承前。以下、本文。
建久五年秋、盛綱越後に故六條判官為義の末子護念上人の在る事を執奏(しっそう)す、正治元年正月、頼朝薨後(こうご)、盛綱薙髪(ちはつ)して入道西念と號す、三年居城を子信(のぶ)實(さね)に譲り四方に遊歴す、建(けん)仁(にん)元年(がんねん)四月、上州(じょうしゅう)磯部(いそべ)に在り、たまたま越後に於て城(じょう)氏の遺族資(すけ)盛(もり)板額御前(はんがくごぜん)等亂を起す、幕府盛綱に命じて之れを討たしむ、盛綱越後に来って城氏を平ぐ、菊池(きくち)容(よう)斎(さい)の前賢故實(ぜんけんこじつ)に入道西念が馬を飛して越後に来るの画有り、東鑑に建仁三年十月廿六日と、元久二年七月廿六日、盛綱の京都(けいと)に在りし事見ゆ、健保三年十月十日、越後国撿斷事守護人相共可致沙汰之旨、西念承畢云々、正應(せいおう)六年卒す、墓は上州磯部礎明山松岸寺に在り、柏崎光圓寺(こうえんじ)佐々木氏と越前橋立眞宗寺(しんしゅうじ)は此西念に因縁ありという、西念、和漢三才圖繪(わかんさんさいずえ)に法善(ほうぜん)と號すと見ゆ、盛綱の子俊(とし)綱(つな)早世す、太郎兵衛(ひょうえ)信實(のぶざね)跡目を襲(つ)ぐ、此信實は十五歳の時、鎌倉御所に於て圍碁(いご)の會有り、工藤左衛門尉祐経(すけつね)の無禮を怒りて祐経の顔に碁子をうちつけ御勘氣を蒙りたる事有り、長じて父の功に依り越後及び備前兒島を領有す、承久(じょうきゅう)の役、官軍河匂(かわわ)八郎家賢(いえかた)加治の願文山に立て籠りしを破り、北條越後守朝時(ともとき)に從い上洛せり、寛元(かんげん)元年七月廿六日、六十八歳にして卒す、子孫徳川氏の初期迄連續せり、一説に薩摩の乃木(のぎ)大將の先祖は盛綱の末にて越後の乃木村に住せしものなりという、乃木村何れの地にや、盛綱の弟四郎高綱(たかつな)は宇治川合戰にて梶原と先陣を爭(あら)ひし逸事(いつじ)あり、晩年剃髪して釋(しゃく)了(りょう)智(ち)と號(ごう)し、法を親鸞(しんらん)に聽けり、高綱在越の時、蒲原郡(かんばらぐん)加地庄(かじしょう)岡田村(おかだむら)に源頼朝公佐々木四郎高綱謹建と書せし高三尺二寸幅一尺三寸の石塔を建てたり。
(註1)建久五年: 1194年(甲寅(きのえとら))
(註2)六條(ろくじょう)判官(ほうがん)為義(ためよし): 源為義、祖父が八幡太郎義家、義朝の父、頼朝の祖父。
(註3)護(ご)念(ねん)上人: 義朝の弟、頼朝の叔父。また、盛綱の母親が為義の娘であるから盛綱の叔父でもある。
(註4)執奏(しっそう): 取り次いで奏上する事。「伝奏(でんそう)」と同義。
(註5)正治元年正月: 1199年(己未(つちのとひつじ))、建久十年、4月27日改元で、「正治」となる。
(註6)薨後(こうご): 亡くなって後。参考、「薨去」
(註7)薙髪(ちはつ): 髪を剃り落す事。
(註8)三年居城: 正治三年(1202)、居城とは加地(かじ)城の事。現在の新発田市東宮内辺りあった。
(註9)信(のぶ)實(さね): 盛綱の嫡男、後に加地(かじ)氏と称し、加地氏の開祖となる。
(註10)建仁元年四月: 1201年(辛酉(かのととり))
(註11)上州磯部: 現在の群馬県安中市磯部。磯部温泉がある。
(註12)城氏: 越後に栄えた豪族。越後平氏。「建仁の乱」、建仁元年(1201)の正月23日から5月にかけて、城長茂ら城氏の一族が起こした反乱。因みに、兄・資永(すけなが)は、平宗盛から木曽(源)義仲の追討を命じられたが、急死する。結果的には、木曽義仲の大勝となり、平家衰亡の端緒となった。
(註13)資盛(すけもり): 城資盛、資永(すけなが)の嫡男。
(註14)板額御前: 城資国の娘、資永・長茂の姉あるいは妹。女武者として巴御前と並び称される。「建仁の乱」で負傷し鎌倉に送られるが、その武者ぶりに感銘した甲斐源氏の浅利義遠が妻として貰い受け、甲斐の国で亡くなったと云う。
(註15)菊池容斎: 本名、武保、容斎は号。幕末から明治初期の日本画家。
(註16)前賢故実: 『前賢故実』は、菊池容斎により江戸後期から明治にかけて刊行された伝記集(全十巻20冊)。後年、容斎の孫・九九螭武久により、「有職故実」の一巻が加えられ『考証前賢故実』として出版された。因みに、『前賢故実』は、近代デジタルライブラリーに収録されている。因みに、「入道西念が馬を飛して云々」は、『前賢故実』巻の8「佐々木盛綱」の章にある。
(註17)東鑑: 前出『吾妻鏡』
(註18)建仁三年十月: 1203年(癸(みずのと)亥(い))
『吾妻鏡』に、
廿六日 辛酉(かのととり) 京都飛脚三着申伝、去十日、叡岳堂衆等、以金子山為城郭、群居之間、同十五日、差遣官軍、
依被攻之衆等退散、云々。葛西四郎重元、豊嶋太郎朝経、佐々木太郎重経以下官軍、三百人為悪徒被討取訖。
(二十六日 辛酉 京都の飛脚三着して申し伝う、去る十日に、叡岳の堂衆等、金子山(かねこやま)を以て城郭と為す、群居の間、同十五日、官軍を差し遣わす。これを攻められるによって、堂(どう)衆(しゅう)等退散す、云々。葛西の四郎重元、豊嶋太郎朝経(ともつね)、佐々木太郎重経(しげつね)以下の官軍。三百人、悪徒を為すに討ち取られ訖(おわ)んぬ。)
とあるが、これに続く二十六日の記載に盛綱の記載はない。
(註)の総てが掲載できなかったので、次回に。
Best regards
梶谷恭巨