柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
第三節 中鯖石村 中鯖石村ハ明治三十四年町村大分合ヲ施行セラレタル時善根加納秋津ノ三村併合シタル新称ナリ延喜式ノ三島郷ニ含マレ封建時代ハ佐橋庄ノ一部タリ今荘園地ノ起因ニ筆ヲ起シ佐橋ノ庄ヨリ逐次各字沿革ヲ記セントス 〔中鯖石村は、明治34年、町村大分合を施行せられたる時、善根・加納・秋津の山村併合したる新称なり。延喜式の三島郡に含まれ、封建時代は佐橋庄の一部たり。今、荘園地の起因に筆を起し、佐橋の庄より逐次各字沿革を記せんとす。〕 《中鯖石村は、明治34年の町村大分合が施行された時、善根・加納・秋津の三か村が合併してできた新しい名称である。昔は、延喜式の三島郡に含まれ、封建時代は佐橋庄の一部だった。今回は、その時代の荘園の成立理由から始め、佐橋の庄の由来より、順次、それぞれの字の沿革について述べて行きたい。》 第一項 荘園(庄園) 神武天皇倭国ヲ平定シ給フニ臨ミ國家ヲ統一センガ為メ地方ヲ区画シテ国トス国ニ大小ノ名アリ又県邑村(アガタムラフレ)等ノ称謂アリ県ハ小国ニ比スベク邑村ノ大ナルオノハ小国県ニ仝シ而シテ国造県主ヲ国及ビ県ニ邑村ニハ邑君村長ヲ置カレタリト雖モ必ズシモ相統属セルモノニアラズ是レ公民公田ナリ然ルニ是ニ反シ臣連ヨリ以下品部伴緒(ホムツベトモノヲ)ヲ分チテ朝廷ニ奉事セシム所謂戸(姓氏)是ニシテ此ノ氏姓ハ各占住ノ地アリテ一国造邑君等ノ領有ト交錯セルモノナリ之柳々私田ノ始メニシテ遂ニハ王公諸臣等多ク山沢ヲ占メ民ト利ヲ争フ因テ孝徳天皇改新ノ詔ヲ下シ法度ヲ拡張シテ始メテ海内ヲ混一シテ諸郡ヲ建テ郡邑ノ大小ヲ分チテ国司郡領ヲ置キ国郡ノ制コヽニ見ルベキアリ然レドモ公田ハ六年ニシテ官遷シ野山ヲ新ニ開墾シタルモ年限ヲ定メ官ニ納ムルノ制ナレバ開墾ニ力ヲ尽スモノナリ戸口漸ク其食乏シキヲツグ故ニ聖武天皇ノ天平十五年詔シテ田土ノ開墾ヲ奨メ私有ヲ聴サル大化以来ノ政治流弊連ニ至リ国郡統一ノ旧制度将ニ破レントス 〔神武天皇、倭国を平定し給うに臨み、国家を統一せんが為め、地方を区画して国とす。国二大小の名称あり、又県邑村(あがた・むら・ふれ)等の称謂(呼び名)あり。県は小国に比すべく、邑村の大なるものは小国、県に同じ。しかして国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)を国及び県に、邑村には邑君(むらぎみ)、村長(むらおさ)を置かれたりといえども、必ずしも相統属(トウゾク)せるものにあらず、これ公民公田なり。然るにこれに反し、臣連(おみ・むらじ)より以下、品部伴緒(ほむつべ・とものを)を分ちて朝廷に奉事せしむ、所謂(いわゆる)戸(姓氏)これにしてこの氏姓は各占住の地ありて、一国造・邑君等の領有と交錯せるものなり。これ柳々(?)私田の始めにして遂には王公諸臣等、多く山沢を占め、民と利を争う。因て、孝徳天皇改新の詔を下し、法度を拡張し、始めて海内を混一して、諸郡を建て、郡邑の大小を分ちて、国司・郡領(郡司の内、大領・小領の総称)を置き、国郡の制、ここに見るべきあり。然れども公田は六年にして官遷し野山を新に開墾したるも、年限を定め官に納むるの制なれば、開墾に力を尽くすものなり。戸口漸く多く、その食乏しきをつぐ。故に聖武天皇の天平十五年、詔して田土の開墾を奨め、私有を聴さる。大化以来の政治流弊連に至り国郡統一の旧制度将(まさ)に破れんとす。〕 《神武天皇は、倭国を平定した際に、国家を統一する為、地方を区画に分け国と定めた。その国には大小の名称があり、また県(あがた)・邑(むら)・村(ふれ)等の呼称があり、県は小国に相当し、邑や村の大きなものは小国や県と同じである。