柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第三項 久野木郷

久野木郷ハ王朝時代ノ呼称ニシテ善根村久野木ヨリ出デタルナラン。善根・加納・與板・宮平及現今ノ南鯖石村ヲ含ム。元明天皇、寧楽建都ノ時、勅シテ風土記ヲ編纂シタルヲ始トシテ後年折々其企アリ、徳川時代ニ入リ各地ニ明細書ノ記載要項ヲ示シ書上セシム。若シ村中ニ注意深キノ士アリテ其ヲ書写シ現今ニ伝フルアラバ、昔日ノ状態ヲ語ル唯一ノ材料タリ。然レドモ当郷ニ存スルモノ少ク、偶々見受クルモ、皆二百年代ノモノニシテ、鎌倉時代ハ愚カ戦国時代、徳川時代ノ初年時代ニ於ケル当村ヲモ知ルノ途ナシ。加納村ニ天和元年ノ村鏡貞享元年書上写及文化元年ノ明細帳写、與板ニハ寛政及文化ノ明細帳写及善根明和八年ノ明細帳写存セリ。是レ等併ニ白川風土記ヲ参考トシテ各村沿革ヲ述ブ。

《久野木郷は、王朝時代(奈良・平安時代)の呼名で、善根村久野木由来だと考えられ、善根・加納・与板・宮平と今の南鯖石村を含む地域である。
 元明天皇(661[斉明天皇7] - 7211229[養老5127]、第43代天皇[在位:707818日(慶雲4717日) - 715103日(和銅892日)])が寧楽(なら、奈良)に建都(都の建設)した時、勅令を下し『風土記』を編纂した。その後、何度か地誌編纂の機会があり、徳川時代になると、各地に地誌の詳細を記載した書上(下から上に出す報告書)を提出させた。こうした場合も、将来を考える志を持った人も居るもので、書上等を書き写し後世に伝えた。こうした書写・写本が現在では、郷土の歴史を知る為の唯一の史料になっている。
 しかしながら、この地域に伝わり残っている史料は少く、偶然に発見されたものも、大抵は大体200年位前のものまでで、鎌倉時代どころか戦国時代、徳川時代の初期のものさえ現存せず、南鯖石村の歴史を知る方法が無い。ただ加納村に、天和元年(1681、霊元天皇、将軍綱吉)の村鏡(村の歴史書)、貞享元年(1684)の書上の写本と文化元年(1804、光格天皇、将軍家斉)の明細帳の写があり、与板には、寛政(1789-1801)と文化(1804-1818)の明細帳写、また善根には、明和8年(1771、後桃園天皇、将軍家治)の明細帳写が残っている。これらの古文書と『白川風土記』(同書、刈羽郡の部)を参照しながら、各村の沿革を述べて行きたい。》

 

第一 加納村

 

加納ハ王朝時代ニ於ケル新開地ノ特称ナルコト古史ニ見ユ。其例少シトセズ。或ハ加納ハ久野木村ノ新田地タルカ古記録ノ證スベキナケレバ断定シ、今長谷川儀一氏ノ写サレタル貞享元書上ヲ抜摘ス。
《嘉納は王朝時代(奈良・平安時代)に新に開墾された土地に対する特別な呼び方で、古い歴史書にその事が書かれており、その事例は少なくない。もしかすると、嘉納は久野木村で開墾した新田かも知れないが、古い記録に記載がなく、検証する事が出来ないので、独断ではあるが、今(当時)の長谷川儀一が写された貞享元年(1684)の書上から抜粋して紹介する。》

 

貞享元年ハ紀元二千三百四十四年、徳川綱吉将軍時代ナリ。大正元年ヲ去ル二百二十八年ナリ。
《貞享元年は紀元(皇紀)2344年(1684)で、徳川綱吉の将軍時代に当り、大正元年から数えて228年の昔である。》

 

