柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第三節 中鯖石村

 

 中鯖石村ハ明治三十四年町村大分合ヲ施行セラレタル時善根加納秋津ノ三村併合シタル新称ナリ延喜式ノ三島郷ニ含マレ封建時代ハ佐橋庄ノ一部タリ今荘園地ノ起因ニ筆ヲ起シ佐橋ノ庄ヨリ逐次各字沿革ヲ記セントス

〔中鯖石村は、明治34年、町村大分合を施行せられたる時、善根・加納・秋津の山村併合したる新称なり。延喜式の三島郡に含まれ、封建時代は佐橋庄の一部たり。今、荘園地の起因に筆を起し、佐橋の庄より逐次各字沿革を記せんとす。〕

《中鯖石村は、明治34年の町村大分合が施行された時、善根・加納・秋津の三か村が合併してできた新しい名称である。昔は、延喜式の三島郡に含まれ、封建時代は佐橋庄の一部だった。今回は、その時代の荘園の成立理由から始め、佐橋の庄の由来より、順次、それぞれの字の沿革について述べて行きたい。》
【註】明治三十四年の町村大分合: 明治4年(1871)4月4日、「戸籍法」が制定され、区制(大区・小区)・戸長制が施行された。その後、区の再編は何度かの変遷を経て、明治6年7月、柏崎県が新潟県に統合された後、明治9年、全県25大区となり、善根・加納は第5大区小十区に編入された。その後、何度かの再編があり、明治34年に中鯖石村が誕生した。
 因みに、この時の「明治三十四年町村合併理由書」によると、「秋津・加納・善根、以上三ヶ村は、更に森近・南条のニヶ村を加え五ヶ村合併を主張すと雖も南条・森近の二村は地勢上、本区域に合併するの可ならざるのみならず現に此の三ヶ村行政組合をなし居るものにして新に他町村を加うるの要なきものとす。」とある。

 

第一項 荘園(庄園)

 神武天皇倭国ヲ平定シ給フニ臨ミ國家ヲ統一センガ為メ地方ヲ区画シテ国トス国ニ大小ノ名アリ又県邑村(アガタムラフレ)等ノ称謂アリ県ハ小国ニ比スベク邑村ノ大ナルオノハ小国県ニ仝シ而シテ国造県主ヲ国及ビ県ニ邑村ニハ邑君村長ヲ置カレタリト雖モ必ズシモ相統属セルモノニアラズ是レ公民公田ナリ然ルニ是ニ反シ臣連ヨリ以下品部伴緒(ホムツベトモノヲ)ヲ分チテ朝廷ニ奉事セシム所謂戸(姓氏)是ニシテ此ノ氏姓ハ各占住ノ地アリテ一国造邑君等ノ領有ト交錯セルモノナリ之柳々私田ノ始メニシテ遂ニハ王公諸臣等多ク山沢ヲ占メ民ト利ヲ争フ因テ孝徳天皇改新ノ詔ヲ下シ法度ヲ拡張シテ始メテ海内ヲ混一シテ諸郡ヲ建テ郡邑ノ大小ヲ分チテ国司郡領ヲ置キ国郡ノ制コヽニ見ルベキアリ然レドモ公田ハ六年ニシテ官遷シ野山ヲ新ニ開墾シタルモ年限ヲ定メ官ニ納ムルノ制ナレバ開墾ニ力ヲ尽スモノナリ戸口漸ク其食乏シキヲツグ故ニ聖武天皇ノ天平十五年詔シテ田土ノ開墾ヲ奨メ私有ヲ聴サル大化以来ノ政治流弊連ニ至リ国郡統一ノ旧制度将ニ破レントス

〔神武天皇、倭国を平定し給うに臨み、国家を統一せんが為め、地方を区画して国とす。国二大小の名称あり、又県邑村(あがた・むら・ふれ)等の称謂(呼び名)あり。県は小国に比すべく、邑村の大なるものは小国、県に同じ。しかして国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)を国及び県に、邑村には邑君(むらぎみ)、村長(むらおさ)を置かれたりといえども、必ずしも相統属(トウゾク)せるものにあらず、これ公民公田なり。然るにこれに反し、臣連(おみ・むらじ)より以下、品部伴緒(ほむつべ・とものを)を分ちて朝廷に奉事せしむ、所謂(いわゆる)戸(姓氏)これにしてこの氏姓は各占住の地ありて、一国造・邑君等の領有と交錯せるものなり。これ柳々(?)私田の始めにして遂には王公諸臣等、多く山沢を占め、民と利を争う。因て、孝徳天皇改新の詔を下し、法度を拡張し、始めて海内を混一して、諸郡を建て、郡邑の大小を分ちて、国司・郡領(郡司の内、大領・小領の総称)を置き、国郡の制、ここに見るべきあり。然れども公田は六年にして官遷し野山を新に開墾したるも、年限を定め官に納むるの制なれば、開墾に力を尽くすものなり。戸口漸く多く、その食乏しきをつぐ。故に聖武天皇の天平十五年、詔して田土の開墾を奨め、私有を聴さる。大化以来の政治流弊連に至り国郡統一の旧制度将(まさ)に破れんとす。〕

