十巻本、十二「國郡部-北陸國」に記載 延喜式: (エンギシキ)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。(ウィディペキア參照) 疆域 : (キョウイキ)境域 大同類聚方: (ダイドウルイジュウホウ)は、大同3年(808年)5月3日に成立した日本最古の医学書。薬品の処方など各地に伝わる医方が収録された。全100巻。(ウィディペキア參照) 大寶令: 大宝律令(たいほうりつりょう)の事、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令である。 義解: (ギゲ)、『令義解』(りょうのぎげ)とは、833年(天長10年)に淳和天皇の勅により右大臣清原夏野を総裁として、文章博士菅原清公ら12人によって撰集された律令の解説書。全10巻。この書物によって、大宝令・養老令が伝えられている。(ウィキペディア參照) 景行紀以下: 『日本書紀』「景行紀」〈冬十月壬子朔癸丑〉から赤字の部分を引用。尚、以後も同様の引用があるが、抜粋、省略など在り、全文の顕彰が困難なため、以後の顕彰は省略する。
越後名寄: (えちごなよろ)全32巻、丸山元純著、1687-1758 江戸時代中期の医師。貞享(じょうきょう)4年生まれ。京都でまなび、郷里の越後(えちご)(新潟県)三島郡で開業、のち寺泊にうつる。かたわら史料、口碑をあつめて「越後名寄(なよせ)」をあらわした。宝暦8年死去。72歳。(コトババンク參照) 北越雜紀: 不詳。 長上正言紀: 不詳。
高志国ニ通ズル道ヲ高志道ト称スルコト猶阿波道ノ阿波国ニ於ケルガ如シ然ルニ後変遷シテ其沿道ノ地方ヲモ高志国ト称スルニ至リ遂ニハ高志道ト高志国トヲ混合シテ称スルニ至ル之日本海沿岸陸地ヲ総称シテ高志国トナス所以ナリ高志路ヲ一ニ北陸道ト称セルハヤヽ後ノコトニシテ天武天皇海内ヲ分チテ七道観察使ヲ置カルヽニ起リタルカ国郡沿革考ニ 天武天皇十四年九月東山東海以下六道ノ使者ヲ置カレシ時獨リ北陸道ノミ見エズ此時未ダ分道セズ猶東山ニ属セシナルベシ持統天皇紀ニ始メテ越前ノ名見ユレバ蓋シ天武天皇ノ末諸国ノ境界ヲ定ムルノ日始メテ越国ヲ分チテ三国トナシ十四年ノ後北陸道ヲ定メ置カレタルナルベシ 〔高志国に通ずる道を高志路と称すること、なお阿波道の阿波国におけるが如し、然るに、後、變遷してその沿道の地方をも高志国と称するに至り、遂には高志国と混合して称するに至る。これ、日本海沿岸陸地を総称して高志国となす所以(ユエン)なり。高志路を、一二北陸道と称セルは、やや後のことにして、天武天皇、海内を分ちて、七道観察使を置かるるに起りたるか、『国郡沿革考』に、 (高志国に通じる道を「高志道」と称したのは、丁度、阿波国で阿波道と呼んだのと同様で、その後、沿道の地方を高志国と言うようになり、とうとう高志道と高志国を混同してしまい、この日本海沿岸の地方を総称して「高志国」と言うようになった訳である。また高志路を一説には北陸道と云うのは後の事で、天武天皇が統治する地域を分けて七道観察使を置かれたのが始まりだと『国郡沿革考』に次のように書かれている。 【註】 七道観察使: 日本では、平安時代最初期の797年頃、地方行政の遂行徹底を狙う桓武天皇により、地方官(国司)の行政実績を監査する勘解由使が設置された。勘解由使は国司行政を厳正に監査し、地方行政の向上に一定の効果を上げていた。しかし、806年(大同元年)、桓武天皇が崩御すると、後継した平城天皇は政治の刷新を掲げ、同年6月、その一環として勘解由使を廃止し、新たに観察使を置いた。観察使は当初、東山道を除く六道(東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)ごとに設置され、六道観察使とも呼ばれた。また、観察使は議政官の一員である参議が兼任することとされていた。観察使は、参議に比肩しうる重要な官職だった。翌807年(大同2年)、東山道および畿内にも観察使が置かれた。併せて、参議を廃止して観察使のみとした。観察使による地方行政の監察は、精力的に実施されていたようで、『日本後紀』には、各観察使が民衆の負担を軽減するため、様々な措置を執っていたことが記録されている。 810年(弘仁元年)、前年に譲位した平城上皇と嵯峨天皇の関係が悪化していく中、同年6月、嵯峨天皇は、観察使を廃止して参議を復活する詔を発令した。これにより観察使は4年間の歴史を終えた。(ウィキペディア參照) 国郡沿革考: 塚本明毅が「東京地学協会報告」に寄稿した『日本国郡沿革考』の事と思われる。 尚、『中鯖石村史』の著者である北村三山は、本名、貞作と云い、明治28年当時は、刈羽郡加納尋常小学校訓導兼学校長であった。尚、当時の月報は6円だったようで、これは現在の額に換算すると、3万円前後であり非常に薄給であった事が判る。そして、この『中鯖石村誌』が書かれた当時は、17・8年後の事だ。当時、書籍や雑誌などは、きわめて高価なものだった事を考えると、一般庶民には程遠く、図書館を利用するとしても、それ相応の知識を必要とする。因み、当時の刈羽郡立図書館の概要は下記の通り。
高志国ハ越国ト記ス其因詳カナラズ 〔高志国は越国と記す、その因詳らかならず〕 越国ハ蝦夷ノ巣窟ニシテ鎮撫ニ力ヲ盡サンコト史蹟ニ明記セリ (越国は、蝦夷の巣窟 |
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1947/05/18
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よろず相談家業
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歴史研究、読書
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柏崎マイコンクラブ顧問
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