 越後国刈羽郡加納村高辻小物成諸色明細

【註1】小物成: 江戸時代の日本で高外地に賦課された租税の総称である。いわゆる雑税であり、地域により多様な内容を持つ。(ウィキペディア參照)
【註2】諸色: 江戸時代において物価を指した言葉。一般的には米を除いた日常品の価格を指す場合が多い。(ウィキペディア參照)
【補注】加納村高辻とある「高辻」は加納村の字と考えられるが、調べても「高辻」という地名が見付からない。また、文脈から(「併」は「あわせ」だが、他の文脈から「幷」とも読める)、「高辻」に物の意味があるとも考えられ、こちらも調べて見たが、歴史的に名字・地名以外の「高辻」は発見できなかった。
 また後に揚げる『天保国絵図越後国高田長岡』(天保9年[1838])に記載された加納村に属する村は、五か村あり、①加納村内・町加納村②同内・ためと村③同内・小黒村④同内・日新(日影?)村⑤同内・青木(春木?)村とあるが、字を調べても、該当する地名がないか、先の様に判読できない(推測される名前を捜すが該当する地名がない)。

一、人数五百四十一人
 内二百八十二人男 内六十一人十歳以下 内一人下男
  二百五十五人女 内五十五人十歳以下

一、六社一堂 是レヲ略ス

一、御年貢蔵 四棟柏崎ニ有 但シ下シ御蔵
是ハ前ニヨリ鯖石組ノ内加納、山潤(やまだに)、長濱、両田尻、下田尻、上田尻、善根、與板、宮平、石曽根、森近、山室、大澤、岡田、岡之町、高尾、漆島、萩之島、門出、朽原、山中、此ニ十一ケ村入用ヲ以テ四十五年以前卯年建申候。
《・・・建申候、申し建てそうろう》

一、川除五ケ所 惣長二百間余
《川除が五ヶ所で、総延長200間あまり(約364m)》
【註】川除: かわよけ、堤防や川浚(かわざらい)による氾濫対策
 内鯖石川筋
   山王川原 こしまい

一、延寶七年ヨリ天和三年迄、人足二千七百五十五人、但シ一ケ年平均人足五百五十一人ニ当ル。人足ハ所ニ堰川除等御普請所ヘ遣申候。
《延宝七年(1679)未(己未、つちのとひつじ)より天和三年(1683)亥(癸亥、みずのとい)まで、・・・・・・・人足(労役、労働者)は所(加納)に堰(せき)川除など、普請所へ申し遣わしそうろう。》
鯖石川ハ現今ハ凡ソ鯖石平野ノ中央ヲ流レ善根加納ノ耕地ヲ等分スト雖モ昔ハ余程西部ニ偏シ巒山ノ麓ヲ洗エタルモノナラン。其ハ加納旧家ハ皆連山ノ麓ニアリテ旧道ト称スルモノ漆山ヨリ加納ノ各字ヲ縫フテ向安田ニ出ツルヨリ推シテ知ルベシ。殊ニ鯖石川ノ汎濫ニ村民ノ苦シミハ前記ニヨリ知ラル。又為メニ多額ノ失費ヲ要シタリト見エ仝書上ニ延寶七年未ヨリ天和三亥迄五ヶ年村中入用銀一貫百拾八匁七分五厘、但シ一ケ年平均二百二十三匁七分五厘ニ当ルト。
《鯖石川は、現在(当時)、およそ鯖石平野の中央を流れ、善根・加納の耕地を二分するのだが、昔は、大分西の方へ偏り、巒山(ランザン、連山、やまなみ)の麓(ふもと)を流れていた様である。何故なら、嘉納の旧家が皆連山の麓にあり、「旧道」いわれている道が漆山から嘉納の各字(あざ)を縫うようにして、安田に出ていることからも推測される。とりわけ、鯖石川の氾濫に村民が苦しんだ事は、先の様に良く知られている。またこの為、多額の出費が必要になったと、前掲の書上に延宝7年(1679)未の年から天和三年(1683)の亥の年までの5年間に要した村の出費は、銀一貫八匁七分五厘(銀一貫=1,000匁=10,000分=100,000厘=1,000,000毛、一般的な計算をするとおよそ130万円)、ただし、1年平均で、銀二百二十三匁七分五厘(およそ26万円)に当る。》
【補注】銀貨の換算に付いては、時代と共に変遷がある。そこで、当時(延宝~天和間)の三貨(金銀銭)相場を『地方史研究必携』(岩波書店・昭和60年版)掲載の表4.12「三貨(金・銀・銭)相場一覧」(P221)、天和元年~元禄3年を見ると、「一両=銀60匁(大阪・京都)」とあり、前後するが、同書の表4.9「米価変動表」(P213)によると、延宝7年が一石=銀54匁2分5厘、天和3年が米百俵=銀1貫680匁である(但し、前年は米百俵=銀2貫580匁、翌年・貞享元年は米一石=銀40匁)。これからも分る様に、単純に現在の金額に換算する事が出来ない。

