柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 少々方針を変えようと思う。先ず、「宇佐美氏」の段をその儘に(一部制札の処を読下しを試みたが)紹介する。これを見て頂くをお分かりの通り、調査しなければ不明な点が多い事だ。加えるに、活字の潰れ等あり、特に白文の部分は、便宜上句読点を加えたが、何とも読解できない部分がある。更に、ここで挙げられている『枇杷島村志』についても、当時は間違いなく存在したのであろうが、柏崎市立図書館(ソフィアセンター)の蔵書を検索しても見当らないのだ。著者である関甲子次郎は、その後、蔵書を「柏崎文庫」として刈羽郡(柏崎町)に寄贈しているのだから、もしかすると、図書館の未整理の文献の中に在るのかも知れないが、いずれにして、近代デジタルライブラリーや「日本の古本屋」等、思いつく処を当っても、矢張り見当たらない。

 

 この儘行くと、何だか考証学の様なことになり、とても短時間で検証する事は難しい。そこで、この『くぢらなみ』の検証は追々進める事にしたいのである。ただ、今回の「宇佐美氏」段、出てくるのが、「今川氏」関連で興味を覚える。

 

 と云うのが、既に三十年以上も昔の事だが、柏崎に住み始めた当初、友人に自転車を借り、何日か掛けて周辺を散策した事があるのだ。その時、実は思わぬ発見をした。随分昔の事で、また不慣れな土地の事で、その場所が何処なのか定かではないのだが、とある農家の蔵に「赤鳥」の家紋を見つけたのだ。予備知識は、図書館である程度知れべていたが、これには驚いてしまった。「赤鳥」と言っても、余りご存意ではあるまいが、この家紋、実は、今川氏の別紋なのである。寧ろ旗印と言った方が良いのかも知れない。

 

 今回、『くぢらなみ』を読んで(この段)、今川氏との関係を知った訳だ。しかし、文脈からは、寧ろ今川氏とは、敵味方の関係である。尚更、「赤鳥」の所以に興味が湧く。先にも書いたように、「家紋」をよく知る人でもない限り、「赤鳥」の家紋が今川氏所縁の家紋である事を知る人は少ないのだ。これも随分前の話だが、古老にも、また図書館にも尋ねた事があるのだが、知る人は居なかったと記憶する。それに、不慣れな土地であった事もあり、その場所の記憶にないので調べようがない。(地道に調べればよいのだろうが。)しかし、「赤鳥」を蔵の白い漆喰の壁に見た時の驚きは、今も鮮明なのである。

 

 斯く次第で、関心がある分、中々先に進めない。しかし、本来、明治前後から昭和初期辺りをテーマとしている。そんな訳で、追々調べる次第になってしまった。ご容赦。

 

 ただ付け加えると、キケロは、「本の無い家は、魂の抜けた身体のようなものだ」と言ったそうだが、(ただし一説では、キケロの言葉ではないようだが)、歴史の忘れた地方は、アイデンティティを見失った死に至る病人の様なもので、結局は自己矛盾の内に衰微するのではないかと思う次第だ。まあそんな思いで進めていきたい。

 

 因みに、キケロの引用だが、次の様な記事がある。

 

 A room without books is like a body without a soul. 

This is best known from refrigerator magnets long distributed by Amazon.com, but also appears in other media.  As with the above quotation, no specific source is ever given, and dates are inconsistent.  Here the origin appears to be very lose paraphrase rather than pure fiction .

 

 関心がる方は、探してみるのも一興かと。

  

承前。

 

三)宇佐美氏 上杉家の頃は枇杷島城主宇佐美氏の采地(さいち)たり、宇氏の事は枇杷島村志に詳記す、永禄六年上杉家臣川田豊前守長親、左の制札を建つ

 

 右於鯨波観音堂邊、伏關東出陣之軍勢、四壁竹木剪採與云々、甚曲次第也、所詮自今以後堅令停止之、若此旨有違犯單者不嫌甲乙人可被處罪科由被仰出者也、仍執達(しったつ)如件

 永禄六年十二月              豊前守(華押)

 

 (右、鯨波観音堂辺りにおいて、関東を伏するの出陣の軍勢、竹木を四壁にするに、剪採にくみし云々。甚だ曲がる次第なり。所詮、今より以後、堅くこれを停止せしめ、もしこの旨違反ある?者は、甲乙人を嫌わず、罪科を処せられるべき由、仰せ出あらるるものなり、なお執達くだんの如し。)

 

 此河田もと今川義元の兄花倉の良眞法印の小姓にて河田八雲といへり義元の近臣菅西角兵衛なるもの良眞を打ちしかば八雲怒りて菅西を殺し今川家を逃亡して上杉家に仕へ追々立身して禄七千貫を領し越中国松倉城に居れり宇佐美氏歿落後、天正六七年、上杉家の両公子家督争ひの頃は、上杉年譜に天正七年二月十四日、佐野清左衛門に(旗持山の砦を守る景勝方也)景勝より御書を賜ひ景虎が與黨青海川圖書助と伝者を引付且又鯨波小屋をも引付へき由、爰元よりも人数遣さるべきと雖も、近日軍事繁多なれは其元地下人なりとも召連れ此儀相叶う二月廿五日旗持将士菱沼藤七、佐野清左衛門に御書を賜ひ両士計策を廻し、鯨波地方を味方に引付るの由、其功尤も等輩に超越す、其上枇杷島の地へも行をなすへき旨、痛快の手段なり去なから少の人数にて卒爾の行あれは如何あらんか、尤思慮あるべし下口の様體其聞へなき條、切に注進すへき旨仰遣はさると見ゆ。

  

Best regards

梶谷恭巨


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