柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第六章 「沿革」

第一節 「新潟縣」

 

 新潟県ハ封建時代ノ越後ノ国佐橋国ヲ併合シタル新称ナリ越後国ハ和名抄古之乃美知乃之利ニシテ太古ニアリテハ高志越ト称セルコト明ナリ元ヨリ往古ノコトハ知ル由ナケレドモ新潟県ノ沿革ヲ明カニセント欲セバ高志越後ノ変移ヲ挙グルニアラン之余ガ越後新潟県ノ三項ヲ設ケ記載スル所以ナリ

 《新潟県は、封建時代の「越後国」と「佐橋国」を合せた新しい名称である。越後国は、『和名抄』では「古之乃美知乃之利」(こしのみちのしり)といい、更に昔では、「高志」「越」という名称であったことは確かである。もっとも、昔の事で確かな事を知る事は出来ないが、新潟県の歴史を明らかにしようと思えば、「高志」「越」の変遷を調べつ事が必要だろう。この事が、筆者が越後・新潟県を三項目に分けて記載する理由である。》

【註】

  佐橋国: 文脈からも、「佐渡国」の誤り。誤記あるいは誤植であろう。

和名抄: 「和名抄」は通称。和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。(ウィディペキア參照)
倭名類聚鈔 20巻の解題/抄録(以下、近代デジタルライブラリー參照)
 源順著の漢和辞典。10巻本とそれを増補した20巻本があり、20巻本は漢語の名詞を天地部より草木部まで32部、249門に分類配列し、出典、音注、説明、和名を注記した、一種の日用百科辞書である。室町までの古写本が多く伝わるが、版本としては元和3年(1617)に那波道円が校訂刊行した20巻本の古活字本が出、以後、慶安元(1648)、万治21659)、寛文71667)、寛文11、貞享51688)と整版本がでるが、すべて道円の校訂本である。当該本は寛文7年村上勘兵衛の版で、慶安元年本の版木を使用した後印本である。全巻にわたり、本居宣長の校合本と古写本で校合した生川春明の書入れがある。(岡雅彦)(2016.2

古之乃美知乃之利: (こちのみちのしり)万葉仮名による読みの表記。

高志: (こし)出典『古事記』

越 : (こし)出典『日本書紀』、他に「越洲(こしのしま)の表記。

古志: (こし)出典『出雲国風土記』神門郡の条。

 

第一項 「越国 高志国」

 

越国ト書ニ見ユルハ崇峻天皇時代以降ニシテ其以前ハ高志国ト記セルモノヽ如シ古事記ノ水垣ノ宮段

  此之御世大毘古命遣高志道中略罷行高志云々

ト見ユ而シテ其高志国ハ今ノ越後国地方ヲ指示セルナラン

 (「越国」と書物に書かれるのは、崇峻天皇時代より後の事で、それ以前は、「高志国」と書いていたようだ。『古事記』の「水垣の宮」の段に
   〔此の御世、大毘古命は高志道に遣わし、[中略]、「罷行高志」云々〕
と書かれている。そこで、その「高志国」は、今の越後国地方を示しているのだろう。)

 【註】

 崇峻天皇: 崇峻天皇(すしゅんてんのう、欽明天皇14年(553? - 崇峻天皇5113日(ユリウス暦5921212?))は、第32代天皇(在位:用明天皇282日(58799? - 崇峻天皇5113日(5921212?))。諱は泊瀬部(はつせべ)、即位前は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と称した。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある。(ウィキペディア參照)
尚、崇神天皇以降、「越国」の出典については不詳。『日本書紀』では、「大日本根子國牽天皇 孝元天皇(第八代)」の項に、「越国造」として名前が見える。
 「大日本根子國牽天皇、大日本根子太瓊天皇太子也。母曰細媛命、磯城縣主大目之女也。天皇、以大日本根子太瓊天皇卅六年春正月、立爲皇太子、年十九。七十六年春二月、大日本根子太瓊天皇崩。
元年春正月辛未朔甲申、太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。是年也、太
丁亥。
四年春三月甲申朔甲午、遷都於輕地、是謂境原宮。

六年秋九月戊戌朔癸卯、葬大日本根子太瓊天皇于片丘馬坂陵。
七年春二月丙寅朔丁卯、立欝色謎命爲皇后。后生二男一女、第一曰大
命、第二曰稚日本根子大日々天皇、第三曰倭迹々命。一云、天皇母弟少男心命也。妃伊香色謎命、生太忍信命。次妃河靑玉繋女埴安媛、生武埴安命。兄大命、是阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫國造・越國造・伊賀臣、凡七族之始祖也。太忍信命、是武宿禰之祖父也。
廿二年春正月己巳朔壬午、立稚日本根子
大日々尊、爲皇太子、年十六。
五十七年秋九月壬申朔癸酉、大日本根子
牽天皇崩。」