一、馬三十二匹

一、延寶七ヨリ天和三迄五ヶ年、御役駄賃馬八十五疋、馬ノ儀ハ当国併近国御大名様方高田或ハ大阪御在番御上下之筋宿場斗ニ不足ニ付在々ヘ介馬仰付ノ如此。
《延宝7年(1679)未(己未、つちのとひつじ)より天和三年(1683)亥(癸亥、みずのとい)までの五年間、御役駄賃馬(役目に駄賃が支払われる馬)85疋、馬の事は、当国(越後)並に近隣の国の大名など、高田あるいは大阪在番の街道上下に当る宿場で不足しているので、その在所ごとに、馬の世話を先の様に申し付ける。》
【補注】御役駄賃馬: 幕府や藩などの公用に使う馬で、荷物の重量等で駄賃を払う馬。
桑原孝氏(当時、長岡市史編纂委員)の論文『脇街道に於ける人馬賃銭~越後の街道の場合』(交通史研究第9巻、1983P1-21[小野家文書・山岸家文書・宮家文書より作成)第1表「前期北国・三国街道人馬賃銭増減貞享(本馬1駄)」、延宝9年に高田領(天和元年より天領)石地宿の項に増減(寛文2年御定を基準に対前回改訂年比)2割贈(延宝3年)、椎谷2里=86文、出雲崎1里=43文の記載がある。

一、庄屋給米 六石六斗壱升参合
村中合力、但高百石ニ付米一石ツヽ出シ申シ
役高参拾七石四斗、前ニヨリ郡縣ク物傳馬人足百姓内証ニテ引来申候。
《庄屋の役給は、米6石6斗1升3合(延宝8年大阪相場で、米1石=銀67匁=1.34両)、銀貨に換算すると約443匁となる。
 これらの費用は、村の各戸割り当ての合計で、石高100石に対し米1石の割合で供出した。

 役高37石4斗は、銀約2512.5匁(2512500分)に当り、前例から郡に掛る物、伝馬、人足分については、百姓が内々で算出した。》

一、組頭二人分給米 壱石参斗貮升貮合
一人ニツキ六斗六升壱合、但シ高百石ニツキ米貮斗ツヽ遣申候。
《組頭二人分の役給は、1石3斗2升2合は、約銀89匁弱。
 一人当り6斗6升1合、即ち約銀44匁となる。》
【補注】時代は下るが、国立公文書館デジタルアーカイブに『天保国絵図越後国高田長岡』(天保9年[1838])がある。これによると、加納村の石高は、827石(判読が難しい所があり、読める範囲で)とある。因みに、善根村は、およそ1200石(読める範囲で)。
 尚、この絵図作成の前年、即ち天保8年は、天保の飢饉後の救済を求め生田萬が、桑名藩陣屋に打ち入りした年でり、大阪の「大塩平八郎の乱」の起った年である。


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