《神武天皇は、倭国を平定した際に、国家を統一する為、地方を区画に分け国と定めた。その国には大小の名称があり、また県(あがた)・邑(むら)・村(ふれ)等の呼称があり、県は小国に相当し、邑や村の大きなものは小国や県と同じである。そこで、国には国造、県には県主、邑村には邑君・村長を配置されたけれど、必ずしも、それぞれに所属するのではなく、全て国に属す公地公民である(私有を認めない)。しかしながら、臣連より下位の品部(、しなべ)伴緒(とものお)などの部の人々の一部を朝廷の労務に当てさせた。いわゆる「戸」は、・・・・(以下略)》

◎この部分に関しては、文脈から先にも挙げた栗田寛著『荘園考』(大八洲学会刊・明治21年(1888))からの引用、あるいは抄訳の感がある。しかし、現在の読者には難解な部分も多く、また一般論の記述であり、よって、当時の考察に近いものとして、昭和10年(1935)前後に出版された岩波書店の『岩波講座日本歴史』第10巻(蘆田伊人著「本邦地図の発達」第5節「荘園図」)によくまとめられた文章があるので、該当する箇所を抄訳引用し、訳注に換えたい。以下、引用。但し、抄訳現代文。

「三 田図」
 初めて我が文献に現われ、しかも国家が令を下して、これを作製させた地図は、孝徳天皇、大化二年八月の詔勅に基き、諸国を各国の疆域(境域)境界を調査し、書面および図にして提出させたのが、恐らく初めの事だろう。こうして、官はその図を基に国県の名称を定め、次に築堤・穿溝・墾田(造るべき堤や溝、耕すべき田)を指示できるように考へ、その国の山川平野の地形をある程度まで詳細に把握できるようになった。しかし、大化改新の主要な目的の一つは、従来の土地私有を公有に改め、戸籍を作り「班田の法」を制定する事にあったから、こうして提出された地図の目的は明らかで、この図によって各国の班田施行の政策を定め、班田が完了した。(中略)
 班田と田図・田籍は並行して作製されなければならないもので、班田の図ができれば、その町段および四至(東西南北の境界)を詳細に記録した田図・田籍三通を作り、一通は官に提出し、他はそれぞれの国に保管した。これらは、令と式によって定められた。しかし、班田には、班田にする前に、その土地を測量し、区分けして、班田ごとの正確な位置を指示する必要があった。これがいわゆる「條里制」が制定された理由である。すなわち、條里制と班田法と田図の関係は三位一体の関係であったが、完了するのには相当の時間が掛った。

「四 国郡図」
(前略)その頃の国々と後の国々とは大分違ったもので、ただ漠然と一地方を著した者だった。これが大化の新政で初めて戸数を単位とした境域が制定され、天武天皇の時になって、区分が終り、その後、和同・養老の分合改廃を経て、漸く今日のような国郡の状況になった。(中略)
 元明天皇の和同六年五月、風土記の編纂・提出の詔勅が下されたが、この時には、どう言う訳か、図の提出の命は無かった。しかし、この時の詔勅では、諸国郡郷の名称を好字に改める事と、当時、公用として最も重要であった諸国の銀銅彩色等の産品の調査が優先されたのではないだろうか。
 その後、およそ二十五年、聖武天皇の時代になって、地方機関の整備と共に、中央集権が確立する一方で、天皇が仏教に帰依し、各国への金剛明経や仏像の頒布を経て、天平十三年に国分寺創建の詔勅を下した。また、これより先の天平十年八月二十六日、諸国に国郡図の作製の詔勅を下した。

 「五 荘園図」
大化の改新は、従来私有だった土地を公有とし、官人には食封または布帛(フハク、織物)を、百姓には班田の制を施行して口分田(クブンデン、班田法に基づいて公民に分け与えられた田地)を与え、更に官人には職官(職務と官位)に応じて職田を、位の高い親王・諸王・諸臣には位田を、また勲功のあるものには功田(コウデン)または賜田などを給与したので、初めは離職や死去の時、これを収公または半減するなど規定通りに行われていたが、この複雑な土地に関する制度を、人口が増え続ける百姓と、移動が絶えない官人に適切に施行する事は困難になり、私田と公田の区別が不明確になり、それが原因で田地が荒廃するようになった。大宝律令では公私田が三年間荒廃したままであれば、官の許可を得れば借りて耕す事が出来たが、収穫が見込まれるようになる、私田は三年で地主に還り、公田は六年で官に返納する事になっていた為、安心して開墾するものが居なくなり、権力者たちは、未開墾の山野を求めて占有するようになった。そこで、元明天皇の和同四年十二月、こうした山野の占領が禁止され、こうした土地の開墾にも総て官許をを必要とすると云う詔勅が下された。その結果、増え続ける百姓は益々貧困となり、元明天皇の養老七年四月、更に開墾令を発して、新に開墾するものは三代限り、既に開墾された土地を利用するものは一代限りと定められた。しかし期限が近くなると、また百姓は意欲を失い田地の荒廃が進む。そこでまた、聖武天皇の天平十五年五月、この「三世一身の法」は改められて、開墾地の永久私有を認める詔勅が下された。こうして「班田の制」が有名無実のものとなり、荘園の成立へと続くのである。