 古事記水垣ノ宮ノ段: 『古事記』中巻-2からの部分的引用。前後の関係が分らないので、その部分を上げ、該当部分に読下し文を付す。尚、読下し文は、本居宣長『古事記伝』に準拠した。


「崇神天皇」
 御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。此天皇、娶木國造・名荒河刀辨之女刀辨二字以音遠津年魚目目微比賣、生御子、豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱。又娶尾張連之祖・意富阿麻比賣、生御子、大入杵命、次八坂之入日子命、次沼名木之入日賣命、次十市之入日賣命。四柱。又娶大毘古命之女・御眞津比賣命、生御子、伊玖米入日子伊沙知命伊玖米伊沙知六字以音、次伊邪能眞若命自伊至能以音、次國片比賣命、次千千都久和此三字以音比賣命、次伊賀比賣命、次倭日子命。六柱。
此天皇之御子等、幷十二柱。男王七、女王五也。故、伊久米伊理毘古伊佐知命者、治天下也。次豐木入日子命者、上毛野君、下毛野君等之祖也。妹豐鉏比賣命者、拜祭伊勢大神之宮也。次大入杵命者、能登臣之祖也。次倭日子命。此王之時、始而於陵立人垣。
此天皇之御世、病多起、人民死爲盡。爾天皇愁歎而、坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰「是者我之御心。故以意富多多泥古而、令祭我御前者、神氣不起、國安平。」是以、驛使班于四方、求謂意富多多泥古人之時、於河之美努村、見得其人貢進。
爾天皇問賜之「汝者誰子也。」答曰「僕者、大物主大神、娶陶津耳命之女・活玉依毘賣、生子、名櫛御方命之子、飯肩巢見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古。」白。於是天皇大歡以詔之「天下平、人民榮。」卽以意富多多泥古命、爲神主而、於御諸山、拜祭意富美和之大神前。又仰伊迦賀色許男命、作天之八十毘羅訶此三字以音也定奉天神地祇之社。又於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛、又於大坂神、祭黑色楯矛、又於坂之御尾神及河瀬神、悉無遺忘以奉幣帛也。因此而
氣悉息、國家安平也。
此謂意富多多泥古人、所以知神子者、上所云活玉依毘賣、其容姿端正。於是有神壯夫、其形姿威儀、於時無比、夜半之時、儵忽到來。故相感共婚共住之間、未經幾時、其美人妊身。爾父母恠其妊身之事、問其女曰「汝者自妊。无夫何由妊身乎。」答曰「有麗美壯夫、不知其姓名、毎夕到來、共住之間、自然懷妊。」

是以其父母、欲知其人、誨其女曰「以赤土散床前、以閇蘇此二字以音紡麻貫針、刺其衣襴。」故如教而旦時見者、所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾卽知自鉤穴出之狀而、從糸尋行者、至美和山而留神社、故知其神子。故因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也。此意富多多泥古命者、神君・鴨君之祖。

又此之御世、大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而、令和平其麻都漏波奴《自麻下五字以音》人等。又日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠。《此人名者也。玖賀二字以音。》
〔またこのみよに、大毘古命(おおひこのみこと)をば、高志の道に遣わし、その子(みこ)建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)をば、東方(ひむがしのかた)十二道(とおまりふたみち)に遣わして、その麻都漏波奴(まつろはぬ)人どもをことむけやわさしむ。《麻より下五字は、音を以てす》、また日子坐王(ひこいますのみこ)をば、旦波国(たにはのくに)に遣わして、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)《これ人の名なり。玖賀二字は音を以てす》をとらしめたまいき。〕
故大毘古命、罷往於高志國之時、服腰裳少女、立山代之幣羅坂而歌曰、
〔故(かれ)大毘古命、高志国(こしのくに)に罷(ま)りいます時に、腰裳(こしも)着(け)せる少女(おとめ)、山代(やましろ)の幣羅坂(へらざか)にたてりて、歌いけらく、〕
古波夜 美麻紀伊理毘古波夜 美麻紀伊理毘古波夜 意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登 斯理都斗用 伊由岐多賀比 麻幣都斗用 伊由岐多賀比 宇迦迦波久 斯良爾登 美麻紀伊理毘古波夜、
〔こはや みまきいりひこはや みまきいりひこはや をのかをを ぬすみしせむと しりつとよ いゆきたかひ まへつとよ いゆきたかひ うかかはく しらにと みまきいりひこはや〕
於是、大毘古命思恠、返馬、問其少女曰「汝所謂之言、何言。」爾少女答曰「吾勿言、唯爲詠歌耳。」卽不見其所如而忽失。
〔ここに、大毘古命あやしとおもいて、馬を返して、その少女に、「汝(いまし)が謂(い)えること、何(いか)いうこととぞ」と問いたまえば、おとめ、「あれものいわず。ただ、歌をこそうたいつれ」と答えて、行方も見えず、たちまちに失せにき。〕
故大毘古命、更還參上、請於天皇時、天皇答詔之「此者爲、在山代國我之庶兄建波邇安王、起邪心之表耳。《波邇二字以音》伯父、興軍宜行。」卽副丸邇臣之祖・日子國夫玖命而遣時、卽於丸邇坂居忌瓮而罷往。於是到山代之和訶羅河時、其建波邇安王、興軍待遮、各中挾河而、對立相挑、故號其地謂伊杼美。今謂伊豆美也。爾日子國夫玖命乞云「其廂人、先忌矢可彈。」爾其建波爾安王、雖射不得中。於是、國夫玖命彈矢者、卽射建波爾安王而死。故其軍悉破而逃散。爾追迫其逃軍、到久須婆之度時、皆被迫窘而、屎出懸於褌、故號其地謂屎褌。今者謂久須婆。又遮其逃軍以斬者、如鵜浮於河、故號其河謂鵜河也。亦斬波布理其軍士、故號其地謂波布理曾能。《自波下五字以音》如此平訖、參上覆奏。