そこで、国には国造、県には県主、邑村には邑君・村長を配置されたけれど、必ずしも、それぞれに所属するのではなく、全て国に属す公地公民である(私有を認めない)。しかしながら、臣連より下位の品部(、しなべ)伴緒(とものお)などの部の人々の一部を朝廷の労務に当てさせた。いわゆる「戸」は、・・・・(以下略)》 ◎この部分に関しては、文脈から先にも挙げた栗田寛著『荘園考』(大八洲学会刊・明治21年(1888))からの引用、あるいは抄訳の感がある。しかし、現在の読者には難解な部分も多く、また一般論の記述であり、よって、当時の考察に近いものとして、昭和10年(1935)前後に出版された岩波書店の『岩波講座日本歴史』第10巻(蘆田伊人著「本邦地図の発達」第5節「荘園図」)によくまとめられた文章があるので、該当する箇所を抄訳引用し、訳注に換えたい。以下、引用。但し、抄訳現代文。 「三 田図」 「四 国郡図」 「五 荘園図」 【註】品部: 大化前代の品部は古訓に〈しなしなのとものを〉とあることから〈しなべ〉を学術用語として採用。また〈とものみやつこ〉という古訓もあることから〈ともべ〉ともいう。この品部については次の二つの考え方がある。(1)部の総称。複数の部に対する呼称。(2)大和朝廷に仕える伴造(とものみやつこ)の管理下におかれた職業部(馬飼部、鍛冶部(かぬちべ)など)と名代(なしろ)を合わせたもの。物資を貢納したり、朝廷に上番して労役に従事した。 荘園ハカク開墾セル其地ヲ賜ハリタル田ヲ別業トセルニ起リ賜田ヨリ来ルアリ功田ヲ朝ニ返シ奉ラズシテ私有シタルアリ神社仏寺ニ寄附田アリ荒地ヲ賜ハリ開墾シタルヨリ権門勢力家恣ニ公民ヲ駆役シ開拓ヲツトメ愈々其私ヲ営ムママ私墾田日ニ多ク此ノ庄田ハ国衛ノ治ニアラザレバ賦税モ軽ク調庸ノ務モナケレバ百姓之ヲ利トシテ課役ヲ遁ルヽ為メニ勢力家ノ民トナリテ公田ヲ営マズ専ラ庄園ヲ耕スコヽニ新立ノ庄園益々多ク延喜以後ニ及ビ頽勢已ニ支ヘ難ク私田私民大ニ興リ国家ハ遂ニ土地人民ヲ失フニ至ル 〔荘園は、かく開墾せる、その地を賜りたる田を別業(なりどころ、別荘)とせるに起り、賜田より来るあり、功田を朝廷に返し奉らずして私有したるあり、神社仏寺に寄附田あり、荒地を賜わり開墾したるより、権門勢力家、恣(ほしいまま)に公民を駆役し開拓をつとめ、愈々(いよいよ)その私を営むまま、私墾田、日に多く、この庄田は国衙(コクガ)の治にあらざれば、賦税も軽く、調庸の務もなければ、百姓これを利として、課役を遁るるために、勢力家の民となりて、公田を営まず、専(もっぱ)ら庄園を耕す。ここに新立の庄園、ますます多く、延喜以後に及び、頽勢すでに支え難く、私田・私民、大いに興(おこ)り、国家は遂に土地人民を失うに至る。〕 庄ヲ領スルモノヲ領家マタハ領主本所ナドト云フ当地方ハ京都萬壽寺領佐橋庄タルコト古記録ニ照ラシテ明ナリ 〔庄を領するものを領家または領主・本所などと云う。当地方は京都・萬壽寺領佐橋庄たること古記録に照らして明かなり。〕 |
カウンター
プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
最新記事
(10/14)
(10/14)
(10/14)
(10/14)
(10/14)
最新コメント
[04/17 梶谷恭巨]
[04/17 まつ]
[03/21 梶谷恭巨]
[11/18 古見酒]
[07/10 田邊]
カレンダー
フリーエリア
最新トラックバック
ブログ内検索
最古記事
(11/28)
(11/28)
(11/28)
(11/28)
(11/28) |