【註】品部: 大化前代の品部は古訓に〈しなしなのとものを〉とあることから〈しなべ〉を学術用語として採用。また〈とものみやつこ〉という古訓もあることから〈ともべ〉ともいう。この品部については次の二つの考え方がある。(1)部の総称。複数の部に対する呼称。(2)大和朝廷に仕える伴造(とものみやつこ)の管理下におかれた職業部(馬飼部、鍛冶部(かぬちべ)など)と名代(なしろ)を合わせたもの。物資を貢納したり、朝廷に上番して労役に従事した。
伴緒: とものお、令制前、一定の職業に従事して大和政権に仕える人々。(→品部)

 

 荘園ハカク開墾セル其地ヲ賜ハリタル田ヲ別業トセルニ起リ賜田ヨリ来ルアリ功田ヲ朝ニ返シ奉ラズシテ私有シタルアリ神社仏寺ニ寄附田アリ荒地ヲ賜ハリ開墾シタルヨリ権門勢力家恣ニ公民ヲ駆役シ開拓ヲツトメ愈々其私ヲ営ムママ私墾田日ニ多ク此ノ庄田ハ国衛ノ治ニアラザレバ賦税モ軽ク調庸ノ務モナケレバ百姓之ヲ利トシテ課役ヲ遁ルヽ為メニ勢力家ノ民トナリテ公田ヲ営マズ専ラ庄園ヲ耕スコヽニ新立ノ庄園益々多ク延喜以後ニ及ビ頽勢已ニ支ヘ難ク私田私民大ニ興リ国家ハ遂ニ土地人民ヲ失フニ至ル

〔荘園は、かく開墾せる、その地を賜りたる田を別業(なりどころ、別荘)とせるに起り、賜田より来るあり、功田を朝廷に返し奉らずして私有したるあり、神社仏寺に寄附田あり、荒地を賜わり開墾したるより、権門勢力家、恣(ほしいまま)に公民を駆役し開拓をつとめ、愈々(いよいよ)その私を営むまま、私墾田、日に多く、この庄田は国衙(コクガ)の治にあらざれば、賦税も軽く、調庸の務もなければ、百姓これを利として、課役を遁るるために、勢力家の民となりて、公田を営まず、専(もっぱ)ら庄園を耕す。ここに新立の庄園、ますます多く、延喜以後に及び、頽勢すでに支え難く、私田・私民、大いに興(おこ)り、国家は遂に土地人民を失うに至る。〕
《荘園は、このように開墾され、その土地を下賜され所の田を「別業(別荘)」とした事に由来し、その中には、賜田(下賜された田)に由来し、功田(功績により下賜された田、あるいは、文脈から「公田」の誤り)を朝廷に返還せずに私有した事によるものあり、神社や寺院に寄贈された田に由来するもの、また荒地を下賜され開墾した事に由来するものがあるが、権力者たちは、勝手にこれらの土地を公民(朝廷に所属する民)を使って開拓を続け、私有化した私墾田が益々多くなった結果、こうした庄田が国の役所の管轄外になった為、税金も軽くなり、調庸(貢物と労役)も無くなった。こうなると、百姓(この場合、公民)は、税金も労役などの無い貴族や寺社の荘園の方が良いと、もとの土地(公田)を逃げ出して、進んで権力者の荘園を耕す民と成った。こうして、新に発生した荘園が、段々多くなり、延喜頃からは、この危機的な状況を回復する事が困難になり、朝廷に属さない私田や私民が増大し、国家(朝廷)は土地も人民も失う結果となった。》

 

 庄ヲ領スルモノヲ領家マタハ領主本所ナドト云フ当地方ハ京都萬壽寺領佐橋庄タルコト古記録ニ照ラシテ明ナリ

〔庄を領するものを領家または領主・本所などと云う。当地方は京都・萬壽寺領佐橋庄たること古記録に照らして明かなり。〕
《庄園を領有するものを領家あるいは領主または本所などと呼ぶ。この地方は、京都の萬壽寺の領有する所で、佐橋庄というが、この事は昔の記録を調べると明確である。》


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