故、大毘古命者、隨先命而、罷行高志國。爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古共、往遇于相津、故其地謂相津也。是以各和平所遣之國政而覆奏。
〔かれ、大毘古命、先のみことのまにまに、高志の国に罷(まか)りいましき、ここに東(ひむがし)の方よりまけし建沼河別(たけぬなかわわけ)、その父大毘古命と共に相津(あいづ、陸奥国会津郡)にゆきあいたまいき。かれ、そこを相津という。ここを以て各(おの)ももまけつる国の政(まつりごと)むけて、かえりことまおしき。〕
爾天下太平、人民富榮。於是、初令貢男弓端之調、女手末之調。故稱其御世、謂所知初國之御眞木天皇也。
〔かれ、あめのした、たいらぎ、おおもたから、富さかえき。ここに、はじめて、男のゆはずのみつぎ、女(おもな)のたなすえのみつぎを、たてまつらしめたまいき。かれ、その御世をたたえまつりて、はつくに知らしし、みまきのすめらみこととまおす。〕
又是之御世、作依網池、亦作輕之酒折池也。
〔また、この御世によさみの池を作り、また、かるのさかおりの池を作らしき。〕
天皇、御、壹佰陸拾捌。御陵在山邊道勾之岡上也。
〔すめらみこと、みとし、ももちまりむそじやつ、みはかは、やまのべのみちのまがりのおかのへにあり。〕

 尚、「あおぞら文庫」に次のような訳文があるので、参考の為に転写して添付する。該当する『古事記』のURLは、次の通り。
 https://www.aozora.gr.jp/cards/001518/files/51732_44768.html

 

 また、『古事記』の原文には種々あり、読下しも様々なので、取り敢えず、デジタルライブラリー所蔵の本居宣長の『古事記伝』を参照したが、判読の困難な個所もあり、必ずしも正確とは言えない。よって、関心のある人は、岩波文庫版等を参照されたい。

 

 古志郡ハ実ニ其遺号ト知ラルベシ元ヨリ区劃不明ニシテ只現今ノ古志郡ヲ根トシテ其地方ノ称ナラン

〔古志郡は実にその遺号と知られるべし。元より区画不明にして、ただ現今の古志郡を根として、その地方の称ならん。〕
(古志郡の呼称は昔から残っているものだが、境界などは全く不明で、今は古志郡を基とした、その地方の名称になっている。)

 

 高志国ノ起因ニツキテハ吉田博士は高志国ハ夷種名ヨリ出デ国名ニ移レル如シ神代巻
須佐之男命高志之八俣ノ遠呂智年毎ニ来喫フナル云々

此ノ一語ヲ以テ未ダ俄カニ種名トモ地名トモ判定シ得ザレドモ或ハ然ランカト例ヲ引キ述ベラレタリ

 〔高志国の起因につきては、吉田博士は、高志国は夷種名(イシュメイ)より出で、国名に移れる如し。神代の巻、

  須佐之男命(すさのおのみこと)、高志の八俣(やまた)の遠呂智(おろち)、年ごとに来、喫(くら)うなる云々(うんぬん)。

この一語をもって、いまだ俄(にわ)かに、種名とも地名とも判定しえざれども、あるいは然(し)からんと、例を引いき述べられたり。〕

(高志国の発祥については、吉田東伍博士が、高志国は原住民の名前から出たもので、後に国名に使われるようになった様だとし、「神代巻」に、「須佐之命、高志のやまたのおろち・・・」とあり、この「高志」の一語によって、単純に、種族名あるいは地名と判断する事は出来ないが、もしかすると、そうではないかと、史料から例をあげて論述されている。)


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